01
「市子さん?」
食事を終えたところで、はっと我に返ると、山田くんが心配そうな顔をしてこちらを見ていた。
「どうしました? 今日は話しかけても、ずっと上の空ですし。お口に合いませんでした?」
「そんなことない、よ」
私は静かに首を横に振る。しかし、彼はどうも納得していないようだ。
「本当ですか? 気分でも――」
彼が熱を測ろうとしてか、私の顔に伸ばしてきた手を、思わず体を逸らして拒否してしまった。あからさますぎる態度に彼の目が点になる。その表情と共に、私の中のなにかが抑えきれず、言葉が衝いて出た。
「山田くん、もうこの関係やめよう」
「え?」
「もう終わりにしよう」
一息に言い切って心臓がばくばくと音を立てる。終わりにするような関係さえ私たちにあったかな。別れ話と呼ぶには大げさすぎる。ただ、この曖昧な関係を終わらせたい。それだけ。
「急にどうしたんです?」
「どうしたって。だって、不毛だよ。山田くんにとっては初めてで、申し訳ないとは思うけれど、一度寝ただけで、こんなふうに時間を無駄に過ごして。私のこと、十分に知ったでしょ?」
それらしい理由を並び立てるものの、それこそ全部今更な内容だ。感情的になる私とは対照的に彼は落ち着いていた。
「俺はまだ、知らないことばかりですけれど。それに、もっと市子さんを知りたいって思ってます」
その返答に私は顔を歪める。知ってその先になにがあるの? それを問い詰めるのも、その答えを聞くのも、もうできない。
吐き気にも似た苛立ちが全身を駆け巡っていった。
「好きな人ができたの」
前触れもない私の叫告白に、さすがの彼もいささか驚いた顔をする。そしてそんな彼の顔を見ていられず、私は俯いた。
心臓が痛くて、息さえ上手くできない。けれど口にしたものはしょうがない。私はそのまま続けた。
「だから、終わりにしたい。もう嫌なの」
懇願にも似た声は泣き出しそうだった。それを悟られたくなくて、ぐっと奥歯を噛みしめる。
「そう、ですか。それならしょうがないですね」
耳鳴りがしそうなほどの痛い沈黙を破ったのは彼の声だった。ゆっくりと彼が立ち上がるのを感じるけれど、私はなにも言えず、動くこともできない。
「市子さん、ひとつ訊いてもいいですか?」
まただ。彼はいつもこうやって訊いてくる。声の方向から、部屋を出て行こうとした彼が、こちらを向いたのが分かった。
「市子さんにとって、俺と過ごした時間って無駄だったんでしょうか?」
まさかの質問に、私は突き刺されたようだった。“こんなふうに時間を無駄に過ごして”そう言ったのは私だ。
そこは訂正しないと。そう思って顔を上げると、なんだか今にも泣き出しそうな、傷ついた顔をした彼が目に入って、言葉を全部封じ込める。
今まですみませんでした、と小さく告げられ、彼が玄関から出て行くまで私はなにもできなかった。息さえ止めていた。
これでよかった……んだよね。山田くんには想い人がいて、そんな彼とこれ以上一緒にいても、彼のためにもよくない。私だって代わりなんて御免だし、今のままじゃ本当に好きな人もできない。
好きな人……。
私は目を伏せて、あれこれ浮かび上がる考えにぐっと蓋をする。
だってしょうがない。顔も性格も文句なし。優しくして、大事にしてくれて。甘い言葉と、とびっきりの笑顔。そんなものを向けられたら、たいていの女性は好きになってしまう、と思う。
だから、私がこんな気持ちになるのも無理はないことで、彼が特別だから、ってわけじゃない。彼にとってもそうだったように。
でも本当に? 私がこんな気持ちになるのは本当にそんな理由? それだけ?
そこでふと見慣れない白い封筒が部屋に落ちているのを見つけた。山田くんの座っていた席の近くにあったので、彼の忘れ物かもしれない。
そっと拾い上げ、悩みながらも一応、中身を確認する。そして思わず私は息を呑んだ。
よれひとつない綺麗な封筒の中身は来月末から開催される某有名ホテルの苺ビュッフェのチケットが二枚入っていた。
そういえば、もうすぐ苺の美味しい季節だ。完全予約制でなかなか値段も張るのに、どうしたんだろう? そこでその疑問をすぐに打ち消す。どうしたんだろう、なんて考える間でもない。
『いつか苺を食べに行きましょうね』
あのとき彼が言ったのは本気だったんだ。本気で、私と……。
『意地張ってもしょうがないですよ。素直になったら、どうです?』
『好きなら素直になった方がいいですよ』
私は手の中にあるチケットを再度見て、その場を立ち上がる。そして着の身着のまま部屋を出た。
彼のため、と言って突き放す真似をして、結局は自分が傷つくのが嫌だった。もう嫌、と言ったのは自分がこれ以上傷つきたくなかったから。
年下だからとか、職場の後輩だからとか言い訳して、自分のくだらないプライドを守るために彼にひどいことを言った。
きっと叶わない、逆に気を遣わせてしまうかもしれない。それでも、このまま終わってしまうよりはいい。だって私――
時間も時間だというのに嫌がらせのごとく隣の部屋のインターホンを連打する。しばらく間が合ってから、勢いよくドアが開かれた。
「市子さん!?」
どうしたんですか?の声を無視して私は玄関に足を踏み入れた。慌てながらもドアを閉めた彼が動揺しながらこちらを見ている。それに向き合うようにして私は今度は彼から視線を逸らさなかった。
「山田くんの馬鹿!」
唐突に発した言葉に、彼は大きな瞳を零れ落ちそうなほどに見開く。そして私は、彼がなにかを言う前に捲し立てて続けた。
「顔もよくて、性格も経歴も申し分なくて、優しくて、仕事もできて、女性の扱いも慣れてて。誰にでも笑顔で、まっすぐで、素直で」
まるで私と正反対。本当に彼は馬鹿だよ。たかが一度寝たくらいで、そのことに価値を見出そうとして。ほかに好きな人がいるくせに、優しくて、大事にしてくれて。
いつも人の心をかき乱してくる。いつも甘い言葉と、とびっきりの笑顔をくれる。けれど――
「私、そういうのいらない」
そう、いらないの。それだけなら、きっと私も諦められた。こんな行動を取ることもなかった。でも、彼はそれだけじゃない。
私は彼の顔をじっと見つめて、次の言葉を声にするかどうか迷った。そうしていると彼の唇がおもむろに動く。
「あの」
「素直じゃなくて、意地張ってばかりで……ごめんね」
重なった私の言葉が静かな玄関に響き、いつの間にか、涙が頬を濡らしていた。
『ごめんなさいは?』
優しいだけじゃない。意地っ張りで、変にプライドが高くて、なかなか素直になれない私を、彼はちゃんと叱ってくれた。謝らせてくれた。
自分でも無意識のうちに我慢していた涙を見つけて、私以上に私と向き合ってくれた。それは年下とか、後輩とか関係なくて、そんな彼が私は――
「好きだから。無駄なんかじゃない、本当はずっと一緒にいて欲しい」
涙混じりで上手く言葉にできない。こんなこと言っても困らせて、気を遣わせるだけだ。返事も分かっている。でも、素直になってもいいと言ってくれたのは彼だから。
軽く鼻をすすって指で涙を拭う。伏し目がちに彼から目線を外すと、いきなり正面から力強く抱きしめられ、息が詰まりそうになる。
「市子さんは、俺の心臓を止める気ですか?」
いつもよりずっと近くで聞こえた彼の声からは、わずかに動揺が窺えた。しかし、言われている意味がよく分からない。どうして抱きしめられているのかも。
私の告白は、そこまで驚くようなものだったの? なんて返せばいいのか分からずに黙ったままでいると、回されていた腕にさらに力が込められた。
「いきなり、好きな人ができたから関係を終わらせたい、なんて言われて。気持ちの整理もつかないまま帰ってきたら、今度はわざわざやって来て馬鹿なんて言われて。もう色々な意味で泣きそうです、俺」
あまりにも突拍子のない自分の行動と発言を思い返し、あたふたしていると彼が腕の力を緩めて私を解放した、と思ったのは束の間で、互いの額がぶつかりそうなほどの距離まで顔を寄せられる。
いつもの笑顔は鳴りを潜め、射貫くような強い眼差しが向けられた。
「でも、好きって言ってくれましたよね? 一緒にいて欲しいって。それって俺のことですよね?」
「……ほかに誰がいるの?」
低く真剣な声に対し、私の声はよれよれで、なんとも情けない。また涙が溢れそうになるのをぐっとこらえていると、彼の顔がふにゃりと崩れた。そして次の瞬間、唇に温もりを感じた。
「なっ!」
驚いて一歩後ずさるも、そんなにスペースのない玄関ではあまり意味がなかった。逆にバランスを崩しかけて、彼が抱き留めるようにして私を支える。
「すみません、嬉しくてつい」
照れながら言われると、なんだかこちらも恥ずかしくなってくる。けれど、今はそれどころじゃはない。