02
今日の夕飯は親子丼らしい。らしいというのは台所に立つ彼が帰宅した私にそう報告してくれたから。出汁のいい香りが台所に漂っている。
正確に数えたわけではないけれど、以前よりもこうして彼とご飯を共にする回数が増えた気がする。
少しずつふたりで過ごす時間が増えて、他愛ない話を重ねていく。でも、それだけ。キスもなければ体を重ねることもない。恋人同士と呼ぶにはあまりにもなにもなさすぎて、かといって友人と呼ぶには、なんだか……。
「市子さん、今日はすみませんでした」
ふたりでいつもの定位置に座り、夕飯が始まったところで、彼がタイミングを見計らっていたかのように口火を切った。なんのことだか訊く前に山田くんが頭を掻きながら続ける。
「はるかの件。冷やかしってわけじゃなくて、本気で車を買いたいみたいですから」
彼が気にしていた内容よりも、私はやはり彼が女性の名前を呼び捨てしたことの方に胸がざわつく。そのかすかな動揺は返答にも表れた。
「松村さんて、おいくつ?」
「たしか、市子さんと同じ年ですよ。あっちはもう二十七ですけれど」
同じ年と言われ、なぜか私はショックを受けた。その理由がはっきりとは分からない。どうして私はこんなにも、松村さんのことが気になるのか。気になるといえば……。
「山田くん、家出したことあるの?」
親子丼の出汁を吸って、すっかり色づいたご飯を見つめながら、箸を置いて尋ねる。すると自然と彼の動きが止まり、おかげでなんだか訊いてはいけないことを訊いてしまった気になった。
「あの、ひとりで帰国するくらいだから、よっぽどのことがあったのかなって……」
「よっぽどのこと、というか。今から考えれば子どもだったんですよね。単に、なにもかもが嫌になって自棄になったんです。ちょうどギムナジウムの卒業認定試験にも合格して、ほっとしたというか、立ち止まって今後のことを考えると、色々分からなくなって」
ギムナジウムというのは、こちらでいう中高一貫教育校のようなものだと、説明がつけ加えられる。そこでの卒業試験に合格することが向こうでの大学入学資格に繋がるんだとか。
また初めて知る話に感心しながらも、彼は思い直したように、それでですね、と逸れた話を戻した。
「これといった不満が両親にあったわけでも、生活が嫌だったわけでもないんです。ただ、なんていうか、どうも自分が中途半端な気がして。日本人だけれどあっちで過ごす時間の方が実際は長くて。でも向こうにしたら俺は外国人扱いで。そんな感じで俺の居場所ってどこなんだろうって変に思いつめていたんです。まぁ、青春?によくある……えーっと」
「思春期のこと?」
あやふやな言葉の意を汲み取ると、彼はつかえていたものがとれたような顔になった。
「そう、それです。とにかく、これというものもなかったんですが、思い切って日本に行ったんです。でも頼れる人間も少なかったもので」
「そのとき松村さんにお世話になったんだ」
「お世話っていうんでしょうか。まぁ、いきなり転がり込んだのは申し訳ないと思いますけれど」
渋い顔になる山田くんに私はつい先を促す。
「それで、家出してどうなったの?」
「もちろんずっとってわけではなく、二週間くらいして帰りました。両親にしてみればUrlaub、休みくらいに思ったんでしょう。全然、動じてませんでした。もちろん、こっちに来てから連絡したっていうのもありますけど」
「家出してみてよかった?」
「ええ、よかったですよ。あのとき日本に来てよかったって今でも思ってます」
きっぱりとした口調、迷いのない答えだった。それを受けて私は、そっか、と静かに返し再び箸を手に持つ。きっと日本でずっと普通に暮らしてきた私に想像もできないような苦労や葛藤が彼にはあったんだろうな。
そんなとき彼のそばで支えてくれる存在がいたのなら、よかった。松村さんなら彼が弱さをさらけだせるのかな? 従姉で付き合いも長くて、気心も知れているなら……。
『市子さんにだけは、見られたくなかったんです』
あのとき、彼の部屋を訪れるべきだったのは、私ではなく彼女だったらよかったんじゃないのかな。彼もそれを望んでいたんじゃない?
そんな考えに至ると、なぜか締めつけられるように胸が痛みだす。まただ。この前のことといい、彼が絡むと、自分がこんなにも弱い人間だったのかと思い知らされる。
なにをこんなに傷ついているの? 傷つく必要はないはずなのに。。
彼の作ってくれた親子丼もとても美味しい。半熟が苦手だ、と言っていた私の好みに合わせて卵はきちっと固まっている。
それなのに、今はなにも味がしない。ただ、口に入れて飲み込むという行為に、ますます作ってくれた彼に罪悪感を募らせていった。
最近、どうも集中力が落ちている。自動車学校の件がなくなったのだから、空いた時間はほかの仕事に回していきたいのに。
そんな中、私は仕事を終えてから会社のホームページに掲載しているスタッフブログを更新していた。
社員が交代でブログ記事を作成するんだけれど、私はわりとこの作業が好きなので他のスタッフよりも書いている回数が多かったりする。
今回は本田とバージョンアップさせた店内のディスプレイの写真と共に今度のキャンペーン情報について掲載した。
このブログをいちいちチェックしている人がいるのかは正直、謎だ。でも入社したころから続けていて、お客様の許可があれば、納車したことや試乗していただいたことなどもアップしたりしている。
投稿ボタンを押して、今日の仕事はこれで完了だ。スーツはどうも肩が凝ってしまう。肩の関節をほぐしていると、いきなりその肩にばんっと手を乗せられた。
「市子、お疲れ!」
「……本田」
私は非難の意味も込めて、テンション高めの本田とは真逆の声で返した。本田は気にする素振りもなく、さらに後ろから私に顔を寄せて、まるで内緒話でもするかのように声を潜める。
心配しなくても、今は周りにほとんど人はいないのに。
「ちょっと聞いて、事件、事件!」
「なに? 私、とりあえず着替えてきたいんだけれど?」
「今は更衣室に行かない方がいいよ」
「どういうこと?」
つられて私まで声が小さくなった。興奮を抑えきれない、という本田は一瞬だけ無表情になる。
「西野さんね、山田くんに告白したけど駄目だったらしいよ」
「えっ!?」
思わず振り向いて出た声に焦る。本田も人差し指を口の前で立てて「静かに」というジェスチャーを作った。
「もうっ。話はここから。なんでもね、振られた理由が」
「好きな人がいる?」
私はつい言葉をかぶせるようにして先に声にしてしまった。すると本田が目を丸くして私を見つめてくる。
「え、なんで? 山田くんからなにか聞いたの?」
「いや、西野さんのことは知らないけれど、好きな人がいるっていうのは……」
聞いた本人からではなく坂下経由ではあるけれど。彼は以前、坂下にそう告げていたので、今回の件もそこまで驚きはしない。
「そうなんだ。でも『もう何年も前から想い続けている人がいる』ってどんな相手なんだろうね。あの山田くんが、そんな長い間、片思いしてるなんて。彼女じゃないわけだし、西野さんもかなり粘ったみたいだったけれど、取りつく島もなかったらしいよ」
続けられた本田の説明に私は頭が真っ白になった。何年も前から? その情報は初めて知った。
「意外とさ、この間来店していた従姉さんだったりして。親しそうだったし、前からの知り合いなんでしょ? 日本に帰って来てからはそんなに経っていないし、それとも、あっちにそんな相手を残してきてたりするのかな?」
勝手に色々と憶測する本田の声をどこか遠くに聞いていた。前に坂下から彼のことを聞いたとき、好きな人がいる、というのは嘘だと思っていた。
でも、嘘ならわざわざ「何年も前から」なんて言う?
それなら、どうして好きな人がいるのに私と過ごしているんだろう。たしかに恋人らしいことはなにもない。多少のスキンシップがあるものの、それくらい外国暮らしの長い彼にとってはなんでもないことだろうし。
ただの暇つぶし? その好きな人がそばにいないから?
分からない。少しずつ山田くんを知っていって理解を深めているつもりだった。でもそれは全部私のひとり相撲で、本当は彼のことも、気持ちもなにも知らない。分からない。