04
寒さに身震いして意識が浮上した。次にいつものベッドの感触と違うことに違和感を覚えて、おもむろに身を起こそうとする。けれど、なにかが邪魔して起き上がれない。
そこで完全に意識が覚醒して体を起こすと、私を抱えるようにして回されていた彼の腕が、ずるりと呪力に従って落ちた。すぐ隣にある整った顔が歪む。
ゆっくりと状況を理解して私は自分の口を手で覆った。
泣くという行為はなかなか体力を消耗するらしく、どうやら昨日、あのまま眠ってしまったらしい。ここはリビングのソファで、さすがにネクタイははずしているが、隣の彼はワイシャツ一枚だった。
私にスーツの上着をかけてくれていたのだと気づき、血の気が引く。このままでは風邪を引かせてしまう、いや、もう手遅れ？ とにかく、私は彼の名前を呼びかけた。
｢山田くん、起きて｣
すると山田くんの瞼がおもむろに開く。そして、彼はしかめっ面で喉で潰したような唸り声が漏らしながら上半身を起こした。
どこか痛めたのかと思えば、左腕を押さえている。どうやら私が枕代わりにしたせいで、痺れてしまったらしい。
｢大丈夫？｣
｢大丈夫ですよ。市子さんこそ、大丈夫ですか？｣
それはどういう意味なんだろうと迷っていると、彼が先を続けた。
｢どこか痛くないです？ すみません、さすがにベッドまで運べなくて｣
そういう意味か、と納得しながら私は居た堪れなくなった。わざとらしく手櫛で髪を整えて、気持ちを落ち着かせようと試みる。
｢それで市子さんが離してくれないので、つい俺も一緒に寝ちゃったんです｣
しかし、さらに追い打ちをかけられ、私はもう消えたくなってしまった。彼と迎える朝はこれで二回目だ。にしてもどうして毎回、私が問題を起こして……という流れなの。
そもそも問題がないなら一緒に寝るなんてこともないんだけれど。
｢迷惑かけて、本当にごめんね｣
ああ、このシチュエーションはデジャビュすぎる。なにを、というのを事細かくは言わないし、言えない。おかげで私はまとめての謝罪の言葉を口にした。
山田くんは静かにかぶりを振る。
｢いいえ。俺も生意気言いました。でも市子さん、割り切るのも大事ですし、傷ついていられないのも理解できます。とはいえ、それと傷つかないのとは、話は別ですよ。辛くて、悲しくなるのは悪いことじゃなくて当たり前のことです。だから、我慢しないでください｣
昨日の発言をもちだされ、私は言葉に詰まる。だから静かに頷くことしかできなかった。そして、ゆっくりと膝に置いていた手を取られたので、それを目で追うように彼の方を見つめる。
真剣な口調を崩さないものの、彼の顔はどこか切なげだった。
｢市子さんの言う通り、俺はまだ入社二年目で分からないことも、知らないこともたくさんあります。でも、市子さんが仕事に対して真剣で一生懸命なのは知ってます。契約さえ取れたらいい、って考えじゃなくて、いつもお客さまを第一に考えていることも｣
先輩だからってお世辞でも、気を遣ってくれているわけでもなく、本心で言ってくれているのが伝わってくる。なんでこんなにも、彼はまっすぐなのだろう。
しばらくして、指先から伝わる体温がそっと消える。彼が腰を上げるのにつられて、私も立ち上がった。
｢俺、一度家に帰ってシャワー浴びて着替えてきます。そしたら一緒に朝ごはんにしましょう。この近くに、早くからモーニングをしているお店があるんです｣
思えば、山田くんは昨日の夕飯を抜く羽目になってしまったんじゃない？ ほとんど食べていないのは私も一緒だけれど、なんだか付き合わせてしまって、申し訳ない。
玄関を目指す彼のあとを静かに追った。
｢市子さんの予定がかまわないなら、今日の夜こそ鍋にしましょう｣
｢昨日、同期の子たちとの約束は大丈夫だった？｣
靴を履く彼に投げかけると、くるりと身を翻して微笑んでくれた。
｢気にしないでください。それに、“優先順位を間違えたらだめだ”って言ったの市子さんですから｣
まさか、ここで自分の発言が返ってくるとは思いも寄らなかった。山田くんは口を開こうとする私を制する。
｢もう謝るのは、なしですよ。それより別の言い方があると思いません？｣
そこで嫌味のないウインクひとつ投げかけられ、私はようやく笑えた。
｢ありがとう｣
｢どういたしまして｣
律儀に応酬してから、鍵を開けてドアノブに手をかけた彼の動きが止まった。なにか忘れたのだろうかと思い、どうしたの？と尋ねると、再び彼がこちらを向いて近づいてきた。
そして軽く腕を引かれたかと思えば、頬に温もりを感じた。
｢では、またあとで｣
ひらひらと手を振って、今度こそ山田くんはうちをあとにしていった。すぐに隣の家のドアが開く音がする。それでも、私はしばらくその場を動けなかった。
こんなのは戯れだ。頬にキスだなんて今までだって何度もあったじゃない。
なのに、今は胸が締めつけられて痛み、顔もなんだか熱い。相手は会社の後輩で、年下で、おまけに私とは正反対の性格。
だから、そんなはずない。優しくされて舞い上がっているだけだ。けれど、あんなふうに誰かの前で泣いたのは、ものすごく久しぶりで、きっと彼がいなかったら私は泣くことができなかった。
自分の態度を顧みると反省や後悔することがたくさんあるけれど、でも、彼がそばにいてくれてよかったと心から思える。それは素直な気持ちだった。
