(3) 表面張力
あの日、長い東京の夜も更け、やはり
鍵の掛かっていない扉を開くと、彼女は店の奥で洗い物をしていた。
「ごめんなさい。今日はもう」
そこまで言ってこちらを見て、一瞬意外そうだった表情が
さすが元アイドルだけあって、どんな心理状態からでも瞬時に満点の笑顔を作り出す
「どうしたの、今日は来る予定じゃなかったじゃない」
お笑いコンビとして下積みの長いトンネルを抜け、やっと仕事が軌道に乗り始めた頃、相方が薬物に手を出して逮捕された。連日ワイドショーや週刊誌で騒がれ、全ての仕事がキャンセルになり、放映中だったCMも打ち切られた。
数日後、保釈された相方は自ら命を絶った。
どういう感情を抱けばいいのかすら分からなくなってしまっていた。
すぐにでも全てを投げ出して一人になりたい。それが本音ではあったものの、世話になった人たちに迷惑をかけるわけにはいかない。いや。迷惑はどうしてもかけてしまう。それも莫大過ぎて償い切れないほどの迷惑を。
それでも。
だからこそ。
なるべくあとを濁さないように立つために、頭を下げ続けた数か月だった。
仕事上の問題を全て解決できたわけではなかったけれど、引退に向けた障害はほぼ取り除けた頃だ。
その日も世話になったプロデューサーと、最後の晩餐と称して食事をした帰りだった。
「後片付け、手伝おうか?」
店内を見回せば、所狭しと有名人のサイン色紙が飾られている。彼女はその人柄と料理の腕前で、アイドル時代に引けを取らない人気を博していた。それがよく分かる。
負い目は常にあった。自分がいなければ、早々に良い縁を得て、きっと幸せな家庭を築いていただろうにという思い。
「大丈夫。もうお仕舞いだから。ね、グラス出して、氷入れて」
言われるままに並べた二つのグラスに、彼女はなみなみと森伊蔵を注いだ。
言わずと知れたプレミアム芋焼酎だ。人気が絶大過ぎて公式価格などでは手に入らない。
「おい、いいのか」
「売り物じゃないの。
かろうじて表面張力が食い止めているが、グラスを動かすと零れそうで乾杯もできない。グラスに手を当て、目を合わせて乾杯のふりだけをした。
背中を丸め、顔を近づけて、啜《すす》るようにして呑んだ。
「行儀悪いなあ」
笑いながら、隣では彼女も同じようにして啜っている。
「つまむもの、何もないのよね。これも私物」
袋に入ったままの素焼きアーモンドだった。正直、焼酎に合うかは疑問だったけれど、文句を言える心境でもなかった。
「で、どうしたの、こんな時間に?」
少しだけ
彼女は口の中にアーモンドを放り込んで、遠くを見るような表情のまま黙っていた。
アーモンドが噛み砕かれる音だけが、二人だけの店内に響いた。