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(2) 旧友と出汁巻き玉子

「先日の彼女さんは、もう来ないんですか?」

 尋深とはあれっきり。女将の正体に気づいたという報告のLINEが来たのが最後だ。まだ日本国内にいるのか、もうカナダへ発ったのかも分からない。おそらくそんな連絡も来ないだろう。

「彼女さんて誰のことです?」

 (とぼ)けてはみたものの、女将が送ってくる意地の悪い視線に居心地が悪くなって、あっけなく白旗をあげてしまう。

「あれはあくまでも元カノです。それも超短期間で振られた。苦い過去なんです。黒歴史なんですよ、あいつは」

「大丈夫。むきになって否定しなくても。二人の間に何もないことは見てれば分かります」

 別にむきになどなってはいないと、そう否定すること自体がむきになっている(あかし)のような気がして口をつぐんだ。

「ごめんなさい。本当はあのときのお二人の話、ちょっと聞こえちゃって。あの人、カナダへ行っちゃうとか」

「ええ。多分ですけど、もう日本にはいないんじゃないかなって思います」

「感じのいい人だったし、美味しそうに食べてくれるし、呑みっぷりもいいし。また来て欲しかったんだけどな」

 小さく笑って背を向けた女将の髪は、いつもながら綺麗にまとめられている。着物の襟足からのぞく白い肌が、炊き立ての白米のように眩しくて魅力的だ。

 これは少し特殊かもしれないが、うなじの持つ性的魅力に目覚めたきっかけを何故かはっきりと憶えている。
 あれは中学一年のとき。学校の裏山でのことだ——。

 そんなことを思い出しかけたとき、背後で店の扉が開く音がして女将が振り向いた。慌てて視線を手元に落とす。
 いらっしゃいませと言いかけた女将が途中でやめた。

「あら。早かったじゃない」

 顔見知りの男性らしい。それもかなり気安い間柄のようだ。瞬時にお門違いの小さな嫉妬が芽生える。

「いいか」

「もちろん。どうぞ。いらっしゃいませ」

 男には連れがいたらしく、そちらには女将は丁寧に声を掛けた。
 横目にちらりと見ると、奥の小上がりの席に上がろうとしている。先に入って来た男は同世代のようだが、もう一人はまだ若そうだ。
 女将と親しげな方の男が、連れの男を先に通そうと身体の向きを変えたので顔が見えた。

「とりあえずビールを一本。あとは適当に出してくれ。出汁巻き玉子は忘れずに」

 そう注文する声にも顔にも、はっきりと覚えがあった。
 日坂幸人(ひさかゆきと)——。
 向こうも最初はこちらをただの客だと思ったのだろう。よく見もしないで儀礼的に軽く会釈をして、目が合ったところで気がついたようだ。

「各務なのか」

「おう」

 小上がりの席におしぼりを持っていこうとしていた女将が驚いて足を止める。

「知り合いなの?」

 大学一年のとき、意味不明なアルファベット名のテニスサークル、APTに誘ってくれたのが日坂だった。尋深との出会いは彼のおかげだと言っていい。よく下宿の行き来もして、お互いの部屋で安い酒を()み交わしながら馬鹿話をして過ごした仲だった。

「すみません。すぐ来ます」

 日坂は連れの男性にそう断って、小上がりの襖を閉じた。近づいて来たので、こちらも席を立つ。

「久しぶりじゃないか。元気にしてたか」

 ここで握手などしないのが日本人だ。

「音信不通になったのはそっちだろ。この街にいるのか」

「ああ。知ってるかもしれんが、いろいろあってな。今はこのビルの二階の事務所で仕事をしているんだ」

「仕事ってなんの?」

 日坂は少し考えてから、いろいろあってなと繰り返した。

「まだいるのか?」

「来たばかりだからな。もうしばらくは」

「俺はまだこれから仕事なんだ」

 言いながら、顎と視線で小上がりを示す。あの若い男性は仕事相手らしい。日坂の態度からすると、向こうが客の立場のようだ。

「あとで時間があれば話そうや」

「ああ」

 日坂は小上がりの襖の中へと姿を消した。

「二人が知り合いだったなんて」

 酒瓶を持った女将が、いつもの卵型のグラスに注いでくれる。

「大学時代の友人なんですよ」

 そんなことよりも気になるのは女将の方だ。

「そちらこそ日坂とは個人的に知り合いのようだけど?」

 女将は酒瓶に栓をしながら、日坂の真似をした。

「いろいろありましてね」

 すぐにたたきも出しますからと、女将は逃げた。
 いったい日坂とはどういう関係なのだろうと考えながら、彼の注文の台詞を思い出した。

「こっちにも出汁巻き玉子、お願いします」

 女将は意味ありげに一拍おいてから、はいと笑ってくれた。

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