(20)坂の上の公園 X.
彼が握っている傘の柄には、やっぱり赤いテープが貼られている。
「まだ、その傘使ってるんだ」
ぶっきらぼうな口調に、自分でも少し驚いた。
初めて言葉を交わした日に、彼がコンビニで買った数百円のビニール傘。もうとっくに元は取れているだろうに。
「造りが単純だからかな。そうそう壊れそうにないしね。ずっと使えるよ」
「そんな傘、風が強いとすぐに壊れちゃうわよ」
憎まれ口が、つい口をついて出てしまう。
でも彼は気にする様子もない。
「そうそう。だから台風とかさ、風が強い予報のときとかは、ほかの傘を使うようにしているんだ。ちゃんとした傘で、壊れてもいいやつ」
それって明らかに矛盾してる。
ちゃんとした傘の方が壊れちゃだめだろう。
「それに、これ、縁起のいい傘なんだよ」
「ふうん……。そうかな?」
今度は自分の口調が急に不機嫌そうになったのを自覚した。
「どういう意味?」
彼の視線を感じるけれど、そっちは見ない。
「縁起、悪いんじゃないかな」
わたしにとってこそ縁起のいい傘だったかもしれない。
でも、それは彼にとっては逆の意味になる。
「どうして?」
「たちの悪い女に引っ掛かる相が出てる」
「相ってなんだよ。いつからそんな占い師みたいなことを言うようになったの。それに傘占いなんて聞いたこともないし」
ずっと彼の視線を感じたままだ。
「女の子はみんな占いが好きなの。でも、これは占いじゃない。事実を言ってるだけだから」
彼の方を見ていないことをアピールするために、滑り台の下から覗き込むようにして灰色の空を見上げた。
雨は弱まる気配がない。
「この雨が上がったら、新しい傘を買い直した方がいいと思うわよ」
「いやだよ」
「どうして?」
「絵里子との縁を結んでくれた傘だもん」
別れた女に、どうしてそんなことが言えるのだろう。
あのとき、あっさりと別れを受け入れたくせに。
視線を落とせば、公園は水たまりに広がる波紋だらけだ。
「……だから、それが縁起が悪いって言ってるの」
「東京に行くんだって?」
あまりに唐突だったから、つい彼の顔を見上げてしまった。
目が合ったことでそれに気づいて、慌てて視線を逸らす。
「どうして知ってるの?」
「絵里子の顔に書いてある」
「冗談はやめて」
「偶然だなぁと思って」
「何が?」
「俺も来年の春から東京なんだよ」
「え。……どうして?」
また彼の顔を見そうになったけれど、今度はすんでのところで思いとどまり、無精ひげの生えた顎が見えただけだった。
「卒業したら正式に先輩の会社に入ることになったんだ。今、働いている先輩の会社、本社は東京なんだよ」
「へえ。そうなんだ……」
どうしてそんな人の気持ちをかき乱すようなことをするんだろう。
東京に行くのは仕方ないとしても、黙って一人勝手に行けばいいじゃないか。
せっかく物理的にも距離をとって、綺麗さっぱり気持ちを切り替えようと思っているのに。
「よかったね」
よかった?
何が?
「遠距離がずっと続くわけじゃないから。春まで待てば、またいつでも会えるようになるよ」
「何言ってるの……わたしたち、お別れしたのよ?」
「お別れ? 誰が? いつ?」
「だって——」
今度は意識して彼の顔を見上げた。
抗議の意思を伝えようと思ったけれど、それはうまくいかなかった。
「絵里子から、別れましょうって提案は受けたけど、俺、そんなの認めてないから」
「そんな……だって、あのとき」
「絵里子の気持ちはわかったよ。そう言っただけじゃないか。じゃあ別れようなんて言ってない。そんなつもり、さらさらないんだから」
「そんなの……」
「何?」
「そんなの、だめだよ」
「どうして?」
「だって、わたしが……、片方が別れようって言ってるんだから……、片方の気持ちが変わっちゃたら、もう恋愛なんて成立しないよ」
「絵里子は、本当に俺と別れたいって思ってるの? もうつき合いたくないって」
「思ってるから、別れましょうって言ったの」
「じゃあ、どうして、こんなところにいるの? ここで何してるの?」
「それは……」
未練がないとは言わない。けれど、それを言わせようとしているのだとしたら、あまりも酷だ……。
そうだよ。本音では別れたくなんかない。気持ちに整理がつかなくて、ここに来ては、今日の雨以上に涙を流してきたんだよ。
そんなことを言えっていうの?
別れたくなんかないけれど、わたしにはあなたとつき合う資格なんかないんです。わたしは酷い女なんですって、そう言えばいいの?
そうか——。
本当のことを話せば、どうせ彼はわたしのことを嫌いになる。
そうしろっていうこと?
嫌われないまま、彼の中ではきれいな思い出のまま、都合よく消えてしまおうとしたわたしが悪いってこと?
「だって……」
そうだ。
悪いのはわたしだ。
わたしだけだ。
彼には何の罪もない。
彼を責めるのは間違っている。逆切れもいいところだ。
そんなことははじめから分かってることだ。
「だって、何?」
彼の顔が滲む。
雨になんか濡れていないはずなのに——。
雨が彼の傘や滑り台、公園そのものを叩く音に包まれていた。