(8) 部長のおつかい4
部長の役に立ちたいと思った。
いい子だと思ってもらいたかった。
だから——。
アンテナを張り巡らせて、雑用などがあれば率先して引き受けた。
ときにはわざと手が触れるように書類を手渡した。
偶然を装ってランチを相席して食べた。
会話の途中で奥様の誕生日を知り、プレゼント選びに協力したりもした。
職場の宴会では積極的に上司や先輩に酌をして回り、最後には部長の隣の席を確保した。
部長に食べてもらうつもりになって、弁当を作ったこともある。もちろん本人には渡せずに自分で食べた。
飲み会の席などで部長の好みを聞いて、渡せもしない弁当のおかずに反映させたりもした。
甘い玉子焼きの練習をした。
ロールキャベツの練習をした。
料理教室に通った。
ゴルフスクールにも通って、部内のコンペにも出た。
そんな自分の中だけで完結させていたつもりの行動が、部長に「おまえの方から誘ってきた」と言わしめた。
部長は間違っていない。明確に自分から誘ったという形を避ける。そのために自分の存在を必死にアピールして、最後は相手から誘ったという外形だけを作り上げようとした。
本当に狡いのは自分の方だ。
いつの間にか、とんでもなく嫌な女になっていた。
全てが嫌になって、堪えられなくなって、別れを切り出したのが一年ほど前のことだ。
でも――。
関係を断つことは出来なかった。
「どうしても別れるというなら」
知らないうちに撮影されていたベッドでの痴態をネットに晒してやると言われた。それが嫌なら後輩の女子社員を連れて来いとまで言われた。おまえに恋人ができるたび、相手の男におまえの恥ずかしい写真や動画を送りつけてやる。そうも言われた。
いつしか、おつかいと称して勤務時間中にホテルに呼び出されるようになった。
ますます泥沼に沈むのが分かった。
別れを切り出すまでは甘い言葉を掛けられたりもしたけれど、それもなくなった。結局、はじめから本物の愛情など与えてもらってはいなかったのだ。
部長はベッドでは後ろからを好んだけれど、背中の火傷の跡が見えると萎えると言い、いつもシーツやタオルを掛けられた。
それくらいどうってことはない——。
そう思い込もうとしたけれど、実はそれが部長への思いが冷め始めた一番の要因かもしれない。
都合がいいだけの女。
性欲の捌け口。
あんな男のどこが良かったのか。全然分からなくなった。
彼——神堂慧太朗に出会ったのは、そんなときだ。
自分がいかに嫌な女で、最低な女で、汚れた女なのかを隠して、彼を騙した。彼の愛情を騙し取った。
でも——。
それでも——。
自分にも、ちゃんと普通の恋愛が出来た。騙しただけじゃない。本当に彼を好きになった。好きになれた。好きだった。愛していた。
でも。
やっぱり——。
彼に部長のことを知られてはいけない。
部長にも彼のことを知られてはいけない。
こんなのは普通じゃない。
長続きするはずがなかったのだ。
いや。
そもそも始まってはいけないものだったのだ。
これ以上続けてはいけない。
彼に別れを告げよう。
そう何度目かの決心をした。
それはこれまでも何度も決心をしたつもりになっては、その都度果たせなかった決心だった。
でも。
やっと。
それを今回は実行できたのだ。
彼にはっきりと別れを告げた。
そして、それは意外なほどあっさりと受け入れられた。
あとは何を言われようとも部長との縁を切ることだ。
会社を辞めて、街も出る。
ここでの過去を捨てるんだ。
シュレッダーするように言われた封筒の中身を取り出してみた。
そこには待ち合わせ場所と時間のメモがあるはずだった。
ところが、出てきたのは白紙の紙ばかりが数枚。
おかしい。
念のため、もう一度一枚ずつ裏表を確認してみたけれど、やはりどれも白紙だ。
どうやら部長が入れ間違えたか入れ忘れたかしたようだ。
それに気づいたからキャンセルなどと言ってきたのだろう。
席を外していてよかったかもしれない。
席にいたら直接電話を受けて、口頭で場所と時間を指示されていただろうから。
最後にちょっとだけ神様がきっかけを与えてくれたのかもしれない。
この場所からいなくなるきっかけを。
( 部長のおつかい —— 終 )