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お酒好きなアレックスに日本酒を飲んでもらいたいから、今日は地元に残る唯一の酒蔵に出かけようと思っていたのに・・・。
真理は若干、恨みがましい顔でリビングで上機嫌にタブレットでなにやらしているアレックスを見た。
昨夜の自分の態度が火をつけたのか、今の今までベッドから離れられなかったのだ。
頬を赤く染めて、まだ気怠さがおおいに残る身体を宥めつつ、真理は夜食にフレンチトーストを焼いていた。
アレックスはお酒も好きだが甘い物も好き。
自分の作るものをなんでも喜んでくれるから、嬉しい。
リビングには二人とも好きなソウル・ミュージックが流れていて、アレックスはソファーに寝そべっている。
ふと、これが現実なのか夢なのか分からなくなる。
同棲している恋人同士のような状況が、本当ならありえないからだ。
誰にもここでは干渉されずに、ただのアレックスと真理でいられる。
一緒に過ごし、美味しいものを食べ、遊びに行き、夜は身体を重ね愛しあい、熱を冷ましながら寄り添って眠り、朝、二人で目覚める。
そんな幸せがずっと続いて欲しい。
そんな風に願ってしまうのを止められない。
でも、そんな幸せを願うことは許されない。
彼はグレート・ドルトン王国の第二王子、彼はこの王国の平和を背負っているのだ。
真理は彼に聞こえないように小さな吐息を漏らすと、ロイヤルミルクティを淹れた。
焼き上げたフレンチトーストとロイヤルミルクティをダイニングテーブルに並べると、アレックスが気付いて、こちらに来た。
「美味そう!!」
早速、座り真理を待つ彼の子供っぽい様子に真理は微笑んだ。
「お腹空いたでしょう、バニラアイスはいる?」
アレックスは芳ばしく甘い香りのフレンチトーストにメープルシロップをこれでもかとかけると、もちろん!と返した。
ありえないくらいバニラアイスを盛り付けるのを見て真理は微笑むが、なんとなく自分を見るアレックスの目つきを見て良からぬ予感にかられた。
「ダメよ。普通に食べて」
昨夜の桃でこりごりだ。その言葉にアレックスはニヤリとするとバニラアイスを乗っけたフレンチトーストを一切れ口に放り込んだ。
「真理はつれない。うっ!美味い!」
「つれなくなんてありません、冷めるから普通に食べて」
頬を染めて言う。とても彼には言えないが、身体中にアレックスの感触が残っている気がして落ち着かないのだ。
ふーん、とアレックスはまだニヤニヤしていたが、ソファーテーブルに置いたままのタブレットから何かの着信音が聞こえてきて、表情を変えた。
「側近からメッセージが来たから、見てもいいか?」
アレックスは二人でいる時はほとんどタブレットやスマートフォンを見ない。
中座して見たいと言うことは大事な用件に違いない。
真理が頷くと、アレックスはタブレットを取りに行き、またダイニングテーブルに座った。
内容をざっと確認したのだろう。ふぅとため息を吐くと、ちょっと嫌そうな顔をしながら真理を見た。
「明後日の多分7時くらいに迎えが来る」
迎え・・・気持ちが沈み込みそうになる。
先ほどまで噛み締めていた幸せの終わり・・・でも仕方がないのだ。
「そう・・・お休みも終わりね」
もともと彼が自分のために無理して作り出した休暇だ。これ以上、わがままは言えない。
真理は気を取り直すと、明るい笑みをアレックスに見せて言った。
「明日、この海岸で花火大会があるの。一緒に観たいと思ってたから、明後日で良かったわ」
彼と一緒に夜空に上がる花火を観たいと思っていたから、それが出来るのは嬉しい。
真理の笑顔にホッとしたようにアレックスは続けた。
「それは楽しみだな。・・・この後はウクィーナの国境警備に入るけど、俺は1ヶ月で戻るから」
その言葉に頷いた。ウクィーナの国境警備は今は状況が落ち着いていると聞く。
彼が無事に帰って来られると信じられるから、真理も安心していた。
「それともう一つ」
アレックスが表情を厳しいものに変えて真理に告げた。
「ソーンディック侯爵家から、エスターの君への発言について、正式に君へ謝罪が来た。この件で俺はソーンディック侯爵家へ処分を命じることも出来るが、真理はどうしたい?」
真理はびっくりした。
「どう言うこと?謝罪って?」
アレックスは苦々しい表情をした。
「あの日の午前中に君が何をエスターから言われたかは、俺の補佐官が尋問して分かっている。彼女は大きな嘘を吐いた。虚偽だ。そのせいで君が傷つき、日本に来たのだから俺は許せない。俺への侮辱に値する。ソーンディック侯爵家へ虚偽を触れ回った罪を俺は問うつもりだ」
思いがけない強い怒りに真理は狼狽すると立ち上がってアレックスの前に立った。
「待って!そんな虚偽なんて・・・、エステル様は私に口約束だけど婚約していると仰っただけ。私がそれを信じただけなの、ちゃんとアレクに確認すれば良かったのに、しないで逃げたのは私の責任よ」
「それが、嘘だ」
アレックスは唸るように違う、と声を振り絞ると真理を抱き寄せソファーに移動した。
そっと抱きしめられ、顔をアレックスの胸に押し付けられる。
「俺はエスターと口約束でも婚約なんてしてない!ソーンディック侯爵家の周囲で昔からそう言っているだけだ。そもそも彼女は俺個人にはなんの興味もない」
「でも・・・10歳で出会われて初恋だと仰ったわ」
あの時のエステルの頬を染めた恋心に支配されたような表情を思い出す。
アレックスは呆れたような溜息をひとつ吐くと続けた。
「それは・・・王子という立場に惚れているだけだ、俺たちには個人的な感情の繋がりはなにもない」
「でも・・・ずっとお妃様になる勉強もして、貴方のとなりで王子もドルトンも支える覚悟があると・・・」
「そんなの戯言だ!」
アレックスは嫌悪してるかのように、吐き出した。
「あの娘は幼い頃から貴族の令嬢としてちやほやされ甘やかされわがまま放題さ。弱い立場の人間に平気で傲慢になる。お妃教育?はっ!なにがお妃教育だ、エスターが学んだのは18世紀のお妃教育だろ、時代錯誤も甚だしい」
「・・・でも、お妃様には必要なことじゃないの?」
真理は彼の胸から顔を上げると、見上げて目を合わせた。
アレックスは侮蔑するような顔をした。
「冗談じゃない!今は21世紀だ!彼女は軍人を蔑み、いつも俺に辞めろという。国がなぜ軍を維持し、俺がなんで軍人であろうとするのか理解もせずだ!華やかな外交ばかりを望み、いつでもパーティに連れて行けとねだる。汚い面を見ないフリをしやがって、俺はあんな女、大っ嫌いだ」
強い怒りでエステルを拒絶するアレックスに困惑するが、婚約してないと言われて安心もする。
「・・・私はエステル様に感謝しているの」
「はぁ!?感謝???!!!」
そう、と頷いた。
「私はアレクとのお付き合いは夢の中の出来事だと思ってた。王子様とのステキな時間だと。でもエステル様の覚悟を伺って、私はアレクのことを何も理解していなかったことに気づいた」
言って俯く。あの時の自分の愚かさ、情けなさを思い出して目が潤むのを感じた。
励ますようにアレックスが頬を優しく撫でる。
「私はいつも自分の自由が奪われることを恐れていた。ネガティブな感情の中で貴方とのデートを繰り返していた。でも、エステル様のお話で気づいたの。
夢じゃない、違うって。・・・貴方は現実の第二王子で、この国を守っていく立場である方だと。そして、そんな立場でありながら、いつも誠実で、私が恐れていたことを安心できるように守ろうとしてくださっている」
そこまで言って顔を上げると、とてつもなく優しい琥珀色の瞳が自分を見つめていて・・・目尻に浮かんだ涙を優しく唇で吸い取ってくれる。
「だから・・・私に何が出来るのか分からないけど・・・どんな覚悟が必要かも分からないけど・・・今は・・・アレクの側にいたい・・・」
そう言った瞬間、アレックスのキスが顔中に降ってきて、彼は真理の肩に顔を埋めた。
「ああ、真理、愛してる!そんな風に言ってもらえて・・・幸せだ」
アレックスの声が少し震えていた。
「俺の過去は変えられない。でも俺は今の俺は君だけが愛しい・・・真理だけしかいらないんだ」
押し当てられた彼の胸は心地よい。
真理はアレックスの耳朶に柔らかくキスをすると、彼の背中がピクリと震えた。
「私はまだ勇気が足りないけど・・・アレクのお側にいさせてください」
好きと言うのには気恥ずかしさもあって・・・愛の告白には程遠いが今の真理には精一杯の想いだった。
アレックスはうんうんと頷くと顔を上げて、真理の目元にもう一度キスをする。
真理もアレックスがいつもしてくれるように鼻先を擦り合わせると、赤く潤んだアレックス
の目尻にキスをした。
お互いに顔を見合わせて、照れたように笑い合う。
それからアレックスはニヤリと笑った。
「だいたい、今時、王族だって恋愛結婚だ。国王陛下はたまたま惚れたのが貴族だっただけで、母は没落寸前の下位の貴族だった。兄の王太子は君も知っての通り、シャーロットは大学の同級生で平民だ。そういう意味でエスターは好きになることを理解してないのさ」
アレックスの言わんとしていることが分からず真理は首を傾げた。
「ようは好みか好みじゃないかだろ、惚れるのは。俺の好みは真理だよ」
言われて真理は今度こそ茹でた海老のように真っ赤になった。
衒いのない王子の言葉に少々悔しくなって真理は意趣返しに言った。
「だから、ソーンディック侯爵家へのお咎めは無しで。アレクはちゃんとエステル様とお話しなさってくださいね」
「・・・・・・わかった」
その嫌そうな表情に真理は思わず笑ってしまった。