五十九話 天守への道
生野が風魔衆と争っている間に、日は完全に山の向こうへと沈み、闇の帳がおりていた。
生野は草履を脱ぎ、置いておいた歯の短い赤い石でできた下駄に履き替え、二本の指し物を背中に差した。一本は里見家の家紋が描かれ、もう一本には八犬士推参の文字が書かれていた。
自身の呪いの封印ともいえる首に巻かれた黒い布を取り払った。
指で宙に文字を描く。
『我、智を行使するは、我が命次代の生に捧げんが為』
うなじの『智』の半珠が光を集め始め、喉の中に埋め込んだ小さな複数の反射鏡で光量と熱量を増幅させた光を、喉元の『生』の半珠から照射する。これが生野の呪いである。なんの工夫もなく使えば、ただ目立つだけの『呪言』。
生野は大きく膨らんだ布袋を背負い、足で盛り上がっている土を払った。赤い石が姿を現す。生野は正面を見据える。喉から発する光が遠くにぼんやりと小田原城天守閣を映す。
生野は小田原城を見据えながら、八風の頭をひと撫ですると、赤い石を跨ぐようにして右足を踏み出した。
その右足は地面を踏む直前でとまる。生野が右足に力を入れるがそれでも足は地面につかない。
生野は唇を噛みしめ、正面に頭を下げる。その想いは小田原城を越え、その向こうの森へと飛ぶ。
やはり吉乃と小三治の二人は、命を散らしながらも、見事に使命を果たしてくれていたのだ。
顔をあげた生野は、今度は左足を前に出す。左足も地面につかなかった。しかも、右足よりもわずではあるが、地面から離れている。
そうして見えない道を確かめるようにして、慎重に一歩ずつ歩みを進めていく。
生野の足は少しずつ地面から離れる高さを増し、確かに宙を歩いていた。
吉乃が残した磁力の『呪言』が、生野が小田原城に行くための道を造りだしたのである。
異なる二ヶ所に埋められた呪いの磁力を持った二本の棒は、お互いを結んだ直線上に強い磁極を造りだした。その発生した磁極の上に、同じ磁極の石を置いてやると、その石は同じ磁極による反発力によって浮く。二本の棒の『呪言』が重なる直線の中央に近づけば近づくほど反発力が強まる。そこを小田原城の本丸に合わせたのだ。
その効果は実験により実証済みであったが、ここまでの長距離で試すのは初めてである。成功して良かった。本当に良かった。これで誰一人とて無駄死ににはならない。
今頃は小田原城に忍び込んだお礼とお信磨が、本丸の屋根瓦に油を撒くために死力を尽くしてくれている。
いかに姿を消す呪いや、武器を無効化する油の『呪言』があるとはいえ、警戒の厳しい城に潜入して目的を果たすのは容易ではない。
それでも、やはり無事でいてほしいと思う。例え『呪言』の力で残された時間が短かったとしてもだ。せめて彼女たちくらいは、自身の目で一族が解放されるのを見届けてほしい。
生野は一度振り返った。赤い石の出っ張りの横に、八風がじっと座りこちらを見つめている。
どうかこれからは自由に生きてくれ。視線にその思いを込め、想いを断ち切るかのように、生野は正面に向き直る。一段、また一段と、見えない勝利への階段を上って行く。八風の遠吠えが背中に届いたが、生野はもう二度と振り返らなかった。
生野の歩く高さが平屋の建物の屋根の高さを超えた頃、一度は家に引っ込んだ人々が、明かりに誘われる蛾のように通りへと集まってくる。
人が自ら光を出して宙を歩いている。この不可思議な現象に小田原の人々は騒然となった。
一昨日は、病で人が数人まとめて倒れたと騒ぎが起こり、昨日は昨日で町の一角に賊が現れたり。しかも、噂では氏政が里見に敗れたらしいとも伝わってきている。そこにきてのこの騒ぎである。生野の美しい姿は、光を纏い神々しくすらある。小田原の人々の目には、天が民を祝福する予兆にも見えたが、血塗られた戦を繰り返す北条に裁きが下される前兆のようにも感じられた。
「ああ、見ろ。里見の旗だ!」
「八犬士だ! 里見の八犬士が攻めてきたぞ!」
生野のうなじの半珠が集める光によって照らされた、背中に差した幟をみて騒ぎたてる者がでてくる。
住民の心にとどめをさすように、生野は袋から紙の束を取り出し、歩みを進めながらそれをばら撒いていく。
そこには、ここ数日の八犬士と北条の争いと、これから小田原城が八犬士との戦いで炎上する旨が書かれていた。
八犬家を出る前に準備したものであるから、戦いの内容は捏造した新生八犬士活躍の物語だが、宣伝にはこれぐらいが丁度よい。小田原城下町ともなれば、字が読める者もそう少なくはない筈だ。
これは潜入しての破壊工作ではない。これは里見家と北条家の間の、正式な戦である。故に小田原城を攻め滅ぼす八犬士は、里見家の勝利の立派な戦功者。
生野はこの認識を、八犬士への偏見を植え込まれた里見家の内側ではなく、八犬士の歴史をほとんど知らない北条側に浸透させることで、外側から里見領内の世論を動かそうと試みているのである。
義弘の予想外の采配で、図らずも八犬家の立場回復の道を掴みはしたが、義堯《よしたか》を筆頭に、反対する者は必ず出る。対外的に八犬士が大きな手柄をたてたのだと広まれば、反対派を黙らせるのに、少しは役立つであろう。
姓を変えることで、八犬家を継ぐ者が、八犬士健在なりとできないのは、少しばかり残念に感じるが、いまは残される者の為に、自由の獲得を少しでも確実なものにしなければならない。
人々の不安と畏怖に満ちた視線に背中を押され、生野は遂に三の丸の上空まで歩みを進める。
右手に蓮池が、左手に大手門が見える。侍屋敷からも人が出てきて生野を見上げていたが、彼らは宙を歩く生野に手も足も出せなかった。