7
「夏帆ちゃん!」
丹羽さんが人混みを掻き分け走ってきて私の前に膝をついた。
「大丈夫?」
「はい……私は全然……」
「夏帆ちゃん腕が……」
「え?」
私の両腕と肘にも擦り傷があった。宇佐見さんに体当たりされて倒れた時にできた傷かもしれない。
「顔も腫れてるし、冷やした方がいいかも」
「はい……」
その時社員が道をあけて、秘書室の宮野さんがこちらに歩いてくるのが見えた。
ついに私が警察に事情を話す番かな。宮野さんは呼びに来てくれたんだ。
「北川さん」
宮野さんは私の前に立つと丹羽さんと同じく私の目の高さになるよう膝をついた。普段の宮野さんからは想像できない姿勢に、こんな思いやりもあるんだなと感心してしまった。
「会社としては大事にしたくはありません。できればこのまま警察の方にはお引き取りいただきたいと思っています」
「は? 夏帆ちゃんと椎名さんが怪我させられたのにですか?」
怒りを露にしたのは丹羽さんだった。
「怪我の治療費は会社でお支払いします。ですからこのまま宇佐見さんの処分も会社に任せていただきたいのです」
「そんな……」
「それは役員の皆様の総意ですか?」
私は真っ直ぐ宮野さんの顔を見た。宮野さんは目を逸らすことなく私を見返す。
「はい。社長、副社長以下役員の皆様はそのようにと」
私は椎名さんを見た。
「夏帆ちゃんの自由だよ」
そう椎名さんは優しく言う。
椎名さんから目を離し、私たちに視線を向ける他の社員を、そして宇佐見さんを見た。
こんな風に好奇の眼差しを向けられたり、悪意をぶつけられることはもう嫌だ。穏やかに、落ち着いた生活をしたい。
「一つお願いがあります」
「何でしょう」
「椎名さんとアサカグリーンさんには一切の迷惑をかけないと約束してください」
「夏帆ちゃん?」
椎名さんは身を乗り出し私の顔を見た。
プライベートで早峰にいたことがアサカグリーンに知られたら、椎名さんの立場が悪くなるかもしれない。この人に迷惑をかけちゃいけない。それだけは絶対に。
「椎名さんがこの場にいたということを出来る限り知られたくはありません」
「分かりました。善処します」
宮野さんはそう言うと立ち上がった。
「北川さん」
「はい」
「申し訳ありません」
宮野さんは私に深く頭を下げた。
「み、宮野さん!?」
数秒後に頭を上げた宮野さんは颯爽と人混みの中に戻ると警察官と話し始めた。しばらくすると警察官は自動ドアから外に出ていった。
「本当にお引き取りいただいちゃった……」
「夏帆ちゃんよかったの? この際だから宇佐見さんを訴えちゃえばよかったのに」
丹羽さんは心配そうに私を見つめた。
「いいえ。これでいいんです」
もっと大事になったらたくさんの人に迷惑をかける。私だって長引けば精神的に持たない。
椎名さんの顔を見た。椎名さんも私を見た。そうして彼は頷いた。それでいい、とでも言うように。
「夏帆ちゃんまだほっぺたの腫れが引かないね。口の中は大丈夫? 歯は?」
丹羽さんの声に私は頬を触った。鈍い痛みと少し熱を持っている気がする。舌で口の中を確認するが異常はなさそうだ。
「大丈夫です。ほっぺたを引っ叩かれただけなので」
「保冷剤持ってくるから待ってて」
「あの、俺たちはこれで」
椎名さんが立ち上がった。
「え? でも……」
「これ以上ここにいると視線に耐えられませんから」
丹羽さんは引き留めようとしたけれど、エレベーターから副社長が降りてきたのが見えると「あとは任せて」と丹羽さん自身も立ち上がって道をあけてくれた。
「夏帆ちゃんは病院に行ったって言っとくね」
「お願いします。夏帆ちゃん、行こう」
「はい……」
軽く手を引かれて私も立ち上がる。椎名さんと繋いだ手が心強い。
「椎名さん、夏帆ちゃんをよろしくお願いします」
「はい」
椎名さんは私の手を引いて出口まで早足で歩き出した。自然と野次馬の社員が道をあけた。
宮野さんが宇佐見さんの腕を引っ張って立たせようとしているのを横目で見た。
自動ドアを抜ける直前、ふと後ろを振り返るとエントランスの階段の上に修一さんが立っていた。驚いているのか悲しんでいるのか複雑な表情をしていたけれど、私はすぐに前を向き椎名さんと外に出た。
ビル前のロータリーにはまだパトカーが止まっていた。
その後ろに止められた椎名さんの車の前にはぐちゃぐちゃになった花束が落ちていた。
「あ…」
私はそれを拾い上げた。
投げ捨てられ誰かに踏まれたであろう花束は丸みを帯びた可愛らしい形が崩れ、花は萎れて花びらが汚れて茶色くなっている。
「せっかくもらったのに…」
花は数日の美しさであっても、こんなに早く萎れるはずではなかった。私にとっては宝物だったのに。
「またいつでもあげるし…取りあえず乗りな」
「はい」
そう言う椎名さんは助手席のドアを開けて私を座らせると車を走らせた。
「どうしようか? 勢いで出てきちゃったけど」
椎名さんは腕が痛むのか、ハンドルを回すときはほとんど右腕しか動かしていない。
「病院に行きましょう。椎名さんのその腕を見てもらわないと」
「この時間じゃもう診察してないよ。それに大丈夫。痛いけど動くし」
「でも……」
「それより腹減った。どっか食いに行く?」
私もお腹がすいた。でも椎名さんの怪我も気になる。
「うーん……」
「いいや、取りあえず手当てしよう」
「え? どこで?」
椎名さんは質問には答えず無言で車を走らせ続けた。
一時間ほどたった頃、椎名さんの車はアパートの前の駐車場で止まった。
「着いたよ」
「ここって……」
「そう、俺んち」
「え? でも……」
「その腫れた顔とこの怪我じゃ外で食う気なくなったわ。このまま俺のものになる気があるならおいで」
「あの……」
「………」
「………」
「……ふっ、固まるなよ。強引なことしないから大丈夫。手当てするだけだからおいで」
「はい……」
笑う椎名さんの後ろから車を降りてアパートの部屋について行った。
「どうぞ」
「お邪魔します……」
「夏帆ちゃんここに座って」
私はベッドの前に座った。椎名さんはテレビ台の引き出しから消毒液と絆創膏を取り出した。
「腕出して」
大人しく腕を差し出すと消毒液をかけられ、ティッシュで優しく拭かれた。
「これでいいよ」
両腕に絆創膏を貼られ、なんだか子供みたいになった。
椎名さんは冷凍庫から手のひらに収まる大きさの保冷剤を出すとタオルで包んだ。それを私の頬に当てる。叩かれてから時間がたったから腫れは引いてきたけれど、椎名さんは悲しそうな怒っているような複雑な顔で私を見つめる。そんな椎名さんの視線に耐えられなくて下を向く。
「椎名さん、花瓶ありますか? この花を水に浸けときたいんですけど……」
私はもらった花束をずっと傍に置いていた。もう手遅れかもしれないけど花を少しでも元気にしてあげたい。
「あー……花瓶はないな。じゃあグラスで」
椎名さんは高さのあるグラスに水を入れ、花束の包みを取るとグラスに挿しテーブルに置いた。
「ありがとうございます」
踏まれなかった綺麗な花もまだある。少しでも長く持てばいいな。
花を眺める横で椎名さんは腕をさすった。
「腕大丈夫ですか?」
「うーん……湿布とかないし、このままほっとけば治るよ」
私の不安そうな顔に椎名さんはまた笑った。
「俺より自分のこと心配しな。今日は大変だったんだから」
自分の頬に当てた保冷剤を今度は椎名さんの腕に当てた。
「ありがとうございました。守ってくれて……」
「大したことできてなかったよ。怪我したし、ちょっとかっこ悪かったかな」
「そんなことないです! すごくかっこよかったです……」
自分で言って照れてしまい、目の前に座る椎名さんの顔が見れなくなってしまった。下を向く私の顔に椎名さんの手が添えられた。そのまま顔が近づいてくるのが分かったけれど、もう抵抗する理由もない。何度も触れる寸前だった唇が初めて私の唇と重なった。
「俺のものになる気になった?」
唇が離れても椎名さんの手と体は私から離れようとしなかった。
「もうとっくに……私の気持ちは椎名さんのものです……」
そう言った瞬間私の体は椎名さんに抱えられ、ベッドの上に座らされた。
椎名さんは片膝をベッドの上に載せ、壁に手をつくと私が逃げないように閉じ込めた。
「じゃあもっと。全部俺のものになれよ」
不敵な笑みを浮かべて椎名さんはどんどんベッドに体重をかける。
「ご飯は? 食べに行くんじゃなかったんですか?」
「それよりも重要なことがあるからね」
「強くきたって、私そんなに簡単じゃないですから……」
「うん。ここまでくるのは簡単じゃなかったよ」
椎名さんの顔が再び近づいてくる。唇がもうすぐ重なってしまいそうだ。
「俺こう見えて今必死に夏帆ちゃんを手に入れようとしてるから」
壁についた手と反対の手が私の髪を弄び、流れるような動きで指が唇を撫でた。
「好きだよ夏帆。もう絶対離さない」
「私も……椎名さんが好き……」
そう言った瞬間唇が重なる。そのままゆっくりと押し倒された。
「俺もう止まんないから。嫌なら嫌って言いなよ」
「……嫌じゃないです」
その言葉を待ってましたとばかりに、椎名さんの指は私のブラウスのボタンを外し始めた。
「椎名さん……電気消して……」
下着が露になると私は腕で体を隠した。
「隠さないで」
恥ずかしがる私の腕を開かせた。
「やっ、だめ……」
「そんなこと言っても止めないよ」
「違うんです……」
「何が?」
椎名さんは動きを止めて私の顔を見た。
「自信がないんです……」
こんな時なのに涙が出そうだ。
「私、椎名さんに似合うような女じゃないんです……地味で暗くて……自分に自信がない……だから恥ずかしくて」
「前に言ったでしょ。そのままの夏帆ちゃんの全部が好きだよ。だから、俺には全部見せて」
椎名さんなら弱い私でも受け入れてくれる。弱いままでも励まして立ち向かう力をくれる。溢れた涙を拭ってくれる。
「椎名さん……好きです……」
唇が塞がれて舌が口の中に入ってくる。だけど嫌な強引さじゃなくて、椎名さんの香りが充満するベッドで椎名さんに包まれて体が溶けてしまいそうなほど愛情のこもったキスが体中に降り注いだ。