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自動ドアを出ると少し離れたところに椎名さんの車が止まっていた。早足で車に近づくと、椎名さんが車から降りてきた。
「お疲れ様」
「わざわざすみません」
「いいよ。大丈夫」
早峰の中では見慣れているはずなのに、ロゴ入りTシャツを着ていない私服の椎名さんはいつもと違って見えた。私服は何度か見ているはずなのに。
言わなければ。こうして私と向き合って、私を待っていてくれる椎名さんに応えなければ。
「あの……」「あのさ……」
二人の声が重なった。そうして二人で笑った。
「何?」
「椎名さんが先にどうぞ」
「いや、あのさ……」
珍しく椎名さんが口籠っている。
「何ていうか、渡すものがあるんだけどさ……」
「はい」
椎名さんは助手席の開いた窓から手を車内に入れると、中から淡く薄い布と紙で包まれた物を取り出した。
「夏帆ちゃんにあげる……」
椎名さんの腕に抱えられたそれは花束だった。ピンクのガーベラを中心に、赤や淡い青色の花に囲まれ丸みを帯びた可愛らしい花束だった。
「わあ……きれい……」
差し出された花束を受けとると思わず声が出た。椎名さんからこんな素敵なものをもらえると思っていなかった。
「会社の人に作ってもらってさ。俺一応花屋だし、一度くらいプレゼントしなきゃなって……」
椎名さんは私の顔を見ずに言った。こんな風に照れている姿はきっと貴重だ。
「ありがとうございます。とっても綺麗で可愛いです」
花束を優しく抱き締めた。私のための花束がこんなにも嬉しいものだなんて初めて知った。
「今までこんなことしたことないからすげー恥ずかしいんだけど……」
椎名さんは耳まで真っ赤だ。こんな椎名さんを見れて私まで照れてしまう。
「夏帆ちゃん、好きだよ。俺と付き合って」
赤いまま真面目な顔になり、私を真っ直ぐ見据えた。
「椎名さん……私も……」
「ふざけないでよ」
突然横から聞こえた声に椎名さんと二人で声のした方に顔を向けた。そうして私は目を見開いた。
目の前には髪が乱れ、疲れた顔をした宇佐見さんが立っていた。手には汚れたビニール袋を持っている。
「どうして?」
停職処分のはずなのに、どうしてここにいるの?
「あんたはいつも……私から全部奪うんだから……ムカつくクソ女」
「あの……」
宇佐見さんの肩が震え私を睨みつけている。その目は今までと比較にならない程の悪意に満ちていた。
突然宇佐見さんは走りだし私に一直線に向かってきた。逃げよう、避けようと思う前に私の目の前まで来ると私が抱えた花束を奪い、頭上に掲げると私の顔に振り下ろした。
バシッと音がした。その瞬間左の頬に痛みが走った。
「え?」
私は手を頬に当て、訳が分からず固まった。
「やめろ!!」
椎名さんが怒鳴って私と宇佐見さんの間に入り宇佐見さんの腕を掴んだ。
「うるさい! あんただって悪いのよ!」
宇佐見さんは椎名さんの手を振り払い、握った花束を投げ捨てた。そして手に持ったビニール袋を椎名さんに向かって投げつけた。
硬いものがぶつかる音がする。椎名さんは私を庇いながら腕でビニールを受けた。
「っ!」
椎名さんは腕に反対の手を当てて小さく呻いた。地面に落ちたビニールからは割れた陶器の破片と土が見える。それを見た瞬間、脳裏に割れた陶器鉢が浮かんだ。
「だめ! そんなものはやめて!」
私は叫んだ。宇佐見さんは恐いくらいの笑顔を見せた。
「あんたなんていなければよかったのよ」
「ふざけんなよ」
椎名さんが腕に付いた土を払いながら静かに言い放った。
「夏帆のせいにしてんじゃねえよ。プライドばっかり高くて周りを陥れてきたあんたが悪いんだよ」
「うるさい!!」
椎名さんの言葉に更に取り乱した宇佐見さんは地面に落ちた破片を土ごと拾って更に椎名さんに投げた。それを避けた椎名さんは後ろに下がり、私とぶつかった。
「夏帆、逃げろ!」
「でも……」
椎名さんの目に土が入ったのか片目を抑えている。
辺りを見回した。この騒ぎで早峰の社員が私たちを見ているけれど、誰一人助けてくれようとする人はいない。
「誰か……」
「夏帆!」
宇佐見さんが握った破片を振り下ろそうとしたから、私を庇うため椎名さんは左腕で宇佐見さんの手を受け止めた。
「椎名さん!」
椎名さんの腕と宇佐見さんの手がぶつかった。その衝撃で宇佐見さんの手から破片が離れ、勢いよく落ちて砕けた。
左腕を押さえ椎名さんは立ったまま動かなくなってしまった。その隙に宇佐見さんは私との距離を詰めた。
「夏帆! 逃げろ!」
椎名さんの怒鳴り声に私は駆け出した。早峰フーズのビルの中へ。
宇佐見さんも私を追ってくる。止めようと椎名さんが腕を伸ばしたけれど、宇佐見さんはその腕を簡単にすり抜ける。
「誰か!」
私はエントランスを駆けた。
背中に衝撃を感じて勢いよく前に倒れた。地面に手をついたまま振り返ると、髪をバサバサに乱した宇佐見さんが私を見下ろしている。肩で息をした宇佐見さんに体当たりされたようだ。
エントランスに悲鳴が響いた。
宇佐見さんは私を跨ぐと髪を掴み、乱暴に私の体を仰向けにするとそのまま馬乗りになった。平手で強く頬を叩かれた。一瞬目の前が真っ白になる。今度は手を握り締めたのを見て殴られると思った時、私の体の上から宇佐見さんが消えた。
ゆっくり体を起こすと、エントランスに居た男性社員二人が宇佐見さんを床に押さえつけていた。二人がかりでやっと暴れる宇佐見さんを押さえておけるようだ。
「やめろ! はなせ! お前なんか消えればいいんだ!」
エントランスに響く怒鳴り声と叫び声。宇佐見さんが私に向かって放つ言葉はまるで呪いの言葉だ。
だんだんと私の体は震えてきた。この異常事態についに頭が追いついた。
「もうやめて……」
酷いことしないで。私に構わないで。
ガタガタと震える体が腕に包まれた。
「大丈夫」
耳元で囁かれる言葉に、私を包む腕の主にしがみついた。
「もう大丈夫だよ」
「っ……うぅっ……」
涙が溢れた。
「恐かった……」
「もう大丈夫だから」
片腕の力が強くなり、もう片方の手は私の頭を優しく撫でた。その慣れた仕草は私を落ち着かせるのに十分な効果があった。
泣きわめく声とそれを取り囲む野次馬の社員たち。誰かの通報で駆け付けた警察官二人とそれを必死で追い返そうとする秘書室の人たち。
私はロビーのソファーに座ってそれらをぼーっと眺めていた。
定時を過ぎたこともあり、いつの間にかエントランスには大勢の社員が溢れている。
「夏帆ちゃん落ち着いた?」
「はい……」
「ごめんね、大変なことになって」
「椎名さんが悪いわけじゃありません。私を守ってくれました……」
今も椎名さんは私の手を握っていてくれる。
椎名さんが悪いわけではない。ただ巻き込まれただけだ。もしも椎名さんがこの場に居たことで、アサカグリーンと椎名さんに迷惑がかかってしまったら私はどうやって詫びたらいいのだろう。
エントランスの床にぺたりと座り込んで泣く宇佐見さんを見て、もう怒りすら湧かない。こんなことをしてしまうなんて可哀想な人だと思う。
「椎名さん、腕が!」
ふと見た椎名さんの腕は紫色に変色していた。私を宇佐見さんから庇った時に強くぶつかったのだろう。
「ああ、大丈夫。骨折はしてなさそうだし。人の手とぶつかっただけだしね」
「目は?」
「それも大丈夫。今はちゃんと見えてるよ」
「でも病院に行きましょう」
「大丈夫だって」
握った手とは反対の、怪我をした手が私の頬に触れた。私を守ってくれたこの手が愛おしい。