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「洋輔くん何?」
先程とは違って杏子ちゃんの声がはっきり聞こえた。カラオケルームの外に出たのかもしれない。
「あのさ、夏帆ちゃんて古明橋の何ていう会社?」
「夏帆ちゃん? 早峰フーズだよ」
「早峰……」
そんな大手に就職したのか。
早峰フーズはうちの会社が取引している中でも重要顧客だ。この偶然に感謝したい。
「そっか。ありがとう」
「洋輔くん夏帆ちゃんがやっぱり気になる?」
「さあ、どうでしょう」
なんて、本当は頭の中が北川夏帆のことでいっぱいだ。
「ふーん……。あのね、洋輔くんは今日の夏帆ちゃんしか知らないだろうけど、あの子は真面目な子なんだよ。頑張り屋で」
「うん」
「大手企業に勤めて華やかに見えるかもしれないけど、苦労してきたんだから」
「うん」
「本気じゃないならほっといてあげてね」
杏子ちゃんは俺が女と適当な付き合い方をしていることは知っている。本当は今日俺を呼びたくはなかったはず。俺がいると女の子のテンションが上がるなんていうのは和也が盛っただけだろう。
「うん。大丈夫」
今度の俺は本気だから。
杏子ちゃんはしばらく黙っていたけれど「またいつでも聞いてね」と言って通話が切れた。
北川夏帆には本気なんだ。今までの俺からは考えられないくらいに。数時間前まで恋愛はしばらくいいと思っていたけれど。
さて、明日俺は休みだけど出勤するか。古明橋エリアに担当を変えてもらうよう頼み込まなければ。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
絵を描くことに興味が出てきたのは高校の美術の時間に初めて油絵を描いたときだった。今まで興味があったわけでもないのに、油絵は描けば描くほど絵が形を変え、キャンバスの中の世界が変わる楽しさを知った。
高校を卒業して美術専門学校に進学した。好きというだけで将来に繋がるとは考えていなかったけど、油絵以外にも版画や水彩画など創作は楽しかった。
専門学校に通い始めて1年たった頃、父が病気で倒れた。そしてそのまま亡くなった。
生前の父は決して良い父親だとは言えなかった。休日に遊んでもらった記憶はほとんどない。
借金を残して死んだことを知ったのは、消費者金融から自宅にかかってきた電話を私が取った時だ。母は私と妹に借金のことを隠していた。
生前の父の入院費や生活費を稼ぐために母はパートを3つ掛け持ちして働いていた。元々裕福な家庭ではなかったから貯金もなく、妹の進学も控えて家計は火の車だった。
だから私は退学した。バイトと奨学金で卒業まで通えなくはなかったけど、働きすぎの母の体調が心配だった。
将来の保証がない芸術系の学校に通うよりも、今自分が仕事に就いた方が残された家族が生活していけると思った。
借金のことは高校生だった妹には隠した。母と交代で家事をこなし、毎朝妹のお弁当を作り笑顔で学校に送り出した。時間があればとにかくバイトに行き、生活を切り詰め、自分自身の見た目に気を遣う余裕なんてなかった。
その頃高校で部活が同じだった杏子先輩に相談にのってもらっていた。当時はそこまで深い付き合いでもなかった先輩のお母さんが、偶然我が家の生命保険の担当者だったことから先輩まで親身になってくれた。
杏子先輩や母の助言もあり、正社員を目指すことにした。バイトの合間に暇さえあれば求人サイトを見てハローワークに通った。けれど高卒で何の資格持っていないため、ほとんどの企業から履歴書を送り返されていた。
バイトを掛け持ちしながら半年近くそんな生活をして、母と二人で何とか借金を返済できる見込みがたった。妹の進学も決まった。私と違って将来性のある美容の専門学校に。
少しずつ良い方向に向かっている。そう思っていた時にダメ元で受けた企業に契約社員として採用されることが決まった。まさかの大手だった。
入社してしばらくは必死だった。仕事を覚えるのに必死。人間関係に必死。生活するのに必死だった。お陰で借金は数ヵ月で全て返済できた。
1年がたち、安定した生活を取り戻した。母は掛け持ちのパートを辞めて1ヶ所に落ち着き、妹はエステサロンに就職が決まった。
株式会社早峰フーズが二十歳で高卒のフリーターを採用するのは異例のことだ。私の面接をした専務と総務部長と私の前任者が採用を決めた。
入社して暫く他の部署の社員からもよく視線を向けられていたことは覚えている。それは社会人経験のない中途の新人が珍しいからだと思っていた。
倉庫で過去の取引書類を探していた時、ドアが開く音がして同時に女性の話し声が聞こえた。
「確か去年ここに置いたの」
「早く探しちゃおうよ」
倉庫の奥にいる私からはキャビネットに隠れていて女子社員の顔までは分からなかった。どうやら二人いるみたいだ。向こうは私がいることに気づいていない。おしゃべりしながら何かを探しているようだ。私の存在を知られたくないので音を立てないよう気をつけた。
数分後、再びドアが開く音がしてもう一人入ってきた。
「ごめん遅くなって」
「いいよー、まだ見つかってないし。何かあったの?」
「それがさ、さっき総務の北川さんにタイムレコーダー打刻してない日が多すぎるから、1ヶ月分の出勤退勤と外出の時間を別紙に提出してって言われちゃってさ」
「うわ……めんどくさ」
「誰? 北川さんって」
「あれだよ、総務の地味子ちゃん」
「ああ、あの子」
自分の話題が出て私は手を止め耳を澄ませた。
倉庫に来る前に社員にタイムレコーダーに関してお願いをした。ではあそこにいる一人は営業推進部の宇佐見という人だ。
「いちいち覚えてないよー。直行直帰も多いしさ。手帳とにらめっこだよ。こっちは忙しいのに」
「あの子雑用だけやって給料もらえるんだから楽だよね」
この言葉にショックを受けた。私の仕事は雑用ではない。雑用を押し付けるのはあなたたちじゃないか。
「あの子ってさ、高校中退なんでしょ? よくうちに入れたね」
「違うよ、大学中退だって。コネ入社だって聞いたけど」
「誰のコネ? 役員の誰かと寝たって噂本当なんだ? 若いもんね」
「そんなわけないじゃん。あの暗い子がそんな大胆なことできないって。絶対処女だから」
「今22歳でしょ? もっと化粧何とかならないのかね。服もダサすぎ。鏡見たことないのかな?」
「若けりゃ良いってもんじゃないよね」
けらけらと下品な笑い声が倉庫に響いた。
私は寒気がしてきた。本人がいるとも知らず好き勝手に言われ悔しさが込み上げる。
「でも体使って採用してもらったのはほんとかもよ。家近いらしいし、楽できると思ったんじゃん?」
「うわーやだー……」
堪えられず涙が溢れた。鼻を啜ると私がいることが知られてしまうので、鼻水まで垂れてもどうしようもできなかった。
若いから採用されたことだけは本当のことだった。当時私の前任者が妊娠していて、数ヵ月後に退職することが決まっていた。ハローワークやインターネットに求人を出し、二十歳だった私が求職者の中で一番若いからという理由で採用を決めたそうだ。退職までじっくり引き継ぎするから、と未経験でも私の将来性を期待してくれた。家が近かったことは偶然だ。それでも会社まで1時間かかるのに……。
私は前任者の仕事をそのまま引き継いでいる。以前から雑用に近いことまでやっていたらしい。でも前任者は『雑用だけやって給料もらってる』なんて言われていなかった。
「あったー!」
「そう、これこれ! 早く戻ろ」
目的のものを見つけたのかドタドタと三人分の足音が響き、倉庫のドアが閉まって静かになった。
職場自体に不満はないけれど、私の周りは私に対して不満があるようだ。今まで見えていなかったことが見えた。それはあまりにもショックだったけれど。
「夏帆ちゃん大丈夫!?」
総務部のフロアに戻るなり丹羽さんが私に駆け寄る。
「あの……私……」
言葉に詰まって何をどう言えば気持ちが楽になるのか分からない。
丹羽さんの肩越しに窓を見た。日が落ちて外が暗くなり、窓ガラスに私が映った。ガラスの中には酷い顔をした不細工な女が立っていた。
「夏帆ちゃん?」
丹羽さんは私をフロアの外へ連れ出した。
「私は……地味だし、可愛くないけど……楽に仕事してる訳じゃないです……」
「夏帆ちゃん……」
見た目に気を遣う余裕がない、生活するのに精一杯。でもそんなの言い訳だった。自分に関心がなかったのだ。
今更何をどうしたらいいのだろう。メイクの仕方が分からない。地味な服しか持っていない。私だって可愛くなりたい。綺麗になりたいよ。