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「今日は違うんだ。部長は?」
「課長と早めのお昼休憩に行かれました」
「そっか……」
「急用ですか? 私で処理できることならやりますが」
「いや、処理は部長にしか頼めないことで……。実は昨日引っ越ししたから会社に新しい住所報告しようと思って住民票持ってきたんだけど」
横山さんが手に持っているものは確かに役所の書類で使われる模様入りの紙だった。住所など社員の個人情報の扱いは部長か課長にしか許されない。
「この時期に引っ越しですか?」
珍しいですね、と言いかけて口を閉じた。確か横山さんは彼女と同棲していたはず……。
私の表情を見て横山さんは困ったように笑った。
「実は彼女と同棲してたんだけど、別れちゃって」
「そうだったんですか……」
社内の人と同棲していれば、住所が同じことは総務部には隠しておけない。一緒に引っ越すなら問題ないが、片方だけ引っ越したとなると気まずいはず。
「すみません、言いづらいことを……」
「いやいや、こちらこそごめんね。こんな話しちゃって」
「いえ……」
横山さんみたいな人でも恋愛がうまくいかないこともあるんだな。
何と言葉をかけたらいいのか迷ってしまう。慰めればいいのか、励ませばいいのか……。恋愛経験ゼロのこの私が?
「北川さんは彼氏いるの?」
「いません……」
いたことがありません。恋愛で悩んだり、喜んだり悲しんだことがありません。
「そっか。北川さんでも彼氏いないのか。意外だね」
「いえ、そんなことは……」
彼氏がいないことが意外なんてお世辞を言ってもらえて、気を遣わせてしまったかな、なんて思う自分はマイナス思考かもしれない。
「そういえば私の名前をご存じなんですか?」
横山さんは私のことなんて知らないと思っていた。
一瞬きょとんとした顔をして、またすぐに笑顔に戻る。
「もちろん知ってるよ。北川さんは目立つからね。有名だよ」
目立つ? 有名? 悪目立ちしているからということだろうか。
「中途入社は只でさえ目立つでしょ? おまけに若いから余計に目立ってるよ」
「若い……ですか?」
「当時二十歳で入社してくるのはさすがに若いよ。だからみんな北川さんのことを知ってる」
「そうですか…」
本当にそれだけなのかな? 私が『契約社員の雑用係』だから名前が知られているんじゃないの?
マイナスのことばかり考えてきりがなくなる。実際陰口を言われていることは知っている。高卒なのにこんな大手に入ってきて生意気とか、地味なくせに最近化粧を変えただの、前のようにダサい趣味の服がお似合いだったのになど、学歴から容姿にまで棘のある言葉を隠れて投げつけるのだ。
ピリリリリリ
横山さんの携帯が鳴った。
「ごめん、もう行かなきゃ。部長がいそうなときにまた来るよ」
「すみません、よろしくお願いします」
横山さんは慌ててフロアを出ていった。廊下の奥で電話を受ける声が聞こえた。
営業推進部の人はいつも忙しそう。彼女と別れたのもすれ違いなのかな? あんな素敵な人がフリーなんて、別れたことが噂になればきっと他の女子社員がほっとかないよね。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
大学の友人である和也に合コンに誘われたのは、契約している医療施設に観葉鉢の納品を終えたところだった。
「一人キャンセルになってさ、洋輔が来てくれたら助かるんだけど」
「俺も遠慮するわ。しかも代わりって……」
「頼むよ。洋輔がいると女の子がテンション上がるから」
「そう言っても俺のテンションは上がらないんだけど」
「そう言わずにお願い!」
「分かったよ。まだ仕事中だから少し遅れるよ」
通話を終えて無意識に溜め息をついた。
合コンなんて全く興味がない。適当に遊んでくれる女は今でもいるし、真面目に付き合いたいと思っている女にはきっともう会うことはないと思う。だから恋愛はしばらくいいんだ。今は仕事関係以外で新しく付き合いを広めたいとも思えなかった。とにかく仕事が楽しくて仕方がない。初めは興味がなかった草花にも、携わるうちに資格まで取るほど好きになってしまった。
そう思えるようになったのはあの子のお陰だ。
もしも、もしもまたあの子に会えることがあったなら……。
会社所有の農場に社用車を置き、電車に乗って和也に言われた店に着いたのは合コンが始まって一時間以上たった頃だ。乗り気ではないが、行くと言った以上は楽しんでいるふりでもしなければ和也に悪い。
「洋輔くんはそこ座って」
杏子ちゃんに促されて座った席の向かいには同じく大学の友人の中田がいた。一通り参加メンバーの顔を見渡し、中田の横に座る女の顔を見た瞬間俺は固まってしまった。
「北川……夏帆……」
3年前俺の背中を押してくれた、もう会えないと思っていた北川夏帆が目の前に座っている。
黒縁メガネをはずし、明るい服を着て、明るい化粧をした北川夏帆はあの時より何倍も綺麗になっていた。
それでも人違いなどではないと確信できる。見た目の印象は変わっても、あの時と変わらず中田と面白味のない会話をして、俺と目が合うと慌てて逸らすのだ。
すぐ隣に座って話しかけてくる女よりも、中田に絡まれて困っている北川夏帆に興味を引かれていた。
ああ、男慣れしてないところは相変わらずなんだな。
中田は分かりやす過ぎるほどに北川夏帆を狙っている。そんな北川夏帆本人は明らかに中田に困惑している。その様子に思わず笑いそうになる。
3年前の出来事は俺には大事な思い出だが、北川夏帆が覚えていないことは寂しかった。いや、俺の顔を覚えていないだけであの日のハローワークでのことは記憶にあるかもしれない。
話したい。伝えたい。君に励まされて今の俺があるんだと。
店を出てからも隣に座っていた女に捕まり、目を離すと北川夏帆はいなくなっていた。中田の姿も見えず、俺はすぐに連れ出せなかったことを後悔した。下半身に脳みそがあると言っても過言じゃない中田にかかれば恋愛下手な女はすぐにヤられてしまう。
まただ。3年前と同じように、手を伸ばした時にはもう遅いのだ。
俺は急いで追いかけた。中田に腕を掴まれ不安な顔をした北川夏帆はすぐに見つかった。
見た目がいくら変わっても、中身が地味女のまま全然変わっていないことを嬉しく思ってしまう。俺はもう既に末期だ。
今度は逃がさない。絶対に。
俺は北川夏帆へ腕を伸ばした。
あの日触れたいと願ったその小さくて強い肩へと。そうして優しく抱き締めて、中田から奪うことに成功した。
「俺は簡単に君をホテルに連れていけちゃうよ」
逃がすものかと掴んだ腕に少し力を込めた。俺のことを覚えていない北川夏帆を、ちょっとだけいじめたくなった。
「椎名さんとホテルなんて行かない!」
地味で暗い北川夏帆には似合わない突然の大声は、求人票を捨てるのを止めたあの日と同じで笑ってしまう。
本当に変わらないのな。必死な目で、顔を赤くして。触れてしまいたくなるくらいに……。
あの日と同じにゆっくり顔を近づけた。ほら、思った通り。メガネをはずした方が可愛い。
手に入れたい。さらさらした黒髪も、俯く瞳も、俺の心を揺さぶる唇も。
もし今キスをしたら、奥手な北川夏帆はそれがきっとファーストキスなんだろうな。
そんなことを思ったら、警戒して顔を逸らしてしまった。
だからやめた。焦るとまた逃がしてしまう。初めて真剣に付き合いたいと思った女なのだから。
今度こそ、ゆっくりと、君に釣り合う男になった俺を見てくれよ。
「じゃあまたね夏帆ちゃん」
今度は3年待たなくたって、またすぐ会えるのだから。
北川夏帆と別れてすぐに和也に電話をかけた。
「洋輔? 今どこ?」
電話の向こうからは和也の声が聞き取りにくいほど大音量の音楽が聞こえた。
「ごめん、俺帰るわ」
「は? カラオケは?」
「ほんとごめん。悪いけど、ちょっと杏子ちゃんに代わって」
「え? 何で?」
「聞きたいことがあるから」
「じゃあちょっと待って……」