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「かーほーちゃん!」

振り返ると中田さんがニヤニヤしながら私の後ろに立っていた。

「帰っちゃうの?」

「はい……明日も仕事なので……」

思わず中田さんから離れるように一歩下がった。自惚れかもしれないけれど、何となく私をこのまま帰さないつもりなのが分かった。

「会社って古明橋でしょ? ここから近いし大丈夫だよね」

「え?」

「俺と別の店に飲みに行こうよ」

「あの……」

中田さんと二人なんて嫌だ。でもこんな風に誘われたのは初めてで、どうやって断ったらいいのか迷ってしまう。

「あの……明日も早いので、今日は帰ります」

中田さんは私に近づいて耳元で「終電なくなっても泊まるところはいっぱいあるから大丈夫」と囁いた。
私は顔が赤くなり鳥肌がたった。中田さんは私をそういう意味で誘っているのだ。

「行こうよ」

至近距離で言われ恐怖で体がすくむ。中田さんは動けないでいる私の手を取って連れていこうとした。

嫌だ嫌だ嫌だ!! どうしようどうしようどうしよう……。

「待てよ」

突然私の体が後ろから誰かの腕に包まれた。

「この子は俺と帰るから」

「は? 洋輔くん何言ってんの?」

後ろにいる腕の主を振り返ると、椎名さんが私の肩を優しく抱き締めていた。

「夏帆ちゃんは俺が駅まで送るから大丈夫」

「やっぱ洋輔くんも夏帆ちゃん狙いなわけ?」

「どう思ってもらってもいいよ」

椎名さんは掴まれた私の腕を中田さんから引き離した。

「洋輔くんは俺が狙った女の子をいっつも奪っていくよね」

「人聞きの悪いこと言うなよ。中田もさ、いい加減戻りなよ。待ってくれてる子いるんでしょ」

中田さんの目が泳いだ。この会話では二人の関係は分からないけれど、私はただ成り行きを見守ることしかできなかった。

「じゃあな中田」

今度は椎名さんが私の腕を取ると駅の方向へ歩き始めた。怖くて振り返ることはできなかったけど、中田さんは追ってこないようだった。

私の手を引いて歩く椎名さんの後ろ姿からは何の感情も読み取れなかった。
中田さんに連れていかれそうになって、椎名さんに助けてもらって、突然の状況に頭がついていかない。それでも椎名さんにお礼を言わなければと思った。

「あの、ありが……とうございま……した……」

言いながら泣きそうになるのを堪えた。じわじわと恐怖が溢れる。椎名さんはそんな私の様子に足を止め振り返った。

「気をつけなよ。君みたいな男慣れしてない子は扱いやすいんだから。ちょっと強く出れば簡単に連れ込めてヤれちゃうんだから」

形のいい唇から発せられた言葉が私の心を抉った。

「っ……」

涙が出ないように肩に力を入れ、椎名さんに見られないように顔を下に向けた。
男慣れしていないのは本当のことだし、さっきも中田さんのペースに飲まれていたけれど……。

「どうして……?」

そんなことを言うの? 椎名さんは私の何を知ってるの?

「今だって、俺は簡単に君をホテルに連れていけちゃうよ」

椎名さんは私の腕を掴んだ手に少しだけ力を込めた。

「……行かないです」

私だってバカじゃないから。

「椎名さんとホテルなんて行かない!」

簡単にお持ち帰りされたりしない。

「さっきだってちゃんと自分で拒否できましたから!」

椎名さんは一瞬驚いた顔をした後にふっと笑った。

「さすがしっかり者の夏帆ちゃん」

椎名さんは距離を詰めると、ゆっくりと顔を近づけてきた。私の顔と椎名さんの顔が数センチのところまで近づき、思わず顔を逸らした。
何かされるのかと身構えたけど、頭を軽くポンポンと叩かれる感触があった。椎名さんの顔を見ると微笑んでいた。

「次は自分でそう言いな」

掴んだままの私の手を離すと「じゃあまたね夏帆ちゃん」とあっさりバス停の方に歩いて行ってしまった。
私は呆然と立ち尽くした。

「え? え?」

今頭をポンポンって……何あの人、変な人すぎる……。

中田さんのような男性は元々苦手だけど、椎名さんもまた苦手だと思った。あんな風に助けてくれる王子様のような人と自分では不相応な気がして、先程のことは夢だったのかと思う。
今夜のことが初めてのことだらけで疲れがどっと出てきた。
私も人並みに恋愛したいなんて、やっぱり望み薄なんだろうな。

駅に着く頃にはすっかり酔いは覚めていた。
結局椎名さんとどこで会ったのか聞きそびれてしまった。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇



俺には子供の頃から夢や目標なんてものはなかった。学校へ行って帰ったらゲームして寝て起きてまた学校へ。
やりたいこともないのに何となく大学に行き、何となく生活して気づいたら就活の時期になっていた。
当然と言えば当然なのか就活もうまくいかず、最終的に数年バイトしていたスーパーマーケットに一応正社員として採用してもらった。
そんなわけだから卒業しても特に変わらない毎日を過ごしていた。

唯一の取り柄というかは分からないが、顔の見た目が良いせいか学生時代から女には不自由したことがない。暇なときに遊んでくれる女もいたし、就職してからはバイトで入ってくる女子大生と適当に付き合った。面倒なことといえばパートのおばちゃんに色目をつかわれたことくらい。野菜を店頭に並べ、段ボールを折り畳む毎日に変化などなかった。そんな生活を3年続けた。

この先の俺の人生、何か楽しいことがあるんだろうか?

ふと疑問と不安が頭をよぎった。一度それらが生まれると、俺は思いきって仕事を辞めた。
単発のバイトをしながらネットの求人を眺め、ハローワークに通う日々を送った。

ハローワークに週に数回通っていると、他の求職者の顔も覚えてきた。俺より年上らしいのに親同伴のやつや、年下で金髪で鼻ピアスの女まで。
34歳以下を中心に斡旋しているハローワークはネット転職が普及した今でも利用者は多かった。セミナーが多数開催しているからかもしれない。

その中でも同じ時間に検索コーナーで会うことが多い高校生にも見える女がやたら目についた。メガネをかけた地味な女で俺の趣味とは掛け離れた容姿だが、他の誰よりも真剣に仕事を探しているのは分かった。検索時間の制限30分をフルに使い、求人票を何枚も印刷していた。その後はパソコンがあくまで順番を待ち、また30分間求人を検索している。帰る前には毎回窓口で数社紹介してもらい、頻繁に履歴書を送っているようだった。

真面目なやつ。高卒で就職狙いか? こういう子は早く仕事を決めてちゃんと会社のために働くんだろうな。
来週の俺、来月の俺、来年の俺は何をやってるんだ?
あの子を見ていると自分がダメな人間に思えてくる。いつまでも進めない自分が。

求人を検索し終わり、カウンターのイスに座って求人票を眺めていた。印刷してみたものの、どの会社も自分が働いている姿を想像できなかった。

隣に人が座った気配がして見ると、いつも会う地味な女が何かを書いていた。
今この子を見ると落ち込む……。
帰ろうと席を立った瞬間に開いた窓から風が吹き込み、女の書く紙が飛ばされて俺の足元に舞い落ちた。屈んで拾ったそれはWord・Excel講習の申込書だった。同時に申込書に書かれた『北川夏帆』という名前が目に入った。
パソコン講習まで受けるなんてどんだけ頑張るんだよ。力入れすぎだろ……。
そう思いながら地味女に申込書を手渡した。

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