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七話 未来への光

 異様な光景だった。
 この軍勢を率いていた塩沢勘兵衛の首と、その首を照らさんとする松明(たいまつ)が、馬上にてゆらゆらと揺れる。
 何が起きているのか、北条勢は理解できない。ただ、その光景に呑まれるのみ。 


「敵将! 討ち取ったりーっ!」


 八犬士の犬田小三治の大口から、雷鳴のような声が轟く。
 恐るべき目の前の光景とその声に、事態を把握していなかった兵達も、この決して歴史には残らぬであろう戦の勝利者が誰であるかを理解し始めた。
 末端の兵の一人が悲鳴をあげながら、通り抜けてきた暗闇の中へと逃げこんでいく。目の前の得体の知れぬ恐怖が、闇の中に飛び込む恐怖を遥かに上回り、堪えきれなくなってしまったのだろう。
 これをきっかけに、全体の指揮をとる者がいなくなり、統率がとれなくなった軍団は脆くも崩れていく。隠密性を重視した部隊だけに、全員が精兵というわけにはいかなかった。何人か残っている騎馬武者が、なんとか兵を戦場に踏みとどまらせようと声を張りあげていたが、堰をきった水のように逃げ出す兵たちを押しとどめることはかなわない。
 残ったのは騎馬武者も含めてわずかに十五名。しかし、北条の敵は自身の不倶戴天の敵と、最後まで戦意を失わぬ精鋭十五名。
 十五名は一団となり、おそらく勘兵衛が最後に命じようとしていた突撃の指示を敢行せんと、宙に浮く勘兵衛の首の横を通り抜け、八犬士へと疾駆する。
 この精鋭達の気迫に恐れをなしたのか、八犬士は一人を残して、後ろへと下がり、そのまま後ろを向く。
 その場に残りしは、月よりも美しき若者犬坂生野ただ一人。
 指で宙になにかを書くような仕草をした生野の首の後ろが、光を放っていた。
 いや違う。光は()()()()()()
 月光、星明かり、松明の灯り、生物の瞳の光。この闇夜に存在する僅かな明かりの全てが、生野のうなじに現れた『智』の文字が浮かぶ半珠に引き寄せられる。
 まるで生野の美しさを讃えるように後光が差し込まれたかのようだった。
 ただ、平時であれば生野の神がかった美しさに、北条勢も足を止めたであろうが、いまや北条の一振りの刀と化した十五名の足は、勘兵衛を仇である八犬士に、その刃を振り下ろすまで止まることはない。
 その視線は、最初に血祭りにあげる美しき青年をしっかりと捉える。
 生野の口角がほんの少し持ち上がった。
 男たちの視線を釘づけにしたことに満足する魔性の笑み。
 騎馬武者が真っ先に迫る中、生野は首にまだ残されていた黒布、喉元を覆い隠す黒布に手をかけると、勢いよく布を引きはがした。
 瞬間、世界が白に染まった。
 熱をともなう焼けつく光。
 人馬ともに同時に目を焼かれ、大地に倒れ転げまわる。
 後続の足軽たちも目を押さえその場にうずくまり、一歩も動けなくなった。
 戦闘力を奪われた北条勢は宙に浮く刃や、小三治、犬塚吉乃によって次々と止めを刺され、最後に残された騎馬武者三名が、乗馬もろとも捕えられる。
 首に黒布を巻き直しながらその様子を見守っていた生野だったが、しっかりと巻き終えると、後ろを振り返る。
そこでは、萩の上から降ろされた犬川太助が地面に寝かされ、犬飼家の信磨に杓子で水を飲ませてもらっているところだった。そのお信磨は醜い女だった。顔も体も全てが太くたるんでおり、肌は脂ぎっていて疣がいたるところに見える。
 布を巻き終えた生野が、信磨と交代し太助の口に水を運ぶ。
 太助は別人のような姿になっていた。あれほどでっぷりと膨れていた腹がへこみ、いまや四肢と同じように痩せ細っていた。
 生野が不安げな視線を太助に向ける。


「そんな顔をするな。心配しなくても、まだくたばりはせん。俺のことを心配するよりも、まずお前こそが水を飲んでおけ。熱くてたまらんだろうに、涼しい顔をしおって……。この強情者が」
 

 太助が力なく笑い、生野も微笑でそれに応える。
 太助に言われた通り、自身も杓子を使って水を飲む。すると喉の奥から、熱せられた鉄板に水をかけたようなジュゥという音が漏れ、寒くもないのに口から白い息がこぼれだす。
 少しずつ、ゆっくりと水を流し込むうちに、次第に白い息は薄くなり、やがて見えなくなった。

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