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「ああ、足立さんお疲れ様」

今江さんに見せたままの顔を私にも向ける浅野さん。その浅野さんから目を離さない今江さん。彼女は今『女』の顔をしている。滅多に見せない浅野さんの笑顔に心を捕まれてしまったのだ。同じだから分かる。私もこの気持ちを確信した瞬間が同じだったから。

私だけが気づいていると思っていた。私しか意識しないと思っていた。浅野さんの不器用な優しさを。

「じゃあ僕は行くね」

「お疲れ様です……」

浅野さんは通路の奥へ歩いていった。ロビーには私と今江さんだけが残された。

「………」

「今江さん大丈夫?」

あまりにも静かだから私は今江さんが心配になった。

「あ、はい……大丈夫です」

そう言うと今江さんは口元に微かに笑みを浮かばせながら缶コーヒーに口をつけた。そんな今江さんに不安を覚えながら私は今江さんの持つコーヒーと同じものを買おうと自動販売機に小銭を入れた。

表面しか見ていない他の社員とは違う。浅野さんの良さに気づいた今江さんの存在は不安だ。婚約者でさえ見えていなかった魅力を、私だけが見えていたはずだったのに。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



他の社員の予定が『直帰』とばかり目立つホワイトボードに浅野さんは明日の予定を書いている。明日は直行で会社に来るのは午後になるようだ。
もうすぐ浅野さんや潮見が担当する新店がオープンする。元々外出が多いのに、浅野さんが会社に居る時間も更に少なくなるかもしれない。
定時を一時間ほど過ぎて企画管理課の社員は半数が退社している。私も明日の仕事を確認して帰り支度を始めた。

ビルを出て駅まで歩いていると、前に見慣れた背中が歩いているのが見えてきた。背筋を伸ばして歩いているのは浅野さんだ。私の歩く速さよりもゆっくり歩いている。
話しかけてみよう。今日のことを改めて謝りたい。これは距離を縮めるチャンスかもしれない。
早足で浅野さんに近づいて私は急に足を止めた。浅野さんの横に並んで歩いている今江さんが目に入ったから。

どうして? さっき会社を出る前は一人に見えたのに、いつ合流したのだろう。もしかして会社の外で待ち合わせてたの?

浅野さんと今江さんは直属の上司と部下で一緒にいて違和感があるわけではないけれど、浅野さんの日頃の態度からは退社後に二人で歩くなんておかしいとしか思えない。

『浅野さんが実は女癖が悪いかもってこと』

潮見の言葉が私の頭の中で再生される。
本当に浅野さんが不誠実な人だったら、もしかして今江さんに手を出す気なんじゃ……。
だとしたらそんな浅野さんの姿は見たくない。
今すぐ二人から離れたいのに、駅に行きたい私と同じ方向に二人は歩いている。私の歩くペースの方が速くて、このまま歩き続けたらどんどん二人に近づいてしまう。

もう仕方ない。早く帰りたいけど二人を追い越せない。私は駅の近くのカフェに寄ることにした。
スクランブル交差点を左に行くと会社が経営するブックカフェがある。私の顔を覚えている社員がいるかもしれないから気まずいけれど仕方がない。

信号待ちをする二人から離れて青に変わるのを待った。駅へは信号を直進する。ここからは駅に行くだろう二人の姿を見なくてすむ。信号が青に変わった瞬間私は左へ行こうとしたけれど、目の前の浅野さんは今江さんと別れて私と同じ方向へ歩き出した。
今江さんはそのまま駅の方へ向かい、浅野さんは私の前を歩く。このまま二人で帰るのかと思ったけれど、どうやら違うようでほっとする。今江さんに缶コーヒーを差し入れて励ましていた姿と相俟って不安になっていた。もしかして今江さんに対して変な気があるんじゃないかって。
二人の関係、浅野さんの誠実さを一瞬でも疑ってしまって心の中で謝罪する。
信号が点滅して今更駅の方向には行けなくなった。
せっかくだからこのまま浅野さんと同じ方を歩いてブックカフェに寄っていこう。



数分歩いても浅野さんは変わらず私の前を歩き続けている。
浅野さんどこに行くんだろう。他の女の子とデート……だったりして。
気になるけれど後をつけるのは悪い気がした。私はもう浅野さんに後ろめたいことはしたくないから。

目的のブックカフェの看板が見えてきた。すると私の前を歩く浅野さんはそのブックカフェに入っていった。
あれ? 浅野さんもブックカフェに入るの?
思わぬ偶然に戸惑う。会社が経営するカフェだからレストラン事業部の浅野さんが行っても不思議じゃない。確か数年前の店舗担当者でもあったはずだし。
こうなるとブックカフェには入りづらい。駅まで一緒に歩くくらいならよくても、カフェはしばらく同じ空間にいなくてはならない。浅野さんとの距離を掴みかねている今は緊張してしまう。

ガラス張りの店内からは見えないように店頭に置かれたウェルカムボードを見た。今夜のお勧めメニューはオムライスとオニオンスープのセットだ。日が落ちて肌寒く、小腹が空いた私には魅力的だ。
中に入るかそれとも帰るか迷っていると、店内から箒と塵取りをもった男性店員が出てきた。二十代前半くらいのその店員は芸能人かと思えるほどイケメンだった。
ウェルカムボードを見る私と目が合いニコッと笑顔を向けられる。人懐っこそうな笑顔に私もつられて軽く頭を下げた。
私と年はさほど変わらないけれど見たことのない顔の男の子だ。社員じゃなくアルバイトの子だろう。

「よければ店内にもメニューがありますのでどうぞ」

「あ、はい……」

迷っていた私は店員に促されてブックカフェの中に入ってしまった。

壁一面に並べられた本棚の中央にコの字型カウンターがあり、その中では店員がドリンクや食事を作っている。店内を見回すと一人掛けソファーには年配のお客さんや学生らしき子が座っていてほとんど満席だ。
浅野さんはカウンターに座って女性店員と話している。その店員には見覚えがある。早峰フーズの社員でこのブックカフェの店長だ。

「いらっしゃいませー……あれ?」

客だと思って声をかけた店長は私の顔を見て社員だと気づいたようだ。

「えっと……足立さんですよね?」

「あ、はい……お疲れ様です」

数回会って電話でも何回か話したことがある。店長は私の顔を覚えていてくれたらしい。

「あれ?」

店長の様子に浅野さんも私に気づいて驚いた。

「足立さん、どうしてここに?」

「あ、えっと……たまにはゆっくり本でも読もうと思って」

浅野さんの真っ直ぐな目を向けられ、私の嘘がバレているのではと居心地が悪くなる。

「こちらにどうぞ」

店長が手を伸ばして案内した席はあいているカウンター席。それは浅野さんの隣だ。

「あ、あの……」

「どうぞ」

戸惑う私に浅野さんはイスを少し引いて「僕の隣でよければ」と無表情で勧めてくれた。女性と距離を置かなくても大丈夫なのだろうか。戸惑ったけれど浅野さんに促されては隣に座らなければ失礼だろう。私はドキドキしながら浅野さんの隣に座った。

「足立さんは何を飲みますか?」

「じゃあブレンドで……」

「かしこまりました」

店長の指示で後ろに控えたアルバイトの女の子がブレンドコーヒーを淹れてくれた。

「今日は本社の方が二人も来てくださるなんてプレッシャーです」

店長は少しも困ってなさそうな顔で笑う。

「ただの偶然ですよ。ここは売り上げが好調だし、プレッシャーをかける理由がないですから」

浅野さんは淡々と言葉を発している。彼の口から出る言葉には女性に対してほとんど感情が籠っていない。

「店長、シフトの件で相談したいんですが……」

バックヤードからアルバイトの子が店長に声をかけてきた。

「あー、あとでいいかな? 今はちょっと……」

「僕たちは大丈夫ですよ」

「そうです。今日はお客として来ただけなので」

私と浅野さんは揃って店長にバックヤードに行くよう促した。本当は浅野さんと二人にしてほしくはないのだけれど、業務を邪魔してはいけない。

「僕は優磨に会いに来たのでお構い無く」

「そうですね……じゃあすみませんが」

店長はバックヤードに入っていったのと同時に「あ、慶太さん、もしかして……」と突然後ろから声がして振り向くと、先ほど外でウェルカムボードを見ていたときに話しかけてきたアルバイトの男の子が箒と塵取りを持ったまま立っていた。

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