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自宅に帰って1時間ほどたった頃、玄関のチャイムが鳴りドアスコープを覗くと直矢さんが立っていた。
「直矢さん!」
私はドアを開け直矢さんを迎え入れた。玄関に入った瞬間直矢さんは私を抱き締めた。
「直矢さん……苦しい……」
「美優……美優……」
私の名を連呼して体中撫でるように手を回す。
「くすぐったい……」
「ケガは? どこも痛くない?」
そう聞かれて初めて直矢さんが私を心配してくれたのだと理解した。
「私は大丈夫です。何も当たりませんでした」
直矢さんはほっとしたのか再び私を痛いほど抱き締める。
「ごめん。僕動揺して……」
「愛美さんはどうでした? 七夕祭りはどうなります?」
本当は直矢さんの口から愛美さんのことを聞きたくはない。でも今後のことを聞かずにはいられない。
「銀翔街通り連合会の方から愛美は軽い打撲で済んだと聞きました。七夕祭りも予定通り行われます」
「よかったですね……愛美さんが重症じゃなくて」
これは私自身にも向けた言葉だ。彼女に何かあったらきっと直矢さんは自分を責める。直矢さんの心に愛美さんが居座ってしまう。
直矢さんは私の言葉を不審に思ったようだけど「本当によかった」と微笑んだ。
事故の直前に愛美さんが言っていた直矢さんとの電話の話が引っ掛かっていた。そのあとにケガをした愛美さんを気遣う直矢さんの姿に嫌な気持ちになった。本当に愛美さんに未練はないのだろうか。結婚を考えた相手なのだから再会したら気持ちが戻らないとも限らない。
「美優?」
直矢さんは私の顔を覗きこむ。けれど私は直矢さんの顔を見返せない。一度芽生えた疑いはそう簡単に消えない。本当に直矢さんは私のことが好きなのだろうか。愛美さんに受け入れてもらえなかった愛情を代わりに私に向けて満たしているのではないのか。一気に心が悲しみで溢れる。直矢さんのような人が私を好きになってくれるはずがない。正広にも振られた女としての魅力のない私よりも、愛美さんの方がずっと綺麗で直矢さんに相応しい。
「美優? 大丈夫ですか?」
直矢さんの声が耳に入らない。私に向けられる直矢さんの愛情が重たい。それは本当に私へのものなのか疑ってしまう。
「直矢さん……愛美さんのところに行ってあげてください」
「え?」
「愛美さんも今日のことはショックだったはず。今は直矢さんにそばにいてほしいと思っているかもしれません」
「本気で言っているのですか?」
直矢さんの声は怒りを含んでいる。私を抱く腕の力が弱まる。
「美優、勘違いしてないかな? 僕は美優を愛してる」
「私よりも……愛美さんの方がお似合いです……」
直矢さんの気持ちに何も返せない私よりもずっといい。
「本当に僕には愛美が良いと言うのですか?」
直矢さんの表情が曇る。
「1度僕を捨てた人のところに行けと言うのですか?」
「私は自分の寂しさを埋めるために直矢さんを利用した……私に2人を邪魔することはできません……」
「僕は美優を愛していると言っても?」
私の目に涙が溜まる。
「僕が美優を呆れるくらい好きだと言っても愛美のところに行けと?」
頬を涙が伝った。私は迷った。直矢さんの気持ちは純粋に私へのものなのか、愛美さんの代わりなのか。信じきれない私には直矢さんに愛される資格はない。
「やっぱり……美優も僕が重いって遠ざけるんですね」
「そうじゃないんです……遠ざけたいんじゃない……」
正広に選んでもらえなかった。結局結婚したいと思ってもらえなかった女だから、不安になってしまう。
「僕のことが嫌いになりましたか?」
「違います!」
嫌いになんてなるわけない。だけど愛されるほど怖くなる。
「1度気持ちを整理しましょう。私も直矢さんもお互いに……」
そう言うと床に私の涙がポタポタ落ちる。
「わかりました。今日はもう帰ります」
直矢さんは寂しそうな顔をした。整った顔が余計に憂いを見せる。
「でも愛美のところには行かない」
私の頬に伝う涙を直矢さんの指が優しく拭う。
「美優の言うとおり、お互いの気持ちを整理しましょう。僕も美優への気持ちを改めて確認しますから」
この言葉に自分から促したのに切なくなる。直矢さんが私への気持ちを整理した結果、別れることになるかもしれないのに。私は正広と同じような結末を繰り返そうとしている。
「おやすみ美優……」
直矢さんは私の額にキスをした。優しくて温かい唇の感触はいつも以上に早く消えた。
「おやすみなさい直矢さん……」
直矢さんは私の顔を見るとそれ以上何も言わずに玄関のドアを開け私の部屋から出ていった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
会社の非常階段を段ボールを抱えて下りる私は、数段後ろを下りる直矢さんの存在を嫌でも意識していた。抱えている段ボールには七夕祭りで配布するうちわが入っている。今から直矢さんはこの段ボールを銀翔街通り連合会に届けにいかなければいけない。ビルのエレベーターが点検中で使用できないため、仕方なく重い荷物を非常階段で下ろすことになった。
「こんなにあるんですか?」
後ろの直矢さんに向かって話しかける。
「そうですよ」
直矢さんからは短い返答しか返ってこない。私が気まずい関係にしてしまったのだから仕方がない。2人の気持ちを整理しようと言ってから、直矢さんとは付き合う前の距離をとった関係に戻ってしまった。まだ以前のように挨拶してもよそよそしいわけではないのは救いだ。
「私も手があいたときにうちわを配りにいくので声かけてくださいね」
「はい」
またも短い言葉しか返ってこない。いい気分ではなかった。自分でそんな空気にしてしまったのだけれど、あのときの私はどうしたらよかったのだろう。
後ろを下りる直矢さんは私以上に大きい段ボールを抱えている。今彼はどんな顔をしているのだろう、と後ろを振り向いた瞬間右足を階段から踏み外した。
「わっ!!」
思わず抱えた段ボールを放り投げ、上半身が後ろにのけぞった。このままでは腰を、背中を、頭を階段にぶつける。
「いっ……」
衝撃と共にお尻を階段にぶつけた。けれどそれ以上の痛みはなかった。私の体は後ろから抱き締められ、背中と頭を守られた。
突然のことに驚いて動けなくなってしまった。
「大丈夫ですか!?」
耳元で直矢さんの焦った声がした。顔を後ろに向けると片膝をついた直矢さんの腕が私の腰に回っている。頭を階段にぶつけなかったのは直矢さんの胸がクッション代わりになったからのようだ。
「………」
「ケガはありませんか!?」
蒼白な顔が私の顔の目の前にある。直矢さんが私の背中を支えて守ってくれたようだ。そうでなければ大ケガをしていたかもしれない。
「はい……大丈夫です……」
「よかった」
直矢さんはほっとしたのか笑顔になった。それは久しぶりに見る笑顔だった。ケガがなかったことよりもその笑顔を見れたことに安心した。
私たちの回りには私が放り投げた段ボールの中身のうちわが散乱して、直矢さんが持っていた段ボールも落ちて角が潰れている。ぱっと見たところうちわに損傷はないようだ。
「あの、ありがとうございます。助けていただいて……」
大事な荷物を放り出して私を守ってくれたのだ。
「美優……」
直矢さんが私の顔をじっと見つめる。その顔はもう笑顔ではない。真剣な顔で私の腰に腕が回ったまま、後ろから抱き締められて見つめ合った。
もう見慣れた整った顔に、私を捕らえて放さないと思わせる目の力に圧倒されて動けない。直矢さんに笑いかけてもらえたら、気にかけてもらえたら、それだけで私は安心するのだ。このままこの人にずっと抱き締められていたいと願う。
私は直矢さんが好きだ。改めてそう思った。
「美優……」
直矢さんは私を強く抱き締めた。後ろから耳の上にキスをされた。
「ん……直矢さん?」
「美優……」
直矢さんは私の名を呼びながら何度も髪に口付ける。この愛情表現は私へのものだと素直に受け取っていいだろうか。
愛美さんの代わりではないといいな。これからもずっと直矢さんに愛されていたい。