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配送部に頼まれ龍峯の近くの寿司店にお茶のお届けをした帰りに、駐車場で営業部の男性社員と会った。
「お疲れ様です」
「ああ、三宅さんお疲れ」
この社員は以前に会議室で私のお弁当を褒めてくれた人だ。
「外出?」
「はい。配送部の方に頼まれてお寿司屋さんに粉茶を届けに行ってきました」
「ほんと、社員みたいによく動くね」
確かに私は社内を動き回り、頼まれれば古明橋内をお使いに出ていた。今ではパートのおばさんよりも社員さんと仲良くなっている。
「いっそ社員になっちゃえばいいのに」
「あはは……」
正社員になれたらどんなにいいだろう。今よりも責任は増えるはずだけれど、私は正社員にずっと憧れていた。
「じゃあ、頑張って」
「はい、ありがとうございます。お疲れ様です」
男性社員は車に乗った。私はビルの中に入ろうとしてふと上を見上げると、4階の応接室の窓から聡次郎さんが私を見下ろしていた。手を振ろうとしたけれど、聡次郎さんはすぐに私から目を逸らして奥へと行ってしまい、私からは見えなくなってしまった。その行動に違和感を覚えたけれど、気にせずに私もビルの中へ入った。
お中元の去年の予約リストをもらいに3階のオフィスに上がった。
通常店舗のスタッフはオフィスに行くことは滅多にない。けれど私は他のパートさんよりも社内を移動する雑務を引き受けているためオフィスに行くのも抵抗がない。
「あ、三宅さんお疲れ様です」
本社営業部の女の子が声をかけてくれた。この女の子は少しだけ年上で、長いことフリーターをしてきた私が憧れるオフィス街企業で働く正社員だ。
「あの、三宅さんにちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい」
女の子のデスクに近寄った。
「三宅さんカフェでも働いてるんだよね? 今カフェってどんな商品が売れる?」
「え……ドリンクですか?」
「うーん……ドリンクもごはんも」
答え難い質問をぶつけられた。商品は季節や材料、土地柄によっても売れ方は全く違い、大きな括りで何が売れるのかというのは私でも答えられない。
「私のお店でのお客さんは会社員が多いので、やはりシンプルにブレンドコーヒーが売れますね。午後は地元の方もいらっしゃるのでケーキセットでくつろぐ方が多いです」
「なるほど……やっぱ定番よね……」
女の子は私の中途半端な答えに考え込んでしまった。
「何かあるんですか?」
「うーん、実は今度龍峯で……」
「三宅さん、こんなところでなにサボってるの?」
突然怒りを込めた言葉をかけられ振り向くと花山さんが立っていた。
「あ、えっと……お中元の去年のデータをもらいに……」
「ならここで無駄話してないで早くお店に戻って頂けるかしら?」
「はい……」
私は壁沿いの棚から去年のファイルの束を取り出した。私と話していた女の子は不機嫌そうな顔で花山さんを見ていたけれど、「あなたもバイトに意見を聞くんじゃなくて自分で調べなさい」と怒られ更に眉間にしわが寄っている。
オフィスを出て行こうとする私を花山さんが呼び止めた。
「三宅さん、もうすぐ辞める身なんだから、あんまり龍峯の内情を知るのは遠慮して頂きたいわ」
「え? 三宅さん辞めるの?」
女の子だけじゃなく周りの社員も私を見た。
「えっと、あの……」
「体調が優れないので秋までで契約を終了するの」
何と答えたものか迷う私を差し置いて、花山さんはわざとらしい笑顔でフロア中に聞こえる大きい声を出した。
「もしかして龍峯の空気が合わないのかな?」
この嫌みに一気に怒りが湧きあがった。
「あの!」
「それは違うよ」
突然割って入った声に、その場にいる全員が声のした方を見た。フロアの入り口に聡次郎さんが立っていた。
「三宅さんが退職するのは実は僕のせいなんですよ」
この言葉には花山さんはもちろん私も驚いた。
「実は今まで皆さんには内緒にしていましたが、僕と三宅さんはお付き合いしています」
私は目を見開いた。フロアのあちらこちらから驚きの声が上がる。
聡次郎さんは歩いて私の横に立った。
「時期をみて公表しようと思っていたのですが、僕たち結婚します」
「は!?」
驚いた私を無視して聡次郎さんは「なので寿退社です」と笑顔で言い放ったのだ。
聡次郎さんは間抜けな顔をして固まる花山さんと向かい合った。
「僕の婚約者がご迷惑をおかけし申し訳ありません。退職までご指導ご鞭撻のほどよろしくお願い致します」
そう言って花山さんに頭を下げた。動けないでいる私に「梨香」と嗜めると、私も慌てて聡次郎さんに倣い頭を下げた。
フロア全体が呆気に取られる中、聡次郎さんは私の手を取りフロアの外へと引っ張って連れ出した。
「聡次郎さん!」
非常階段から2階に下りたとき、私の動揺する声にようやく聡次郎さんは手を離した。
「何であんなこと……」
「言っただろ、もうバレてもいいんだって。見たか? 花山さんの顔」
聡次郎さんはいたずらが成功した子供のように笑った。
「これで辞めるまでの残りの期間、誰も梨香に手を出さないし傷つけない」
「手を出さないってどういう意味?」
「どんな男も梨香に近づかないってことだよ」
笑顔から一転して聡次郎さんは口をへの字に曲げて拗ねたような顔をした。
「俺の婚約者だって認知させとかないと男性社員が言い寄ってくるだろう」
「そんなわけないのに……」
「さっき駐車場で営業のやつと話してただろ。ああいうのを遠ざけるためだよ」
驚きの理由に開いた口が塞がらない。
「聡次郎さん、あの程度は職場の方とする普通の会話なの。遠ざけられても困るんだって」
「いや、梨香が気づいていないだけだ。あいつは下心がある」
理解不能な聡次郎さんの言動に呆れてしまう。専務の婚約者だとあんな風に公表されたら、みんな私と距離を置いてしまうに決まっている。仕事がやりにくいではないか。
「まったく……」
恋人になっても振り回されてばかりだ。この人がこんなにも嫉妬深いなんて本当に意外だ。
「怒ってる?」
聡次郎さんが私の顔を不安そうに覗き込む。
「はい」
はっきり答えると聡次郎さんは1歩私に近づき両腕で抱き締められた。
「聡次郎さん?」
「梨香を他の男の目に触れさせたくないんだ。梨香にも他の男を見てほしくない」
耳元で切ない声で訴えられて動けなくなった。抱き締められた腕以上に言葉が私を締めつける。
「何言ってるの……」
笑ってそう言ったけれど、聡次郎さんの独占欲が嬉しいと思ってしまう私も重症だ。
「今誰か来たらどうするんですか」
「見せつけてやる」
見せつけられた方のことなど考えない強引さも、今はもう慣れきってしまった。聡次郎さん以外の男の人なんて眼中にないというのに。
「バカなこと言ってないで仕事に戻りますよ」
聡次郎さんの腕の中から抜けようとすると、さらに強く抱き締められた。
「好きだよ梨香」
そう囁くと聡次郎さんの唇が額から頬に触れ、私の唇と重なった。
こんな幸せな時間が永遠に続けばいいと願いながら、聡次郎さんの貪るようなキスを受け入れた。