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風邪はすっかり良くなり、カフェでも問題なく勤務して数日振りに龍峯に出勤すると、エレベーターホールで月島さんと会った。
「おはようございます」
「おはようございます。体調はいかがですか?」
誰かから私が風邪だったと聞いたのだろう。
「もうすっかり良くなりました。ご心配おかけしました」
「僕よりも聡次郎が動揺していました」
「聡次郎さんが?」
「ええ。三宅さんを働かせすぎているのではないかと心配していました。カフェはともかく、龍峯に出勤させるのを少なくしたらどうかと奥様や花山さんに相談していました」
聡次郎さんがそんなことをしてくれたのだとは知らなかった。思えば倒れたときは付きっ切りで看病してくれた。今も毎日体調を心配するLINEをしてくれる。
「聡次郎と正式に交際することにしたと聞きました。契約は解除しなければいけませんね」
「お願いします。いろいろとご迷惑をおかけしてすみません。月島さんは奥様が決めた相手とのお見合いが上手くいった方がいいんですよね……」
月島さんは以前聡次郎さんが偽の婚約者を立てたことが気に入らないと言っていた。龍峯の将来のためには聡次郎さんの縁談が上手くいかないといけないのに、私と付き合うことになってしまったら何もプラスにならない。
「それは違います」と月島さんは私の顔を見た。
「確かに龍峯のためには栄のご令嬢と結婚した方がいいです」
栄のご令嬢。銀栄屋のお嬢様のことをこう呼んでいるのを何度か聞いたなと思いながら、月島さんの話に耳を傾けた。
「聡次郎は昔から自由に生きていたように見えて縛られていました。会社は慶一郎さんが継ぐと決まっていたにもかかわらず、進学も就職も学生時代の交際相手にすら口を出されてきました」
初めて聡次郎さんに会ったとき、飲料メーカーに就職していたのに無理矢理龍峯に呼び戻された、とずっとそんな態度だった。
「僕は聡次郎の人生は自分で選ばせてあげたいのです。だから三宅さんを選んだことを誇りに思いますよ」
月島さんは微笑んだ。
「聡次郎は初めて会った頃から三宅さんに惚れていました」
「そんなまさか」
だって最初からずっと意地悪なことを言われてワガママにつき合わされてきたのに。
「僕は20年以上の付き合いですから。聡次郎が三宅さんをどんなに想っているか分かりますよ」
想っているなんて言われ照れてしまい下を向いた。そんなこと聡次郎さんは何も言ってくれなかった。私はずっと嫌われていると思っていた。
「全然そんな態度じゃなかったのに……」
私の言葉に月島さんは「ははっ」と小さく笑った。首を傾げた私に「ああ、すみません」と月島さんはどこか懐かしむような顔をした。
「聡次郎は昔から素直じゃないんです。僕が言うのも失礼ですが、時代遅れと言ってもいい一族に生まれましたからね。聡次郎自身、本音を隠して強く見せようとするところがありました」
月島さんの言葉に頷いた。私だって龍峯は時代遅れの会社だと思ったことがあるのだ。
「その聡次郎が強く三宅さんを望むのなら、僕はそれを支えます」
月島さんは再び微笑んだ。何て素敵な人なんだろうと月島さんを見て思う。こんな友人がそばにいてくれて聡次郎さんは幸せだ。
「そうだ、忘れるところでした。これ、ありがとうございました」
月島さんがカバンから出したのは以前私が渡したお弁当箱だ。
「ずっと返しそびれていました。聡次郎に渡してもらおうかと思ったのですが、あいつに渡すと僕が怒られそうなので」
「そうですね……」
勝手にお弁当を渡したのは私なのに、聡次郎さんは月島さんにも嫉妬するだろう。きっともう月島さんに何か言った後かもしれない。
「すみません……余計なことをして。聡次郎さん、何か失礼なことを言ってしまったのなら申し訳ないです……」
「まあ嫉妬を向けられるのは慣れてますから。僕もそうなのでお互い様ですね」
「月島さんも聡次郎さんに嫉妬することあるんですか?」
「ありますよ。特に子供のころは多かったですね。聡次郎は勉強もスポーツも、何をやっても優秀で、人を引き付けるものを持っていましたから。羨ましいと思ったこともありました」
今度は私が笑った。
「どうかされました?」
「ああ、すみません……聡次郎さんも同じことを言っていたので」
「え?」
「以前聡次郎さんも月島さんが何をやっても優秀だから勝てないって」
「あいつが……」
「お二人はいいお友達ですね」
私たちは笑い合った。
「僕は三宅さんに感謝したいです」
「え?」
「僕にはお付き合いしている人がいるのですが」
「ああ……」
そうだ、月島さんには彼女がいるのだと聡次郎さんが言っていた。それなのに手作り弁当を渡すなんて彼女さんに悪いことをしてしまった。
「彼女に三宅さんからお弁当をもらったことを知られて……」
「怒られましたか?」
「いえ、プロポーズされました」
「はい?」
「彼女から逆プロポーズされました。お弁当なら毎日私が作るからと」
初めて見る月島さんの照れた笑顔に私までつられてしまう。
「おめでとうございます!」
「ありがとうございます。三宅さんのお陰です」
月島さんが結婚する。なんておめでたいのだろう。しかも私のお弁当がきっかけで。
「聡次郎さんはそのことを?」
「はい、知っています。龍峯家の皆様には報告しています。その内社員にも知らせようかと。聡次郎には俺に感謝しろと言われました」
聡次郎さんが言いそうなことだ。まあ聡次郎さんがお弁当を食べなかったお陰でもあるのだけれど。
「お弁当おいしかったです。聡次郎が落ちたのも納得。まあ料理で落ちたわけじゃないでしょうが」
「いえ、そんな……」
「聡次郎は三宅さんの料理を楽しみにしていますよ」
「そうなんですか?」
お茶は全く美味しいと言ってくれないのに。
「料理もですが、三宅さんの誠実なところに惹かれたのだと思います」
月島さんに誠実なんて言われて増々照れてしまう。以前なら月島さんに褒められたら舞い上がっていただろう。でも今は職場の上司として接しているから下心なく受け入れられる。月島さんに近づきたいと思っていたころが遠い昔のようだ。
「これからも聡次郎をよろしくお願い致します」
「いえ、こちらこそ」
月島さんはエレベーターに乗り、私は店舗事務所へ向かった。
事務所のドアを開けると花山さんが既に出勤していた。「おはようございます」より先に花山さんは「退社日のことなんだけど」と切り出してきた。
「本当は来月いっぱいでと言いたいのだけど、夏休みはパートさんが長い期間休むこともあるから秋まではいてほしいそうです」
花山さんは不機嫌そうにそう言った。内心今すぐに辞めてほしいと思っていそうだ。
「そうですか……」
意外と長く勤めることになりそうで良いような悪いような複雑な気持ちだ。
夏休みはカフェの方は学生がシフトに入るから、私は龍峯に集中して出勤しても問題なさそうだ。
「残念だわ、迷惑かけられるのも来月で最後だと思ったのに」
花山さんは心底残念そうに言った。店長のくせに接客しないで事務所に引っ込んで文句だけ言う人が何を、と思ったけれど今の私はどんな言葉も気にしないだけの精神的余裕があった。
「残りの期間もご指導よろしくお願い致します」
心にもない言葉を言うと店に入った。