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龍峯のバイト代と偽装婚約の契約料が振り込まれ生活は楽になった。このまま数ヶ月頑張ればある程度の貯金もできそうだ。ただ体力的にも精神的にも余裕のない毎日がいつまで続けられるのか不安にも思っていた。

聡次郎さんのお弁当は龍峯に出勤の日は必ず作っていた。自分の分と同じおかずを入れるだけだからいいのだけれど、当初の想像以上の恋人ごっこに戸惑わずにはいられない。
聡次郎さんは忙しいはずなのに私の休憩時間に合わせて会社に戻ってきては部屋に2人きりでお弁当を食べる。必ず私にお茶を淹れさせて「まあまあ」といつまでも自信を持てない感想を言うのだ。

「梨香、今日は俺がお茶を淹れるよ」

珍しく聡次郎さんが電気ポットでお湯を沸かし始めた。

「え? いいの?」

「秋に販売する予定の抹茶入り緑茶を先に飲ませてやるよ」

聡次郎さんは紅葉の絵が描かれた袋を開けお茶の葉を急須に入れた。
新商品は販売時期が決まりパッケージまで完成してから店舗に試飲が回されてくる。秋の商品は本来私はまだ見ることも飲むこともできない商品だ。

「ありがとうございます」

キッチンに立つ聡次郎さんを観察していると、マグカップに1度お湯を入れてから急須に注いでいる。以前飲んだ聡次郎さんの龍清軒を思い出して不安になっていたのだけれど、あの頃と比べて聡次郎さんもお茶を淹れる勉強をしているということだろう。

「飲んでみ」

テーブルに置かれたマグカップの中身は鮮やかな緑色だ。

「抹茶が入っているからいい色。いただきます」

味わう私に対して聡次郎さんは味など気にすることもなくゴクゴクと飲んでいる。

「コクがあっておいしい」

「抹茶ありきだな。去年まで販売していた秋の商品に抹茶は入っていなかった。秋に目玉になるようなインパクトに欠けてたから抹茶を入れたんだよ」

「聡次郎さんの案?」

「いや、提案としては春のときからあったんだけど、兄貴が冒険したがらなくてずっと毎年変わらない味だったんだ。でも今年から入れろよって言ったのは俺」

お茶のことなんて私より知らないのではと思っていたのに、やはり会社の幹部らしいことはしていたんだと感心する。小さい頃から経営教育を受け会社をただ引き継いで安定させることに集中する慶一郎さんとは対照的に、聡次郎さんは各部署からのアイディアを拾っては挑戦する意志があるのだとこの間社員さんが言っていたっけ。

食べ終えたお弁当箱をランチバッグにしまい、もう1口お茶を飲んだ。

「ほっとする……」

言葉が自然と出てきた。お茶を飲むと心が安らぐ。
元々お茶は高い健康効果があるけれど、風邪気味の私には体中に栄養が染み渡っていく気がする。今では食後にお茶を飲みたいと自然と思えるほどに私の生活にお茶が馴染んでいる。
リラックスする私に聡次郎さんは微笑んだ。

「休憩できた?」

「え? うん……」

「たまには休めよ。別にここにたくさん出勤する必要はないぞ」

聡次郎さんの珍しい気遣いを嬉しく思う。

「今はもうそこまで金に困ってもいないだろ?」

「そうなんだけど……」

休みたいのは山々だ。でも龍峯を休んだら奥様や花山さんにどんな嫌みを言われるかわかったものではない。

「梨香」

「ん?」

聡次郎さんに呼ばれ顔を見た。

「いっそさ……籍を入れたことにすれば?」

「え?」

「もう入籍しちゃったことにすれば、母さんも梨香にうるさく言えない。龍峯でも無理することはない」

思いがけない提案に開いた口が塞がらない。

「ここに出勤しなくていいし、梨香の好きに生活できる」

「何言ってるの。そこまでの嘘はつけないよ。それに、結婚したなら一緒に住まないのもおかしいでしょ? さすがに夫婦を演じるのは無理」

相変わらずのぶっ飛んだ提案に笑ってしまう。入籍したなんて嘘は通せない。
それでも今ほんの少しその提案を嬉しく思った。前ほどに聡次郎さんを苦手だと思わなくなっていたから。

「俺はいいよ。一緒に住んでも」

「………」

私は笑顔のまま固まった。

「この部屋は1人で住むには広すぎるし、梨香の部屋だってある」

確かにここは部屋が余っている。でもそういうことじゃない。

「さすがにそれはやりすぎ。聡次郎さんも私と住むのは嫌でしょ?」

「嫌じゃないよ」

はっきりと言い切った。真っ直ぐに私を見る目に吸い込まれそうだ。

「嘘だー。聡次郎さん私のこと嫌いなくせに」

冗談ぽく笑ってみせる。嫌じゃないなんて言われたら勘違いしてしまうから。

「嫌いなわけないだろう」

聡次郎さんの目は冗談じゃないと言っているように力強い。

「家賃もいらない。梨香がただここにいてくれればいい」

「それってどういうこと? 契約は?」

「契約は終了。ここからは俺の気持ちの問題」

「気持ち?」

「好きだよ」

その言葉に目を見開いた。

「え……誰が?」

「俺が梨香を」

「うそだ……」

「嘘じゃないよ」

聡次郎さんは即答する。

「本当はいつまでも契約で縛りつけてそばに置いておきたいほど、梨香が好きだ」

聡次郎さんのものとは思えない感情をぶつけられて、私はもう真っ直ぐ前を向けない。そんな風に思われているなんて知らなかったから。

「梨香」

優しく名を呼ばれても答えることができない。行き場をなくした視線はテーブルを彷徨う。どうしよう、どう言ったらいいの。

「契約はもう結ばない。金銭のやり取りもない。それでも俺のそばにいてほしい」

「どう……受け止めたらいいのか……いきなりで……」

「契約で縛られた梨香が俺のお願いを断れないのも知ってた。契約を利用して離れたくないって思うほど俺はずっと梨香を想ってた」

聡次郎さんを恋愛対象として見たことがなかった。私への気持ちを知って今までの行動が理解できた。でも今こんなことを言われても困るのに。

「ご……めんなさい……今は何も……」

そう呟くと私はランチバッグを持って勢いよく立ち上がり、慌てて玄関まで行き靴を履いた。

「梨香!」

背後から聡次郎さんが呼ぶ声が聞こえる。でも私は「時間をください!」と叫んで部屋を飛び出した。
エレベーターのボタンを押しても、2階で止まったまま中々上がってこない。焦った私は横の非常階段のドアを開け駆け下りた。
4階まで下りたとき眩暈がして踊り場で立ち止まった。

聡次郎さんに告白されるなんて驚いた。今までの態度から嫌われていると思っていた。期間限定の関係だから我慢できた。無理に連れ出されたり食事をしたり、契約だと言っていた本心は違ったということなのだ。
おかしいなと思うことは何度もあった。恋人のふりの強要にうんざりしたこともあった。聡次郎さんの行動の1つ1つに一喜一憂してドキドキした自分もいた。
どうしたらいいのだろう。契約のままならいつか終わる。でも恋人になったらこれからの仕事は、明日からの生活は、お茶の面白さ、おいしさを知ってしまった私はどうなるのだ。

見下ろした古明橋の道路はひっきりなしに車が通り、たくさんの人が行き交っている。この大都会のオフィス街にビルを構える老舗企業の専務に告白された。頭が真っ白になり、現実味のない事態に休憩時間の終了ギリギリまで動けないでいた。



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