9
「そう思うまでに時間はかかったけどね。いざ決心して戻ったら見合い話でうんざりだよ」
聡次郎さんは心底嫌そうな顔をした。偽者の婚約者を立てるほどお見合いが嫌なのだろう。
「俺が好きになるほどのお茶を淹れてよ」
「え?」
「お茶が嫌いなんて思わなくなるくらい、俺のために最高のお茶を淹れてみろよ」
挑戦的な言葉に嫌悪するどころか不思議とやる気が出てきた。このお茶嫌いなお茶屋専務を満足させて美味しいと言わせられたら、この上ない優越感に浸れそうだ。
「絶対に言わせてみせるから」
私の野望に満ちた笑顔に聡次郎さんは何も言わないけれど、ハンバーグを噛む口元はにやけていた。
「ハンバーグ作りすぎちゃったので明日も食べてくださいね」
残ったハンバーグのお皿にラップをかけて冷蔵庫に入れた。
「ありがとう」
食器を洗っている聡次郎さんはまたしてもお礼を言ってくれた。
嫌な人だと思っていたけれど少しだけ緊張しなくなった気がした。
「聡次郎さん、このジュースって何?」
冷蔵庫の奥に入っている数本のビンに入ったジュースが気になった。
「ああ、それはお茶の葉を栽培している農家が作った梅のサイダー」
「お茶農家が梅を?」
「お茶農家の親戚が梅農家で、梅サイダーを試作したんだって。飲んでもいいよ」
「やったー。飲んでみたい!」
グラスに梅サイダーを注いだ。
「思ってる以上にすっぱいよ」
聡次郎さんはそう言うけれど、梅酒のように少しは甘いのだろうと期待して1口飲んだ。
「すっぱい!」
思わず大きな声が出た。甘みも感じるけれど梅の酸っぱさが強く、ゴクゴクと飲めるものではなかった。
「だから言っただろう。農家もまだ試作段階のものなんだ。俺も飲めないから残ってるんだよ」
眉間にしわを寄せて口の中のすっぱさに耐える私に聡次郎さんは笑った。
「梅なのに全然爽やかじゃない……」
そう言ってからアイディアが閃いた。
「聡次郎さん、急須借ります」
洗ったばかりの急須を食器カゴの中から取り、龍清軒のお茶の葉を入れた。
「何するの?」
「ちょっとアレンジしてみます」
同じく洗ったばかりのマグカップにお茶を半分ほど注ぎ、氷を入れた。その中に梅サイダーを注いだ。
「おいおい!」
聡次郎さんは慌てたけれど私は確信があった。
「日本茶と混ぜたら梅の酸味が残りつつ、口当たりのいい梅茶サイダーになると思うんです」
完成した梅のお茶サイダーを飲んでみた。
酸っぱさが中和されてまろやかになった梅の風味にお茶の渋みが加わって微炭酸のドリンクになった。
「ねえ聡次郎さん、悪くないよ? 龍清軒で作ったけどもっと濃い深蒸し煎茶でも試してみなきゃ。梅の味が強いから粉茶も……かぶせ茶も試したい!」
1人で盛り上がっている私の手からカップを取り、聡次郎さんも1口飲んだ。
「どう?」
「……微妙」
本当に微妙な顔をする聡次郎さんにがっかりした。この人にお茶を美味しいと言わせる道のりは遠い。
「でも悪くないな……」
「ほんと?」
「お茶の炭酸飲料は以前に企画としてあったんだ。開発途中で中止になったけど、これならまた試してみてもいい」
聡次郎さんはもう1口飲みながら真剣に考え込んでいるようだ。私は内心ガッツポーズだ。
「よく考えついたな」
「カフェとかファーストフード店でもメニューの考案をやってましたから」
大衆向けのレシピを考えるのは苦手じゃない。甘いものは好きだから採用されてメニューに載るのは自信に繋がった。
「梨香さ、俺の分の弁当を作ってよ」
「え、なんで?」
突然のお願いに驚いた。
「なんでって、恋人だから?」
今までの話の流れからどうしてそういうことになるのだろう。
「私、聡次郎さんの恋人じゃありませんけど」
少しだけ低い声で訂正した。
「恋人のふりはしてもらわなきゃ。食費と手間賃は給料に反映させるから」
「でも……なんでいきなりお弁当?」
「お願い」
私の目を見て珍しく真剣に頼んでくる。
「龍峯が休みの日は無理だよ?」
「わかってる」
「龍峯に出勤の日でも作れない日はあるからね」
「それもわかってる」
穏やかに笑う聡次郎さんは、私が何を言ってもどう抵抗しても自分の願いを押し通す。短い付き合いの中でそういう人だと理解している。
「どうしてそこまで私に恋人役をさせたいの?」
聡次郎さんのこれはいきすぎだ。恋人関係の強要。いい加減うんざりする。
「俺も人生かかってるんだよ」
シンクに寄りかかった聡次郎さんは真っ直ぐ私を見据えた。
「好きでもない仕事をして、親の決めた好きでもない女と結婚なんてしたくない。仕事は自分で妥協して選んだ。けど結婚相手は自分で選びたい。全力で見合いなんてしない。そのためならどんなことだってする」
怖いほどの力強い目で私から視線を逸らさない。
「頼むから、梨香にも協力してほしい」
聡次郎さんの声音は家族の問題以上に根深いものを感じた。お弁当を作らせるのも私と仲の良さをアピールする目的でもあるのだろう。
「わかりましたよ。ちゃんとお給料はもらうからね」
「明人に言っとくよ」
再び笑顔になった聡次郎さんは残りの梅茶サイダーを飲み干した。
「聡次郎さん、ずっとその方がいいよ?」
「何が?」
「むかつく態度じゃなくて、そうやって笑ってた方が付き合いやすい」
聡次郎さんはぽかんと口を開けたまま固まってしまった。
「聡次郎さん? 聞いてる?」
首をかしげ聡次郎さんの顔を見たとき、突然玄関のチャイムが鳴った。
「誰だ?」
玄関に向かった聡次郎さんが戻ってくると、後ろに続いて月島さんが部屋に入ってきた。
「こんばんは」
「あ、お疲れ様です……」
「明人は何しに来たんだよ?」
「三宅さんがいるって聞いたから。僕はもう帰るから車で送っていこうと思って」
「え、そんな、申し訳ないです」
「実は僕と三宅さんの家は近いんですよ。今日は車なので乗っていきませんか?」
「じゃあお願いします」
「いいよ、俺が送っていくから」
私と月島さんの会話に聡次郎さんが割って入ってきた。
「でも聡次郎は送ってからまた戻ってこなきゃいけないだろ?」
「そうだよ。二度手間になっちゃう」
最後まで聡次郎さんと一緒よりも月島さんに送ってもらえた方が嬉しい。
2人から遠慮されてしまい聡次郎さんは不機嫌になったようだ。先ほどの笑顔は消えて口はへの字になっている。
「勝手にしろよ」
そう吐き捨てた聡次郎さんはソファーに座ってマンガの続きを読み出した。
「まったく……」
月島さんは呆れた声を出すと「行きましょう」と私に声をかけて玄関に向かった。
「聡次郎さん」
私は声をかけたけれど聡次郎さんは何も言わずマンガに視線を向けたままだ。
「今日はありがとうございました」
「………」
「楽しかったです」
これは本音半分お世辞半分だ。買い物をしてドライブは楽しかった。けれどとても疲れた。
「お邪魔しました」
玄関で靴を履いても聡次郎さんは見送ってくれることはなく、一言も声が返ってこなかった。