【消えた婚約者の行方】
【消えた婚約者の行方】
ファリドは、大きく息を吐いた。
帽子やコートを着ていても、凍てつくような寒さは変わらない。帝都では-10度を記録している。
天高くそびえる皇宮の屋根にも、雪が降り積もっていた。使用人たちが雪かきに必死になっているが、淡い雪は降り止むことなく、皇宮の庭を銀世界に染め上げていた。
雪が降り積もる皇宮の庭を、ファリドは若い部下を連れて歩く。皇宮から、近衛師団の本部がある建物に移動するためだ。
「ファリド師団長···大丈夫ですか?」
後ろに連れた若い男性は、ファリドの顔を覗き込むようにして、心配そうに顔を歪めた。
「あぁ、心配をかけてすまないな」
リーシャがいなくなって、もう8日目になる。
(どこに行ったんだーーリーシャ)
ファリドは、ろくに寝食をせず、プライベートの時間、リーシャを探し回っていた。彼女の行方を探すための手がかりは、未だ何も掴めていない。
できるのなら、政務を放り出してでも、探しに行きたい。しかし近衛師団長である自分にそんなことは許されない。
オーブルチェフ帝国は国土も広く、闇雲に1人の人間を探すのは無謀である。
だが、それでもファリドは、家の使用人を使い、自分自身でも帝都を闇雲に探し続けるしかなかった。
(こんな時、彼女だったら賢い方法で人探しをするのだろうか)
ファリドは、彼女のことを思い出す。
推理小説が好きな、自分の婚約者。
『どうして推理小説が好きなんだ?』
ファリドは訊いたことがある。普通なら、女性はドレスや宝石、そして砂糖のように甘い恋愛小説を好むものだと思っていた。
彼女はそういう意味では、ファリドの目から見ても変わった少女だった。
『面白いじゃないですか。与えられた情報の中で推理するのも、もし解けなくても、騙されたなぁと悔しがるのも、私は好きなんです』
自分には、わからない感覚だった。アレクセイから聞かされているが、彼女は頭が良い。色んな本を読み、そして独自の意見を持っていると。
聡明なのは、彼女の”血”がそうさせるのだろうか、とファリドは思った。
『はい、この本の犯人は意外性を突いているので、お貸しします。読んでみて頂けたら嬉しいです』
『え、俺が読むのか』
自分は彼女よりも年上であるが、特に本を読む習慣はない。必要にかられて読むくらいである。しかしリーシャは、婚約者である自分と共通の話題を作ろうとでも思っているのか、定期的に本を貸してきた。
『俺が読むんだったら···』
『はい?ちょっと、何をなさるんですか』
リーシャの前で、ファリドは貸してもらった本をめくり、最後の数ページだけ捲る。
『俺は、謎の答えだけ知りたい。謎を解決するまでのなんやかんやは、すっ飛ばす』
難しい話は苦手だ。誰が被害者を殺し、誰が犯人であるか。途中のトリックや種明かしなどに興味はない。
『···それじゃあ、本当に正しい答えかどうか、わからないじゃないですか』
リーシャは少し不満そうにしていたが、優艶に微笑んでいた。
(――俺は、彼女のように推理なんてできない。ただいなくなった彼女を、草をかき分けてでも探すしかない)
闇雲でも彼女を探すためには、時間が必要だ。そう考えると、ファリドは寝食を削るしかなかった。
それほど、ファリドにとってリーシャは大切な存在だった。
決して彼女を失うわけにはいかない。
彼女の、優艶な笑みを思い出す。彼女を失ってしまうと想像するだけで、切なく胸が締め付けられるような思いだった。
(リーシャ、無事でいてくれ)
ファリドは、彼女の安否だけを神に祈る。
「少しお休みになられた方が···」
「···いや、大丈夫だ」
髪を刈り上げた男の言葉に、ファリドは首を横に振って拒んだ。
(御前会議でも、皇帝陛下にご心配おかけしてしまった。···駄目だ、仕事に支障をきたしてはいけない)
自分を律するべきだと、ファリドは考える。
冷徹無比なニコライ皇帝が人を気遣うことなど、滅多にない。きっと、御前会議でもリーシャのことを考えているのがバレていて、遠回しに注意をされたのだろう。
「こうしてずっと雪が降っているようじゃ、雪かきしてもきりがないですね」
「こら、黙って手を動かしなさい」
使用人たちの声だった。
広い皇宮の庭の中を、皇宮のメイド達が雪かきしている。メイドといっても、コートや帽子、分厚い手袋を着け、重装備である。彼女たちは庭園に停められた馬車の中も、掃除しているようだった。
「···帝都くらいの雪くらいじゃ、まだマシですよね。私の家は北なので、雪もつもりませんよ」
メイド達の声が聞こえたのだろう。ファリドの隣にいる男は、眉を下げて言った。
「···雪がつもらないとは、どういうことだ?」
帝都よりも北の大地ということは、極寒だろう。帝都育ちの自分は、寒ければ雪がつもらないはずがないと思った。
「北風が強すぎて、雪が積もらないんです。つもらなくても、ここよりも北なので、-30度になることもあるんですよ」
「-30度」
ファリドは驚いた。
帝都でも、-10度くらいがせいぜいの気温だ。
「そんなに寒いのか。寒すぎて、人は生きていけないんじゃないか?」
「いや一応は生きていきます。もう頬とか痛いんですよね。あまり長く外にいると凍傷になりますし」
帝都育ちのファリドには、想像もできないほどの極寒らしい。若い男の話を聞きながら、ファリドは足を動かした。-10度でも寒いと感じているのだ。自分など、そんな極寒の世界では生きていけないだろうな――と思いながら。
「メイド長、こちらに、こんなものが···」
「あら、何それ。···テンの指輪?」
雪かきしているメイド達の声に、ファリドは弾かれるように反応し、彼女達を振り返った。
(テン、だって?)
若いメイドと、40近い年であろうメイド長は、黒い馬車の前で会話をしていた。
テンの指輪――テンは、ラザレフ家の家紋である。
その指輪を着けていたのは、アレクセイであるとファリドは記憶していた。
「そこの君たち、今、テンと言ったか?」
ずんずんと雪の地面を歩き、ファリドは彼女等に近づいた。彼女達はギョッとしていた。
「···こ、近衛師団長様···っ?」
「な、何か···?」
彼女達はファリドの顔を見てあたふたしていた。ファリドは彼女達の反応を気にすることなく、若いメイドの手袋に握られる指輪をじっと見ていた。
「ちょっと見せてくれ」
「は、はい···」
若いメイドは顔を赤くし、震える手でファリドに指輪を渡した。何か自分はまずいことをしてしまったのだろうかと、メイドは不安気にファリドを見つめていた。
(やっぱり、これは···ラザレフ家のものだ···!)
アレクセイの手から、離れたのだろうか。
「これを、どこで?」
「え、えと···こちらの馬車に···」
「馬車に?」
ファリドは、黒い馬車を見る。
今は御者席に人もおらず、客車の中も空っぽだ。
オルロフ家の家紋が入った馬車は、皇帝が御忍びでどこかに行ったり、皇宮に勤める者が乗ることもある。
(リーシャは、この指輪を持っていたのか?···指輪があるということは、この馬車に乗っていたということだろうか···)
ごくりとファリドは唾を鳴らす。
(難しいことは、俺にはわからない。細かな推察など、向かないんだ)
「なぁ、この馬車に誰が乗っていたのか、どこに行っていたかを調べることはできるか?」
「え?えぇ、馬車を管理する者に訪ねれば、ある程度把握することはできますが···?」
若い男が首をかしげながら言った。
何故ファリドが目を輝かせ、拳を握っているのかわからないのだろう。
ファリドは8日ぶりに、自身の心が高鳴るのを感じた。
(糸口を見つけた···!これを逃すわけにはいかないっ!)
今までどこにも、リーシャを探す手がかりはなかった。
もしこのラザレフの指輪を持っていたのがリーシャだったら、彼女を探す手がかりにもなるかもしれない。
(無事でいてくれ、リーシャ···っ!)