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赤ちゃんのいない団地

  
  
 この団地は赤ちゃんが死ぬことで有名だった。

                  *

「ふう、やっと寝てくれた」
 マチ子は抱いていた太郎をベビーベッドに寝かせるとそっとタオルケットをかけた。
 この団地に越してきてから太郎はよくぐずるようになった。それまではあまり手のかからない子で、親思いの良い子だとママ友に自慢するほどだったのに。
 三週間前の引っ越し時のことをマチ子は思い出す。
 荷物を運んでいる自分たちを住人がじっと覗き見していた。
 値踏みされているんだと不愉快になり、マチ子は失礼極まりない住人たちを睨み返した。
 団地は転勤してきた夫へ会社から貸し与えられたものだが社宅ではなく、上司や同僚その妻たちに気遣いする必要はなかった。
 とはいうものの、ご近所トラブルはできるだけ避けたい。新住人に対しての一時的なものだろうとその場は気を静めた。
 だがそれからも、ほぼ毎日誰かがこちらを覗き見ていることをマチ子は知っている。
 頭に来て管理人に抗議しようと考えたこともあった。しかし太郎のぐずりがだんだんひどくなってきて、そんなことに気を煩わせている場合ではなくなった。
 太郎から解放されたマチ子は残業で遅くなる夫・太一の夕食を準備した。

「またぐずってたのか」
 ネクタイを外しながら太一が訊く。
「そうなのよ。近頃特にひどくなって――」
「なんでだろうな。あっちにいた頃は全然そんなことなかったのに。この部屋、ダニでもいるんじゃないか。刺されてかゆいからぐずるとか」
「ううん。そんなことないと思う。痕もないし」
「じゃ、どうしてだろうなあ」
 太一はそう言ったきり、さっさと部屋着に着替えるとテーブルについて飯を黙々と食べた。
 食事を終え箸を置いた太一が湯呑を差し出す。
 マチ子は急須の熱い茶を注いだ。ついでに自分の湯呑にも注ぐ。
「ねえ、あなた、ちょっと変なこと言うけど、別に頭がおかしくなったわけじゃないからね」
 そう前置きして「太郎、ここの人たちに呪いかけられてるんじゃないかな?」と真剣な眼差しを夫に向けた。
 太一がお茶を吹き出す。
「アチチチ――おいおい。そんなことこの世にあるか。もしあったとしても呪いをかけられる理由がないぞ。引っ越して間もないし」
 そう言いながらテーブルに飛ばしたお茶をティッシュペーパーでふき取っていく。
「人の悪意に理由なんてないわよ。あの人たちいつも暗い顔でこっちをじっと見てんの。みんな子供いないみたいだから羨ましいんじゃないかしら。
 太郎の具合が悪いのはそれが原因のような気がする」
「だからと言って呪いなんてありえないよ。よくそんなこと思いつくな」
 太一は笑い「赤ちゃんが物珍しくて見てるだけだよ。そのうち気にしなくなるさ。
 太郎も環境の変化が一番の原因じゃないか。慣れてきたら治ってくるよ」
「わたしもそう思ってたんだけど――慣れてくるどころか、だんだんひどくなってくるから――」
「おいおい、そんな気に病むな。だから変な妄想するんだよ。大丈夫、大丈夫」
 その時、寝室で物音がしたような気がしてマチ子が振り返った。
「どうした?」
「なんか音したような」
「そうか? 俺は聞こえなかったけど」
 マチ子は様子を見に行こうと立ち上がりかけた。その手を太一が握る。
「もう寝たんだろ? 泣き声してないから大丈夫だよ。それより久しぶりに――」
「でも――」
「ここんとこあいつずっとぐずってて、お前つきっきりだったろ? 俺のことも構ってくれよう。一緒にお風呂入ろうよう、ママぁ」
「もうやだ、あんたは赤ちゃんか」
 胸に顔を押し付け抱きついてくる太一を押し返しながらマチ子は寝室の気配を窺った。だが何も聞こえず、さっきの音は気のせいだと思った。

                  *

 太郎は寝室のベビーベッドですやすやと眠っていた。
 誰も触れていないのにかちゃりとドアが開くと、ハイハイする赤ん坊が入ってきた。
 赤ん坊は何かを探すようにかわいいお尻を振って部屋中を徘徊し始めた。
 この間からずっとここに来ているが、目当てのものがいっこうに見つからず、いつもぐるぐる回るだけだった。
 探しているのはミルクの匂いのするものだ。久しぶりに嗅ぐ匂いの源は確かにこの部屋にある。
 赤ん坊の探しているもの――それは赤ちゃんだった。

 ようやくハイハイし始めた頃、赤ん坊は若すぎるシングルマザーの母親に放置されてこの団地で餓死した。
 お腹が空いて動けなかった小さな身体は命が尽きるとともに自由になり、団地の中ならどこでもハイハイで移動できた。もうお腹が空くことはなかったが、寂しくて母親を探し求めて団地中を徘徊した。
 ママドコ? ママドコ?
 だが、母親はとっくに逮捕され団地にはいなかった。
 ある日、赤ん坊は遠い昔に嗅いだ甘いミルクの匂いに気付き、その幸せな匂いをたどってある部屋に入った。
 うさぎ模様の清潔なケットの中で赤ちゃんが眠っていた。
 ママイナイ オトモダチイル
 赤ん坊はハイハイで近づき、赤ちゃんの顔の上に座った。
 キャッキャ
 純真無垢な丸い魂が赤ちゃんの身体からぷくっと出てきた。でも赤ん坊と同じ形になる前に天井から降りてきたきらきらと輝く光の筋に導かれて浮き上がると溶けるように消えた。
 赤ん坊は天井に戻っていく光を追ったが浮くことができず、一緒についていくことは叶わなかった。
 それからも赤ちゃんを見つけては何度もオトモダチにしようとした。だが、すべて光に連れて行かれ、かといって自分はついていくことができなかった。
 やがて団地は『赤ちゃんが必ず死ぬ団地』として有名になり、赤ちゃんや幼い子供のいる家族が入居してくることはなくなった。
 長い年月が経った今も赤ん坊はオトモダチを探し、ずっと団地内をうろついていた。

 オトモダチ イナーイ
 ぐずり始めた赤ちゃんの声がすぐ近くに聞こえている。なのに見つからない。
 ハヤク ハヤク
 赤ん坊は焦った。自分が近づくとなぜか赤ちゃんがぐずり始め、泣き声を聞いた母親がすぐ部屋に飛び込んでくる。そうならないようしたいのに、まず赤ちゃんが見つからない。
 赤ん坊は必死のハイハイで探し回した。
 そのせいで目の前のベビーベッドの脚に思い切りぶつかってしまった。
 ベッドを知らない赤ん坊はこれを柱だと思っていつも避けていた。
 ジャマ
 ぶうと口を尖らせ忌々しそうに見上げる。
 そして甘くて幸せな匂いがこの上から漂ってくることに気付いた。
 ミツケタ
 脚をよじ登りベッドに上がり込んだ。
 男の子が柔らかい枕に頭を載せ、今にも泣きそうに顔を歪めている。
 見つけた喜びに浸る間もなく慌てて顔の上に座った。
 キャッキャ オトモダチ
 嬉しくて体を揺らしお馬ごっこする。
 キャッキャ
 赤ちゃんの両手が苦しそうに空をかき、ぱたんと落ちた。
 キャッキャ
 赤ん坊はわくわくした。
 赤ちゃんの身体から白く輝く丸い魂がぷくっと出た。膨らんだり縮んだりしながら浮かんでいる。
 オトモダチッ
 赤ん坊は嬉しそうに形になるのを待った。
 だが、暗い部屋の天井からきらきらと輝く光の筋が降りてきた。
 ダメッ
 赤ちゃんの魂が上へ上へと導かれていく。
 もちろん止めることも連れていってもらうこともできず、吸い込まれていく魂をただ見ているだけ。
 光が消えて暗闇が戻ると赤ん坊はがっくり項垂れた。

                  *

 風呂から上がり後片付けを済ませたマチ子は音を立てないようそっと寝室に入った。
 豆電球の光の下、先に風呂から出ていた太一はすでにいびきをかいている。
 ベビーベッドの太郎はタオルケットから両手を出してよく眠っていた。
 今晩はぐっすりね。
 マチ子はほっとした。
 夫の言う通り環境のせいだったのだろう。もう大丈夫かもしれない。
 安堵の微笑みを浮かべながらベッドを覗き込み、太郎の頬にそっと手を触れた。
「えっ?」
 頬が異常に冷たく感じ、思わずマチ子は手を引っ込めた。
「太郎?」
 震えながら息子を抱き上げる。小さな頭が力なく落ちてぐらぐら揺れる。
「いやあっ、太郎っ」
「どうしたっ」
 マチ子の悲鳴に太一が目を覚まして照明を点けた。
「あなたっ太郎が。太郎がぁ」
 太一が息子の様子を見て血相を変え、慌てて一一九番に電話をした。

 医師から太郎は窒息死だと伝えられた。
 顔のそばにぬいぐるみなど置いてなかったか、掛物が顔に掛かっていなかったかなど、不注意なダメ母親と責められているようにマチ子には聞こえた。
 その言葉に首を横に振り続けたが、医師は寝返りの際にタオルケットが鼻口を塞いだのだろうと結論付けた。だがあの時、太郎の息を止めるものなど何も載っていなかったのは確かだ。
 一生懸命そう伝えたが、自分でもただの言い訳にしか聞こえず医師や看護師の視線が痛い。原因は何であれ無責任な母親が子供を見殺しにしたことは間違いないのだから。
 マチ子は隣にいる夫を見た。
 項垂れて医師の話を聞いている。
 風呂から上がって寝室に入ったのはこの人が先だ。その時に太郎の異常に気付いていたら、あの子は助かっていたかもしれないのに。
 そうだ。あの物音が聞こえたような時もわたしは様子を見に行こうとしてた。なのにこの人が止めた。
 わたしだけが悪いんじゃない。
 わたしだけが悪いんじゃない。
 わたしだけが悪いんじゃないっ。
 視線に憎悪がこもる。
 太一がふとマチ子を見た。悲しみで沈んでいる瞳が愚かな妻を非難しているように思える。
「わたしだけが悪いの?」
「マチ子?」
「わたしのせいだと思ってんでしょ。わたしの不注意で太郎を殺したってっ。
 わたしがどんだけあの子を大切にしていたか、あんたにはわからないの?」
「よさないか。誰もそんなこと言ってないだろ」
 医師たちの視線を気にしながら太一が戸惑う。
 だが、興奮したマチ子はもう自分を押さえられず、夫につかみ掛かった。
「や、やめろ、マチ子――お、落ち着けっ」
「わたしはちゃんと太郎を見てたんだっ。ちゃんと見てたぁぁぁぁぁぁっ」
 マチ子は取り押さえようとする医師の眼鏡を弾き飛ばし、止めに入った看護師のきれいにまとまった髪をつかみ乱した。
「太郎ぉぉぉっ」
 暴れる身体を押さえつけられたマチ子は獣のような咆哮を上げて気を失った。

 太一は今まで見たことのない妻の豹変ぶりにただ狼狽えるばかりだった。
「マチ子、マチ子」
 気絶した妻を太一は抱きしめた。
「あの――お父さん――事件性はないとわかってますが、赤ちゃんの不審死ということで一応警察に届けます」
 医師は額に落ちた髪をかき上げ机に戻った。
「はい――」
 妻を抱え太一は力なくうなずく。知らず知らず頬に涙が溢れていた。

 処置室でマチ子を休ませてもらっている間、太一は買ったままの缶コーヒーを握りしめ、しばらく暗い待合室に座り込んでいた。
 そこに奥さんが病院の屋上から飛び降りたと血相を変え看護師が駆けつけた。
 太一は彼女の言葉がまったく理解できず、持っているはずの缶コーヒーが床に転がるのをただぼんやり眺めていた。

                  *

 この団地は赤ちゃんがよく死ぬことで有名だった。
 だが、きょう引っ越してきた赤ちゃん連れの若い夫婦はそのことを知らなかった。
 団地のあちらこちらで住人たちが暗い目をして引っ越し作業を見つめている。
 赤ちゃんを抱いたひっつめ髪の妻が彼、彼女らに会釈した。だが、誰も返す者はいない。
「ここの人ら、なんかいやな感じやわぁ」
 妻が引っ越し業者とともに作業する夫に耳打ちした。
「気にすんな。どこにでもそんなんおるよ」
 首にかけたタオルで汗を拭きながら夫が妻の肩をぽんと叩いた。

 夕方、引越しも無事終わり、
「さ、お隣さんに挨拶に行こか」
「オッケー。あっ、ちょっとこれ持って」
 妻は挨拶品の入った紙袋を夫に渡した。
「加奈どうすんの?」
「ちょうど今寝たとこやから置いてくわ」
「大丈夫か?」
「だいじょぶ。だいじょぶ。ちょいちょいと行って、早よ帰ってこ」
 二人は慌ただしく玄関を出た。

 加奈は閉めきった暗い部屋ですやすやと眠っていた。
 ベビーベッドはまだ組み立てられておらず、畳の上に布団を敷いて寝かされている。
 かちゃりとドアが開き、赤ん坊が顔をのぞかせた。
 オトモダチイル
 喜びながらハイハイして近づき、顔を覗き込む。
 不穏な空気を感じ取った加奈が今までの赤ちゃん同様ぐずり始めた。
 慌てて赤ん坊が顔の上に尻を乗せた時、廊下からどすどす音を立て足音が近づいてきた。
 もう母親がやって来たのかと思った瞬間、ばんっと勢いよくドアが開いた。
 立っていたのは髪を振り乱した黒い女だった。黄色く濁った目を吊り上げてじっと赤ん坊を睨んでいる。母親というにはあまりに禍々しい女に驚いた赤ん坊はとっさに逃げることができずにいた。
「お前だったんだな。
 太郎を殺したのはお前だったんだなっ」
 地の底から響くような声で怒鳴り、女の髪がぶわりと逆立った。
 コワイ コワイヨォ
 慌てて加奈の顔から降りると赤ん坊はハイハイして逃げた。その後を黒い女が追いかけてくる。
 赤ん坊は泣きながら逃げ続け、女はいつまでもそれを追い続けた。

                  *

 加奈が何事もなくすくすく育っていくと、はじめは戸惑っていた住人たちに笑顔が戻ってきた。
 団地は次第に明るくなり、加奈は住人たちから大事にされ大きくなった。
 赤ちゃん連れの入居がどんどん増え、団地の忌まわしい噂は完全に消えた。
 だが、霊感がある人が入居するとすぐ退居してしまうらしい。
 団地内を這う小さな影とそれを追う凄まじい形相の黒い女が見えるからだという。

しおり