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前編

「お前なんか、この世からいなくなればいいのにな」
 弟の低くかすれた声が聞こえる。その声は実に愉快な調子でいながら、こちらに憎悪の塊をぶつけてくるかのようなものだった。綾瀬理奈(あやせりな)はハア、とため息を一つつき、味噌汁をすすった。いつもの日常である。
「智広(ちひろ)君、そんなこと言っちゃダメでしょう?」
 ホームヘルパーの佐藤がおずおずと間に割って入る。彼に爆発が起きないか心配しているのだ。
「佐藤は黙ってろよ。俺は理奈に言ってんだ。なあ理奈、いないほうがいいよなあ?」
 智広は笑顔で理奈に催促をした。どうやらこちらの出方を待っているらしい。
「はいはい、そうね。いないほうがよかったわね」
 理奈はいつものことながらうんざりして、智広に合わせた。智広は満足げな顔をして、目の前の魚をつつく。これがいつもの綾瀬家の日常の風景なのである。
 父と母は、この家にはいない。二人とも生きているが、父のほうはどこで生きているのかわからない。消息不明というやつである。親権は母が持っていて、しかし母は自分の人生を歩みたいと言い出し、ホームヘルパーの佐藤を寄こした後は都会の中へ消えていった。それからは生活費だけを送り、時々理奈に電話をかけたりしている。とりあえず母のほうはちゃんと連絡が取れている。
 理奈は食べ終わった食器をシンクに持っていって、洗う。蛇口から流れ出る水が、皿に付着した汚れを弾き飛ばす。この汚れのように、何もかもを弾き飛ばせたらいいのにと、理奈は心の中で思う。
 食器を全部洗い終えて、歯を磨くために洗面台へ向かう。その間にも智広と一瞬目が合ったような気がした。理奈は身震いして怯えるようにリビングを後にした。
 歯を磨き終え、パジャマに着替える(風呂は夕飯の前に入った)。疲れた身体でベッドの布団の中に潜り込むと、何とも心地いい感触がした。その柔らかさは、今ある苦痛をすべて解きほぐしてくれるようなものだった。理奈は布団の温かさに安堵して、ゆっくりと眠気が来るのを待ち続けた。
 朝が来た。目覚ましベルの鳴る音に少々うんざりしながらも、理奈は勢いよく起きた。
 パジャマの姿のまま洗顔をし、リビングへ向かった。そこには先に起きていた智広と佐藤が待っていた。おはよう、と互いに簡素な挨拶を交わし、理奈は佐藤の作ってくれた朝食を食べる。
「どう、理奈ちゃん? 新学期から一ヶ月たって、お友達はできた?」
 ふいに佐藤が朗らかな笑顔で訊いてきた。理奈は一瞬ギクリとしたが、すぐに平静を装って「うん、できたよ」と答えた。
「あら、何人くらい?」
「二、三人ほど」
「いつでも家に呼びに来ていいからね」
 すると智広がいやらしい表情を浮かべて言った。
「おい、佐藤。こいつの言うことなんか真に受けるなよ。どうせ友達作りそびれて、一人で窓の外でもぼーっと見てるに違いないんだからさ」
 図星を当てられて、理奈はまたもやドキリとしたが、智広に強い視線を送って黙らせた。
「何だよ。何か文句あんのかよ」
 智広は少々ひるみながらも、理奈に負けないくらいの強い視線を送ってきた。
「はいはい、二人とも、早く食べないと学校に遅れるわよ」
 喧嘩が勃発しそうだと感じ取った佐藤は、あわてて理奈と智広を急かした。二人は互いににらみ合いながら、朝食をむさぼりつくすように食べていった。
 制服に着替え、佐藤に見送られながら二人は玄関のドアを開いて外の世界へ踏み出した。二人は無言のままズカズカと歩いていく。分かれ道に差し掛かり、理奈は電車に乗るため駅のほうへ、智広は地元の中学へ行くためそのまま真っ直ぐに歩いていった。やっと離れられたと、理奈は一安心した。
 理奈の住んでいる地域は、地図から見るとちょうど東京都のど真ん中、府中市と立川市の間にある「木立(こだち)市」である。木立市は「駅のための都市」というだけあって、飲食店や洋服や、雑貨屋などさまざまなものが駅に直結している。出入り口は三つ合って、北側に位置する「中央口」、西側に位置する「西口」そして最も繁盛している東側の「東口」と分かれている。理奈の通う高校は、東口から徒歩五分程度のところにある「木立市立高等学校」。理奈は木立市の端のほうに住んでいるため、電車を使って一駅分行かないと高校に着けない。通学時間はアイポッドを使って音楽を聴いている。この音楽との時間だけが自分を癒してくれる。
 
木立市、東口にある東町は、三つの街の中で最も繁盛しているところであり、若者たちの文化の起点である。洋服や映画館、ショッピングセンターなど、ありとあらゆる娯楽がこの東町に凝縮している。そのため、休日には子どもも遊びまわり、家族連れが多く見える。また会社も数多くあるため、サラリーマンもこの町を行きかう。とにかくさまざまな人たちが共存しているのがこの東町なのである。
 西口、別名木立市西町は、図書館、本屋などが多くの場所に鎮座している、文化の町である。由緒正しいお嬢様学校やらお坊ちゃま学校やらが数多く並び、東町とはまた違った雰囲気を持つ、上品な町である。
 中央口、別名北口だが、木立市北町は、この三つの街で最も人の少ない、閑散とした町である。ずっと遠くに行った場所にある、私立の木立学園中学高等学校があるらしいのだが、この学校はどことも文化交流を持っていない、いわゆる「閉ざされた学園」と東町、西町の人間に言われている。店もマンションも少なく、この町に住んでいる人々は皆、どこか足元が見えないような不可思議な雰囲気に包まれている。町の感じがそうさせるのかはわからないが、とりあえず東町、西町に住んでいる人々は北町にはあまり行きたがらない。あそこはどこか不穏な気配がするからだ。あまりにも異質な空気が漂っているからだ。理奈自身も、北町のことについてはいまひとつよくわからない。わかろうとする気も起きなかった。

 木立駅に着いた。大量に人が降り、理奈も人ごみに押されるようにして駅のホームに立って歩き始めた。木立市は会社も学校も多い。そのおかげで駅は巨大なまでに広く、豊富な物品がたくさんあるのである。
 ホームを出て五分ほど歩くと、木立市立高等学校と彫られた銀色のネームプレートが見えてきた。木々の間から朝日がもれ出て、キラキラと輝いている。
 木立市立高校は建設わずか三年という、ごく最近にできた教育機関である。清潔な校舎と最新の設備、充実したカリキュラムと、聞こえのいい言葉で締めくくられていて、現在の三年生はこの学校の一期生で、理奈たち一年生は三期生だ。しかし誕生したばかりのためか、教師も生徒もまだ校風というものを掴めないらしく、どことなく戸惑ったような、浮き足立ったような空気が全体に満ちている。慣れない新校舎のため、順応性の高くない者は少なからず苦痛を強いられる。そう、理奈のように。
 私、このピカピカの校舎に憧れて、入学したんだよね。
 理奈はどことなくうつろな気持ちでぼんやりと校舎を見上げ、校門を通っていった。
 一年一組の教室に着き、ドアを開けた。途端に騒々しい騒ぎ声が耳を圧迫してくる。男子の集団はプロレスごっこをして遊んだり、女子たちはそれぞれの机でおしゃべりに興じている。
 この中で理奈に挨拶をする者はいない。智広の言う通り、理奈はここ一ヶ月の間で友達を作る機械をとうとう掴めなかったのである。積極的な子たちはいつも理奈を素通りして自分と同じタイプの仲間を見つけ、地味な子はまた地味な子同士で固まり、あっという間に女子のグループは出来上がっていった。理奈はいじめられているわけではない。無視をされているわけでもない。ただ、友達がいない。その事実が黒い鉛のように理奈にずしんと重くのしかかる。どうしようもないので、机に頬杖を着いて正面の上のほうにある時計を見続ける。これしか時間の過ごし方が見つからない。
 担任の教師がやって来て、ようやくホームルームが始まった。教師は今日の日程や注意事項などを告げると、さっさと教室を出て行った。また教室内はざわざわとし始める。この雑音がすべて自分に向けられているかのようだ。理奈は授業が始まることを切に望んだ。
 昼食の時間になった。教室の中に自分の居場所はないので理奈は弁当を持って席を移動する。ほかのみんなは理奈がいなくなることなど気にも止めていない様子で、楽しく笑い合っている。
 と、ふいに視線を向けられたような気がした。不思議に思い目をやると、まるで紅葉の色のような綺麗な赤茶色の髪が目に入ってきた。男子生徒だ。
彼は、雲雀(ひばり)秋(あき)。
 切れ長の目は真っ直ぐに理奈を射抜いていた。まるで聖者が悪人を裁くような、崇高な瞳が理奈を映し出している。理奈はまるで自分が悪人になったような気持ちになり、複雑な思いで教室を出た。
 何? あの人。どうしてあんな目で見られなきゃならないの?
 理奈は何だかむしゃくしゃして、自然と足が早足になった。
 渡り廊下を歩き、右へ曲がった。その時だった。
 ものすごいスピードで、男の子が走ってきた。理奈は咄嗟のことに避けられず、勢いよく彼と衝突してしまった。
悲鳴を上げて、理奈は思いっきり転んでしまった。相手のほうも思いっきり転んで、「いてて」とまだ声変わりが終わっていない、高くハスキーな声を出した。
「ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」
 男の子はぱっと立ち直り、腰が抜けている状態の理奈に手を差し伸べた。
「あ、はい、大丈夫です……」
 理奈も一応返答して、彼の手を握った。ぶつかったところが痛くてしょうがなかったが、我慢することにした。
 男の子は、かなり小さかった。理奈の身長とちょうど同じくらいで、一六〇センチほどしかなさそうだった。髪は、突き抜けたような明るい茶色だった。それに制服のシャツのボタンをおおっぴらに開けていて、そこからネックレスがちらりと見える。ズボンはだらしなくちょっと下がっていて、左耳に金色のピアスをしていた。
「あ!」
 急に男の子が声を張り上げた。理奈はびくりと肩をならした。
「膝! 傷ができてる!」
 男の子が指を差した場所を見てみると、たしかに右の膝小僧が少しすりむいていた。
「ああ、大丈夫ですよ、これくらい」
 理奈は簡単に答えた。実際、いつも智広との喧嘩でこの程度の怪我は負わされるので、大したことでも何でもなかった。
 すると男の子はおもむろに膝をついて、理奈の右膝に両手を当てた。いきなりのことに理奈は驚いて「何するんですか?」と叫んでしまった。
「ちょっと待ってて。すぐに『治す』から」
 男の子はそういうと、目を閉じて両手に力をこめた。
 瞬間、何か柔らかなものが、膝を包んでくれたような気がした。たちまち細胞が活性化し、皮膚が再生していくのを肌で感じ取った。不思議と恐怖は沸かなかった。
「よし! 終わり!」
 茶髪の男の子は元気な声で言って、立ち上がった。理奈は右膝を見てみた。そこにはきれいなすべすべの肌だけが残っていた。
「ど、どうして……?」
 理奈は戸惑いを隠せず、ぱくぱくと口を開け閉めしながら目の前の小さな男の子を見た。男の子は少し自慢げな笑顔で、言った。
「俺はね、天使なんだよ」
 理奈はあっけにとられて、しばらく口をぽかんと開けていた。
「そんなに驚かなくても」
 男の子が苦笑する。すると今度はぱっと思いついたように、手を当てて言った。
「ねえ、名前は何ていうの?」
 訊かれた理奈は、渇ききった口で、自分の名前を答えた。
「綾瀬さんか。俺はね、桜木(さくらぎ)雅弘(まさひろ)。覚えておいてね。あ、あと、このチカラのことは誰にも言わないでね」
「あ、は、はい……」
 理奈がおそるおそるうなずいたその時、けたたましい声が廊下から聞こえてきた。雅弘が気まずそうに後ろを振り向く。理奈は雅弘の向こう側を見てみた。すると数人の男子たちがギャーギャー喚きながらこちらに向かってきていた。
「桜木ぃ! 何逃げてんだよぉ!」
「プロレスに付き合えよお前ぇ!」
 たちまち男子生徒たちは雅弘を捕まえ、奇声を上げながら引きずり去っていった。しかし、理奈は聞き逃さなかった。雅弘が「またね」と言ったことを。
 気を取り直して、屋上へ向かった。ドアの前に「立ち入り禁止」と書かれた看板があり、理奈はそれを避けてドアノブを回した。ガチャンと無機質な音が響き、屋上への扉は開いた。ドアの鍵はずいぶん前から壊れている。おそらく誰かが壊したのだろう。
 屋上に立つと、何もない殺風景な気色が目に入ってきた。何メートルもありそうな高いフェンス。きっと自殺防止のためのものだろう。そしてところどころに苔むしたアスファルト。理奈はドアの階段を二段下がったところに座って弁当を食べるのが好きだった。今日もまた、一つのハプニングがあったが、平和に食事をとることができた。ここの平穏な空気は、理奈の孤独を優しく包み込んでくれるものがあった。理奈は一息ついて、分厚い雲に覆われた中で鈍く光る太陽を見つめた。
 ふと、理奈は夢想する。ここで「友達」と呼べる人と一緒に昼ごはんを食べている姿を。
『わあ! 理奈、その卵焼き美味しそうだね!』
『ねえ理奈、今日さあ、こんなことがあったの~』
 理奈は友達の言うことに優しく「ハイハイ」と応えてやる。友達は嬉しそうに理奈の顔を眺める。そんな風にして時間は楽しく過ぎていく……。
 馬鹿みたい。こんな妄想したって仕方がないのに。
 理奈は一人ぼっちで、冷たい北風が流れる屋上の階段に座り、ぼそぼそと弁当をつついた。

 昼休みも終わりに近づいてきた頃、理奈は教室へと戻った。そこに何と桜木雅弘がいた。男子と楽しくしゃべり合っていた。理奈と雅弘は同じクラスだったのだ。理奈は少々驚きながらも、自分の席に戻った。一瞬、雅弘と目が合った気がしたが、すぐにお互い反らした。
理奈は新学期から一ヶ月経っても、まだこのクラスの全員の顔を把握しきれていない。覚えられないのか、そもそも覚えようとする気が起きないのか。そのせいかどうかはわからないが、クラスメイトからも理奈のことは覚えられていないようだった。寂しい気持ちでいっぱいになったが、今さらどうこうすることもできなかった。
暇だったので、理奈は聞き耳を立てて雅弘たちの会話を盗み聞きしてみた。
「桜木、今度マンガ貸してくれよ。おもしろくなかったら承知しないからな」
「桜木~、数学の宿題見せてくれない? あとノートのコピーも頼む!」
「なあ桜木、ピアス開けるってどんな感じ? チビで痛がりのお前にしては思い切ったよな~」
 男子たちは皆、雅弘のことを話のネタにして会話を盛り上げていた。ある者は雅弘をどつき、またある者は雅弘の体型を冷やかして笑った。つまり雅弘は、「ネタキャラ」にされているのだった。
 やがて、この男子グループのボス、リーダー格の男子生徒が顔を出した。
「お、柊(ひいらぎ)、お帰り~」
 柊雪斗(ひいらぎゆきと)。少しウェーブした短い真っ黒な黒髪を指で撫でつけ、その奥の双眸は見る者を暗闇へと吸い込んでしまいそうなほどの深い黒だった。顔は切れ長の目に、筆ですっと描いたような形のいい眉。高く通った鼻筋。薄い唇。そこらへんの芸能人とは格段に違ったオーラを放っていた。背は一七五センチはありそうだ。肩幅も広く、同じ高校一年生とは思えないほど、ひどく大人びて見えた。今この瞬間も、彼に熱心な視線を浴びせる女子が大勢いた。彼自身もその視線をわかっているらしく、自慢げな顔で受け止めていた。
「桜木、いつも悪いな」
 そんな柊は雅弘を労わるような言葉をかけた。雅弘は「うん、いいよ」と笑って答えた。そんな仕草がまたいじらしくて、理奈は知らずときめいた。
 何で桜木君見てかわいいなんて思ってるの? 私ったら。
 それにしても、どうして雅弘はこんなグループに入っているのだろう。柊率いるこのグループは、間違いなくこのクラスの中でトップに値する立ち位置だった。ここのクラスの男子たちは皆、柊たちを恐れている。何か言われたら逆らえないほどの力を、柊たちは持っていた。
 私、あのグループ、嫌いだな。
 理奈は少し振り向いて視界の端に柊たちを映した。柊は美形だが下品な男で、今も最低な下ネタを言ってゲラゲラ笑っている。理奈は軽蔑の意を込めて大きなため息を一つついた。
 時間はゆっくりと、それでも確実に過ぎ、帰りのホームルームが終わって全員席を立った。理奈も席を立ち、学生鞄を引っさげて早足に教室を出た。理奈の日常はたいてい決まっている。いつも朝は学校に直行して、帰りは家へと直行する。どこへも寄り道をしない。寄り道とは、友達がいてこそ初めて成り立つものだと思う。
 理奈は席を立ち、幽霊のようにぼうっとしてクラスメイトたちの間をすり抜けていった。
 と、そこに、一人の人物が立ちふさがった。
 紅葉の色に近い、綺麗な赤茶色の髪。鋭い切れ長の目。その目に射抜かれるようにして理奈は立ち止まった。
 雲雀秋だった。
「……ひ、雲雀君?」
 理奈は動揺を隠し切れない顔で、あわあわと彼の名を呼んだ。
「……な、何?」
「桜木雅弘と、会ったのか」
 雲雀秋の声はひどく低くて野太い声で、もう成人の男性に近いものを感じさせた。
「う、うん。会ったよ。それがどうしたの?」
 理奈は努めて冷静な声で言った。雲雀秋はしばらく押し黙った後、「そうか」とだけつぶやいて、踵を返して教室を出て行った。
 理奈は何だかほっとして、今日はハプニングがたくさんあったなあ、と思った。

 電車に乗って、駅を一駅分乗ったところで降りる。そのまま真っ直ぐ帰路を歩き、曲がり角をいくつか曲がる。
 自宅のマンションが見えてきた。群青色の壁、群青色のドア。五階建てのささやかなマンション。そのわりに中はわりと広い。階段を上り、三階へと向かう。鍵を出して玄関のドアを開けた。そして中へ入った。
 自分の部屋へ向かおうとすると、佐藤がリビングルームから「理奈ちゃーん」と声をかけた。
 理奈は立ち止まり、「何?」と応えた。すると佐藤は一枚の封筒を手にして、おいでおいでと手招きをした。
 理奈は不思議に思って、学生鞄を肩に下げたままリビングルームに入った。佐藤は理奈に封筒を手渡し、小さな声で耳打ちした。
「お母様からの手紙よ」
「えぇっ? 本当?」
 理奈は驚いて、肩から学生鞄がずり落ちるのも気に止めなかった。急いで佐藤から手紙をひったくり、開けた。
母。ちょうど一年前、佐藤をホームヘルパーに寄こして、自分たちを置いていった母。あれからも月に一度は連絡を入れてくる母。父のことは一切話そうとしない母。それでも自分たちを、養育費で養ってくれている母。理奈は母のことを慕っていた。
 手紙の内容は、近況報告だった。
『理奈、久しぶり! 元気に過ごしてるかい? 智広にもよろしく言っといてねん! お母さんは今ね、会社で依頼人と大きな契約を結ぶことに成功したの! あんたたちににはまだわからないことかもしれないけど、これってけっこうすごいことなのよん! って、自分で自慢しちゃった(笑) 理奈は学校生活がんばってるー? ちゃんと食べてるー? 美しい身体と楽しい毎日は、規則正しい食事から! だからあんたも夜更かししないように気をつけな! それと、気が向いたらまた電話するからね。あ、写真は会社仲間と私でーす。じゃあまたねん! あんたたちが幸せであることを祈ってます(はぁと)』
 写真は、どこかの居酒屋で、大勢の社員と母が全員でピースをしているものだった。理奈はどこか笑えてくるとともに、胸の奥が熱くなってきた。
「理奈ちゃん、よかったわね。お母さんから手紙もらえて」
 佐藤が友達のような親密さで理奈に接してきた。理奈は「うん!」と元気よく返事をし、自室に戻った。
 机の引き出しの、一番大切なものをしまう場所に、母の手紙を入れた。そうすると母の手紙はまるで理奈の宝物に守られているようだった。
 理奈は満足な気持ちで、制服から普段着に着替えた。

 夕飯の時も、智広の暴言に何ら傷つくことはなく、むしろウキウキした気持ちで食べることができた。智広は「何だよ。気持ち悪いヤツだな」と眉を不快そうに寄せて、ご飯をたいらげた。理奈はここしばらくはご機嫌な気持ちで過ごせそうだと、魚の骨を丁寧に抜きながら思った。すべては母のおかげだ。
 夕ご飯を食べ終わり、皿をダイニングキッチンのシンクに持っていって洗う。皿を水につけた後は歯磨きをして、風呂に入って眠るだけだ。理奈は鼻歌を歌いながら皿を洗った。「おい、うるさいぞ」と智広の咎める言葉も耳に入ってこなかった。
 風呂に入り終わった後、髪を乾かして、パジャマに着替え、もう一度机の引き出しを開けて母からの手紙がちゃんと入っているのを確認する。手紙を見た後は、また気分が高揚した。
 これは、智広には秘密だ。私と母だけのメッセージなのだ。
 理奈は嬉しくなって、弾んだ気分のままベッドにもぐりこんだ。興奮しているせいでなかなか寝つけなかったが、たまにはこういうのもいいいか、と思った。

   ☆

 翌朝。
 理奈はいつものように起きて、パジャマ姿のままリビングルームに入る。智広はまだ来ていない。
 佐藤が用意してくれたクリームパンを頬張り、牛乳を飲む。遅れて智広もパジャマのままリビングルームに入ってきた。智広は佐藤には「おはよう」と挨拶をするが、理奈には冷たい視線を送るだけである。もう慣れていることなので、今さら何とも思わなかった。
 朝ご飯を食べ終わり、皿を水につけ、自室へと向かう。その間にも智広と目が合うことはなかった。
 自室に入り、パジャマから制服に着替え、学生鞄を肩に下げる。玄関に出て、待っていた佐藤に「行ってきます」と言い、玄関のドアノブを回し、開けた。
 まぶしい五月の日差しが、理奈の身体を照りつけた。今日は快晴だ。ジリジリと強い日差しが焼き付ける。これは紫外線が強そうだな、と理奈は一瞬思い、玄関のドアを閉め、階段を下りた。
 毎日、行きたくもない学校に行くため、足を駅の方向へと進める。今日も一日ヒマな時間を過ごすんだろうなあと思うと、気が滅入って仕方がなかった。だが休むわけにもいかないので、足は事務的に駅へと向かう。
 駅に着き、「木立行き」と表示された電子掲示板を見て改札口を潜り抜ける。ホームに立って、電車が来るのを待つ。
 人ごみの中で、自分と同じ学生服を着た人たちがまばらにいる。その中に、明るい茶髪の男子生徒を発見した。あれっと思ったが、それが桜木雅弘なのかどうかは判断できなかった。
 電車が滑り込み、人々は突進するように電車のドアの中へ雪崩れ込んだ。
 電車が発車し、一駅分走った。木立駅に着くと、人々は電車が止まる前からドア付近に集まり、我先にという顔をしている。やがて電車が完全に止まり、ドアが開くと、どっと人々は車内から飛び出た、理奈もそれに続く。まるで川に流れる魚のように、同じ動きをして人の間を流れ、改札口を通り、東口へと出る。
 理奈は辺りを見回して、自分と同じ制服の人たちを満遍なく見たが、もうあの明るい茶髪の男子生徒はどこにもいなかった。人に紛れてどこかへ消えていってしまったのか。それともあれは幻だったのか。理奈は落胆してとぼとぼと木立市立高校への道を歩いていった。
 学校に着いた。
 一年一組の教室のドアを開けて、いつもの自分の席に座り、頬杖を付いてぼうっと窓の外の景色を眺める。グラウンドでは野球部やらサッカー部やらが朝練している声が、遠くから小さく聞こえてきている。
 やがて教室内は喧騒に包まれ始め、理奈は教室の真ん中の机を陣取っている柊たちのグループを横目で見ていた。今日も派手な服装としょうがない下ネタで盛り上がっている。男子ってみんなこんなもんなのかなあと、理奈は少々失望する。理奈はまだ男子生徒とまともな会話をしたことがない。人見知りの激しい彼女にとって、人に、それも異性に話しかけることなど全く持ってできなかった。
 柊たちの話し声に気を取られていると、一人の柊の仲間が、教室のドアに向かって手を挙げた。
「おー! 桜木、おはよー!」
 桜木、という名前が出てきて、理奈は思わず教室のドアを振り返る。そこにはあの桜木雅弘がいた。
 あの日、不思議なチカラで、理奈の傷を治した彼がいる。
 理奈は雅弘に話しかけたい気持ちでいっぱいになったが、柊たちがいる手前それもできずに、ただぼんやりと彼の小さくて愛らしい姿を見つめた。
 雅弘も「おはよー」と柊たちと挨拶し、さっそく話のネタにされていた。
 桜木君、いつもこんな感じなのかなあ?
 理奈はふとそんなことを思い、いいや、どっちみち自分には関係のないことだと思い当たって、再び窓の外の景色を見始めた。
 
 時は確実に過ぎていき、昼休みの時間帯となった。
 今日も理奈は弁当袋を持って屋上へ行く。今日は桜木君とぶつかったりしないだろうか、と一瞬思ったが、何らそんなことはなく、平和に屋上へと付いた。何だ、ダメだったかあ、と落胆し、同時に自分の中に少しの期待があったことに驚く。一体桜木雅弘という人物に何を期待しているのか、自分でもよくわからなかった。
 いつものように階段を二段下がったところに腰掛け、弁当箱を膝の上に広げる。暑いほどの日差しが、アスファルトの上に叩きつけていた。理奈のいる場所は屋根が付いていて、自然と日陰になっていた。
 今日もいい天気だなあ。
 理奈はぼんやりとカンカン照りの太陽を、目が痛くならないように注意深く見つめながら、弁当箱をつついた。

 帰りのホームルームの時間となった。理奈は教師の注意事項をまたぼんやりと聞き流し、雅弘の席をちらちらっと見つめる。彼は教師に見られないよう注意しながらケータイをいじっているようだった。その姿を見ていると、どこにでもいる普通の高校生に見える。理奈は雅弘から視線を外して、教師の言葉に聞き入ることにした。
 教師は最後の注意事項を言い終え、「本日はここまで!」と声がかかると、同時に皆はわあっと騒ぎ出し、この気だるい鬱屈な時間から解放された喜びをふんだんに表した。理奈はさっさと学生鞄を下げ、仲良くしゃべり合っているクラスメイトたちの間を縫うようにして避けて通る。理奈に授業から解放された喜びを分かち合ってくれる人は誰もいなかった。いつものことだ。しょうがない。
 理奈は一人で、生徒たちであふれる廊下を渡り、玄関で靴を履き替え、木立市東町をどこにも寄り道せずに真っ直ぐと歩いていった。
 
 電車に乗り、下車する駅に着いて、ホームに降り立ち、改札口を抜ける。曲がり角をいくつか曲がると、理奈の住むマンションが見えてくる。
 群青の色をした、五階建てのエレベーターのない小さなマンション。小さいわりに中は意外と広い。そのマンションの中に入る。階段を三階まで上り、自宅の鍵を取り出して、ドアノブに入れ、回す。ガチャリといかにも安いマンションのような軽い音が響いた。
 自室に向かおうとすると、中から、何やらゴソゴソと物音がした。何だと思ってドアを開けると、智広が理奈の自室を漁っていた。
「何やってんのよ、あんた!」
 叫ばれた智広は眉間に皺を寄せて、かったるそうに吐き捨てた。
「うるせーな。マンガ探してんだよ。あっち行ってろ」
「あんたのマンガなんて、私の部屋にあるわけないじゃない!」
「昔、俺らが小っちゃかった頃、お前にマンガ貸したような気がしたんだよ! 俺に部屋荒らされたくなかったら普段から綺麗にしとけバーカ」
「もう、わかったわよ! 私が探すから出て行って!」
「俺のマンガ知らないのに探せるわけねーだろ。出てけよ」
「ここは私の部屋よ!」
「つまんねーことピーピー言うな」
 ラチがあかない。理奈は涙目になって髪をクシャリとしながら、つい口走った。
「お母さんがいてくれたら……」
 途端、額にゴンっと鈍い衝撃が走った。額は一瞬熱くなり、次にジンジンとしたうずく痛みに変わっていった。
 智広に、厚さ何センチもある雑誌を角でぶつけられたのである。
 あまりのことにポカンと口を開けていると、地獄の底から遠吠えするような声が走った。
「二度と、親の名前を口にすんじゃねえ」
 智広は憎しみの篭もった瞳で、理奈をにらみつけていた。そしてマンガ探しはやめたらしく、理奈の横を素通りしていった。
「どうしたの? 何かあったの?」
 奥の部屋から佐藤がおそるおそる話しかけてきた。
「なんでもないよ。佐藤さん」
「理奈ちゃん! おでこから血が!」
 佐藤はあわあわと理奈の額を指差し、棚から救急箱を急いで取り出した。額に手を当ててみると、ヌルリとした感触がして、手を放すと、確かに真っ赤な血が手のひらの中で蛍光灯の光を反射して輝いていた。
「なんでもないよ。これくらい」
 理奈は明るく答えてみせたが、佐藤は気の毒そうな様子で理奈の額に消毒液を塗り、絆創膏を貼った。
「……また、智広くんなの?」
「……まあね。でもこんなこと日常茶飯事でしょ?」
「……そうね」
「私、ちょっと風に当たってくるね。さすがにこのまま家にいるの億劫になっちゃった」
「気をつけてね」
 佐藤は優しく理奈を送り出した。理奈はシューズを履き、玄関のドアノブを強く回した。行き場のない感情をそこに凝縮するように。
 ドアを開いた。そして理奈は仰天した。
 マンションの真向かいにある大きな戸建ての家の前に、見知った顔があった。その人物は今まさに家の鍵を開けようとしているところで、あわてて理奈は声をかけた。
「桜木君!」
 名を呼ばれた雅弘は後ろを振り向いて顔を上げた。彼は少々驚いた顔になり、次ににっこりと破顔した。
「また、偶然だね」
 理奈はあわてて答えた。
「そ、そうだね」
「綾瀬さんはそこに住んでいるの?」
「そうだよ。桜木君はこの家? 大きいね」
「あはは。ありがとう」
「ほぼ真向かいだね。桜木君がこんなに近くに住んでいるの気づかなかった」
「俺もだよ」
 そこでぷつんと会話の糸が途切れた。二人はしばし見つめ合ったまま、微動だにしなかった。分厚い雲の間から、柔らかな五月の日差しが、ぽかぽかと二人を暖めていた。
 やはり、あの時見たのは幻ではなかったのだ。あれは間違いなく雅弘の姿だったのだ。勇気を出して声をかければよかったと、理奈は今さらながら後悔した。
「ねえ」
 ふいに雅弘が口を開いた。
「よかったら、俺の家に来ない?」
 ドクンと心臓が音を立てて鳴ったのが、耳元で聞こえた気がした。なぜ鳴ったのか皆目検討がつかなかったが、とにかく自分が密かに興奮しているのだけは理解できていた。気づいた時には、口が勝手に言の葉を乗せていた。
「うん。行く」
 理奈は急いで階段を下り、雅弘の元へと向かった。その様子を智広が自室のカーテンの隙間から覗いているとは知らずに。
「本当にいいの? お邪魔しちゃって」
「いいよ」
 雅弘がどんな意図で理奈を誘ったのかはわからない。ただ、彼に誘われて、嫌な気分は少しもしなかった。むしろ心が躍るくらいだった。
 門を開けて、小さな中庭に入る。庭にはかわいらしいチューリップの花が咲いている。ほかにも大小様々な花々が植えられていて、ちょっとしたガーデンハウスのようだった。
「おしゃれだね」
「母親がガーデニングが趣味でさ。しょっちゅう庭に出ては花を植えてんだ」
「かわいらしいお母さんだね」
「そうかあ?」
 理奈と雅弘は笑い合いながら二、三段ある階段を上り、玄関のドアへと行き着いた。雅弘が学生鞄をゴソゴソと漁り、奥底から黒のキーケースを出した。
「高そうなキーケースだね。いつもそこにしまってるの?」
「ああ。あいつらに見つからないように、鞄の一番奥の内ポケットに入れてるんだ」
「あいつら」という言葉が何を意味しているかは、理奈は痛いほど理解できた。
 雅弘はキーケースを開けて鍵を取り出し、二重になっている鍵穴を、まず一つ差し込んで回し、次に上のほうの鍵穴に差し込んで回した。ガシャンと何やら荘厳な音がした。
「どうぞ」
 雅弘は扉を開けて、紳士的に理奈を促した。理奈はおずおずとしながらも、勇気を出して家の中へ入った。理奈のすぐ後に雅弘も入り、ドアは開いた時とは逆の静謐な音を立てて閉まった。
 先に雅弘が靴を脱いでフローリングの床に足を置いた。「綾瀬さんもおいでよ」と言うように、右手をちょいちょいっと手招きする。理奈も彼に続いて靴を脱ぎ床に立った。フローリングの冷たい感触が足の裏に伝わり、それが何だか心地よかった。
 雅弘はスリッパを用意してくれた。理奈は「あ、ありがとう」としどろもどろになりながらそれに足を通した。雅弘もスリッパを履き、二人で長い廊下を渡った。雅弘は廊下の突き当たりのドアに手を伸ばし、開けた。そこは広いダイニングキッチンとリビングルームだった。とても気持ちよさそうなソファーが小さなテーブルを挟んで二つずつ並び、横には五十インチの薄型地デジテレビがある。ダイニングキッチンのほうには、高級そうな食卓テーブルと、これまた座り心地がよさそうな椅子。さらに奥へと進むと綺麗なキッチンルームがあった。
 雅弘が部屋の電気をつける。すると眠っていた家具たちは、まるで生命を与えられたかのように確かな存在感を見せた。理奈の目には、何もかもがキラキラして映った。
 雅弘は紅茶を淹れてくれた。お互い向かい合ってソファーに座り(やはり座り心地は最高だった)、紅茶を少したしなめた。しばらくの間黙り、紅茶の美味しさに酔いしれることにした。
「おでこ、どうしたの?」
 雅弘が訊いてきたところで、理奈は忘れかけていた額の傷に気がついた。
「ちょっと、弟と喧嘩して、物をぶつけられちゃったの」
「……ひどいね」
 雅弘の言った言葉が理奈の怪我に対してなのか、理奈の弟に対してなのかはわからなかった。
「治してあげるよ」
 ふいに雅弘は席を立ち、理奈のほうに近づいた。理奈の額に手をかざすと、あの時と同じ感覚、皮膚が再生していき、柔らかなものに守られているような感覚が走った。
雅弘が手を放すと、理奈の額の傷は元通りに治っていた。
 ふと、理奈の頭の中に疑問が浮かんだ。今も、そしてあの時の、足の怪我を治してくれた雅弘の能力。俺は天使なんだよと笑って言った、彼。
「ねえ」
「ん?」
「今の私の怪我、どうやって治したの?」
 理奈は思い切って質問してみた。
「どうやってって、そのまま手をかざしたんだよ」
 雅弘は軽く交わしてしまった。理奈はめげずに質問をぶつける。
「たったそれだけで、傷を治せるはずがない。どうやったの? 本当は何か仕掛けがあったんでしょ?」
 問いかけると、雅弘は一瞬困ったように笑い、おもむろに右腕の袖を引っ張って、右肘を見せた。
「ちょっと見てて」
 雅弘はそう言うと、左手を右肘にかざした。すると彼は少し顔をゆがめて、痛そうな表情をした。左手を外すと、何と彼の右肘に小さな傷ができていた。
 理奈は驚きのあまり、言葉も出なかった。
「次に見ててね」
 雅弘は言って、再び左手を右肘にかざした。そしてずらした後にはもう傷は跡形もなかった。
「ど、どうして?」
 理奈は目を白黒させて、目の前の現状に戸惑った。一体どうやって。その言葉が頭の中を反芻していた。
「これはね、チカラなんだよ」
「チ、チカラ?」
「うん。能力。俺の一族伝統の、人に傷を与える、そして人の傷を癒す能力なんだ」
「一族……」
「うん。俺の一家はね、みんな親戚同士で結婚するんだ。なるべく能力が拡散しないように。能力の輪が広がると、世間が騒ぎ始めるからね。いろいろと面倒なことになるから、なるべくひっそりと暮らしているんだ」
「そ、そうだったの……」
 理奈は必死に言葉を探して、そして言った。
「ひ、人に傷を与えるって、何だか怖いね」
「うん、怖い。これで人を殺すこともできるから」
 理奈は手にしていたティーカップを思わず落としてしまいそうになった。
「殺す!?」
 雅弘はあくまで穏やかな笑みで言った。
「もちろん、そんなことはしないよ。一族の間で固く禁じられている。ただ、そういう能力もあるっていうことだけ」
「そ、そっか……」
 すると再び理奈の中に疑問が沸いてきた。
「なら、どうしてあんな連中と付き合ってるの? 無視したらいいじゃない」
 言われた雅弘は少し悲しそうな表情になって、うつむいた。そしてぽつりと言った。
「女の子の君には、わからないことだよ」
 それきり雅弘は黙った。理奈は何か悪いことを言ってしまったような気分で、残った紅茶をすべて飲み干した。
 しばし、沈黙が訪れた。さっきまで圧倒的な存在感を見せつけていた家具たちは、急にしょぼんとして体を小さく丸めてしまったように思えた。
「綾瀬さん」
ふと、雅弘が口を開いた。
「え?」
「どうして、君はいつも一人でいるの?」
 自分の核心を突かれてしまったような、そんな痛みが理奈の胸に走った。
「……単に、友達を作りそびれちゃっただけよ」
 本当は、少し違う。理奈は人に話しかけるのが怖いのだ。何か言ったら智広みたいに冷たい目で返されるのではないか。そんな思いがどこかにあって、理奈はなるべく人を避けていた。一人の時間にもだいぶ慣れてきたところだった。
 と、雅弘から意外な言葉を聞かされた。
「じゃあ、俺がなろうか? 友達に」
「…………え?」
 雅弘はあくまで爽やかな笑顔で、紅茶を啜った。
「いつもどこで食べてるの? お弁当」
「……あ、いつもは屋上で……」
「屋上? あそこ人入れるんだ」
「うん。ずいぶん前から鍵は壊れてるよ」
「へえ、屋上かぁ。いいなぁ。俺も一緒に食べたいけど、無理だな。あいつらがいるから」
「……そうだね」
 雅弘にとって「あいつら」がどれほど足枷になっているのだろう。理奈は雅弘にその足枷を取っ払えばいいと言ったのだが、女の子にはわからないと返されてしまった。女にわからないことというのは何だろうか。男は何をもって生きているのだろう。
「ねえ! これからは放課後に屋上で会おうよ!」
 雅弘が手をパンと叩いて理奈を誘った。誘われた理奈は驚いて、持っていたティーカップを再び落としてしまいそうになった。
「ほ、放課後に……?」
「うん! ダメだったかな……」
「ううん! ダメじゃないよ! ただ、どうして私にそこまで優しくしてくれるのかなって……」
「どうしてって……」
 問われた雅弘は少し顔を赤くして、戸惑いがちにうつむき、頭を掻いた。
「気が合うかなって、思ったんだ」
 雅弘はぽつりとそう言って、再び黙ってしまった。理奈は気が合うと初めて人に言われたので、驚きとともに嬉しさが込み上げてきた。
「ありがとう、桜木君」
 礼を言われた雅弘は、複雑そうな顔をしながらも、笑顔で「いいよ」と言った。
 その時だった。
 ピンポーン、とインターホンが鳴った。その音は無機質で、どこか氷のような冷たさを帯びていた。理奈は知らず背中がぞっとした。
「はい」
 雅弘が受話器を取って出る。「ええ、はい、あ、いますよ。今ここに」理奈を振り返っては受話器に向かってしゃべる。玄関の向こうにいるのは一体誰なのだろう。まさか。
「綾瀬さん。弟さんが来てるよ」
 やはり。予感は的中した。けれどなぜ自分がここにいるのがわかったのだろう。そしてなぜ来たのだろう。
「わ、わかった」
 理奈はくじけそうになる心を何とか奮い立たせながら、ソファーから立った。紅茶を片付けようとしたら雅弘に「そのままでいいよ」と言われたので仕方なく元に戻す。そして脱いでいたパーカーを羽織り、玄関まで歩いていった。雅弘も後ろからついて来てくれた。そのことが少しでも自分を勇気づけられそうだった。
 扉を開けると、満面の笑みを貼りつかせた弟が立っていた。そして慇懃な姿勢で頭を下げた。
「姉がご迷惑をおかけしまして、どうもすみません」
「いえいえ、そんなことはないですよ」
 雅弘は何の疑いもせずに笑って手を振った。今ここで弟の本性を暴いてやりたい気持ちになった。
「帰るぞ、理奈」
 智広は敷居をまたいで理奈の手をぐいっと引っ張った。あわてて靴を履き、雅弘のほうを振り返る。
「待って、智広」
(助けて。桜木君)
「綾瀬さん、また明日ね」
「う、うん。バイバイ」
 理奈の必死の叫びも虚しく、雅弘は遠のいていった。そしてバタンと冷徹な音を立てて扉が閉まると、ガシャリとこの世の終わりのような鍵の閉まる音が理奈の耳に響いた。
 智広は理奈のほうを向かず、ただ前だけを見つめてズンズンと歩いていった。理奈の手を乱暴に引っ張って。
 やがて真向かいのマンションに戻った。三階のドアノブを回し、閉めた。雅弘の家とは打って変わってカチャンと軽く渇いた音だった。
 途端、智広は豹変して、理奈をドアの部分に押し付けた。
「おい」
「な、何よ」
「この家のこと、何も言ってねーだろうな」
「何も言ってないよ」
 智広は理奈の震えた声を聞くと、満足したように理奈を放して自室へと向かっていった。
 理奈は力が抜けて、その場でうずくまってしまった。
 智広。あなたはどうしてそうなってしまったの。
 力の抜けた腰を何とか持ち上げて、よろよろと自室へと向かう。自室は智広に荒らされたまま、まるで盗人でも入ったかのような有様になっていた。理奈はため息をついて、順番に物を片付けていく。洋服をしまい、本棚を直し、ばら撒かれたファイルを元通りにする。最後に部屋の隅に葬られていた分厚いフォトファイルを元の場所に戻そうと手を伸ばす。片手で掴んだため、自然とファイルはパラリと開かれた。
 そこに写っていた写真に、目を奪われた。
 母と、理奈、そしてまだ小さな智広が母に抱かれて笑っていた。三人とも。写真を撮ったのは父だろうか。次の写真は家族四人、全員揃った写真だった。みんな満面の笑みで、東京タワーを背景にして佇んでいる。幸せそうな笑顔だった。
 理奈はその二枚の写真に釘付けになった。次のページをめくってみる。五歳ごろの小さな智広が、理奈と一緒に写っている。二人とも寄り添いあうようにして、まるでお互いがお互いを必要としているかのように穏やかな笑みを浮かべていた。
 たまらず理奈の目に涙があふれてきた。
 ねえ、私たちはどうしてこうなってしまったの。
 涙は止まることを知らず、ポタポタと水滴となってアルバムの上に落ち、溜まっていった。

   ☆

 翌朝。
 理奈は重い頭を抱えて食卓に着いた。智広と顔を合わすのが気まずかったが、当の本人は何ら変わりなく呑気にトーストを齧っていた。
 理奈は席に着いて、クリームパンを頬張る。カスタードクリームの甘い味が口の中に広まって、一瞬だけ頭痛を忘れさせてくれた。昨日、泣いたせいか、頭の痛みが治まらなかった。これも雅弘に言えば治してくれるのだろうか。
「あれ? 理奈ちゃん、おでこの傷はどうしたの?」
 唐突に佐藤が不思議な顔をして理奈に尋ねた。ドキリとして言葉を探していたが、何も出てこなかった。
「えっと……。えっと……」
「まあ、そんなに大した傷じゃなかったのかしらね」
 佐藤は一人納得して、二人の弁当作りに戻っていった。理奈は心底ほっとした。
 朝食を食べ終え、佐藤から弁当を渡されてリビングを出る。自室に入り、制服に着替え、学生鞄に弁当箱を押し込み、肩に下げる。行く支度が整って玄関に出た。智広は中学が近いため、もう少し遅い時間に家を出る。もっともそれは口実で、理奈と一緒に家を出たくないだけかもしれないが。
 ドアノブを回し、力を込めてドアを開く。今日は曇り空で、少し雨の降る気配がした。
 階段を下り、マンションの前に出ると、ちょうど真向かいの大きな家から雅弘が出てきたところだった。
「桜木君……」
 理奈は何だか嬉しくなって彼の名を口ずさんだ。いつの間にかこんなにも好意的に彼のことを思っているなんて、自分でも不思議だった。
 雅弘も理奈のほうに気がついて、にっこりと笑って言った。
「ここまで偶然が重なると、すごいね」
「そうだね」
「一緒に学校行こうか」
「うん!」
 雅弘との会話が楽しくて、頭痛はどこかへ行ってしまったようだった。昨日、アルバムを見てあんなに泣いた自分も、雅弘と会った今では幻のように感じられる。
「綾瀬さん、昨日言ったこと覚えてる? これからは毎日放課後、屋上で会おうって」
「うん。覚えてるよ」
「今日がその第一日目だね。お互い近況を話そうね」
「そうだね」
 二人でいろいろなことをしゃべっているうちに、駅に着いた。ホームは相変わらずの人だかりで、理奈と雅弘は何とか人の間を縫って進み、ホームにたどり着いた。
 すぐに電車が滑り込んできた。プアンとクラッシュの音をたなびかせて、人を押し切るようにして止まった。扉が開いたと同時に、人が中へと殺到していく。理奈と雅弘も人の流れに押されながら、電車内に入っていった。
「いつもすごいよね。この駅は」
 雅弘が若干辟易しながら言った。
「木立駅はもっとすごいよ。特急も止まるもん」
 理奈は雅弘と少し密着状態になっていることにドキドキしながら、なるべく平静を装って言った。
「……あのね、綾瀬さん」
「ん? なぁに?」
「木立駅に降りたら、別々に歩こう? それで別々のドアから教室へ入ろうよ」
「……え?」
「綾瀬さんを、あいつらに近づかせたくないんだ。……いいかな?」
「……うん、わかった」
 雅弘は安心したようにほっと一息ついて黙った。理奈は少し寂しさを感じながらも、今ここで雅弘と一緒にいられることに感謝した。
 電車が、木立駅に着いた。ドアが開くと、人々が我先にと出口へ押し寄せ、理奈と雅弘は流れに巻き込まれながらホームへと降りた。
「じゃあね。綾瀬さん」
「……うん」
 雅弘はあっさりと理奈に向かって手を振ると、一足先に駅の改札口を出て、瞬く間に遠くへ行ってしまった。男の子の歩く速度はあんなにも速いのか。理奈は途端に寂しさに見舞われた。
 仕方がないと思い、理奈も改札口を出て木立市立高校へと向かう。川の稚魚のように流れてくる人々に間を合わせながら、ぶつからないように歩いていった。
 
一年一組の教室に着くと、すでに雅弘が柊のそばにいた。彼は柊に英語の宿題を見せてやっている最中だった。
「サンキュー、桜木! いつも助かるよ」
「ははは」
 柊に肩をポンと叩かれた雅弘は、少し誇らしげな顔さえ見せて笑った。理奈はそれが何だか気に食わなくて、雅弘たちを素通りして自分の席に座る。そしていつものように頬杖をついて、ぼうっと窓の外の景色を眺め始めた。しかし顔は窓の外のほうに向けられても、耳は自然と雅弘たちのグループに吸い寄せられていった。
「桜木ぃ~、俺にも宿題見せてくれよ」
「うん。いいよ~」
「桜木、また売店行ってあのパン買ってきてくれねぇ? 金は出すからさ」
「わかった~」
「桜木ぃ~、昨日のプロレス付き合えよ」
「もう、しょうがないなあ」
 訊けば聞くほど、雅弘は自分が都合のいい道具になっていることに慣れてしまっているようだった。理奈は雅弘に対して少しの失望感を感じた。嫌なら嫌と言えばいいのに。なぜ雅弘はあんなグループに甘んじているのだろう。
 そうこうしているうちに、朝のホームルームが終わり、午前の授業が終わり、昼休みの時間になった。理奈はいつも通り弁当箱を持ち出して教室を出ようとした。その時だった。
「綾瀬さん」
 後ろから、女の子二人の高らかな声がした。振り返ってみると、髪を明るい茶色に染めた、さらさらのロングヘアの活発そうな女の子と、顔にそばかすが走った、長い黒髪を二つに結った大人しそうな女の子がいた。
「あ……えっと……」
 突然のことに理奈は二人の名前が出てこず、しどろもどろになった。活発そうな女の子はにっこりと優しく微笑んで
「松田(まつだ)夏(か)帆(ほ)だよ」
と言った。そしてもう一人の大人しそうな少女は、か細い声で
「伊(い)織(おり)華(か)澄(すみ)です」
と言った。
 理奈はどうしてこの二人が自分に声をかけたのかがわからなくて、しばらく立ち往生していた。すると夏帆と答えた女の子は再び笑って、言った。
「一緒にお昼食べない?」
「……え? 私と?」
「うん!」
 理奈は仰天してしばらく声が出てこなかった。ここ一ヶ月間、理奈は誰にも話しかけられず孤独な日々を送っていた。それがどうしてこんな展開になるのだろう。
「あ、ありがとう。松田さん、伊織さん」
「あ、夏帆と華澄でいいよ。ウチらも理奈って呼ぶからさ」
 夏帆は白い歯を見せて爽やかに笑って言った。クラスメイトに「理奈」と呼ばれたのは初めてのことだった。
「じゃ、じゃあ、夏帆と、華澄……」
 理奈はおずおずと口に出してみた。途端、二人の顔がぱあっと色鮮やかな花が咲いたように輝いた。
「やっと仲良くなれた! ウチら、理奈と友達になってみたかったんだあ! ねえ華澄?」
「うん! すごく嬉しい!」
 二人は素直に感情を表現して、夏帆は理奈の手を取った。理奈は少々ビクリとしたが、悟られないよう気をつけた。
「あそこの机で食べよう!」
 夏帆は三つに固まってある机を指差して、理奈の手を引っ張った。夏帆の手はほどよく温かくて、雅弘とはまた違った温もりがあった。三つの机にそれぞれ着く。理奈は夏帆と華澄の間に挟まり、少々緊張した。いや、少々どころか今にも心臓が大爆発をしそうだった。
「じゃあ、食べよっか!」
 夏帆が元気よく自分の弁当箱の蓋を開けた。華澄も、理奈も続けて開ける。中身は佐藤の作ってくれた、いつもと変わらないメニューだった。
「うわあ、理奈、おいしそうじゃん」
 夏帆がさっそく身を乗り出して、理奈の弁当の中身を見た。
「い、いつもと同じだよ」
 理奈はドキドキしならも夏帆の肩をポンと叩いてはぐらかした。
「二人のほうこそ、おいしそうだよ」
 瞬時に二人の弁当の中身に目を通して、言ってみる。夏帆は「え~、つまんない料理だよ」と言い、華澄は遠慮がちに「私も理奈ちゃんみたいに豪華じゃないから……」と肩を縮こませた。 
教室内はさまざまなグループで分かれて昼食をとっていた。こうして見ると、教室にはこんなにたくさんの人数がひしめき合っていたのだということを知る。あちこちで笑い声や叫び声が走り、まるで動物園のようだと理奈は思った。昼休みの教室は、いつもこんな喧騒に包まれていたのか。
ふと、視線を感じた。振り返ってみると、また雲雀秋がこちらをにらむように見つめていた。切れ長の目。あの目に焦点を当てると、自分の奥底の何かが射抜かれるような錯覚を覚える。理奈は気味悪くなって、急いで弁当の中の真っ白いご飯を一口食べた。
次に雅弘のほうに視線をやる。彼は柊たちに買出しを命じられたようで、両腕にあふれるような食材を持って戻ってきた。
「サンキュー、桜木。金は後で渡すわ」
「もう、そう言いながら昨日も渡し忘れてたじゃん」
「え、そうだっけ? まあまあ、今日は絶対忘れないから」
「しょうがないなあ」
 雅弘と柊の会話を盗み聞きしているかぎり、柊が雅弘に金を払うつもりは一切ないらしい。理奈は雅弘が気の毒に思えてならなかった。それと同時に急にできた二人の友達に、感謝の意を示したくてならなかった。
「ねえ」
 勇気を出して理奈は訊いてみた。
「ん?」
「何? 理奈ちゃん」
 二人はそろって理奈の漆黒の瞳を真正面に捉えた。
「どうして、私と友達になりたいって思ったの?」
 理奈の心臓はバクバクと激しく鳴っていて、鳴りすぎていつか停止してしまうのではないかと思うほどだった。
 二人は顔を見合わせ、それから吹き出して理奈のほうを見た。
「かわいいから!」
 声をそろえて言った。理奈はずっこけそうになった。
「そ、そんな理由? てか、私かわいくないよ……」
「何言ってんの! そうやって自分を卑下するのよくないよ!」
 夏帆は少し怒ったように言った。
「そうだよ、理奈ちゃんは充分かわいいよ」
 華澄も春の野原のような微笑ましい柔らかな声で言った。
「あ、ありがとう……」
 理奈はたちまち照れて、耳まで顔が赤くなってしまった。それを見て再び二人は声をそろえて「かわいー!」と言った。

 突然に、幸せが舞い落ちてきたような感じだった。
 授業中、二人とちょっと目配せしたり、十分休みには自然と理奈のところに二人が来てくれたり、理奈にとってはとてつもない幸福だった。もう自分は一人ではないのだ。
 時間は過ぎ、帰りのホームルームがやってきた。担任の教師が必要事項を簡単に述べ、「それでは、今日はここまで」と言うと同時に、全員が席を立った。夏帆と華澄は真っ先に理奈のところへやって来て、「一緒に帰ろう!」と言ってきた。理奈は嬉しさでいっぱいになったが、雅弘との約束を忘れてはいなかった。
「ごめんね、放課後はいつも用事があるから」
「じゃあ、終わるまで待ってるよ」
 夏帆は軽い調子で言った。華澄もうんうんとうなずいている。
「いや、それは悪いよ。かなり時間かかると思うし、先に帰ってて」
 理奈が手を合わせてお願いすると、二人は顔を見合わせて、少し寂しげな表情を見せながらもうなずいた。
「わかった。じゃあまた明日ね! 理奈!」
 夏帆が元気よく手を振った。
「理奈ちゃん、バイバイ」
 華澄が遠慮がちにぎこちなく手を振った。
 二人の姿が教室から消え、理奈は一気に力が抜けて椅子に落ちた。緊張したが、とても楽しい一日だった。
 次は雅弘だ。
 理奈は逸る心を落ち着かせながら、生き生きと屋上までの階段を上った。
 屋上の扉を開くと、雅弘はすでに到着していて、「こんにちは」と笑顔で挨拶をした。理奈も同じく「こんにちは」と返す。
 階段を二段下がったところに座る。雅弘の横に座ると、何だか胸がドキドキする。どうしてだろう。
「今日は、どんな一日だった?」
 雅弘が訊いてきた。
「あのね、二人の友達ができたの!」
 理奈は心底嬉しそうに、まるで初めて自転車に乗れた子どものように今日のいきさつを話した。何もかもが新鮮で、鮮明だった。
 ところが雅弘の表情は翳っていった。何か問題のある発言でもしたのだろうかと、理奈は不安になった。
「桜木君、どうしたの?」
「松田と伊織だろ? 話しかけてきたのって」
 雅弘は驚くくらい低い声で言った。
「う、うん。夏帆と華澄だよ」
「あいつらは、柊たちの腰巾着だ」
 何を言っているのか、理奈にはわからなかった。ただ、雅弘がとてつもなく怖い顔をしているのだけは理解できていた。
「……何言ってるの、桜木君?」
「本当だよ。あの二人は、柊を崇めている。あいつの強さ、リーダー性に惚れ込んでるんだ」
「で、でも、今日一日は、一度も柊に近づいてこなかったよ」
「君をハメようとしているんだ、きっと」
 雅弘の言葉に理奈はショックを受けるしかなかった。あの二人がなぜ自分を。自分なんかに。
「な、何の目的で?」
「それはわからない。でも信じてくれ。あの二人は注意したほうがいい」
「注意って……」
 理奈はどうしていいのかわからなかった。雅弘、夏帆と華澄、どちらに心を開けばよいのだろう。
「綾瀬さん、俺のこと、信用できない?」
 雅弘が泣きそうな表情で理奈に訴えかけてきた。
「そんなことない! そんなことないけど……!」
 それならば、なぜ雅弘は柊たちの傘下にいるのだろう。
「ならどうして、桜木君は柊たちのグループにいつまでもいるの? 本当は、あの人たちのこと嫌いなんでしょ?」
 問われた雅弘は困ったように目を左右に動かし、ハア、と深いため息をついた。
「前にも言ったように、女の子の君にはわからないことだよ」
「それじゃ、私はどっちを信じたらいいのかわかんないよ!」
 理奈はたまらず叫んだ。はっきり答えを提示してくれない雅弘。いきなり声をかけ、友達になろうと誘ってきた夏帆と華澄。どちらが真実を握っているのか、どちらが正しいのか、判断する術を失っていた。いや、最初から持っていなかった。
 雅弘は傷ついたような表情になり、うつむいてしまった。
「今日は、これくらいにしよう」
 心の底から落胆したような雅弘の声が、空中に虚しく響いた。理奈も逆らう気にもなれず、コクリとうなずいた。
 空は薄暗く、今にも雨が降り出しそうだった。

 帰りの電車の中は互いに黙っていた。気まずく、目を合わす気にもなれない。
 二人で沈黙しているうちに駅に着いた。流れ出る人の動きに合わせて、二人とも泳ぐように人の間を歩く。改札口を抜け、駅を出る。
 途端に雨が降り出した。最初はポツ、ポツ、とだった雨音が、急にザアっとした滝の流れのようになった。理奈は急いで学生鞄の奥底から折り畳み傘を出し、差した。ふと横を見ると、雅弘は何も用意していないようで、流れ落ちる雨に身を任せていた。
「はい」
 理奈は迷わず自分の傘の中に雅弘を入れた。雅弘はばつが悪そうな顔をして「ごめん」とだけ言った。
「何で謝るの?」
「いや……今日はいろいろと失礼なこと言ったから」
「失礼だなんて、思ってないよ、私」
 けれど雅弘はうつむいたまま、口を閉じてしまった。再び重い沈黙が二人の間に落ちる。理奈は心配そうに雅弘を横目で見ながら、とぼとぼと帰路を歩いていった。
 やがて二人の家が見えてきた。雅弘は「もうここでいいよ」と言って、理奈の傘から離れた。それから鞄を頭の上に乗せ、走って家の玄関の前まで行った。雅弘が鍵を取り出して、扉を開け、姿が見えなくなるまで、理奈は彼のことを見つめ続けた。
 しばらく雅弘の家を見ていたが、諦め、何を諦めたのかは自分でもわからなかったが、理奈はマンションの階段を上っていった。三階のところで止まり、鍵を取り出してドアノブに入れ、回す。ガチャンと、雅弘の家の扉とは打って変わった安っぽい音がした。
 玄関のすぐ横のところに智広の自室がある。智広はゲームをやっているが上手くいかないらしく、「くそっ」とか「何なんだよ」という荒々しい声が聞こえる。毎度の事ながらも理奈は少々げんなりして、佐藤に会いに廊下を渡ってリビングルームへと向かう。
「ただいま、佐藤さん」
「あら、お帰り、理奈ちゃん。外すごい雨ねえ。大丈夫だった?」
「うん、傘持ってたから」
 佐藤は部屋の掃除をしていたらしく、掃除機を片手に持ったままにっこりと微笑んでみせた。その柔らかな笑顔に、理奈は少し救われたような気持ちになった。
「あ、掃除もう少しで終わるからちょっと待っててね」
「急がないでいいよ」
 理奈はそう言うと、リビングから出て真横にある自分の部屋へと入った。窓の外を見てみると、バケツをひっくり返したような雨が滝のように窓を濡らしていた。
 理奈はすぐそばの家にいる雅弘のことを思った。
 桜木君、どうしていじめられたままでいるの?
 ちょうどその時、電話が鳴った。たいてい受話器を取るのは佐藤の役目である。「はいはい」と掃除機を一旦止めて、電話のほうに走っていく佐藤の足音がした。しばし佐藤の話し声が聞こえている。と、理奈の自室のドアをノックして「理奈ちゃん、お母様からよ」と言った。
「えっ? お母さん?」
「ええ、そうよ」
「す、すぐ行く!」
そういえば母からの月に一度の電話がまだ来ていなかったことを、今思い出した。
 理奈は急ぎ足でリビングルームに行き、受話器を取った。
「も、もしもし」
「もしもし~。ああ、理奈? 元気にやってる?」
「お母さん……」
 理奈は懐かしさでいっぱいになった。今も母は変わらず、自分たちのことを思ってくれている。
「調子はどう?」
「うん。まあまあだよ」
「そう、ならよかったわ。ねえ、次の週の土曜日にさ、一緒に映画観に行かない?」
「うん、いいね、それ」
 母は毎月、理奈をお茶に誘ったり映画に誘ったりしている。今日はそのお誘いの電話だったようだ。
「鷹野(たかの)宵(よい)君が主演なのよ~。何が何でも絶対に観に行かなくちゃ!」
「あはは」
 母は現在、二十歳の男性芸能人のファンなのである。理奈は母の高揚な声に笑えてきて、雅弘のことを一瞬だけ忘れることができた。
「じゃ、時間は何時にする?」
 理奈が訊くと母は即座に「十一時の回!だから十時半に木立駅で待ち合わせしましょう!」と返してきた。理奈も明るい声で「わかった。またね」と言って電話を切った。
「お母様、どうだった?」
 佐藤が後ろから興味深そうに訊いてきた。
「いつもと変わりない。来週の土曜日に会おうって」
「そう。よかったわね」
「うん」
 理奈は浮き足立った気持ちで再び自室へと戻った。一ヶ月ぶりの母からの連絡が嬉しかったというのが理由だった。
 滝のように流れていた雨は少しずつ弱まり、パラパラと音がする程度の降水量となっていた。
「そうだわ! 今日は焼肉屋に行きましょう!」
 突然、佐藤がすばらしいことを思いついたというように手をパンと叩いていった。理奈は口をあんぐりと開ける。
「……え、い、今から? 雨降ってるのに?」
「こんな時だからこそよ! 雨ももう止んでると言っていいくらいの量だし、今行かなかったらいつ行くの!?」
 佐藤は目をキラキラさせて、少女のように理奈の手を握った。握られた理奈は、しどろもどろになりながらも、まあ、しょうがないかと思い、承諾することにした。
「……わかった」
「きゃー! ありがとう、理奈ちゃん!」
 佐藤は大喜びでぴょんぴょんと跳ねた。ただ自分が食べたいだけなんじゃ……という理奈の心の突っ込みは、頼りなく宙を舞い消えていった。
「智広くーん! 今日は焼肉屋に行くわよー!」 
 佐藤は真っ先に智広の自室に向かい、大声で言った。智広は「はあ? 何だよそれ?」と悪態をついた。まあ、そうよね、と理奈は変に納得した。
「何でこんな雨の中行かなきゃなんねえんだよ」
「いいじゃないの。雨ももう止んでるし。ね、行きましょう」
「嫌だね」
 智広は頑なに拒否をする。
「えー? どうして?」
「こいつと、一緒に出かけなきゃいけないのが嫌なんだよ!」
 智広はビシッと指を理奈に向かって差して、声を張り上げた。理奈もどこか冷静な気持ちで、そりゃ、嫌がるわよねえ、と他人事のように感じた。
 部屋に重たい沈黙が下りる。
「智広君、まあ、そんなこと言わないで。姉弟じゃないの」
 佐藤が何とか智広をなだめようとする。
「俺はこいつのこと、姉と思ったことは一度もないけどな」
 智広はまだ指を理奈に差したまま言ってのけた。理奈もぼうっとした頭でその言葉を受け取る。いつもそうだ。いつも智広に暴言を吐かれる時は、頭のどこかが麻痺して、ぼうっとしてしまう。ある種の防衛本能なのだろうか。
「まあまあ、智広君……。じゃあ、理奈ちゃん、私が二人席で、智広くんは一人席で座ったらどうかしら?」
 佐藤は何としても焼肉屋に行きたいらしく、智広を必死になって誘う。智広はしばし佐藤のことをにらむように見た後、ハアと大きなため息をついて言った。
「わかったよ。それなら行くよ」
「本当!? ありがとう!」
 佐藤はまた嬉しがって智広に抱きついた。智広はうっとうしそうにしながらも、どこか見せつけるようにして理奈を見た。理奈は意外だった。まさか彼と一緒に外食することになろうとは。そして智広が佐藤の誘いを承諾するとは。
「さあさあ、二人ともお出かけの格好をして! 美味しい焼肉屋があるの知ってるの、私!」
 何だ、それで私たちも連れて行きたいのか、と理奈は妙に納得した。智広も「面倒くせぇなあ」と頭を掻きながらつぶやき、自室へと入っていった。理奈も自室でよそ行きの洋服に着替え、入念に化粧をした。佐藤も理奈の横で懸命にパウダーファンデーションを塗りたくっていた。
 玄関に集まると、何とも不思議な心地がした。理奈と同じくよそ行きの格好のいい洋服に着替えた智広は、なるほど美男子に見える。理奈はそんな智広がどこか新鮮で、まじまじと見つめていると「何だよ」とギロリとにらまれたのであわててそっぽを向いた。佐藤は大人の女性に相応しいシックな色合いの上着を着て、真珠のネックレス(偽物だが)を首にかけていた。
「佐藤さん、似合うね」
「そう? 理奈ちゃんもかわいいわよ。あ、もちろん智広君もね!」
「もういいから、さっさと行こうぜ」
 智広はまた大きなため息をついて言った。佐藤が玄関の鍵を開け、二人を通してくれる。そして玄関のドアを閉めて鍵をかけた。
「さあ、行くわよ!」
 佐藤が先人きって歩き出し、智広は気だるそうにそれについて行き、最後に理奈が歩いた。
 目の前に、雅弘の大きな家がある。
 雅弘。
 今、何をしているのか。
 理奈は静かに痛む心をなだめて、ちょっとだけ雅弘の家の前で立ち止まり、また佐藤に追いつくため歩き出した。

 電車に乗って、木立駅に着いた。
 電車の中でも、三人分の席が空くと、理奈と雅弘は両端に座った。仕方なく佐藤が真ん中に座る。会話も佐藤を媒介にして何とかできたくらいだった。この先どうなることやら、と理奈は胸の奥でため息をついた。
 木立駅に着くと、帰宅する人たちや夜遊びに出かける人たちでホームはごった返していた。智広が人の波に流されそうだったので、腕をぐいっと引っ張ってやると、パンッと弾き返された。
「俺に触るなよ」
 ズキンと心が痛んだが、平気なふりをして「あっそ」とつぶやいた。
 木立駅の改札口を抜け、中央口へと出た。そこは別名北口ということもあってか、東口よりどこか閑散としていて、静かな街だった。人もまばらで、こんなところに美味しい焼肉屋が本当にあるのかと疑いたくなった。
「佐藤さん、本当にここで合ってるの?」
「合ってる、合ってる」
 佐藤は自信満々に、また先頭を歩いた。二人はただ佐藤に付き従って歩くだけだった。
 ほどなくして、暖簾のかかった店を発見した。黒に近い藍色の暖簾に「焼肉屋」と真っ白な文字で書かれていた。
「佐藤さん、もしかして、これ?」
 理奈は思わず訊いてしまった。
「そう! ここよ!」
 佐藤は確信を持った瞳で言い切った。
「どう見たってただのボロ屋じゃねーか」
 智広がまたしても悪態をつく。
「智広君、そんなこと言っちゃダメでしょう? さあ、行くわよ!」
 佐藤は智広に注意した後、いの一番に引き戸を開けて暖簾をくぐった。理奈と智広もあわててそれに従う。
「いらっしゃいませー!」
 中は意外と広くて、なかなかに繁盛していた。店員の元気な声が店中に響き渡る。
「お客様、何名様ですか?」
 アルバイトらしき若い女性定員が笑顔で訊き出す。
「三人です」
 佐東が指を三の字に曲げて言うと、女性店員は「こちらの席へどうぞ」と奥のほうの四人がけのテーブル席に案内した。
 最初に言ったとおり、佐藤と理奈が二人席に座り、智広は佐藤の向かい側の席に座った。理奈とは意地でも目を合わせない。
「じゃあ、焼肉奉行は私がやるわね! 二人とも、好きなの注文してちょうだい!」
 佐藤は張り切って上着を脱いで腕まくりをした。
「焼肉なんて初めてだから、何から選んでいいのかわかんねーよ」
 智広がもっともらしいことを言う。理奈も智広に賛同してうんうんとうなずいた。
「あら、そう? じゃあ私、頼んじゃうわよ?」
 佐藤が本当にいいのかという目線を二人にやる。
「いいよ、佐藤さんが好きなもの選んで」
 理奈は後押しするように佐藤の肩をポンと叩いた。佐藤は途端に目を輝かせて「じゃあ、極上カルビね!」と言い、手元にある店員を呼び出すブザーを鳴らした。
 光の速さで店員が来る。こちらもアルバイトらしき男の子だった。背は高いが、まだ肩が厚くなく、腕の筋肉もほっそりとしている。帽子から、まるで紅葉の色のような綺麗な赤茶色の髪が見えていた。
 理奈は、あれっと驚いた。
「お待たせいたしました! ……って、綾瀬!?」
「雲雀君!?」
 理奈と雲雀秋は互いに口をあんぐりと開け、しばし見つめあった。横から佐藤が「何? どうしたの、理奈ちゃん? この人知り合い?」と口を挟むが、言葉がなかなか出てこない。
「……綾瀬さんは、僕のクラスメイトです」
 雲雀秋が気まずそうに口火を切った。
「まあ、そうなの!? すごい偶然ね! 仲良くしましょうね!」
 佐藤が驚いた後、調子のいいようにまくし立てた。智広も口をポカンと開けて理奈と雲雀秋を交互に見比べている。
「でも、どうしてここで働いてるの? バイト?」
 佐藤は遠慮なくどんどん質問をぶつけてくる。
「……ここは、俺の家です」
「えーっ? そうなの?」
 佐藤は大仰に驚いた。理奈もびっくりして雲雀秋の顔を見つめる。
「人手が足りないんで、たまに俺が店員になって働いてるんです」
「それで、お小遣いはもらえるの?」
 佐藤はまたも遠慮のない質問をぶつけてきた。理奈は「ちょっと、佐藤さん……」と彼女を落ち着かせようとする。
「まあ、もらえますよ」
 雲雀秋は何ら気を悪くするでもなく、淡々と答えた。
「あら、じゃあよかったわね。あ! とにかく、食べましょうね! この極上カルビお願いします!」
 佐藤はようやく落ち着いて、メニューを注文した。雲雀秋は「かしこまりました。少々お待ちください」と業務用に言い、メニューをひったくって理奈たちのテーブルを後にした。
 雲雀秋がいなくなってから、佐藤は女子校のようなノリで理奈にしゃべりかけた。
「すごい偶然よねえ、理奈ちゃん! あなたのクラスメイトの男の子がこの店で働いてるなんて!」
「ま、まあね」
 理奈が固まりながら返事を返すと、智広がふんっと鼻を鳴らした。
「お前の同級生の店なんて、最悪だな」
「智広君!」
 佐藤は少々威圧的に智広を制した。智広は意外そうに佐藤を見た後、押し黙った。理奈も少しびっくりした。
「ここのお店は本当に美味しいのよ! 最悪だなんて言っちゃダメ!」
 何だ、店のことで怒ってたのかと理奈はちょっと寂しい思いをした。だがすぐに落ち着きを取り戻す。頭を麻痺させろ。ぼうっと店内を見渡す。家族連れ、カップルで来ている者、友達同士で来ている者、さまざまな人がこの焼肉屋で笑い声を開けて賑やかにおしゃべりをしていた。
「理奈ちゃん、智広君、どう? 学校は楽しい?」
 佐藤は会話を続けるべく何気ない話題を提示した。理奈は「うん、楽しいよ」と言ったが、智広のほうは「つまんねえヤツばかり」と吐き捨てるように言った。
「そうなの」
 佐藤は智広の話題には触れまいと思ったのか、理奈のほうに視線を合わせてきた。
「理奈ちゃん、友達できた?」
「うん! できたよ!」
 今度は理奈は即答することができた。今日、雅弘に言われた『あの二人を信用しちゃいけない』という言葉が頭を過ぎったが、無理に追い払って明るく言う。
「二人できたの! すごくいい人たちだよ!」
「そう! よかったわねえ」
 佐藤は心底嬉しそうに言って、理奈の頭を撫で撫でした。ふと、佐藤が本物の母親のような気がしてしまい、理奈は強烈な寂しさに突如襲われた。
 今、私たちは、どこにでもいる普通の家族なんだろうか。
 いや、違う。
 両親は出て行った。頭をなでてくれるこの人はただのホームヘルパーだ。そして、弟の智広はなぜだか私のことを憎んでいる。
 理奈はやりきれなさを感じて佐藤の手のひらをどけた。佐藤は何ら気づかず、「あら、どうしたの?」と呑気に訊いてきた。理奈は「ううん、何でもない」と笑みを作ってごまかした。
 そうこうしているうちに、先ほどの雲雀秋が、極上カルビが乗った皿を持ってやって来た。
「どうぞ、ごゆっくりしていってください」
 雲雀秋はそう言って、皿を理奈たちのテーブルの脇に置いた。ど真ん中には肉を焼くためのコンロが付いている。
「わあ! すごい! こんなにたくさん!」
 佐藤が目を輝かせて叫んだ。
「ウチは安くてたくさんが売りですから」
 雲雀秋は心なしか少し自慢げな声の調子で言った。
「さあ、二人とも、どんどん食べましょう!」
 佐藤は菜箸でカルビをコンロの上に乗せ、焼いた。ジュワッと響きのいい音がして、肉のこげる匂いがしてきた。佐藤は素早い手つきで、テキパキと三人分の肉を焼く。いい塩梅のころに、ひょいっと肉を裏返す。見事な手さばきだった。普段、焼肉は食べ慣れているらしい。
「佐藤さん、上手だねえ」
「ふふ、慣れてるからねえ」
「どうでもいいから早く寄こせよ」
「ちょっと待っててね、智広君」
 佐藤は智広の暴言にも気を悪くせず、「はいっ! できたわよ~」と肉を理奈、智広、自分の皿に盛った。理奈はこんがり焼かれた特上カルビをタレに付けて口に運ぶ。ジューシーな肉汁が口の中にあふれ、何ともいえない芳しさが広がった。理奈は至福の時を味わった。智広も、「うめえl」と今時の男の子みたいに興奮してカルビを食した。笑顔の智広を見るのはどれくらいぶりだろう。
「二人とも、どんどん焼いてくからね~」
 佐藤はまたテキパキとカルビをコンロの上に乗せ、鮮やかな動作で肉を扱った。
 一通りカルビを堪能した時には、理奈の腹は満腹になっていた。ライスも肉に合わせて食べて、すっかりとなくなっていた。
「あ~、美味しかった。今日は、これくらいにしときましょうかね。また来ましょうね!」
「うん!」
「おう」
 理奈と智広は上機嫌で、佐藤の応えに乗った。佐藤は満足げな顔をして「じゃ、帰りましょうか」と席を立った。次いで理奈と智広も席を立つ。
 会計のところで、佐藤は「とても美味しかったです」と笑顔でレジ係の店員に言った。店員も嬉しそうに「ありがとうございます」と頭を下げた。
 ふと、店の厨房の奥に、雲雀秋ができたての肉を盛りつけた皿を持っていくのが見えた。遠くからでも目立つ赤茶色の髪。理奈は何だか不思議な気分で、彼の背中を見つめていた。

 帰りの電車は、佐藤が一人でしゃべっているに等しかった。興奮して「あそこのお肉、美味しかったわよねえ!」と畳み掛けるように話しかけ、それに理奈と智広は黙ってうなずくしかなかった。佐藤のテンションの高さを止められる者は誰もいなかった。
 駅に着き、改札口を抜け、帰路を歩く。佐藤が真ん中を歩き、相変わらず理奈と智広は目を合わさずに両端を歩いた。
 群青の色のマンションは、夜になると、とっぷりと身を闇に紛れさせたかのように見えづらくなっていた。マンションの入り口の淵だけが銀色に光って綺麗だった。
 三階まで上り、佐藤が鍵を開け、また先に二人を中に通してくれる。最後に佐藤がドアを通り、鍵を閉める。
「ああ、今日はいい一日だったわ~」
 佐藤は真珠のネックレスを外しながら、爽快感に満ちた声で言った。
「あ、二人とも、お風呂先に入っちゃいなさい」
 佐藤は今気づいたかのように、母の顔に戻って二人を急かした。理奈と智広は「は~い」「わかったよ」と言ってどちらが先に入るか話し合った。
「俺、先に入りたい。お前の後になんか入りたくない」
「はいはい」
 またかあ、と理奈は肩を落として、仕方なく先に風呂をゆずった。智広は生意気な顔をさらに歪ませて、替えのパジャマと下着を持って風呂場に向かった。先ほどまでの、カルビを食べていたあの純朴な少年はどこに行ったのか、智広はもう通常の智広に戻っていた。
 智広が風呂を入り終えると、理奈はそそくさとパジャマと下着を持って風呂場に入った。
 風呂の中は散々に汚れていた。智広の使った後はいつもこうだ。理奈はため息をついてまず風呂場を洗い、すべて終わった後ようやくシャワーを身体に注いだ。
 風呂を終え、パジャマに着替えて歯磨きをする。その間にも雲雀秋のことを思い出していた。彼の実家は焼肉屋だったのか。連日人が混んでいて大変そうだなあと、ひとしきり雲雀秋という人物を思う。今日の彼は自分と会った途端ばつが悪そうにしていたが、何だか生き生きとして見えた。いつも学校でその姿を見せればいいのに。どうして一人でいるのだろう。
 歯磨きが終わり、そこで雲雀秋への思考が途絶えた。口の中を洗って、ベッドにもぐりこむ。
 今日は雨が降って蒸し暑いせいか、なかなか寝付けない。
 ふと、桜木雅弘の声が過ぎった。
『松田と伊織は、柊の腰巾着だよ』
『あの二人を信用しちゃいけない』
 そうなの、桜木君? 私は騙されているの?
 悩んでいるうちに次第に眠気がやってきて、うとうととし始めたと思ったら、コロンと眠りの世界へと転がっていった。

   ☆

 翌朝。
 いつも通り理奈はクリームパンを頬張り、智広はトーストを齧っていた。佐藤は鼻歌を唄いながら洗濯物を畳んでいた。
 先に理奈が食べ終わり、皿をシンクのところへ持っていく。水を出して、皿の汚れを洗い流した。智広のことを見ないで通り過ぎ、歯を磨きに行く。洗面台の鏡に映った自分の顔は、昨日よりも幾度かマシになっているように思えた。きっと母の力と昨日の佐藤の行動のおかげだろう。
 歯を磨き終えて、制服に着替え、学生鞄を肩に下げる。玄関に出ると佐藤が笑顔で待っていてくれた。いつものことなのだが、今日はやけに嬉しかった。
 佐藤に見送られ、理奈はマンションを出る。
 ちょうどそこに、一人の少年が扉を開けて出てきた。
 理奈はきゅっと心臓が縮こまるような感触を覚えたが、気にせず彼にどんどん近づく。至近距離になったところで、言った。
「おはよう。桜木君」
「ああ……おはよう。綾瀬さん」
 雅弘は幾分気圧されたのか、ちょっと困ったような笑顔を見せて言った。
 お互いに挨拶が終わると、どちらからともなく歩き出した。今日はすがすがしいくらいの快晴で、強い日差しがジリジリと二人を照りつけ、汗ばむほどだった。
「昨日ね、離れ離れになっていたお母さんから電話があったの」
 理奈はふいに話を始めた。雅弘は「……え?」と一瞬戸惑ったような顔をしたが、すぐにもとの真面目な表情に戻った。
「来週の土曜日、映画観に行こうって」
「そうか。よかったね」
「うん」
「お母さんは今どうしてるの?」
「営業会社で働いてる。お母さん、できる女だから、今は仕事が恋人なんじゃない?」
「あはは。そっか。……訊いてもいい?」
「いいよ」
 理奈は覚悟していた。というよりむしろ、訊いてほしくて自分から話題を作ったのだ。
「お父さんとお母さんは、どうして家にいないの?」
 理奈はなるべく平常心でいようと心がけ、顔は無表情を決め込んでいた。
「ちょうど一年前に離婚して、二人ともいなくなっちゃった。一応親権はお母さんが持ってるんだけどね。ホームヘルパーの佐藤さんが今は母親代わりかな。お母さんとは連絡が取れてるんだけど、お父さんとはパッタリ。どこにいるのかもわからない。そんな家庭なの」
「……そっか」
 雅弘は憐れむでもなく、驚くでもなく、淡々と話に聞き入っていた。まるで昔から事情はわかっていたというように、何度も何度もうなずいた。
 そうこうしているうちに駅に着いた。改札口を通り、ホームに立つ。ふと理奈は、雅弘とこうしていることがとても不思議なことのように思えた。
 あの日、偶然ぶつかった二人。それからいくつもの偶然が重なって、今ここにいる。雅弘と過ごす時間はとても貴重なもののように理奈は感じた。
 電車が走りこんできて、ドアが開くと同時に人々はどっと流れ込む。理奈と雅弘はまたぎゅうぎゅうづめになったまま扉は閉まった。理奈と雅弘の身長はさほど変わらない。そのため雅弘の顔が自分の目の前にあたり、理奈はドキドキした。
 お互い、言葉は交わさなかった。無言のまま電車に揺られ、理奈は雅弘の向こう側にある窓の外の、高速で流れ去っていく景色をぼんやりと見ていた。
 電車は一駅分走り、理奈たちの降りる駅に到着した。二人は人ごみを掻き分けて車内から出て、ホームを歩き改札口を抜けた。
「じゃあ、ここで」
 雅弘はいつも通り無造作に言った。
「うん」
 理奈も一言だけ返した。雅弘が先に通学路を歩き、次いで理奈が雅弘からだいぶ離れた距離で歩いていった。

 教室に着くと、茶髪の女の子と黒髪の女の子が真っ先に理奈に向かって走ってきた。
「理奈! おはよう!」
 夏帆が元気よく理奈の肩を叩いた。
「おはよう、か、夏帆」
 理奈はまだどぎまぎしながらも、何とか夏帆の名を口にすることガできた。
「おはよう、理奈ちゃん」
 次に華澄が優しいメゾソプラノの声で言った。理奈も少し緊張しながら「おはよう、華澄」と返した。
「今日、一時間目から数学じゃん。やだねー」
 夏帆は同意を求めるように、二人に向かって言った。
「そうだね」
 理奈は友達の機嫌を損ねないように注意して、同調した。
「理奈ちゃん、その数学の宿題やった?」
「……あ」
 しまった、忘れていた。昨日の母の連絡と焼肉屋の事件ですっかり頭の中から消え去っていた。
「よかったら、見せようか?」
 華澄は理奈の顔を覗きこんで言った。
「え、いいの?」
 理奈は驚いて華澄の顔をまじまじと見つめた。
「うん、もちろん。友達だもの」
 華澄はやんわりと微笑んで言った。友達。その響きに理奈は胸に熱いものが込み上げてくるのを感じた。
「ありがとう、華澄」
 いつも、一人だった。いつも一人で何でもやってきた。失敗など許されなかった。けれど今は違う。友達がいる。自分のことを守ってくれる人がいる。理奈は嬉しくてたまらなかった。さっそく華澄から数学のノートを借りた。
 ふいに理奈は雅弘のほうを見た。彼は柊にプロレスの技をかけられている最中だった。彼の制服が埃で汚れていくのが見えた。

 昼休み。
 教室内は喧騒に包まれて、弁当を食べるために机を動かす音などが立て続けに響いた。
「理奈のお弁当って、いつも美味しそうだよね」
 夏帆がうらやましそうに理奈の弁当箱の中身を見た。
「そ、そんなことないよ」
 理奈は何だか照れ臭くなって、弁当箱を手で隠した。あわあわしている最中、ふと視界の端に雅弘の姿が映った。彼はまたもや買出しに行かされているところだった。
「ね、ねえ」
 勇気を出して、理奈は夏帆と華澄に訊いてみた。
「ん?」
「どうしたの?」
 二人ともきょとんとした表情で理奈の真剣な顔を見つめる。
「二人って、柊君たちと話したことあるの?」
 すると夏帆は見る見るうちに虫でも見るような顔になり、華澄も表情がぐっと険しくなった。
「え~!? 話したことだけはあるけど、サイテーだよ、あいつら。いつも女のヌード写真集を持ち歩いてるし、桜木をコマに使ってるし」
 夏帆はぶんぶんと手を横に振った後、しっしとハエを追い払うような仕草を見せた。
「私も、あの人たちは嫌いだな。桜木君がかわいそう」
 華澄も眉間に皺を寄せ、少し声を強調した。
「桜木もさあ、嫌なら嫌って言えばいいんだよ。何であんなやつらに構うかねえ」
 夏帆は心底あきれたような口調で言った。
「そ、そうだよね」
 理奈はほっと胸をなでおろした。とにかくこの二人は柊たちを嫌っている。腰巾着などではない。そのことがわかっただけでもよかった。
「でも、どうしてそんなこと訊くの?」
 夏帆が理奈に問うと、理奈はあわてて「別に。ちょっと気になっただけ」と曖昧に答えた。
 教室内は相変わらずの騒がしさで、皆、今この時を忘れないかのように、懸命に声を張り上げて笑い合っていた。

 あっという間に時間は過ぎ、帰りのホームルームが始まった。夏帆と華澄はまた理奈を遊びに誘ったが、理奈は「ごめんね。毎日放課後は用事があるから」と断った。二人はしょぼくれながらも理解してくれた。理奈は今日何度目かの安堵感を味わった。
 ホームルームが終わり、全員が席を立った。理奈は夏帆と華澄に別れの挨拶をした後、軽く早足で屋上へと向かった。雅弘はまだ柊たちに捕まっていた。
 屋上のドアを開け、階段を二段下がった場所に座って雅弘を待った。少し経って、彼が現れた。制服には上履きで踏まれた跡がところどころに残っていた。
「桜木君、服が汚れてる」
 理奈は低い声でそう言うと、雅弘のブレザーを叩いて上履きの跡を消してやった。
「あ、ありがとう」
 雅弘は最初ばつが悪そうにしていたが、やがていつもの自然体な彼に戻った。
「綾瀬さん、まだあの二人と付き合ってるの?」
 雅弘が少しあきれたような口調で言うので、理奈はついむっとして「桜木君こそ、まだあの連中と付き合ってるの?」と返した。雅弘はただ苦笑いをして黙った。沈黙が二人の間に満ちた。
「このまま、少し、黙ってみようか」
 ふいに雅弘が口を開いた。言いたいことはたくさんあったが、理奈はとりあえず彼の案に従ってみることにした。
「うん」
 どこからか、カア、カア、とカラスの鳴き声が聞こえてきた。視線をやると、一羽のカラスが向こう側の校舎に止まって鳴いていた。地面に視線を落とすと、苔むしたアスファルトからかすかに伸びている雑草や小さな花、虫などが動いているのが見えた。遠くのほうでは野球部やサッカー部などの練習の声が空の中に響いていた。上を見上げると、どこまでも続く真っ青な空があり、自分を一切の不安から包み込んでくれるような錯覚を覚えた。
「ねえ」
 理奈は決意して言ってみた。
「夏帆と華澄は、悪い人じゃないよ。二人とも、柊たちを軽蔑してる。桜木君のことも心配していたよ」
 雅弘は何ら表情を変えず返した。
「嘘だな。松田と伊織は、柊を崇拝してる。彼に何らかの指示を与えられているはずだ」
「……私と友達になろうとしたのは、柊の命令なの?」
「多分」
「なら、何のために?」
「わからない」
 理奈は目を閉じて二人の姿を思い描いてみた。明るくて活発な夏帆。大人しくて優しい華澄。どちらも、何らかの悪意があるとは到底思えなかった。
「悪いけど、桜木君の言葉は信じられない。あの二人が、意図を持って近づいてきたなんて、思いたくないもの」
 雅弘は苦笑した後、前かがみの姿勢で自分の両手の指を絡めた。
「それならそれでいいよ。何かあったら俺が守るから」
 雅弘から放たれた言葉に、理奈は一瞬、身動きができなくなってしまった。この人は何を言っているのだろう。
「な、何それ……! 意味わかんない……!」
 理奈は耳まで顔が赤くなっていることに気づかないまま、そっぽを向いた。守る。男の子から言われたことなんて今までなかった。初めてだった。
「今日は、このくらいにしようか」
 ふいに雅弘が階段から下りて、苔むしたアスファルトの上に立った。理奈も同じく腰を上げて、目の前の雅弘を見つめた。雅弘は「ん? どうした?」と明るく問いかけてきた。さらさらの突き抜けた明るい茶色の髪。くりっとした大きな目。その奥の、深遠な瞳。すっと通った鼻筋に、形のいい唇。改めてみると彼は、とても美しい男の子だった。みんなどうしてそれに気がつかないのだろう。いや、気づいたからこそいじめているのか。
「桜木君って、すごくかっこいいよね」
 ぽろっと本音が出てしまったことに恥ずかしさを抱いたが、言われた雅弘はきょとんとした後、あははと口を大きく開けて笑った。
「綾瀬さんこそ、相当な美少女だよ」
 美少女、という言葉に自分が当てはまっていることに気づくまでに少々時間がかかった。理奈は驚いて首を横に振った。
「わ、私は、全然、普通だよ!」
「いや、そんなことない。クラスで一番かわいいと俺は思ってるよ」
「ま、またそんなこと……!」
 理奈は今度こそ雅弘の顔を正面から見ることができなくなってしまい、後ろを向いた。この少年はどうして、こんなにも照れることを言ってのけるのだろう。
「も、もう帰るよ!」
 理奈が怒ったような口調で言うと、雅弘は「はぁい」とのんびりした声で返した。
 階段を下りて行って、玄関に着いた。それぞれ自分の下駄箱に向かい、靴を履き替える。
 ふと、理奈は視線を感じた。
 すぐ横をばっと振り向いた。紅葉の色に近い、綺麗な赤茶色の髪の男、雲雀秋が、こちらをにらむようにして見下ろしていた。何なんだと理奈は思い、それでも一応クラスメイトなので別れの挨拶をした。
「バイバイ、雲雀君」
「……ああ」
 雲雀秋は低くつぶやくと、踵を返して玄関を出て行った。
 何で、あの人とばっかり目が合うんだろう。
 むしろあちらのほうが自分を見ているのだろうか。何だか気味が悪くなって、理奈は身震いした。
「どうしたの、綾瀬さん?」
 ひょいっと下駄箱の裏側から雅弘が顔を出した。理奈は安心して、「ちょっと雲雀君に挨拶しただけ」と言った。すると雅弘の顔は少し険しくなり、「俺もよく、あいつと目が合うんだよなあ」と言った。
「そうなんだ。実は私もなんだ」
「あいつ、何者なんだろうな」
 二人は互いに顔を見合わせて、しばし唸ったが、答えは出てこなかった。
「ま、いっか。綾瀬さん、帰ろう」
「うん」
 理奈もそれほど気に止めることじゃないと思い、雅弘について行った。
 木立駅に着き、電車が来て、乗り、降りる駅に着いてホームに立ち、歩き始める。その間も雅弘は明るく今流行っていることやテレビの話題なんかをしゃべり続けていた。まるで理奈を笑わせたいかのように。理奈は素直に雅弘の言動に笑った。そして別れの道がやって来た。
「じゃあ、また明日」
 雅弘が言った。
「うん、バイバイ」
 理奈も手を振って答えた。
 雅弘は家の門扉を開け、階段を上り、玄関の大きな扉に鍵を回した。ガシャリと荘厳な音が聞こえた。そして扉を開けて中へと入って行き、扉は完全に閉まった。雅弘の姿はもうどこにもなかった。
『何かあったら、俺が守るから』
『綾瀬さんは、かわいいよ』
 雅弘の言葉が理奈の頭の中を巡り巡る。身体が火照っていくのを感じ、すぐさま何か冷たい飲み物を飲みたいと思った。
 マンションの三階に着き、ドアを開ける。自室に入って学生鞄を下ろすと、リビングルームに行った。
 そこに珍しく智広がいた。彼は食卓に座り、何をするでもなくテーブルに頬杖をついていた。佐藤がいなかった。どうやら今晩の食事の買出しに行ってきたらしい。
 理奈は不思議に思いながらも冷蔵庫のほうに向かい、中からオレンジジュースを取り出してコップに注いだ。ジュースの箱を冷蔵庫にしまい、コップの中の液体を勢いよく飲み干す。喉が潤っていくのを感じた。
「おい」
 突如、智広が声を出した。びっくりして理奈はコップを落としてしまいそうになった。
「な、何?」
 動揺していることを悟られないよう、苦労して平静な声を出したつもりでいた。けれどそれは上ずってしまい、歪な形となって口から出てきた。
「今週、どっか出かけるのか?」
「まあね」
「誰とだ」
「誰だっていいじゃない、別に」
 智広は少々むっとしたようだが、いつものように怒鳴ることはせず、冷蔵庫に貼り付けられてあるカレンダーを遠く見つめて言った。
「そうか」
 智広はそう言うと席を立ち、自室へと向かっていった。
 理奈は智広の考えていることがわからず、再び不安な気持ちに襲われた。そして気づいた。自分が心の底から安心しているのは、雅弘との時間だけだということに。
 桜木君。
 理奈は心の中で彼の名を呼んだ。けれど答えが返ってくるはずもなく、理奈の胸の内で寂しく消えた。
 雅弘の言ったことは、すべて本当なのか。
夏帆と華澄は、わざと理奈に近づいたのか。
わからない。けれど自分はあの二人のことも信じたい。
雅弘、夏帆、華澄。三人の顔が頭の中に浮かんでは消え、浮かんでは消えていった。

   ☆

 日々は確実に過ぎていった。
 毎日、理奈は夏帆と華澄の二人を受け入れ、雅弘とは屋上で密かに会っていた。そこでも雅弘は夏帆たちから離れるように説得し、逆に理奈は柊たちから離れるように説得し返した。押し問答が続く日が、理奈は多少疲れは見えたが、楽しくもあった。それは雅弘が決して理奈に対して怒鳴らないからだった。優しく、語りかけるように、理奈の名を呼んだ。それが心地よかった。
 
毎日は高速で流れ去り、土曜日となった。
理奈は予定の時間通りに起き、洗面所で顔を洗い、リビングルームに向かった。そこには佐藤が先に起きていて「今日はお母様と会う日ね。楽しみね」と笑って言ってくれた。理奈も「うん」と簡単だが力の篭もった返事を返し、ご飯と味噌汁、甘めに味付けされた卵焼きを食べた。佐藤が今日という日のために作ってくれた朝ご飯だ。
朝食を食べ終え、皿をシンクに持っていって、水を出し、流す。いつも通りの行動だが、今日は気持ちが急いているのか、少々雑な動きになってしまった。「ごめん」と佐藤に謝り、急いで自室へ入る。パジャマからワンピースへと着替え、ネックレス、腕時計、日差し避けの帽子を被り、ほんの少しの化粧をして支度を整えた。玄関に立ち、パンプスを履いて佐藤に「行ってきます」と言った。佐藤も「行ってらっしゃい」と返した。ドアを開けると、空は今日も晴れていて、閃光のように日差しが突き刺さり、太陽の光はすごいなと思った。
駅のホームに立つ。休日だからか、子ども連れが多く見えた。それぞれの家族は皆、とても幸せな日常を送っているように思え、今の自分の家庭環境がどれだけ歪か、目の前に突きつけられた気がした。それでも子どもたちはかわいくて、まだ乳母車に乗っている小さな子などは、思わず手を振ってしまいたくなるほどだった。
木立駅行きの電車がホームに滑り込んできた。人々は、今日はラッシュの時とは違い、穏やかな足取りで電車内に入っていった。理奈もそれに続く。毎日こうならいいのになと少し思った。
電車が発車した。はじめはゆっくりだった動きが、どんどんスピードを増していく。子どもたちはそれがおもしろいらしく、きゃっきゃと手を挙げて、靴を脱ぎ座席の上に立ち、窓のところに貼りついていた。
木立駅に着いた。急いで電車を降りて母の姿を探す。しかし見つからなかった。どうやら自分のほうが少し早く着いてしまったようだった。
改札口の前で、ひたすら母を待つ。
十分ほど経った頃だろうか。ホームへと続く階段から、真っ赤なロングスカートと白の七部袖のジャケットを着て、サングラスをかけた一人の女性が下りてきた。その真っ赤なスカートは、人々の中にいてもすぐに見つけられるくらい目立っていた。理奈はその女性が母だと確信した。深紅の薔薇のようなロングスカートの女性に、懸命に手を振る。すると女性は理奈に気づき、サングラスを外すと満面の笑みでこちらに早足で向かってきた。
「理奈! 久しぶり!」
 女性は理奈を軽く抱きしめ、頭をポンポンと叩いた。理奈は一ヶ月ぶりの懐かしさと愛おしさでいっぱいになり、母を抱き返した。
「お母さん」
 唇から自然と言葉が出てきた。それはどこか切なげで、はかなさを伴っていたが、同時に芯の強さも感じられる声だった。
「変わってないわねえ、あんた! まあ、一ヶ月だから当然か。でもあんたぐらいの年頃の女の子は一ヶ月もすりゃ、すぐ変わっちゃうもんなあ」
 母はいつもの軽快な調子で、理奈のことをまじまじと見つめた。それから「暑いわねー、今日は」と言ってカバンから扇子を取り出し、優雅に仰いでみせた。
「お母さんこそ、いつもと同じで、安心したよ」
 理奈は母の姿を微笑ましく見つめながら言った。
「ええ? あんたに心配かけちゃった? そりゃ悪いことしたわね」
「い、いや、心配したわけじゃなくて、ああ、いつも通りだな、このお母さんなんだなって思っただけ」
「何それ、変な子ねえ」
 理奈と母はお互い笑い合って、ともに東口にある映画館へと足を運んだ。
 休日だからか、映画館の中は人でいっぱいだった。アニメ映画を観るためにやって来た子どもたちや、恋愛映画を観るためにやって来た恋人たち。受付のところは人だかりができていた。
「けっこう並ぶわねえ。宵君の映画取れるかしら」
「大丈夫だよ」
 理奈と母は行列に並び、順番が来るのを待った。その間も母は楽しそうにいろいろなことをしゃべった。会社の上司の愚痴や、今の彼氏のこと。何もかもおもしろおかしく話すので理奈は思わず笑い声を立てていた。
 やがて順番がやって来た。母は早口で「鷹野宵君の『少年FBI』の十一時の回です」と言った。受付係の人は営業の笑顔で「座席はどちらになさいますか」と座席表を理奈たちに見せた。母は迷わず真ん中の一番見やすい場所を指差した。係の人は「ありがとうございます」と言った後、「お子様の学生証明書などはお持ちですか?」と訊いた。理奈は流暢な動作で証明書を係の人にぐいっと見せた。「ありがとうございます」と係の人はもう一度言って、チケットを配布した。二人はそれを受け取って、それぞれ飲み物を買い、シアター内に入る。劇場内は、今人気のタレントだからか、けっこうな数の人が座席に座って上映されるのを待っていた。理奈と母は座席の人の間を掻き分けながら、真ん中の席に座った。
 十分ほど経って、証明が暗くなり始めた。母は待ちに待ったというように身体を少し上下に動かした。まずほかの映画の番宣がいくつか入り、次いで劇場内の注意点をいくつか述べられた後、いよいよ映画が始まった。
 映画の内容は、都内一の新学校だが他校のどことも交流を見せない閉ざされた学園内で、さまざまな怪事件が起こり、それを二人の男の子の主人公が解決していくというミステリーものだった。理奈は何となく、この学校のモデルは、あの中央口の遠くにある木立学園中学高等学校だろうなと思った。映画の内容は、なかなかに脚本と演出が凝っていて、わりと楽しめた。母のほうは鷹野宵を見ることに必死らしく、何度も身体をせわしなく動かした。
 やがてクライマックスが近づいてきた。犯人の男子生徒が白状して泣きながらトランクの中を開ける。そこに綺麗な女の子の死体が折りたたまれている。鷹野宵扮する主人公は、黙って女の子の頬を撫でる。そこでエンドロールだった。
 母は感極まって泣いていた。ハンカチを顔に当て、グスンと鼻を啜った。エンドロールが終わり、証明が明るくなっても母は席を立たないので「お母さん、もう行くよ」と理奈は促した。ようやく母は腰を上げ、理奈の手につながれながら劇場内を出た。
 映画館を出る頃には、母はもう泣き止んでいた。それからぱあっと花が咲いたように笑顔になり、興奮して叫んだ。
「どう、理奈! 宵君かっこよかったでしょう!?」
「う、うん。かっこよかったよ」
 理奈は半ば押され気味にうなずいた。
 二人はそこにあるファミリーレストランで昼食を取ることにした。
 混雑する時間帯だったので、店に入る前にけっこうな時間を並んだ。やっと順番が来て、二人は店員に奥のほうのテーブルを案内された。
 テーブルに着くと、ほっと一息できた。今日は暑かったので、理奈は冷やし中華を頼んだ。母は野菜たっぷりのソテーにした。
 料理が運ばれてくるまでの間、母は鷹野宵の話に花を咲かせる。
「どう? 宵君、演技上手かったでしょう? 彼はやっぱりバラエティーに出るよりも俳優業として活躍してほしいなぁ」
 理奈はどちらかというともう一人の主人公役の男の子のほうが上手かったと思ったのだが、それは言わないことにした。
「うん。鷹野君、かっこよかったね」
「でしょう!?」
 母は目をキラキラさせて鷹野宵へ思いを馳せた。
 料理が運ばれてきた。理奈の冷やし中華と、母のソテー。二人とも同時に「いただきます」と言い、箸を運ばせた。何だか一瞬、本物の食卓に着いてご飯を食べているような錯覚を覚え、理奈は胸が苦しくなった。
 気がついたときには、思わず口にしていた。
「お母さん、私たちの家に帰ってくる気はないの?」
 言われた母は、口に運ぼうとしていたソテーを、再び皿に置いた。それからしばし考え、眉間に皺を寄せ、すると今度は申し訳なさそうに顔を歪ませた。
「……ごめんね、理奈。智広にも代わりに謝っといて。お母さんね、やっぱり一人の女性でありたいの。母親というより、恋する一人の女でいたいの。……言っている意味、わかるかな?」
 理奈は苦笑して、目の前の冷やし中華の麺をぐるぐるとかき混ぜた。
「わかってるよ、お母さん。訊いてみただけ。変なこと言っちゃってごめんね。……今の彼氏とは上手くいってるの?」
「ええ、順調よ。それと私のほうこそごめん。母親らしい行動が取れなくて。……どう? その後は。智広は元気にしてる?」
 理奈は瞬間ドキリとしたが、平静を装って麺を一口啜ると、言った。
「うん、元気にしてるよ」
 本当は、何もかもぶちまけたい。智広は母が出て行ってから変わり果ててしまったということ。だからこそ母に戻ってきてほしいということ。しかし理奈の口は沈黙を決め込んだ。
「そう。ならよかったわ」
 母の安心した言葉が胸に痛かった。
「あ、佐藤さんとも大丈夫? 上手くやってる?」
「うん! すごくいい人だよ」
 これには理奈は笑顔で答えられた。母は理奈の顔を見ると、ほっとしたように肩をなでおろした。
「あんたたちが元気なのが一番よ」
 そう言って再びソテーを切り、フォークで口に持っていった。
「う~ん、美味しいわ。あんたも食べてみる?」
「え、いいの?」
「もちろん」
 理奈は母が切り分けてくれたソテーの一口をつまんだ。ジューシーなうまみと肉の食感のよさが滲み出ていて、舌鼓を打った。
「ありがとう。私の冷やし中華もあげる」
「本当? やった~」
 母も嬉しそうな顔をして理奈の皿からフォークで麺を巻き取り、口に運んだ。途端に幸福でたまらないというような表情になる。
「ここのお店、美味しいわね。チェックしとこうっと」
 母はさっそくメモ帳を取り出して、店の名前を書き入れた。その素早い動作に理奈は笑えてきて、声を出して笑った。こんなに笑えた日は雅弘と会っている時くらいだ。夏帆と華澄の前では、まだ緊張して笑えない。
 雅弘。
 理奈は家の真向かいにいる彼のことを思った。
 私たちは、どういう関係なのだろう。あの人は、私たちがどうなっていくのを望んでいるのだろう。
 気がつくと、二人とも料理を食べ終えていた。母は「そろそろいい?」と理奈に訊いて、「うん、いいよ」と承諾を得ると、伝票を持って颯爽とテーブルの間を縫って行った。理奈もあわてて母について行く。母は理奈の分の会計も払ってくれた。
 帰り道は、二人で寄り添いあうように歩いた。母の肩は女性の肩だがとても大きく見えて、自分はまだ彼女に甘えているんだと思った。母は明活で、明瞭で、そして情熱のような人だ。この人を誰も縛れやしない。たとえ肉親でさえも。
 木立駅で二人は別れた。理奈は母の真っ赤なロングスカートが見えなくなるまで、いつまでもいつまでも見送り続けていた。

 家に着いた。
 玄関のドアを開けるなり智広が目の前に飛び込んできた。理奈はびっくりして思わず後ずさる。
「おい、今日どこ行ってきたんだよ」
「な、何よいきなり……」
「誰と会ってきた? 妙にめかしこんで」
「あんたに関係ないじゃない」
 理奈は智広をどけて自室へと向かう。
「お雨の行動なんて、すぐにわかるんだからな!」
 智広が後方から怒鳴ってきた。理奈は辟易して自室のドアを閉める。
 一体どうして智広は、理奈にこんなにもつらく当たるようになったのだろう。小さな頃は、そう、本当に小さな頃は、お互いがいなくちゃ生きていけないくらい仲良しだった記憶があるのに。
 理奈は隅に置いてあった古いアルバムを再びめくる。頬をくっつけ合って笑っている自分と智広。
 智広、あなたはどうして変わり果ててしまったの。
 理奈は答えようがない問題をいつまでも抱えていて、目元には涙が滲み出ていた。

 月曜日が来た。
 日曜日は何ら問題なく過ぎていった。相変わらず智広は目の色を光らせていたが、特に何も言っては来なかった。理奈は少々ほっとした。
 いつものようにパンを食べて、制服に着替え、学生鞄を肩に下げる。行く準備ができて、玄関に立つと、智広が佇んでいた。
「な、何?」
「……別に」
 智広はそう言うと、制服に着替えるため自室へ入っていった。理奈は気味が悪くなり、急いで玄関のドアを開けた。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
 佐藤に見送られ、理奈は早足で階段を下りる。今日は曇り空で、太陽は雲に遮られ、肉眼で見えるほどの輝きとなっていた。
 ちょうど目の前の大きな家から一人の少年が出てきた。理奈は知らず笑顔になり、彼に手を振った。雅弘のほうも笑顔で手を振り返した。
 二人で他愛のない話をしながら駅へと向かう。電車に乗り、木立駅に着いて、ホームに降り、改札口を抜けるまでの間、話題が尽きることはなかった。そしていつも通り雅弘は「じゃ、ここまで」と言って先にズンズンと木立市立高校への道を歩いていった。理奈も少し遅れて数十メートル先の雅弘の背中を見つめながら歩く。もはや日課となっていた行動だったが、いつもほんの少しの寂しさを理奈は感じていた。どうか一緒に学校へ行くことは叶わないのだろうか。
 木立市立高校が見えてきた。銀色のネームプレートが、今日は日光が当たっていないので、錆びたように収まっている。理奈は雅弘の背中を追い続けながら校門を抜けた。
 教室へ入り、理奈の目に真っ先に飛び込んできたのは、夏帆でも華澄でもなく、紅葉の色に近い赤茶色の髪をした、雲雀秋だった。彼は静かに小説を読んでいる。最近よく目が合うのはなぜだろう。見られている気がするのはなぜだろう。
 ふと、彼が顔を上げた。ばっちりと理奈と視線が合ってしまい、戸惑うが、何とか挨拶をする。
「お、おはよう、雲雀君」
「……おお、おはよう」
 雲雀秋はつまらなそうな表情で挨拶を返すと、再び小説を読み始めた。理奈は緊張した面持ちで、彼の座席を通り抜けた。自分の席に着くと、すぐさま夏帆と華澄が寄って来て、それぞれ「おはよう!」と声をかけた。理奈もすぐに「おはよう」と返した。
 だんだんと理奈の心は二人に対して開いていった。しかし二人を信用しちゃいけないと言う雅弘。その言葉がまだ心の隅に引っかかっている。
「理奈、どうしたの? 顔色悪いよ?」
 ふいに夏帆が理奈の顔を除き込んで言った。
「え? そうかな?」
 自分でも気づかなかった。やはり智広のことを考えすぎているからなのだろうか。
「理奈ちゃん、保健室行く?」
 華澄が心配そうに訊いてきた。
「ううん、大丈夫だよ」
 理奈はなるべく元気に答えた。突如、頭の奥がズキリと痛んだが、気にしないことにした。
 朝のホームルームで、席替えをすることになった。
 生徒たちはぶーぶー文句を言いながらも、しぶしぶと教師に従ってくじを引いた。理奈は引いたくじを見た。二十八番だった。
 雅弘は、どうだろうか。
 自然と心が雅弘のほうへ行ってしまう。しかし彼の引いたくじは一番で、理奈からは遠く離れてしまった。
 理奈は落胆した。と、両脇から夏帆と華澄が理奈のくじを覗き込んだ。
「やったー! 私たち、近いじゃん!」
 夏帆がきゃっきゃと喜んで、二人にハイタッチを求めた。理奈もそれに応じて、とりあえず二人と一緒なら、悪くない番号かなと思った。
 時間は過ぎ、昼休みとなった。
 理奈はいつも通り夏帆と華澄の三人で机を囲み、お弁当を食べたが、どうにも食が進まない。頭の奥がズキズキとした痛みで満ち、急に目の前がクラクラしてきた。
「理奈、大丈夫!?」
 真っ先に夏帆が気づいて理奈の額に手を当てた。
「理奈、熱すごいよ! 保健室行こう!」
 夏帆と華澄は両脇から理奈を支え、教室を出て行った。視界の端に、また買出しに行かされていた雅弘の姿が映った。雅弘が、こちらを見たような気がした。
 保健室に入るなり、保険医があわてて体温計を理奈の脇の下に入れ、熱を測った。三十七度五分だった。
 理奈は熱冷ましの薬を飲まされ、一番奥のベッドに寝かされた。夏帆と華澄は「帰りのホームルームまで寝てな」「ノート、後で貸してあげるね」と言って保健室を出て行った。
 理奈はまだジンと痛みがする頭を抱えて、ベッドの心地よさに身体を預けた。だんだんと眠気が訪れてきて、理奈は息を一つ吐いて眠ることにした。
 夢を見た。
 遊園地だろうか。さまざまな乗り物が理奈を待っている。横には智広が理奈の手を繋いで、鼻歌を唄っている。目の前にはメリーゴーランド。後ろから父と母の「乗ってきなさい」という声がする。二人は大喜びで手を取り合って走っていく。どこまでもどこまでも。ふいに智広が「お姉ちゃん、大好き」と言った気がした。
 キンコンカンコーン、とベルの鳴る音で理奈は目を覚ました。保険医がカーテンを開けて「綾瀬さん、起きれる?」と訊いてきた。理奈はあわてて「はい、もう大丈夫です」と言った。
「一応、熱を測ってちょうだいね」
 保険医は体温計を理奈に渡した。理奈はそれを受け取り、脇の下に挟んだ。しばらくして音が鳴ると、三十六度九分だった。
「少し下がったみたいね。でも今日は無理しないで真っ直ぐ帰って寝てね」
「はい」
 理奈は保険医の言うことを聞きたかったが、雅弘との約束があった。いつもの約束。屋上で会うという、誰にも知られてはいけない秘密。
 理奈は行くことを決めた。保険医に挨拶をして保健室を出た。その時ちょうど夏帆と華澄に出くわした。二人は理奈の学生鞄を持ってきてくれていた。
「理奈! 熱はもう大丈夫なの?」
 夏帆が心の底から心配している目で訴えかけてきた。
「うん。もう平気だよ」
 理奈は笑って夏帆から学生鞄を受け取った。
「理奈ちゃん、無理はしないようにね」
 華澄はあどけない笑顔で理奈の身を案じてくれた。
「ありがとう、夏帆、華澄」
 理奈は改めて二人の存在に感謝した。
「あ、ねえ! 今度こそ一緒に帰らない?」
 夏帆が理奈の肩に手を置いて笑顔で言った。けれど理奈は首を横に振る。
「ごめんね。毎日、行かなきゃいけないところがあるの」
「そっか……」
 夏帆はがっかりと肩を下げた。そして訊いてきた。
「行かなきゃいけない場所って、どこなの?」
 理奈は今度も首を横に振るしかなかった。
「本当にごめんね。それも言えない」
 夏帆と華澄は二人して少し悲しそうな、寂しそうな表情になった。
「……ま、いっか。いつかは私たちにも話してね!」
 夏帆は気を取り直して、理奈に向かって笑顔で言った。華澄も柔らかい顔つきになって夏帆の言葉にうんうんとうなずいた。
「……うん」
 きっとその日は永遠に訪れないだろうことを思いながら、理奈は罪悪感に囚われたままうなずいた。笑顔で接してくれている二人に申し訳なかった。

 どんよりとした曇り空だった。太陽は完全に雲の板に挟まれ、輝きを失っていた。今にも雨が降りそうだった。
 屋上への扉を開けると、階段を二段下がったところに雅弘はすでにいた。理奈のほうに気づくと、心配そうな顔つきになって言った。
「熱は大丈夫?」
「うん。まだちょっとあるけど。……って、どうして知ってるの?」
「聞こえてたよ。松田と伊織が大声で騒いでたからさ」
「そ、そう……」
 何だか恥ずかしくなってしまい、理奈は肩をしゅっと縮めた。何か話題はないかと考え、ふと土曜日に母に会ったことを話そうと思い立った。
「あのね、先週の土曜に、お母さんに会ったの!」
「……そう。確か、そんな話をしてたね」
 雅弘は深遠な表情で、理奈の顔を真正面から見つめた。
「後ね、何日か前に家族で焼肉屋に行ったんだけど、そこに雲雀君がいたの!」
「へえ」
 雅弘は今度は興味深そうに理奈の言葉に耳を傾けた。
「私たちが行った焼肉屋、雲雀君の実家なんだって! 店員姿の雲雀君、何だか新鮮だったよ」
「働いてるの?」
「人手が足りないから時々手伝うんだって」
「そっか。この低成長時代だもんね」
 雅弘は納得したように首を上下にうんうんとうなずいてみせた。
「でも、何よりも楽しかったのは、お母さんとの映画館だったなあ!」
「……お母さん」
 急に雅弘の声は低くなった。理奈は何だか言ってはいけないことを言ってしまった気分になり、心もとなく日と目を左右に右往左往させる。
 静かに、雅弘が口を開いた。
「……お母さんは、君のことを、いや、君たちのことを、捨てた人だよね?」
 雅弘の口から出てきた言葉に、理奈は一瞬頭が真っ白になった。すぐにまだ痛みの残る頭を回転させて、雅弘を納得させようと試みる。
「世間から見たら捨てたって思われるかもしれないけど、一ヶ月ごとにちゃんと連絡を入れてくれるんだよ。土曜日は一緒に映画館へ行って食事もしたし、充実した一日だったよ」
「……でも、家には、帰ってきてくれないんだろ?」
 雅弘は変わらず冷たい低い声で言葉を発した。理奈の頭は混乱する。
「で、でも、お母さんは、天真爛漫で、自由奔放な人なの。無邪気な女の子みたいに明るい、素敵な人だよ」
「でも、家には居てくれない」
「だ、だって、お母さんには、外の世界のほうが似合うもの。じっと家に閉じこもっているより、ずっといいじゃない」
「俺が言ってるのは、その人に母親としての自覚があるのかということだよ」
 理奈は憤慨して、叫んだ。
「あ、あるに決まってるじゃない! そうじゃなかったら、一ヶ月ごとに連絡してくれたりしないもん! 一緒に遊びに誘ってくれたりしないもん!」
 雅弘は冷静な声で、言った。
「綾瀬さん、君のお母さんは、『お母さん』をやる気がないんだよ。君たちと一定の距離を保ちたいんだ。綾瀬さんのお母さんは、もうお母さんじゃない。それじゃお母さんと呼べない」
 雅弘の口から放たれる一言一言に、理奈は思わず口走った。
「いじめられている人なんかに、そんなこと言われたくない!」
「俺はいじめられてなんかいない!」
 突如、雅弘は声を荒げた。理奈は身体中の細胞がびくりと驚いたように、固まってしまった。雅弘は必死な形相で、理奈のことをにらむように見つめていた。
「違う。俺は、いじめられてなんかいない……! あ、あれは、ただのお使いで、俺は、あいつらを、軽蔑しているけど、違う。いじめなんかじゃない……!」
 桜木君、あなたはいじめられているんだよ。買出しは、パシリっていうんだよ。みんなあなたのことを見下しているんだよ。それでいいの?
 理奈は声高々に叫びたかったが、口の中がカラカラに渇いて、声が唇に乗って出てこなかった。
 二人して、しばらく黙り合った。ポツ、ポツと音がしたかと思うと、すぐにザアっとした雨が降り注いだ。二人はあわてて屋上から室内に入った。
 お互い同時に顔を見合わせた。理奈の瞳に雅弘が、雅弘の瞳に理奈が映る。どちらも捨てられた子犬のような顔で、誰かに助けを乞うような表情をしていた。
 気まずくなって、二人は数歩離れる。
「……ごめん。急に怒鳴ったりして」
 先に口を開いたのは雅弘だった。理奈もそれに続く。
「私のほうこそごめんね。失礼なこと言って」
「……うん」
 雅弘は小さくつぶやくと、雨に濡れた髪を払いながら、再び言った。
「今日はもう帰ろう。このままここにいても、どうしようもないから」
「……そうだね」
 二人はとぼとぼと玄関へ足を運んだ。上履きからローファーに履き替え、閉じられている扉を開ける。折り畳み傘を広げ、雅弘を待つ。
「やべ。傘持ってきてねーや」
 現れた雅弘はばつが悪そうに顔を歪めた。すかさず理奈は傘の中に雅弘を入れた。雅弘の顔はより一層気まずそうになった。
「なんか、前にもあったよね。こういうの」
 理奈が笑いながら言うと、雅弘はほっとしたような笑みを浮かべて言った。
「うん、そうだね。俺何も持ってないから、いつも助かるよ」
 二人の仲の雰囲気はいくらか軽くなった。それから木立駅へ向かい、電車に乗り、ホームに着いて、自分たちの家へ歩くまで二人は無言だった。だが重苦しくはなかった。理奈は、今は何も言わないほうがいいのだと感覚でわかっていた。
「じゃあね、綾瀬さん。ありがとう」
「うん、またね、桜木君」
 雅弘は理奈の傘を抜け、小走りに門扉を開けて階段を上り、家の鍵を開けて中へ入っていった。いつも理奈は雅弘の姿が完全に見えなくなるまで彼を見つめる。一分一秒の彼さえも見逃したくなかった。
 理奈はほっと息を着くと、マンションの三階まで上った。家の鍵を開け、中に入る。
 獣の鳴く声がした。
 いや、獣ではなかった。男の雄叫びがしていたのだ。
 何事かと思い、叫び声のしているリビングルームへと走る。
 そこには智広が、さまざまな家具を投げたり蹴り飛ばしたりして泣き喚いているのが見えた。奥では佐藤が恐怖のあまり隅で縮こまっていた。
 理奈は思わず智広の身体に飛びついて、落ち着かせようとする。
「ちょっと! どうしたのよ、智広!」
すると理奈を見つけた智広は、生涯の仇のような目で理奈をにらんで、唾を飛ばしながら叫んだ。
「母親に会ってきたんだろ!」
 瞬間、理奈の身体が凍りついた。触れてはいけないものに触れてしまったような感触が身体中に走る。
「俺に黙って、母親と会ったんだろ!? それで俺の悪口を思う存分言いふらしてきたんだろ!」
「そ、そんなことするわけないじゃない!」
 理奈は何とか反抗して、暴れる智広の身体を必死に押さえつけた。
「お母さん、言ってたよ! どう、智広は元気、って! お母さんは私たちのこといつも考えてくれてる! 智広も同じだよ! 私たちは見捨てられてなんかいない!」
「じゃあ、なぜ俺に会いに来ない!?」
 智広は抑えていた理奈を突き飛ばして、叫んだ。その叫びは智広の心の泉から湧き出た噴水のように、理奈を水びだしにさせた。理奈は固まって動けなくなった。
 そうだ。どうしてお母さんは、私には会っても、智広には会おうとしないのだろう。
「なぜ誰も俺に会いに来ない!? 誰も俺を見ようとしない!?」
 智広は滂沱の涙を光らせて、理奈に向かってクッションを投げつけた。理奈は抗う術を持たず、クッションは顔面にぶち当たった。
冷え切った頭の中で、理奈は一つの答えを見出していた。
 そうだ。
 お母さんは、智広に会いたくないのだ。
 なぜ会いたくないのかはわからない。ただ、それだけが事実となって理奈の前に立ちはだかった。お母さんは電話で智広の声も聞こうとはしない。智広は、別れた夫に似ているのだろうか。とにかく、母は智広のことが好きではないのだ。
 いや。
 きっと、私のことも。
 母は、本当はどうでもいいのだ。自分の子どもたちのことは放っておいて、自由に気ままに遊んで暮らしたいのだ。ところが理奈たちのことが足枷になっている。仕方がないからとりあえず聞き分けのいい理奈のほうと会っているのだ。
「みんなそうだ! 俺より理奈のほうが大事なんだ! みんな俺を怖がって、ビクビクしやがって、俺と目を合わせようともしないんだ! みんな大事なものは理奈が持っていく! いつだって大切にされるのは理奈のほうだ! 佐藤だって俺より理奈のほうが好きだよなあ?」
 智広は隅っこで震えている佐藤に向かってニヤリと笑みを見せた。佐藤はぶるぶるしながらも「そ、そんなことないじゃない」と言った。が、智広は満足せず、「ほら、嘘を言いやがって!」と唾を吐いた。それからドスドスと理奈のほうに向かって歩き、胸倉をぐいっと掴んで引き寄せた。
「お前は、俺の、オモチャなんだよ」
 智広の漆黒の瞳に理奈の顔が映る。こんな時に、ああ、私たちは顔立ちが似ているのだなと思った。黒い髪に黒い瞳。誰も寄せ付けようとしない、能面のような無表情の顔。智広の瞳に移る自分は、ずいぶんと呆けて見えた。
 バシンと音がしたかと思うと、右頬に焼けるような熱さを感じた。頬を打たれたのだと気づくまでにしばらく時間がかかった。
「お前を、絶対に許さない」 
智広はそう言ってふんと鼻を鳴らすと、大股でリビングルームを抜け、自室へと入っていった。ドアが壊れるのではないかというほどの大きな音を立てて。
 残されたのは、理奈と佐藤、それからあちこちに散らばった家具たちだけだった。
 二人とも途方に暮れて、床に視線を落としたまま動けないでいた。

 やっと動けるようになったのは、十分か三十分か、それくらいした頃だった。
 とりあえず目の前の散乱した家具たちを元の場所に戻す。それから散らばったティッシュ箱やらクッションやらを片付ける。そして割れた食器を一破片ずつ取ってゴミ袋に捨て、最後に部屋全体に掃除機をかける。そこでようやくいつものリビングルームに戻った。
 二人とも無言で作業をした。というより、口が開けなかった。今この状況をどうしたらよいのか、皆目検討がつかなかった。
「……理奈ちゃん、お顔、大丈夫?」
「……あ、うん」
 佐藤に訊かれて初めて理奈は言葉が出た。佐藤は「湿布、持ってくるね」と言って棚を開き、奥にある救急箱を出して湿布を取り出した。
 佐藤に湿布を当ててもらうと、ひんやりとした冷たさが頬の痛みを和らげてくれた。
「……智広、私のことをずっと憎んでいたのは、そういうことだったのね」
 理奈は力なく言葉を発する。
「理奈ちゃん、憎むなんて、そんなこと……」
「だってそうじゃない!」
 理奈は思わず涙声になって叫んでいた。
「あんな目をした智広、初めて見た! 智広は私のことを本当に憎んでる! もう取り返しつかないよ!」
 理奈は泣きながら佐藤の胸に飛び込んだ。佐藤は母のように、ゆっくりとした動作で理奈の頭を撫で、身体を優しく抱きしめてくれた。
 
夕飯の時間に智広は来なかった。理奈は一瞬だけほっとして、智広の皿にサランラップをかけた。それから佐藤と一緒にテレビを見ながら食事をした。画面にはたくさんの人たちが笑ったり、大声で突っ込みあったりして客の笑いを誘っていた。今のこの状況とあまりにも場違いで、理奈はむしろ笑えてきた。今は何も考えたくなかった。テレビだけが救いだった。
「理奈ちゃん、この芸人さん、突っ込み方が上手いわねえ」
 佐藤はやんわりとした声でテレビを指差し笑った。佐藤の笑顔は、どこか母に似ている。性格的にはまったく正反対なのだけれど、なぜか笑った顔は通じるものがあった。
「そうだね。おもしろいね」
 理奈も佐藤の言葉に返事を返して、テレビに見入った。何もかも忘れてしまいたい思いを込めるように。佐藤との会話も渇いたものだった。
 やがて夕食を全部食べ終え、皿を洗い、風呂に入った後、歯磨きをしてパジャマに着替える。
 電気を消して布団に入ろうとした時、理奈の目から一筋の涙がこぼれ落ちた。理奈は不思議に思って涙を拭いたが、あとからあとからあふれ出てきて、次第に滝のような涙になって理奈は思わず号泣した。

   ☆

 翌朝。
 理奈は智広の顔を見たくなくて、いつもより早い時間帯に起きた。
 起きぬけの佐藤にばったりと遭遇して「どうしたの、理奈ちゃん?」と驚かれたが、曖昧な返事をしてごまかした。
 霊倉庫から牛乳とクリームパンを取り出し、食べる。テレビを点けるとワイドショーが流れていて、国会の様子が生々しく放映されていた。
「……理奈ちゃん、もしかして、智広君と会いたくないの?」
 佐藤に図星をつかれて、理奈の手は一瞬止まったが、すぐにパンを頬張り続ける。
「佐藤さんも聞いたでしょ。昨日の智広の言葉。あいつは私のことを本当に憎んでいる。私なんてオモチャになればいいんだと思ってる」
「…………」
 佐藤は答える術を持たず、しばし逡巡していた。が、意を決したように力強い声で言った。
「理奈ちゃん。あなたと智広君は、もっとたくさん話し合うべきだと思うの」
 理奈はハアと深いため息を一つついて、佐藤を見る。
「無駄だよ。智広は私をオモチャとしてしか見ていない。まともに話ができるわけない」
「理奈ちゃん、諦めちゃダメよ」
 佐藤は説得するが、理奈は諦念めいた瞳で佐藤をじっと見つめた。
「佐藤さん、私、もう疲れちゃった。これ以上何も言わないで」
「でも……」
「何も言わないで!」
 理奈は叫んだ。佐藤は驚いたような、悲しそうな表情で、口をつぐんだ。あとには重苦しい沈黙だけがあった。
「……もう、行ってくるね」
 理奈は皿とコップを洗い、洗面台へと向かった。佐藤の寂しい顔が視界の端に映った。
 歯を磨き、パジャマから制服へと着替えて、学生鞄を肩に下げる。玄関に立ち、すべてのものを取り払うかのように勢いよくドアノブを回し、開けた。途端に眩しい太陽の光が目に降りかかってきた。今日は快晴らしい。自分の心とは裏腹に。
 理奈は雅弘の家を見るのも忘れて、軽く早足で駅へと歩いた。
 電車に乗り込み、木立駅に着くと、理奈は人を押し分けるようにしてズンズンと進んだ。雅弘のいない木立駅は、人がたくさんひしめいているのにも関わらず、何かが欠如して見えた。ああ、隣がいないんだ、空っぽなんだと理奈は思い当たり、また泣きそうになる。雅弘とも、昨日は気まずい雰囲気のまま別れてしまった。今日は屋上に来てくれるだろうか。
 理奈は滲み出てくる涙をぐいっと拭いて、同じ制服の人たちをどんどん追い越していった。

 学校に着いた。一年一組の教室に入ると、人はまばらにいた。夏帆と華澄、柊たちはまだ来ていなかった。理奈は自分の席に着くと、一人ぼっちだった時みたいに、机に頬杖をついてぼうっと窓の外を見つめた。グラウンドでは、野球部やらサッカー部やらが声を張り上げて朝練に励み、遠くのほうでは吹奏楽部の楽器の吹く音が聞こえてくる。さらに耳を澄ますと、合唱部の高らかな歌声がこだましていた。
 時間は過ぎ、だんだんと人の声は大きくなっていった。気がつくと、もうホームルームがまもなく始まる頃だった。
 夏帆と華澄が教室へ入ってきて、理奈を見つけるとすぐに駆け寄り、「おはよー!」と元気な挨拶をした。理奈もなるべく元気に「おはよう」と声を上げた。すると夏帆はびっくりした表情になって理奈の右頬を指差した。
「理奈! どうしたの、その湿布!?」
「ああ、ちょっとね」
 理奈ははぐらかして、再び顔を窓の外に向けた。なぜか罪悪感が満ちて、二人の顔が見られなかったのである。夏帆と華澄は困惑しているように見えた。
 ふと、あることに気づいた。
 雅弘と柊たちが、まだ教室に来ていない。
 いつもなら真ん中の机を陣取ってけたたましい声で騒ぐのに、今日は誰一人としてここにいない。どういうことだろう。
「あのさ、桜木君たちってどこにいるかな?」
 理奈は振り返って二人に訊いてみた。二人はいつもの理奈に戻ったというような安堵感を表情に表した後、言った。
「桜木? 柊たちと一緒じゃないの? あれ、そういやあいつらどこいんの?」
 夏帆は教室内を見回した。
「知らない。どこにいるんだろうね。あ、帰ってきたよ!」
 華澄が教室のドアを見つめていると、柊たちが今まさに入ってくるところだった。柊とその仲間は満足したような顔でまた真ん中の机を占拠し始めていた。雅弘はというと、お腹をぐっと抱えていて脂汗を滲み出していた。どうやらひどく具合が悪そうだ。理奈は心配して雅弘を見つめ続けた。けれど目が会うことはなく、雅弘は柊たちの中へ紛れていった。

 ホームルームが終わり、午前の授業が終わり、昼休みが終わり、午後の授業が終わり、帰りのホームルームが終わった。生徒たちは今日もがんばったというような、この鬱屈な時から解放されたというような表情で、それぞれに席を立った。理奈も席を立ち、夏帆と華澄に別れの挨拶を告げ、屋上へと走って行った。
 屋上には、まだ雅弘はいなかった。理奈は階段を二段下がった場所に腰掛け、彼が来るのを待った。
 十分経っても、二十分経っても、彼はやってこなかった。諦めてもう帰ろうかと思った頃、ようやく雅弘が姿を現した。
「ごめんね、遅くなっちゃって」
 理奈は雅弘の姿を見るとほっとした心境になった。次いで彼の制服に散らばる、上履きの跡に心が痛くなった。
「いいの。来てくれてありがとう。もう会えないと思っていたから」
「そんな。俺はいつだって綾瀬さんに会いたいよ」
 雅弘はまた殺し文句を言って、理奈は頬を赤らめた。雅弘は理奈と同じ場所に座った後、ハっと一つ笑いをこぼし、しゃべり始めた。
「今日さ、面白いことがあるから来いよって柊に言われたからさ、何かと思ったら、むしゃくしゃしてるから殴らせろだって! それ、単に俺をオモチャとして扱ってるだけじゃん! 一応付き合ってやったんだけど、あいつらお礼も無しにさ! ああ、スッキリしたって! 俺はちっともスッキリしてないんですけど、みたいな」
 しゃべり続けているうちに、雅弘の表情はどんどん歪んでいった。顔をくしゃっとして、くりっとした目からは大粒の涙が溢れてきた。雅弘はそのまま身体を縮こまらせて嗚咽を漏らす。
「綾瀬さんの、言ったとおりだよ」
 雅弘はひっく、としゃくりあげて悔しそうに拳を階段のふちにドンと叩いた。
「俺ね、いじめられてるんだ」
 理奈は思わず雅弘を抱きしめた。それは感情ではない。衝動だった。ああ、私たちは同じなのだと、心が叫ぶ。雅弘の身体は小さかったが、骨ばった体つきに、男の子なのだと改めて知った。
「私もね、弟にいじめられてるの」
 理奈は雅弘の頭を撫でながら告白した。
「誰も、助けてくれないわ」
「強く、なりたかったんだ」
 ふいに雅弘がぼそっとつぶやいた。まだ震えている身体を押さえつけるようにして、一言一言、言葉をつむぐ。
「強いグループに入りたかったんだ。柊を初めて見た時、こいつは強いって思ったんだ。こいつについて行けば間違いないって。その結果がこれさ」
「弱くても、よかったのに」
 理奈は雅弘の頭を撫で、そう言った。
「男なら、強くなりたいって思うのは、当然のことさ。俺は弱い男なんかじゃない。そう思いたかったんだ。こんな小さな身体で、心まで弱くなりたくなかった」
「桜木君は、充分強いよ。だってずっと耐えてるんだもの。それはすごいことだよ。私は、そのままの桜木君が好きだよ」
 素直に「好き」という言葉が出てきたことに、理奈は内心驚いていたが、表情には出さずにいた。そして初めて、自分は雅弘のことが好きなのだと知った。
 雅弘の顔は耳まで火照ったが、直後に悔しそうな表情になり、「ちくしょう……、あいつら、このチカラがあれば全員ぶっ殺してやれるのに……!」と低い声で唸った。
「そんなことしないで。桜木君」
 理奈はそう言って、しばらくの間、雅弘を離さずにいた。今離してしまったら、彼は本当に柊たちを殺しに行ってしまいそうだった。
「も、もういいよ。綾瀬さん」
 雅弘は照れたのか、理奈の身体をぐいっと突き放した。
「ねえ、これからは雅弘って呼んでもいい?」
 理奈はポンと思いついたように手を叩いて言った。雅弘は少々驚いた様子だったが、すぐに笑顔に戻って「いいよ。俺も理奈って呼ぶ」と言った。理奈、と雅弘の口から名が出た途端、胸の鼓動が大きく鳴った。自分は今、雅弘にドキドキしている、と頭の片隅でどこか冷静に判断を下していた。
 ふとした時には、言葉が勝手に口から出ていた。
「ねえ、雅弘。一緒に遊園地に行かない?」
「遊園地?」
 雅弘はきょとんとした顔になった。
「うん。今週の土曜日に」
 雅弘はしばし考え込んで、やがてゆっくりと微笑んだ。
「いいよ。どこにする?」
「木立駅の中央口からバスで行ったところに、小さな遊園地があるでしょ? そこに行きたい」
「わかった。じゃあそうしよう」
 二人はお互いに額をくっつけて笑い合った。殴られた傷の痛みも、オモチャにされた悔しさも、今はもうどこかに吹き飛んでいた。

 帰りの電車の中で、二人は待ち合わせの場所と時間帯を決めた。午前十時にお互いの家の前で。理奈と雅弘は、初めて遊びに連れて行ってもらえる子どものように笑い声を立ててはしゃいだ。下車する駅に着くと、どちらからともなく手を繋いで電車を降りた。そのまま家まで歩く。雅弘の手の体温はとても温かくて、ほんのわずかな湿り気を帯びていた。自分の手はどうなんだろう。理奈はふとそんなことを思った。
 家に着いた。理奈は繋いでいた手を名残惜しそうに離した。雅弘も寂しそうな表情をかいま見せた。
「じゃあ、土曜日、約束ね」
 理奈はもう一度念を押すように言った。
「うん。土曜日にね」
 雅弘も嬉しそうに顔を和ませて、家の門扉を開け、階段を上り、鍵を開けて中へ入っていった。理奈は一分一秒の彼を逃さず見つめ続けた。
 雅弘の姿が完全になくなると、理奈はマンションの三階まで上り、家の鍵を空けて中へ入った。
 自室に学生鞄を置いて、リビングルームに向かうと、佐藤がせわしなく動いていた。
「どうしたの、佐藤さん?」
「ああ、理奈ちゃん。今から買出しに行くところなのよ。ちょっと遅れちゃって」
 佐藤はカーディガンを羽織ると、慌しげに玄関まで急いだ。そしてふっと後ろのほうを見ると、理奈に声をかけた。
「理奈ちゃん、よかったら一緒に行かない?」
 きっと智広との事を考慮してのことだろう。理奈は一度考えたが、承諾することにした。
「うん、行く」

 スーパーは午後の時間帯もあってか、混雑していた。理奈たちと同じように晩御飯の買出しに行く主婦たち、または一人暮らしの男性、女性、それからお年寄り。さまざまな人でごった返していた。
 理奈は何ら手を動かすことはなく、黙って佐藤の動きをじっと見つめながら後方をついて行っていた。
「理奈ちゃん、そこの豚ばら肉、とってくれる?」
「あ、はい」
 佐藤に言われて、理奈は赤く充満した生の肉を取ってカートに入れた。
 肉、野菜、調味料、そのほか飲み物などを買い込むと、カートはいっぱいになった。理奈と佐藤はレジへと向かう。
 佐藤はレジの順番を待っている間、ぽつりと言葉を漏らした。
「智広君は……どうして、ああなっちゃったのかしらねえ……」
「……わからない」
 理奈はそう答えるしかなかった。
「私が初めてあなたたちの家を訪れた時の智広君は、ちょっと緊張してて、それでも濁りのない真っ直ぐな瞳をしていたわ」
「……そうだったの」
 理奈はあの時のことを思い返してみた。「世話をしてくれる他人」が来た時、自分たちは両方とも緊張していた。何かこちらに危害を加えたりはしないか。二人してぶるぶる震えていたのを思い出していた。実際、会ったときの佐藤は、今と変わらず人の好さそうな笑顔で元気いっぱいに挨拶をした。理奈はそこで緊張がほぐれたのを覚えている。
「やっぱり、お母様の目が智広君に行かないのが理由かしらねえ……」
「多分、そうだと思う……」
 理奈は力のない声で言った。
 そのうちにレジの順番が回ってきて、佐藤は流暢な動作で提示された金額の分の金を払い、荷物を詰まれたカゴを持ってレジ台へと運んだ。そしてレジ袋に肉や野菜を詰め込んで、最終的に大きな袋二つ分を理奈と佐藤で半々持ち、家へと帰っていった。
 夕飯には今日も智広は来なかった。理奈はあの日以来ずっとほっとしている。今ここに智広がいないということに。
 私は、薄情だろうか。私は、弟とどうなっていきたいのだろう。
 理奈は答えようのない思念を、ずっと頭の中に巡らしていた。

 着実に日々は過ぎていき、土曜日を迎えた。
 理奈は朝早く起きて、顔を洗った。冷たい水が頬にほとばしり、朝から気持ちがよかった。
 リビングルームに入ると、佐藤は驚いた顔になって「理奈ちゃん、早いわね」と言った。
「今日はね、一緒に遊園地行こうって約束があるの」
「へえ、誰と?」
 誰、と訊かれて理奈は即座に返事ができなかった。雅弘という名前が自分にとって特別な響きを持つものだということに改めて気づかされる。
「……友達と!」
理奈はそうごまかして、佐藤が調理してくれた食べ物を食べる。
ご飯を食べ終えると、いつもより長く歯磨きをして、着ていく洋服を慎重に選び、入念に化粧をする。支度が整ったところで玄関に出た。すると玄関のすぐ横の智広の自室から、本人が出てきた。
理奈は驚きのあまり、固まるしかなかった。次はどんな暴力が待っているのだろう。恐怖で背中に悪寒が走る。
「そんなに着飾って、またどっか行くのか」
「……ちょっとね」
 ずいぶん久しぶりに智広と会話をした。智広の声すら忘れかけていたほどだった。
「また、母親のところに行くんじゃないだろうな?」
「違うわよ!」
 理奈ははっきりと否定した。智広とのことに雅弘を巻き込みたくない。心の底からそう思った。
 智広はこちらを見下すような目になり、冷たく言い放った。
「まあ、お前のそばにいてくれる人間なんて、たかが知れてるしな」
「……行ってくる」
 理奈は言い返す術を持たなかった。ここで何か言ったら、また智広の中にある爆弾が爆発するかもしれない。この場を上手く収めるために、理奈は挨拶だけをすることにした。
 ドアが閉まり、理奈は外の世界へと踏み出した。目の前の大きな家に目をやる。と、ちょうど雅弘が玄関の扉から出てくるところだった。
「雅弘!」
 理奈は嬉しくなって叫んでしまう。そして早足で階段を下り、彼の元へ走った。
「おはよう! 雅弘!」
 理奈に勢いよく挨拶された雅弘は、にっこりと微笑んで言った。
「おはよう。ジャストだね。こんなにタイミングが合うなんて、俺たち奇跡かも」
「うん! 奇跡だよ」
 二人はしばし笑い合った。しばらくして雅弘が「じゃあ、行こうか」と理奈のほうに手を差し出した。理奈はドキドキしながら彼の手に自分の手を添えた。すると雅弘はぎゅっと握って、歩き始めた。理奈もあわてて雅弘の歩幅に合わせる。今日もいい天気だった。歩道に身長差のない二つの影が並んで見えた。
 電車に乗って、木立駅へ向かい、駅に着き、中央口のバスターミナルに向かうまで、二人はずっと手を繋いでいた。交わす言葉は少なかった。周りからは初々しいカップルだと思われたことだろう。二人は何だか気恥ずかしくなって、バスターミナルに着く頃には手を離していた。
 やがてバスがやって来た。プシュー、と音を立てて扉が開き、待っていた人たちが次々と乗っていく。理奈と雅弘も流れに乗って、バスの中へと入った。全員乗り終えると、運転手は遠隔操作でドアを閉めた。
 バスは、「木立遊園地」行きのバスであり、同じ遊園地に行くのかここでも子ども連れが多かった。終点まで二人は人に見られないようにして再び手を繋ぎあった。
 バスの中では会話が弾んだ。最初はどの乗り物に乗ろうやら、あそこのマスコットキャラクターがかわいいやら、他愛のない話が楽しかった。理奈はさきほどの智広の言葉を忘れることができないでいたが、今この時だけは救われた。
 バスは「木立遊園地」へと着実に近づいていく。
 遊園地に着いた。理奈と雅弘は繋いでいた手を離して、一番最後にバスを降りた。
 たくさんの人でいっぱいだった。家族連れが一番多かったが、カップルで来ている者も大勢いた。
 マスコットキャラクターが入り口で愉快な顔で迎えている。子どもたちはそれに群がり、楽しんでいる。理奈と雅弘はマスコットキャラクターと記念写真を撮るべく、道行く人に声をかけて写真を撮ってもらった。
 写真を撮り終わると、受付のところへ向かう。「高校生二枚」と雅弘が言うと、受付の人は「学生証明書をお見せください」と言った。すかさず二人ともぐいっと見せると、係の人は「ありがとうございます」と言って、二人分のチケットとパンフレットを寄こした。「どうぞ楽しんでいってください」と受付の人は最後に笑顔で見送った。
 遊園地の中へ入った。中は子どもたちとカップルで埋め尽くされていた。
「私たちも、カップルの中に入るのかな」
 理奈が言うと、雅弘は「入るでしょ」とあっけらかんと言い放った。
「ね、理奈、手繋ごう? これだけカップルがいるんだから大丈夫だって」
「……う、うん」
 理奈は照れ臭そうにしながら、おずおずと雅弘の手に自分の手を添えた。雅弘は理奈の手を優しく、しかし強く握りしめて、歩き始めた。
 最初に向かったのはメリーゴーランドだった。子どもたちの列に紛れて、二人も並ぶ。
「なんか、デートって感じだね」
 理奈が恥ずかしがりながら言うと、雅弘も少し顔を赤くして「これ、いつぶりに乗ったのかなあ」と口を開いた。
 順番が来て、理奈と雅弘は同じ馬に二人乗りした。小さな子どもに「あー、カップルだー!」と指を差され、さらに赤くなる。
「や、やっぱりやめようか?」
 理奈が問うと雅弘は顔を赤くしながらもブンブンと首を横に振った。
「いや、これがいい」
「そう?」
「俺、ずっとやりたかったんだ。こういうの」
「へえ」
 会話をするうちに係の人のアナウンスが響いて、メリーゴーランドが回り始めた。最初はゆっくりと回っていた景色が、だんだんとスピードを増していく。子どもに向かって手を振るおじいちゃんやおばあちゃん、順番待ちをしている人たち。それらが何度も何度も通り過ぎ、背景の一部と化していった。
 やがてメリーゴーランドはスピードを緩めていって、停止した。「お兄ちゃん、お姉ちゃん、またねー」とさっき指を差した子どもが二人に向かって手を振る。理奈と雅弘も笑顔で振り返した。
「楽しかったね!」
 理奈は出口を通りながら本心から言った。
「うん、そうだね」
 雅弘も理奈の笑顔に微笑ましくなったのか、優しい声色で言った。
「ねえ、次はどれにする?」
 理奈が訊くと、雅弘はすかさず「ジェットコースター!」と叫んだ。
「あ、ごめん。ジェットコースターは平気……?」
 雅弘が心配そうな顔になるのと対照的に、理奈の顔は明るくなっていった。
「うん! 私ジェットコースター大好きだよ!」
 雅弘はほっとしたように一息つき、それから笑いをこぼした。
「俺ら、本当に共通点がたくさんあるね」
「あはは。そうだね」
 二人はまた手を繋いでジェットコースターの場所まで歩いていった。
 この乗り物も人気らしく、たくさんの人たちが順番待ちをしていた。
「今日は人が多いなあ」雅弘が若干困ったように言う。
「休日だからじゃない?」理奈は特に気にせず返した。
 順番が来るまで二人はまた他愛のない話で盛り上がった。やがて理奈たちの番が来た。運のいいことにコースターの一番前の席に案内された。
「やった!」
 雅弘が小声で叫びガッツポーズをした。少年らしいその姿に理奈は愛おしさを覚えた。
 いよいよジェットコースターが発車した。ガタタン、ゴトトン、とトンカチをたたくような音が響き、あの高台のような天辺に向かってゆっくりと上昇していく。
「わあー、楽しみ」理奈がはしゃいだ声で言った。
「落ちるよ、落ちるよ」雅弘も理奈の手をしっかりと力を込めて握った。
 ジェットコースターは天辺に着くと同時に、地に向かって落ちていった。身体がふわりと浮く感覚が一瞬して、自然と叫び声が漏れた。
「ぎゃー!」
「たかーい!」
 どちらがどちらの悲鳴かもわからずに、理奈と雅弘は空に向かって叫んだ。自分の中の枷が何もかも吹き飛んでいくような気がして、気持ちよかった。
 ジェットコースターはあちらこちらに向かって爆進し、乗客たちを狂歌の渦へと誘った。皆、声を張り上げて、手を挙げて、今この瞬間を忘れまいとするかのようにはしゃいだ。
 いくらか経ち、ジェットコースターは入り口と同じ場所に戻っていった。理奈と雅弘は興奮した面持ちで席を降りた。
「すっごい楽しかったね!」
 理奈が弾んだ声で言うと、雅弘も「うん! 俺なんか何度も叫び声を上げちゃったよ」とキラキラした笑顔で返した。
 空は、太陽が眩しく人々を照らしていた。

 二人は、いろんな乗り物に乗った。
 コーヒーカップでは雅弘が気合を入れてぐんぐん回し、理奈は目が回ってしまった。雅弘は「ごめんごめん」と理奈をベンチに座らせ、飲み物を買ってきてくれた。理奈は「ありがとう」と言って受け取り、一口ずつ飲んだ。喉が潤って、火照った身体を冷やしてくれるのを感じた。
「雅弘も何か飲まなくていいの?」
「ああ、じゃあ俺も飲もうかな。ちょっとそれ貸して」
 雅弘は理奈の手からペットボトルを取ると、残りの分を一気に飲み干した。理奈は、間接キスだ、と知らず赤くなった。
「ねえ、そろそろお腹すかない?」
 雅弘は飲み干した空のペトボトルをゴミ箱に捨てた後、言った。そういえばそろそろ昼の時間帯だ、と理奈は思った。
「うん。すいてきたかも」
「じゃあ、あそこ行こうか」
 雅弘が指差したところは、正面の入り口にマスコットキャラクターの絵が描かれた、大きな洋食レストランだった。理奈も気に入り、「じゃあ、そこにしようか」と言って、二人で再び手を繋ぎレストランへと向かった。
 中は外と同様、たくさんの人であふれかえっていた。理奈と雅弘は繋いでいた手を一旦ほどいて、バイキング式のトレーを持って列に並んだ。理奈はボロネーゼのパスタ、雅弘は地中海のパエリア、などそれぞれ注文した。会計が終わると、二人でいい席はないかとうろうろする。
「理奈、あそこはどう?」
 雅弘はくいっと首を奥のほうのテーブル席に向けた。理奈は「いいよ」と言って、席に着いた。雅弘も続く。
 そこは周りの喧騒から少し外れた、静かな場所だった。理奈と雅弘は互いに「いただきます」と言って目の前の豪華な食事に手をつけた。理奈のパスタはフォークを回すと、まるで生きているかのように絡みついた。口に運ぶと、トマトの甘酸っぱい味が効いて、極上のひとときを味わった。雅弘もパエリアを気に入ったらしく、大きな口を開けてたいらげていた。ここらへんはさすが男の子だな、と理奈は変な感心を抱く。
 二人ともしばらく無言で食事に夢中になった。ふと、雅弘の皿を見てみると、彼はもう食事をほとんど食べ終わったところだった。理奈のほうはまだ少し余っている。
「ごめんね、私、食べるの遅くて」
「え? ああ、いいよ。俺が早すぎるんだよ」
 雅弘は優しく言った。理奈は少しペースを上げて、パスタを勢いよく頬張った。理奈の皿も空になった。
 理奈はナフキンで口を拭うと、アイスミルクティーを一滴飲み、何気なく雅弘のことについて触れた。
「ねえ、雅弘のご先祖様は、どこから来たの?」
 雅弘は意表を突かれたような顔になったが、すぐに考える表情になって、そして言った。
「わからない。ただ、農民の一人だったってことは知ってる」
「……そう。雅弘のその能力が、いつ発祥したかもわからない?」
「……それについては、後で話すよ」
「……うん」
 雅弘はオレンジジュースを一気飲みして、ぷはっと豪快に飲み干した。
「次は、どこ行く?」
 雅弘は気軽に質問した。理奈はしばし迷った後、意を決したように答えた。
「……観覧車」
「オーケー、わかった!」
「高いところは平気?」理奈がおずおずと尋ねた。
「全然大丈夫だよ」明るい返事が返ってきた。
 雅弘は席を立ってトレーを返却口に返しに行った。理奈もあわてて雅弘に続いた。
 店を出ると、午前中よりも強い日差しが照りつけ、暑さを感じた。理奈はバッグにしまってあったキャップを被り、雅弘に「用意周到だね」と半分驚かれ、半分笑われた。理奈は少しむきになって「雅弘は何も用意してないんだね」と言った。「男なんてそんなもんだよ」と雅弘は軽く受け流した。
 観覧車も人だかりができていた。理奈と雅弘は大人しく順番を待った。
 やがて順番が回ってきた。ピンク色に塗装された車体だったので、理奈と雅弘は「まさしく、カップルの色だね」とお互いに笑い合った。中に入ると、空調が効いているのか涼やかな風が二人の間を吹きぬけた。ドアが完全に閉まり、理奈と雅弘は二人きりになった。
 二人ともしばらくは景色のほうに夢中になり、あそこに乗ってみようやら、あそこはまだ見ていないやら、あそこに山が見えるやら、さまざまな話題で盛り上がった。
 ふと、静寂が訪れた。どちらからともなく黙り込んでしまった。理奈がそわそわして落ち着かないでいると、ふいに雅弘が口を開いた。
「理奈、俺の一族の話、聞きたい?」
 一瞬、その言葉の意味がわからないでいたが、すぐに理解して逡巡した。果たして本当に聞いていいものなのだろうか。
「……いいの?」
「うん、いいよ」
 雅弘は穏やかな笑みを浮かべて、膝の上に乗せた両の手のひらを組んで話し始めた。

「俺らの真のご先祖様は、元は農民の一人だったんだ。この能力が発祥したのは、戦国時代とされている。激しい戦乱の最中、もともと医療の知識があったご先祖様は、ある医療施設に派遣された。そこに転がり込んできた武士が親友だった。親友の怪我はひどいもので、今にも命が潰えそうだった。ご先祖様は必死に手当てをした。けれどその手当ても虚しく、親友はまもなく死にそうだった。ご先祖様は親友の怪我の部分に手を当て、祈った。お願いします。どうかこの人を助けてください。するとどうだろう。さきほどまで虫の息の状態だった彼の親友は、水を得た魚のように息を吹き返した。親友の怪我はもはやどこにも見当たらなかった。ご先祖様は自分の両の手のひらを見た。もしかしたら、あるチカラが芽生えたのかもしれない。彼はほかの負傷した武士たちの元へ駆けつけ、同じように手のひらをかざした。するとまた傷は跡形もなく無くなっていた。この話は村全体に行き渡り、ご先祖様はあるえらい殿方に仕えるようになった。しかし戦の中で、殿方の家は潰された。路頭に迷ったご先祖様は、医療施設を設けた。『どんな傷でも治します』と暖簾をかけて。ある日、貧乏人の一人が折れた足を抱えて転がり込んできた。ご先祖様は手をかざして瞬く間に骨をくっつけた。貧乏人は心から感謝し、なけなしのお金を渡した。
 話が飛び交ったのか、そのまたある日、赤ん坊を抱えた母親が医療所にやって来た。子どもの高熱を治してほしいと。言われたとおりにご先祖様は熱を治してあげた。母親は喜んでけっこうな額のお金をくれた。
 ご先祖様の医療施設はたいそう有名になり、ある日、貴族の若い娘がやってきた。娘は今にもくたびれそうなやせこけた猫を抱いていた。元は血統書つきの猫だったらしいが、今は見る影も無い。『病気で、何も食べられなくなってしまったの』と娘は泣きながら言った。ご先祖様は哀れに思い、猫に手をかざした。すると見る見るうちに猫は回復し、つやつやした毛並みの上品な猫に戻った。娘は泣いて喜び、彼に結婚の申し入れをした。ご先祖様は戸惑ったが、彼女の美しい容姿に惹かれて結婚を承諾することにした。祝福はされない結婚だったが、二人は幸せだった。そして子どもが産まれた。その子どもは、ご先祖様の能力を受け継いでいた。
 そのころだった。村の医療所に、不思議な力を持つ男がいるという噂が、ほかの村々にまで広がったのは。ご先祖様は家族ともども、村の領主に呼ばれた。そこで能力を見せてみろといわれ、仕方なくご先祖様は能力を見せた。領主はたいそう気に入り、ご先祖様たちを立派な屋敷に移り住ませた。ご先祖様のまだ幼い子どもは大喜びで、長くて広い廊下を走り回るのだった。しかしご先祖様と妻は危惧していた。この能力が、いつか政府の耳に入るかもしれないと。
 悪い予感は的中した。ご先祖様たちは、かの豊臣秀吉と関係を持っている、とある大名に呼び出された。ご先祖様たちは逆らう術を持たず、来客した。そこでまた能力を披露するはめになった。大名はたいそう喜び、彼らを荘厳な屋敷に住まわせた。その時には子どもはもういくらか大きくなっていたので、事の重大さをほんの少しだけわかっていた。そう、いつか自分たちは大名の道具にされる。自分たちの能力を使って、あわよくば自分が天下を取ろうとしているのではないか。ご先祖様たちは震え上がるしかなかった。
 ある事件が起きた。
 ご先祖様の妻が、中庭で死んでいた。
 腹を刀で斬られていて、美しい着物に無残にどす黒い血が固まっていた。ご先祖様と子どもは泣き崩れた。
 そこに、大名がやって来た。そしてこう口走った。
「この度はたいへん不幸なことが起きた。しかし殺されたのがそなたたちではなくてよかった。ある意味、この女子(おなご)は使い物にならない、ただのでくの坊だ。そなたたちが無事でよかった」
 その言葉に、二人とも怒りに震えた。
 ふいに子どもが大名に寄ってきて、足の膝小僧に手をかざした。
 大名が不思議に思って見ていると、ボキン、と骨の折れる音がした。大名は悲鳴を上げて地面を転げ回った。御付の者たちがあわてふためいているのを尻目に、子どもは再び大名の首に手を当てた。ゴキ、と地獄のような音が鳴り、大名は息を引き取った。
 そう、これが傷を与える能力の発祥だったんだ。傷を与える能力は、ご先祖様の子どもから生まれた。
 ご先祖様は子どもを抱えて屋敷を飛び出し、逃げた。どこまでもどこまでも。追っ手が来ないところまで。
 ひとしきり逃げた後、持って逃げたわずかな金を使って、ご先祖様と子どもは再び医療所を設けた。
 その度に追っ手に捕まりそうになり、逃げ、医療所を設け、また逃げて、気がつけば子どもはもう成人した立派な男になり、ご先祖様は腰の曲がった翁になっていた。
 子どもは医療所に来た娘と結婚し、また子どもを生んだ。今度は女の子だった。娘もまた人の傷を癒すと同時に、人に傷を与える能力を持っていた。娘は医療所を切り盛りしていて、いつか一人の苦学生と恋におち、子どもを産んだ。そうやってどんどんご先祖様の能力は分散し、けれど衰えることは無く、人々の間をゆらゆらと漂っていった。
 時は流れ、太平洋戦争がやってきた。
 ご先祖様の子孫に赤紙礼状が届いた。子孫は妻と子に必ず生きて帰ると固い約束を交わし、大日本帝国、バンザーイ! との激励を受けて硫黄島へと向かった。その頃にはもう日本軍の勝利は皆無に等しかった。
 硫黄島で、彼は剣も銃もいらなかった。ただ蛇のようにうねりながらそっと相手に近づき、首に手を当てて折ればいいのだから。そして負傷した日本軍には手厚い看護をした。手をかざして皮膚を再生し、激励の言葉を言って仲間全員を励ました。仲間は彼の不思議な能力に最初はおののいたが、じきに心を開いて一緒にこの戦争を乗り切ろうと励まし合った。
 しかし、時は残酷だった。一九四五年三月一日に硫黄島は陥落し、次いで八月六日に広島、八月九日に長崎に原爆が落とされた。日本はこれを機に負け、敗戦国となった。しかしこれで戦争は終わった。妻と子の元へ帰れる。子孫はそれだけが心の支えだった。
 けれど戦争が終わっても、子孫はなかなか故郷に帰してもらえなかった。国の命令で、原爆で被爆した何万人もの人たちを治療することに東奔西走させられた。誰かが子孫の秘密の能力を漏洩したのだ。
 やっと解放された時、十数年の歳月が経っていた。子孫はよろよろと道を歩き、故郷へと足を運んだ。やっと帰れる。やっと、やっと。
 家に着いた。はずだった。そこはもう家ではなかった。空き地になっていた。子孫は半狂乱になって、あちこち走り回った。けれど妻と子の姿はどこにも見当たらなかった。
 悲しみに暮れる中、生活費だけでも何とかしないといけない、とにかく生きていかなければいけないと思い、子孫はかつての昔、ご先祖様がやっていたという医療所を設けてみた。医療所と言っても、トタンの屋根に瑣末な椅子が置かれてあるだけの、万屋みたいなものだった。
 ほどなくして、ぽつぽつと人が来た。子孫は人々の怪我をした部分に手をかざして、傷を治してみせた。人々は驚いた後、ありがたくお礼を言い、お金を払ってくれた。そのお金で何とか生活をやりくりした。
 やがて、ある美しい女が来た。その美貌は儚げであって、憂い顔は男を誘うようになまめかしかった。
 女は言った。「あなたと結婚をしたいのです」 
 子孫は言った。「私には、妻と子がいる」
 女は再び言った。「それは知っています。それでもいいから結婚したいのです。聞くところによると、あなたは人の傷を癒すと同時に、人に傷を与えることができるというじゃありませんか。もしかして、あなたのお子さんもそうだったのではありませんか?」
 子孫は、少し黙った後、言った。「それを聞いてどうする」
 女は答えた。「あなたの子孫繁栄に、手助けをしたいのです」
 子孫は叫んだ。「俺は、俺たちは、ただ静かに暮らしたいだけなんだ!」
 突如、子孫は女にのしかかった。「妻よ、子よ、どこにいる……! ああ、どこにいるのだ……!」二人はそのまま一夜をともに過ごした。
 子孫は女と一緒に暮らし始めた。やがて子どもが生まれた。娘だった。その娘もまた、人に傷を与えることも、人の傷を癒すこともできる女の子だった。
 子孫の新しい妻となった女は言った。
「私たちの能力が分散するのを恐れるのであれば、これからは親戚同士で結婚しましょう。もうこれ以上、騒がれないためにはそうするしかありません」
 子孫は「ああ、そうしよう」と妻の案に乗った。娘も大きくうなずいた。
 こうして、我々一族は、親戚同士の結婚以外認めなくなった。だが中には例外もいて、情熱的な娘がまったくの他人の男と恋をしてどこかに逃げてしまう時もあった。それでも約束事は基本的には守られ、一族は力を分散させないために、より一層結束をした。
 そして今、こうして桜木家がある。
 ……どう、理奈? 俺の説明でわかったかな……?」
理奈はしばらく呆けた顔をしていたが、すぐにはっとして雅弘に質問をぶつけた。
「今の雅弘たちの能力は、じゃあ基本的にはこの木立市に集まってるの?」
「まあ、間違いじゃないな。でも親戚は都内だけどあちこちに散らばってるし、約束事を無視して出て行ってしまった者もいる。俺らの能力は、本当は日本各地、いや世界各地に広がっているのかも」
 理奈は指を顎に当てて考え、さらに質問を重ねた。
「子どもが生まれるにつれて、能力が弱くなったり、または能力がある者同士で結婚した場合、能力が強くなる危険性はないの?」
「基本的には、能力は均等に受け継がれている。能力者同士で結婚した場合でも能力が強い子どもが生まれた事例は、今のところないよ。まあ、あくまで今のところだけどね」
「相手の首の骨を折った場合、もう一度骨をくっつけても、その人は生き返らない?」
「ない。一度失った命は、二度と元には戻らない」
 雅弘はそう言うと薄く笑って、観覧車の窓際に手をついて景色を眺め始めた。理奈もすることがないので景色に目をやる。いろいろな乗り物が手に納まるほど小さく見えて、ああもうすぐ一番上のところなんだなと思った。遠くのほうでは緑豊かな森林が木立遊園地を囲っている。
 ずっと黙っていた雅弘が、ぽつりと一言、漏らした。
「理奈、覚悟して聞いてくれる?」
 理奈はその身も凍るような低い雅弘の声に、一瞬身震いし、けれど強めに答えた。
「うん。聞くよ」
 雅弘は、窓際から離れて理奈の顔を正面から見つめ、そして言った。
「俺は、柊を殺す」
 理奈はドキリとした。殺す、という単語が頭の中にしっくりと入ってこなくて、夢うつつの中、聞いているような気がする。
「……殺す、の?」
「うん。殺す。禁じられている一族の、このチカラを使って」
「犯罪者に、なっちゃうよ?」
「ばれなきゃ大丈夫さ」
「日本の警察は、手ごわいよ?」
「ばれたら、いや、ばれてもいい。柊を殺すことこそが俺の目的なんだ」
 雅弘の決意は固かった。いまや雅弘の心には厚いブロック塀がうず高く積まれていて、誰にも壊すことはできそうにもなかった。
 ふいに、理奈の心の中にも、分厚いブロック塀が積まれてきた。それはどんどん高さを増していって、天井さえも閉まり、心を完全に隠した。誰にも壊せない高い壁。その壁が、憎悪というどす黒い黒で上からたらーっと塗り落ちていった。黒は隙間なくブロック塀を塗り、石油を垂れ流した海のような色となった。
 憎悪の相手は、紛れもない、あいつだった。
「雅弘、お願いがあるの」
「ん? なぁに?」
 雅弘は柔らかな声の調子で訊く。
「本当に、柊を、殺せる?」
「ああ、殺せる」
 雅弘の目には迷いがなかった。
 そして、理奈の目にも。
「私にも、殺してほしい人がいるの」
「いいよ。誰?」
 雅弘は気軽に訊いてきた。
 理奈は大きく息を吸い、そしてゆっくり吐いて、言った。
「私の弟を、智広を、殺してほしいの」
 雅弘はしばし黙り込んで、やがて天使のような輝く笑顔で言った。
「うん、わかった」

 時刻は間もなく昼の三時になる頃だった。
 理奈と雅弘は観覧車から降りた後は、帰りのバスターミナルに直行した。気持ちが急いていて、けれどどこか落ち着いていて、バスが来るのを待つ。
 木立駅行きのバスがやって来た。理奈と雅弘はあくせくとそれに乗り、後方の座席に二人で座る。
 バスが発車した。わりとスピードが速く、理奈はちょっとだけ驚いた。
 頭の中に、いつかの智広の声がする。
 お前なんか、この世からいなくなればいいのにな。
 この世からいなくなればいいのはあんただ。あんたは、誰にも必要とされていないんだ。
 お前は、俺の、オモチャなんだよ。
 お前を、絶対に許さない。
 許さないのは私のほうだ。いつも私のことを脅かす悪魔。今、退治してくれる天使がそっちに向かっている。あんたの運命も今日で終わりだ。
 理奈は呪いの言葉を心の中で吐き続け、同時に、ゆらりと雅弘の肩に自分の頭を預けた。雅弘もされるがままになっていて、なおさら気持ちがよかった。
 こんなにいい日がこれからも来るだろうか。いや、来ないだろう。今日だけだ。今日が特別の日だ。
 理奈は雅弘に頭を預けたまま、スケジュール帳を取り出す。今日という日に大きく書かれた『雅弘とデート』の文字。後ろに巨大なハートマークが書かれてある。この日に、もう一つ付け足すとしたら、『智広を殺す日』だ。理奈は笑いをこらえきれず、くっくと忍び笑いをした。
 雅弘が口を開いた。
「理奈と弟君って、顔立ちがよく似てるよね」
 理奈は心臓をぎゅっと掴まれたような心境になる。
「……そう?」
「うん。初めて弟君を見た時、あ、そっくりだって思った。だから
弟君も、理奈に負けず劣らず美形だよね」
「……そうなんだ」
 あの日、焼肉屋に行った時に感じた感情は嘘ではなかったのだ。普段は弟の容姿など気にも止めていないのだが、よそ行きの服に着替えた智広は確かに美しかった。自分たちはとても似ている。顔だけでなく、きっと性格も。自分は今からその片割れを殺しに行くのだという実感が、だんだんと沸いてくる。
「理奈、確認だけど、本当にいいの?」
 雅弘がこちらを探るような目で見つめてきた。
 理奈は迷わず、大きくうなずいた。
「うん。いいの」
「……わかった」
 雅弘は今日何度目かの承諾の言葉を言って、理奈の頭を自分の肩に預けさせた。
 バスが木立駅に着き、二人は電車に乗った。二人とも無言だった。それは行きの時よりも、決意を秘めた静謐な沈黙だった。
 もうすぐだ。もうすぐ長い長い苦しみが終わる。弟に毎日ビクビクしていた、あの地獄の日々が終わる。
 理奈は夢を見ているような心地だった。こんな日が本当に訪れるなんて、雅弘は本物の天使なんだと思った。
 電車は下車する駅に着いて、二人は手を繋ぎ合ったまま降りた。そして理奈の自宅へ向かう。
 だんだんと理奈の住む小さなマンションが見えてきた。この時間、佐藤は夕飯の買出しで出かけているはずなので、家には智広しかいない。
 雅弘は一旦、自分の家に戻り、手袋をはめて戻ってきた。指紋を残さないようにするためだ。
「これで、準備オーケーだね」
 雅弘はどこか楽しそうに、瞳を輝かせて言った。理奈は彼に若干の恐怖を感じながらも、これからは自分も共犯者になるのだ、と自覚を持つ。
 雅弘に手をぐいっと引っ張られた。引力に従うまま彼の胸に収まる。二人の身長差はそう変わらないので、理奈の顎に雅弘の肩が当たった。
「好きだよ、理奈」
 雅弘が耳元でつぶやいた。
 理奈も「うん」と短い返事を返す。
「入学式の時、一目ぼれしたんだ。あの時、あそこでぶつかってよかった。理奈と話すきっかけになったから。あの時から、ずっと好きだった」
「……ありがとう。雅弘」
 理奈は雅弘の肩から少し離れて、彼を見つめる。雅弘もまた理奈を見つめた。
そして、二人は、唇を重ねた。
歩道に伸びた二つの影が、一つになった。
 理奈と雅弘は意を決して、お互いに顔を見合わせ、大きく合図した。理奈は家の鍵を取り出し、ゆっくりとドアノブに差し入れ、慎重に回した。ガチャンと、安っぽいがどこか重たげのある音が響いた。そのままドアをきいー、と開け、中の様子をうかがう。
 都合のいいことに、智広は昼寝をしているらしかった。ぐおぉ、と耳障りのする低いいびき声が玄関のすぐ横の部屋から聞こえてきていた。
「雅弘、お願い」
 もう、こうするしかないのだ。この苦しみから脱するには、智広を殺すしかないのだ。雅弘はすべてを理解したように、ゆっくりとうなずいて、敷居をまたいだ。
 そろそろと足を伸ばし、智広の自室のドアを、音を立てないように開ける。智広は呑気にお腹を出して、布団を蹴飛ばして眠りこけている。
 雅弘が、智広に近づく。
 今だ。
 今だ。
 理奈はただ祈っていた。
 唐突に、自室の奥にあった家族のアルバムのことを思い出した。父、母、弟と四人で笑っている写真。そして弟と頬をくっつけ合って満面の笑みで笑っている自分の写真。
 本当に、これでいいのだろうか。
「……あ、あ、あああ」
 智広。今は変わり果ててしまった智広。それでも自分の弟という事実は変えることができない。
 よく似ている自分たち。お姉ちゃん、とまだ高いハスキーな声で自分の名を呼んでくれていた、あの時の智広。
「ああ! あああ!」
 智広。
 智広!
「やめて! やめて! やめてー!」
 理奈は靴のまま敷居をまたいで雅弘に駆け寄り、抱きとめた。
「やめて! 雅弘!」
「理奈……」
 雅弘は驚いたような、少し悲しげな瞳を揺らして理奈を見た。
「弟なの!」
 理奈は叫んだ。
「大事な弟なの。こんなに憎たらしいけど、大切な子なの。私たちは姉弟なの。離れられないの」
「理奈」
「ごめんなさい。あなたを犯罪者にしてしまうところだった」
「犯罪者で、いいのに」
 雅弘はどこかあきらめたように口走った。
「ダメよ! 犯罪者はダメ。ごめんなさい、とんでもないことを頼んでしまって、本当にごめんなさい」
「いいよ、大丈夫だよ。とにかく落ち着いてよ、理奈」
 雅弘は何とか理奈を引っぺがして彼女の肩を揺さぶった。雅弘の目に正面から見つめられて、理奈はやっと落ち着きを取り戻した。
「……ごめんなさい。雅弘」
「もう、いいって」
 雅弘は若干冷たい声で言って、手袋を脱ぐと敷居に座り、靴を履き始めた。理奈の大きな声にも関わらず、智広は起きる気配を見せない。
 何てことをしてしまうところだったのだろう。
 理奈は自分自身に恐れおののいて、身体を震え上がらせた。実の弟を、自分は殺そうとしたのだ。自分の中に確かにある殺意を目の前にして、理奈は身動きが取れないでいた。
 靴を履き終わった雅弘は、「もう、帰るよ」と温度のない声で言った。
「ああ、うん。またね、雅弘……」
「うん、また」
 二人は簡素な挨拶を交わし、雅弘は理奈の家の玄関のドアを開けて、閉めた。彼の姿は完全になくなった。
 理奈は一人、殺されるはずだった弟のいる家で、途方に暮れていた。

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