22話 ガーベラ
五時間目の美術の授業なんてものは、興味のない生徒にとっては退屈で仕方がない。
それでなくても昼食をとった後は睡魔と必死で戦わなければならないのに。ある程度の雑談が許されて、芸術に触れることの楽しさを教えてくれるのならまだしも、そんな美術教師はなかなかいない。
「今日は似顔絵を描き合ってもらいます。簡単なものではなくしっかりと書いてください。書き終わらなかったら放課後美術室で補習をしてもらいますからね」
油絵の具の匂いが染みついた美術室。そのなんとも形容しがたい匂いの中にお行儀よく席につく生徒たち。松坂希美もその一人で、先ほどまでの浮き上がるような気持ちは一旦置いて、真面目に絵と向き合う気持ちに切り替わっていた。
そんな生徒たちひとりひとりの鼓膜を刺すような女教師の甲高い声が、ぱきぱきとこれからの授業内容を説明していく。痩せすぎなくらいの体形と赤い縁の眼鏡が「偏屈女美術教師」を体現しているようだ。
「それでは二人一組になってください。」
その声を合図に生徒たちは席を立ってペアを作り始めた。
ペアの指定はない。そのため必然的にいつも通りのメンバーで組むことになる。美術室とは言え、生徒たちの動きは教室での、いつもの動きと似たようになるものだ。四人は自然と窓際付近に集まった。
「ペアどうする?」
希美が尋ねる
「じゃあグーチ―で決めよ」
「あたし希美とはやだなぁ。下手な絵がなおさら下手に見えちゃいそうだもん」
そんな明日香の運任せの提案を聞いて、満里奈が希美の脇を小突いた。
「誰とペアになったって絵の上手い下手は変わらないよ」
反撃、とばかりに満里奈の脇腹をくすぐる。きゃいきゃいと騒いでいると、偏屈女美術教師がじろりと、蛇が獲物を狙うような視線を投げつけてきた。
こわいこわい、そんな視線を四人で共有して、こっそり蛇の目つきを真似したりしている。
グーチーの結果、明日香と満里奈。希美と流奈がペアになった。希望通りになった満里奈は少し嬉しそうだそれぞれ机を向かい合わせに移動して席に座る。
「わたし、絵描くの苦手だからもし補習になったらどうしよう」
流奈はまだ描き始めてもいないのに補習の心配をしている。
「大丈夫でしょ。絵なんて描きたいように描けばいいんだよ」
筆箱から取り出したB4の鉛筆がスケッチブックの上にコロコロ転がった。希美のセリフには言葉以上の何かが含まれているようだった。
さて、と思い、常日頃からきれいだと思っている顔を改めてまじまじと見る。そういえば、始業式の日に流奈の顔を描こうとしたな。希美は流奈の整った卵型の輪郭を直接触れるかのように、ゆっくりと優しく、描いていく。
美術室は静寂に包まれる。時折、シャッシャッという鉛筆をこする音とクラスメイトのこっち向いて、という声が聞こえるくらいだ。絵に真剣になっていることもあるが、先ほど明日香たちに向けられた視線で、この教師の噂はあながち間違いではないかもしれないと他のクラスメイトも認識したからだ。あんな視線が自分に向けられるのは嫌だと、みんな黙り込んで真剣に向かいに座る級友の顔をスケッチブックにコピーしていく。
チャイムが鳴る十分前。教卓でパソコンをいじっていた教師が見回りを始めた。
「流奈、下ばっかり向いてないでこっちも向いて」
「あ、うん。ごめんね」
スケッチブックを睨みつけていた流奈の顔がぱっとこちらを向く。その時ちょうど希美たちの横を通った教師が流奈のスケッチブックを取り上げた。
「黒崎さん、なんですかこれは」
美術室中に聞こえるようにわざと大きな声で言う。甲高い、耳障りな声で。
何と言われても言われたとおりに書いた似顔絵だ。確かに本当に希美を描いたのだろうかと思うほどに下手ではある。しかし書けと言ったのはお前だろうと、流奈は沈黙を貫く。獲物を目の前にした蛇がカッと目を見開いて質問の答えを促した。
「松坂さんの似顔絵です……」
響き渡る偏屈教師の声とは違って、流奈の声は窓が開いていたら風の音にかき消されていたのではないかと思うほど小さい。流奈の顔は恥ずかしくて赤面しているとかではなく、能面が張り付いたように無表情だ。地面を突き刺す氷柱のような神秘的な美しさと危うさを孕んでいる。
「もう授業が終わります。あなたは放課後、居残りして絵を完成させなさい。松坂さんも付き合ってあげなさい」
「あ、私バイトが」
「バイト?くだらないお小遣い稼ぎと勉学のどちらが大切だと言うのですか」
有無を言わせないその口調に、隣の席から見守っていた明日香と満里奈は思わず立ち上がりそうになる。
「わかりました」
二人が立ち上がって抗議するまえに希美がぴしゃりと話を終わらせた。その時、流奈の能面が外れて耳まで赤く染まった。
*
「もしもし、店長。申し訳ないんですけど今日のバイトお休みにしていただけますか。学校で補習することになっちゃって」
「大丈夫だよ、今日は他のバイトさんもいるし」
「ありがとうございます」
「珍しいね、希美ちゃんが補習なんて。あ、そういえばさ、学校で来年の春からバイトしたい、みたいな子いないかな? 希美ちゃんもそうだけど、卒業と同時にやめちゃう子が多いから困っちゃってて。もしいたらうちのコンビニどう?って聞いてみてくれないかな?」
「うん、わかったよ」
*
放課後の美術室は授業中とは違い教師の見張りがないため、和やかな空気で満ちていた。開けた窓からは少し冷たい、秋の午後の風とともにグラウンドで部活に勤しむ生徒たちの掛け声が流れ込んでいる。
「ごめんね希美。バイト休ませちゃって。」
「大丈夫だよ。ちゃんと連絡もしたし、普段真面目な私がたまに休んだって何も言われないよ」
明日香は別居している父親と会う約束があり、満里奈はいつものごとく部活。グラウンドから流れてくる掛け声の中に満里奈の声も混ざっているのだろう。そのため今この美術室にいるのは希美と流奈の二人だけだ。
先ほどと同じように机を向かい合わせにくっつけている。希美はすでに課題を提出していたがスケッチブックに鉛筆を走らせ、流奈はスケッチブックを穴が開くほど睨みつけていた。
流奈のうーん、といううなり声を聞いて、向かい側に座る希美はグイッと乗り出して、流奈のスケッチブックを覗き込む。確かにうまいわけではないけれど、生徒が頑張って描いた絵を否定するのはどうなのだろう。希美はそのまま視線を流奈に移すと、ふと目が合った。
「目は虹彩を頑張って書くとそれっぽくなるよ」
一瞬ドキリとして、アドバイスをして席に座り直す。
「それが難しいんだよ……」
流奈は鉛筆の後ろをこめかみにぐりぐりと押し当ててまたうなった。何事もなかったかのように鉛筆を動かし始める希美の心拍数は僅かに上がっていた。流奈のことを恋敵だとか、そんなふうに思っているわけではない。そもそも希美と流奈が二人きり、というシチュエーションが異色だった。とはいえ、筆が乗ってきたらそんなことは気にもならない。
「……美大じゃなくてよかったの? 絵、うまいし、そんなに楽しそうに描くのに」
ふんふんと鼻歌交じりに絵を完成させていく希美に、恐る恐る、控えめに尋ねた。
「行きたいか行きたくないかなら、行きたいんだと思うよ」
「お金がないから行かないの?」
流奈の遠慮のない質問に思わず笑みがこぼれてしまう。
「多分学費はやろうと思えばなんとかなったと思うよ。叔父さんも援助するって言ってくれたし、奨学金だってある。そうやってギリギリで学校に通っている人だってもちろんいるし。でも私は家にお金を入れたいんだ。お母さんたちの助けがしたい。絵はネットに投稿したり、趣味でもできることだしね。妹たちが将来、進学が必要な仕事に就きたいってなったときは行かせてやりたいし。」
流奈は鉛筆を動かす手をすっかり止めて、よくわからない、という顔で希美を見ている。
「どうして満里奈も希美もそんなに前を向けるの」
声が、細い金属の線のように震えている。
「満里奈が言ってたでしょ。見たい景色があるからだよ。まぁ私は立ち止まってスケッチして歩きたいから走らないけどね」
話しながらも動かし続けていた手を止めて、描き終えたスケッチブックを流奈に見せた。絵の中には花が咲いたように、満面の笑みを浮かべる流奈がいる
「流奈も動き出さないと。歩き始めて転んで、一人で立ち上がれないなら、私たちが起こしてあげるから」