21話 コスモス
季節はすっかり秋めいて木の葉は赤く染まり、さわさわと落ちる風の音が耳をひやりと撫でる。空は気が遠くなるほど高く澄み、絵に書いたような雲が退屈そうに漂っていた。もう汗ばむ日が来ることはなく、学校でもほとんどの生徒が冬用の制服を着ている。それに伴って夏でも冬服、という流奈の異様な存在感も薄れていた。
松坂希美は昼食を食べ終え、職員室に向かう。担任に「食事が終わったら来るように」と呼び出されていたのだ。職員室の扉の向こうは学校ではなく職場だ。中には疲れ切った大人の、薄い灰色のような空気が漂っている。
「先生、松坂です」
小テストの丸付けをしている担任の席へまっすぐ向かって声をかけた。おう、と返事をしたものの、滑るように動く手は止まらない。解答用紙の一番下のところまで丸付けを終えてやっと手が止まった。
担任はデスクチェアをくるりと回して希美に体を向ける。本題に入るために厚めのしわの寄った唇を開いた。唇の端は少し持ち上がり、丸く柔らかい声が流れ始める。その声が希美に少し早い春の訪れを告げた。嬉しい知らせと激励の言葉を五分程度聞いて、希美はぺこりとお辞儀をして廊下に出た。何か悪いことをしてしまっただろうか、と重たい足取りで職員室を訪れた。そんな足取りが今は高い秋空にふわりと飛べそうなほど軽くなっている。
職員室のすぐ横の廊下で立ち尽くしたまま、先ほど聞いた担任の言葉を何度も何度も心の中で繰り返す。そのうちに軽くなった足元から少しずつ眩しいような深い喜びが込み上げてきた。
この喜びを早く両親に伝えようと、ポケットからスマートフォンを取り出した。アドレス帳の「お父さん」の所をタップして発信を押す。スマートフォンを耳に当てる手がぷるぷると震えている。妙な緊張のせいか、一つの発信音が鳴り終わるまでがとてつもなく長い時間に感じてしまう。何回か発信音が鳴った後、プツッと音がした。父が電話に出たと勘違いした希美が「おと」まで言ったとき、機械で作られた女性の声が電話に出られない状態であることを教えてくれた。お仕事中かな。それなら仕方がないか、と希美は目に見えてがっかりする。廊下をすれ違う生徒たちは希美が嬉しそうにしたり、悲しそうにしたりしているのを不思議そうな顔で見ていく。当の本人はそんなことにも気が付かないほど、このことを家族に報告したくて仕方がなかった。
気を取り直して母に電話をかける。次はさっきほど緊張しなかった。また耳元で鳴り続けるコール音。仕方がない、メールを入れておこうかと、スマートフォンを耳から離して画面を見た時、発信中の文字が通話中に切り替わった。
「もしもし、のんちゃん? どうしたの?」
慌てて耳元に戻すとスマートフォンの向こう側から母の声が聞こえてくる。毎日聞いている声。そのはずなのにこんな四角い機械を通すと知らない人の声のように聞こえた。
「ちょっと伝えたいことがあって。私、就職決まったよ。コンビニの正社員。春から社会人だよ」
受話口の奥からおめでとうと、ごめんね、が聞こえてきた。その中にすすり泣きの音も混ざっている。この想いはどうしたら伝わるだろうか、どうしても伝わって欲しい。希美は精一杯に思いを込めて、母に伝えた。
「お母さん、私、お父さんとお母さんの子供になれて幸せだよ。私を見つけてくれてありがとう」
*
教室に戻ると時計の針が、五時間目の授業が始まる十分前を指していた。くっつけていた机はすでに元の位置に戻されている。三人にお礼と就職決定を伝えようと教室を見回すと満里奈の机の周りに集まっていた。頬杖をついて、反対側の頬を膨らませている満里奈に二人がなにやら話しかけている。希美は職員室に行く前も満里奈は機嫌が悪そうな、駄々っ子のような顔をしていたことを思い出した。
「そろそろ準備しないと遅れちゃうよ」
満里奈の頭をぽんぽんと叩きながら明日香が言う。
「行きたくない……」
満里奈は膨らませていた頬を萎ませて今度は口を尖らせた。そのまま机に頭をごんとぶつける。鈍い重い音が明日香たちの周囲に響く。
「どうしたの?」
疑問符が頭の上に乗せた希美が三人の方へ行くと自然と一人分のスペースが空く。どうやら次の美術の授業が嫌らしい、と明日香が希美に説明した。
次は美術の時間。そのため昼休みのうちに美術室へ移動しなければならない。成績がいい方ではないが授業態度はいたって真面目な満里奈が珍しいことだった。
「なんで行きたくないの?」
希美の声は弟妹達と話すときのような、暖かい陽だまりのような声だった。
「だって、あの美術の先生変わってるって聞くよ。隣のクラスの友達がせっかく書いた絵をぐしゃぐしゃに丸めて捨てられたって……」
その話自体は希美も噂で聞いたことがあった。今まで授業を受け持っていた先生が産休に入ってしまった。そのため一週間前に臨時でやってきた新しい美術教師。とても変わり者で、ヒステリックな授業をするらしい。次の授業が、希美たちが受けるその教師の初めての授業だ。
「まぁ、美術の先生ってなんでか変な人多いし……、受けてみたら実際はそんなでもないかもしれないよ」
机にお辞儀をしたままの満里奈の頬を両手で包んでぐいっと上げる。頬を左右から押しているせいで満里奈の口元がタコのようになっていた。それが可笑しくて、ほっぺたをむにむにとこねくり回して遊ぶ。今日は楽しいことがたくさんある日だ、と希美の瞳がきらきらと輝いた。
「ほら、さすがにそろそろ行かないと」
明日香の声に満里奈もしぶしぶ席を立ちあがった。教科書、筆箱、スケッチブック。美術に必要な授業道具を腕に抱えて四人で教室を後にした。
美術室に繋がる廊下を四人で歩く。希美の紺色のスカートの中でスマートフォンが震えた。片手を授業道具から話して画面を開くと、父からのメールだった。
『電話に出られなくてごめんな。就職決定おめでとう! 苦労をかけて本当に申し訳ない』
家に帰ったらお母さんに行ったことをお父さんにも言おう。お母さんにも目を見てもう一度言おう。希美の体はまた深い喜びに満たされた。
「一人でにやにやしてどうしたの?」
こてんと首を傾げた流奈が希美の顔を覗き込んでいた。
「私ね、就職決まったんだ」
希美の突然の発言に石のように固まる三人。一拍置いてそれぞれが祝福の言葉を口にする。
「え、おめでとう!」
「おめでとう」
「おめでと!いつわかったの?」
満里奈、流奈、明日香。まるで自分のことのように喜色が顔に現れている。特に満里奈は先ほどまで頬を膨らませていたことなんて忘れてしまったかのように、希美の周りをくるくる回っている。
「さっきの昼休みに担任の先生に呼ばれたでしょ? その時教えてもらったんだ。一足先に進路決まっちゃった」
肩にかかる髪の先を照れくさそうにいじる。
「さっきお父さんとお母さんにも連絡した。また謝られたけど、お母さんたちももう何も言えないからね」
初任給で何を買おう、おもちゃ、筆記用具、家族で温泉旅行もいいかもしれない。希美の頭はそんな先のことまで考え始めていた。絵を描くことが好きな少女の脳裏に、春色の未来が広がった。