2話 ミツマタ
黒崎流奈は学校が終わった後、何をして時間を潰そうかと悩んでいた。終業のチャイムが鳴って一時間。行きたいところも行くところもなく、一人教室に残ってる。風が冷たいな。開いたままの窓を閉めようと席を立つ。外を見ると女の子がグラウンドを走っているのが見えた。それを見ながら楽しそうにおしゃべりする二人の女の子もいる。三年生の教室は四階にある。四階からグラウンドは遠くて誰かなんてわからない。見えたとしても流奈はその子たちがなんて名前なのかは知らない。
青春ってああいうことなのかな。わたしには無縁の世界だなぁ。うらやましいとは思わない。その輪の中に入りたいとも思わない。けれど、ぼうっと過ごすよりかは退屈しのぎにはなると窓から眺めることにした。窓は開いたままなのに不思議と風の冷たさは気にならない。
遠目でよくわからないけれどグラウンドの三人は楽しそうに見えた。全然休まずに走り続ける女の子。それを見守るベンチの二人。座っているうちの一人はカバンからスケッチブックのようなものを取り出した。なんであんなに走ってるんだろ。絵なんか描いて何になるんだろ。
太陽がだいぶ西に傾いてきた。遠い空の向こう側はオレンジ色に染まり始めている。どうやら女の子の練習は終わったらしい。軽くストレッチをして校舎に戻っていくのが見えた。座っていた二人もベンチから立って歩き始めている。お父さんが帰ってくるからわたしも帰らなきゃな。
中学から五年間使っているスクールバッグを肩にかけ流奈も教室を後にした。校門近くに女の子が二人立っている。二人はおしゃべりに夢中で流奈には気づいていない。
*
何年たっても代り映えのしない住宅街を歩く。学校から歩いて二十分。家から近い公立高校。この学校に決めた理由はそれだけだった。生まれた時からずっと住んでいる二LDKのマンションにつく。
ベッドと学習机と透明の衣装ケース。それしかない殺風景な自室にカバンを置いた。制服をハンガーにかけ、衣装ケースから取り出したジャージに着替える。靴下を洗濯機に入れてそのまま台所に向かい、夕飯の支度を始めた。毎日同じことの繰り返し。ふと、プリントが前から回ってくる様子をベルトコンベアみたいだと思ったことを思い出した。
時刻は十八時半、夕飯がおおかた作り終わった頃に父が帰ってきた。急いで玄関に向かい、三つ指ついて出迎える。
「おかえりなさい、お父さん」
毎日こうしないといけない。少しでもタイミングが遅ければ期限を損ねる原因になる。父、黒崎英司は四十三歳を迎えたいまも現場で建築の仕事をしている。背が高く、仕事で鍛えられた体はとても中年には見えない。頑丈な筋肉で覆われた体は女の流奈はもちろん並みの男でも敵わないだろう。
ドスっ!
三つ指ついて頭をさげる。その脇と太ももの隙間から英司の足が流奈のみぞおちを蹴りあげる。流奈は空っぽの胃から胃液が逆流しそうになるも何とかこらえた。
「お出迎え、遅くてごめんなさい、お父さん」
丸まってみぞおちを抑えながら謝る流奈を容赦なく踏み、蹴り続ける。流奈の体はごろんと床に転がってしまった。
どいつもこいつもバカにしやがって、とぶつぶつ低くつぶやく英司。自分のストレスと怒りを容赦なく流奈にぶつける。その目は真っ赤に血走っていた。
床に投げ出された流奈の腕を引き、強引に立たせる。流奈の部屋のドアを勢いよく開けてベッドに投げ飛ばした。ガチャガチャと作業服のベルトを外す音と英司の荒い呼吸の音が部屋に響く。
流奈は自ら服を脱いで四つん這いになった。もちろんこれも英司からのいいつけ。この家には流奈が守らなければならないルールが山ほどある。一つ破れば殴られる。すべて守っていても父親の機嫌が悪ければ殴られる。黒のジャージと下着がベッドから落ちる。私服は男物のジャージが二着とワンピースを一着。下着が数枚。それしかもっていない。中学生のころはもう少し服を持っていたが、ほとんど捨てられてしまった。
裸の流奈の体は細く、肋骨は軽く浮きあがっている。申し訳程度の胸の膨らみに幼い子供のように毛の生えていない女の部分。そしてたくさんの青あざがついている。なんの準備もしていない体がいきなり男を受け入れれば激痛が走る。もうその痛みにも慣れてしまった。痛みも快感も何も感じない。
初めてがいつだったかなんて覚えていない。気がついたら流奈は父親に殴られていた。幼いころからしつけと称して殴られる毎日。母親は助けてくれない。助けたら自分が殴られてしまうから。毎日、夫の顔色をうかがい、こびへつらう。少しでも自分に非があることをしてしまったらすぐに流奈のせいにした。
そんな日々がある時から別のものに変わった。小学校高学年頃、胸が少しずつ膨らんできた。ある日の平日、父が仕事に行っている間に母がこっそり流奈に学校を休ませた。一緒にショッピングモールへ行ってブラジャーを買いに行ったのだ。物なんてめったに買ってもらえないし、初めてのブラジャーは大人になれた気がして流奈は目の奥を輝かせた。大人になったらこの地獄から抜け出せるかもしれない。この頃はまだ、そんな淡い希望を抱いていた。
ブラジャーを買ってもらったあたりから英司は流奈の体をにやにやと見るようになった。まだ流奈にはそれがどんな顔なのかわからず、なんだか不気味だな、くらいにしか思っていなかった。成長とともに体は少しずつ大人の女になる。母がいない日、珍しく英司に、こっちにおいでと優しく声をかけられた。なあに、お父さん。
滅多に聞けない父の優しい声に心弾ませて近づく流奈。英司の部屋に行くと急に腕を掴み布団の上に投げ飛ばされた。殴られる。体を硬直させて身構えるも拳は飛んでこなかった。英司はさっきと同じ優しい声で話しかける。
「いいか、これから起きることはだれにも言うなよ。もちろん母さんにもだ。父さんはお前のことが大好きなんだ。お前のことを愛しているって今まで何百回も言ってきたよな。父さんの愛ならなんでも受け止められるよな?」
そこまで言うと、英司は実の娘の胸を揉み始める。肌に触れ、舐め、荒い吐息を漏らす。流奈は何が起きているのかわからず、大量の汗をかき、体は小刻みに震えていた。英司はひとしきり幼い体を堪能すると無理やり中に入ろうとしてくる。流奈は体が半分に引き裂かれるような激痛に叫び声をあげそうになる。一瞬、痛みから解放された。体をひっくり返して四つん這いにされると頭をシーツに押し付けられる。次はさっきの非ではない痛みが体の奥底まで走った。叫び声はおろか呼吸すらうまくできない。枕に押し付けられた顔は涙と鼻水と涎が混ざってぐちゃぐちゃだった。
英司は流奈から流れる赤い血など気にもせず、獣のように夢中で腰を振っている。この日から流奈の体は成長しなくなった。身長も伸びず、胸はそれ以上膨らむことも無くなった。高校生になった今も子供を産む体にはなれていない。
初めて犯されたあの日。結局痛みに耐えられなかった流奈は気を失ってしまった。目が覚めた時にシーツについていた赤い血を今も鮮明に覚えている。もちろん汚してしまったシーツは自分で洗った。もう痛みで気を失うことも血が出てくることもない。
自分は父のいろいろな欲を満たすだけの道具。母は娘を犯す夫が怖くなったのか。道具になりはてた娘が怖くなったのか。娘の高校入学まで見届けてから出ていった。母がいなくなった日、流奈の部屋に置手紙が置いてあった。小さなメモ帳の真ん中にはごめんなさい、そう、震えた字で書かかれていた。
大人なることすら父に奪われてしまった。ここからは一生出ていけない。流奈はもうあきらめていた。
英司が勢いよく腰を押し付ける。やっと終わった。満足したのか、英司はさっさと部屋を出てリビングでたばこをふかし始めた。流奈は仰向けになって手足を伸ばす。天井の三つのシミが自分をあざ笑っているような気がした。