第五十九話 胸の奥に
「
そう叫ぶ女性の目線の先にはカップルと思われる1組の男女がいた。
「……
秀也と呼ばれる男性は明らかに動揺を隠せずにいた。すると、摩利と呼ばれる女性はゆっくりと手を伸ばし、秀也の横にいる女性を指さした。
「ね、ねえ秀也……そ、その女誰?」
その言葉を聞き、たじろぐ秀也に隣の女が話しかける。
「秀君、あの女誰?」
「秀君って……あんたこそ!! 人の彼―――」
「知らない」
「え? 秀也……」
「あんな女知らないよ。さ、もう行こうぜ」
隣の女にそう話すと秀也は隣の女の肩を抱き、その場から離れようとする。だが、摩利はまだ食い下がる。
「ま、待ってよ!! 知らないってどういうこと!! 私……秀也の彼女でしょ。い、今なら何にも言わないからこっちに来てよ。ねえ、秀也……秀也ー!!」
必死の叫びに秀也は立ち止まった。摩利の表情も一瞬晴れやかになる。そして、振り向き際に秀也が放った言葉はそんな彼女の願いを踏みにじるものだった。
「だから!! お前みたいなやつは知らないって言ってんだろ!! もう俺に話しかけるな」
摩利にそう告げると、秀也たちは再び歩き始めた。
「秀也……うそでしょ……何で……」
摩利は膝から崩れ落ち、地面に手をつく。そして、ただただ秀也と隣の女性の楽しそうな会話を聞いていた。
周りの人たちも皆気にかけていたが、自分から関わろうとするものはいなかった。それは焔たちも例外ではなかった。
「焔、どうしよう……」
「俺たちにできることなんてありませんよ。今、あの人にどんな言葉をかけようと何も知らない俺たちの言葉なんてどれも薄っぺらく聞こえますよ」
「そうだよね……でも」
会長は悔しそうな顔をし、強く拳を握る。そんな会長の思いを焔もわかっていた。
分かるよ会長。でも、今俺たちにできることはない。だからここは……
そんなことを考えていた焔だったが、何かに気づいたようで、摩利の方に顔を向ける。
何か嫌な感じがする。それに……何か言ってる?
「どうしたの焔?」
「……ちょっと穏やかな空気じゃないですね」
そうやって苦笑いの焔の視線を会長も辿る。そこには地面を見つめながら何かを呟いている摩利がいた。
「今まで散々尽くしてきたのに……何で私じゃないの……信じてたのに……」
そう言いながら、摩利はカバンの中からあるものを取り出した。太陽の光に反射するそれを見た時、会長は悲鳴を上げた。
「キャー!!」
摩利が持っていたのは包丁だった。
焔はすぐさま会長を自分の背後に置いた。周りの人も会長の悲鳴に注目し、次第に包丁を持っている女に注目は移った。当然、秀也もその1人だった。
「お、おい冗談だろ。何熱くなってんだよ」
「秀也がいけないんだよ。2年もの間ずっと尽くしてきたのに……あんなにも愛してたのに……許さないから……殺してやる!!」
怒号を上げながら、秀也に迫り寄る摩利。秀也は隣で腕を組んでいた女性を突き飛ばし情けない声を上げながら逃げる。だが、足がもつれてこけてしまった。振り向くと、すでに摩利がいた。
「摩利ごめん!! 俺が悪かったから!! 許してくれ!!」
必死に懇願する秀也だったが……
「もうダメ。秀也が悪いんだから!!」
振り下ろされる包丁に秀也は目をつむり叫び声をあげる。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!……あ?」
恐る恐る目を開ける秀也。そこには1人の少年が摩利の手を握り、包丁が刺さるのを止めている姿が映った。
「焔……いつの間に」
先ほどまで目の前にいた焔が一瞬で包丁で刺すのを止めに入ったのを見て、会長は驚きを隠せないでいた。
「何よあんた!! 離してよ!! こんな男……!!」
「殺す……か」
「……そうよ!! 殺してやるんだから!!」
「でも、震えてるぜ……手」
焔の言葉にハッとする摩利は自分の手を見る。確かに、包丁を握る手は震えていた。
「もう止めとけ。俺はあんたが諦めるまでこの手を放すつもりはないからな」
焔の言葉に観念したのか、さっきまで強張っていた腕の緊張が一気に解けた。
「よし。取り敢えず、こいつはいったん預かるからな」
スッと包丁は簡単に抜き取ることができた。焔が手を放すと、先ほどまでの緊張がほどけたように膝から崩れ落ちる。覇気のない顔をして地面を見つめる摩利に何か声をかけようとする焔だったが……
「摩利てめー……調子乗りやがって!! このクソ女が!!」
先ほどとは立場が逆になり、今度は秀也が膝をついている摩利に殴りかかろうとした。摩利も覚悟したのか、目をつむり歯を食いしばる。
パン!!
「おいてめー……何してんだよ」
間一髪のところで焔がその拳を止める。
「もう終わったんだよ。事を荒立てるのは止めろ」
「はー? 俺は殺されかけたんだぞ? 一発殴るぐらい良いだろ!! しゃしゃってんじゃねえぞ!!」
「俺がしゃしゃり出なかったら今頃あんた死んでたぞ? それに何で彼女がこんな行動に出たかはお前が一番よくわかってんだろ? あんたもう大人だろ? わかってやれよ!! 彼女の痛みぐらい!!」
焔の言っていることが的を得ていたことに腹が立ったのか、秀也は今度は焔に殴りかかる。
「うっせえな!! ガキが口出しすんじゃねえ!!」
焔はまともに顔面にパンチを食らう。口の中は切れていた。
秀也は参ったかと言わんばかりの顔をしていた。
「焔!!」
心配する会長をよそに焔は不気味に笑う。
「会長!! 傷害罪です!! 警察に連絡する準備しといてください!!」
「え、え?……わかった!!」
最初は困惑した会長だったが、状況を把握したようでカバンの中からスマホを探していた。
「おいお前……まさかわざと避けなかったな」
秀也は怒りをにじませながら焔を睨みつける。
「いやいやあなたのパンチがあまりにも速かったもので避けれなかったんですよー。あーイタイイタイ」
明らかに馬鹿にしたような焔の態度に更に秀也は激怒する。
「てめー!!……いいのかよ。摩利なんか殺人未遂だぜ? 警察呼んだら確実に逮捕されるけど良いのかよ?」
秀也は勝ったようなしたり顔で焔に言い寄るが、焔はきっぱりと言う。
「は? いいに決まってんだろ。俺がこの人をかばう理由なんて何一つないんだからな」
これには秀也も摩利も少し動揺した。焔は更に続ける。
「だけど、マスコミはどう報じますかね? 殺人を起こそうとした女性のことを強く報じるか……はたまた間一髪で命の危機を救った男子高校生に恩を仇で返すような仕打ちをした男性のことを強く報じるか……しかもその男子高校生がレッドアイを倒した張本人となれば……」
「お、お前がレッドアイを倒した男子高校生だってのか!! は、そんな偶然……」
「偶然かどうか試してみるか?」
焔の気迫のこもった声に秀也は少したじろぐ。
「俺も事を荒立てるのは好きじゃない。あんたに決めさせてやるよ。まだ盾をつくのか、もう立ち去るのか選べ。ちなみに、あんたの彼女さんは警察の話あたりからもうどっか行っちまったけどな」
その言葉を聞いた途端、秀也はあたりを見回した。少しの間を置いた後、焔のことを強く睨みつけるとドタドタ足音を鳴らしながら消えていった。
「……秀也」
そう呟きながら摩利は悲しそうに秀也の背を見送った。その後、焔は会長と合流し摩利をどこか座れる場所に連れて行くと事の次第を聞いた。
話を要約すると、秀也は典型的なヒモ男で摩利の家に半ば居候の形で住み着いていたと言う。だか、摩利は本気で秀也のことが好きだったので、どれだけ金をむさぼられようとそれでも良かった。だが、そんなある日、土日、秀也は家を空けることが多くなったらしい。浮気は考えなかったのかと聞いたが、それも考えたらしい。でも、秀也のことを信じていた……いや、信じたかったんだと言った。そして、秀也が寝ている間ついに見てしまった。浮気相手とのメッセージのやり取りを。それで、今日ここに遊びに来ることが書いてあった。自分の目で見るまでは信じることができなかったが、実際秀也は浮気をしており、このような行動に至ってしまったのだという。
話し終えると摩利は大きなため息をついた。
「ほんっと!! 今考えると何でこんな男なんて好きになってたんだろ。別れて清々するわ」
焔を挟んで会長も言及する。
「そうですよ!! 別れて正解ですよ!!」
「あーあ、こんな男に私の貴重な2年間も費やしちゃって。本当笑えるわね。アーハッハッハッハ!! おっかしい!! ハハハ!!」
過去の話をおかしいと笑い飛ばす摩利に会長も同調する。だが、焔だけはまったく笑わなかった。
「……笑えねえ」
焔の呟きに少し摩利の笑いの勢いが弱まる。
「何も笑えねえぞ!! 何もおかしいことなんかありゃしねえぞ!!」
焔の真剣な眼差しに完全に笑いは止まる。それから焔は優しい口調で摩利に告げる。
「もう無理はしなくてもいいんじゃないんですか?」
その言葉をきっかけに摩利の偽りの笑顔は消えた。顔はひどくぐちゃぐちゃになり、涙は溢れていた。焔の胸に顔をうずめると本当の気持ちが溢れてきた。
「好きだったー!! 好きだったのにー!! 浮気してたのも知ってた!! でも!! でもそれでも離れたくなかったー!! もっとそばにいたかったよー!! ウワァァァァァァァ!!」
本当の気持ちを知り、心が痛んだのか会長の目にも涙が出ていた。泣き叫ぶ摩利に対し、焔は黙って、胸を貸していた。
―――ひとしきり泣き終わると、気持ちが落ち着いたのかそこには笑顔が戻っていた。
「ありがとう焔君。胸借りちゃって」
「いえいえ、俺の小っちゃい胸ならいつでも貸しますよ」
「あらカッコいい。でも、彼女の前でそんなこと言っちゃ悪いわよ」
彼女と言うワードを聞き、会長は少し顔が赤くなったが、直ぐに訂正した。
「か、彼氏じゃないですよ!! ただの後輩です」
「そうなの? じゃ、私がもらっちゃおっかな」
意地悪そうな顔を見せる摩利に会長はたじろぐ。そんな会長をよそに焔が答える。
「いいんですか? 俺もヒモになっちゃうかもしれませんよ?」
「ふふーん、そうなったら刺しちゃうかもよ?」
「……そんなけ言えりゃ上等ですね」
その後、焔たちはまた後日お礼をしたいという名目で連絡先を交換し別れた。
「ふー、これからどうしますか会長? けっこう時間経っちゃったんでもう乗れても1つだけですよ」
「それもそうだな。それじゃあ―――」
―――「て、これでよかったんですか会長?」
「いいのいいの。締めくくりと言えば、相場は観覧車と決まっているだろ」
「そうなんすか? ま、いいですけど」
焔たちは互いに向き合いながら観覧車に乗っていた。日は沈みかけており、海に反射した光はとても綺麗だった。そんな中、会長が今日の出来事について話し出す。
「しかし、今日は見事だったな焔。颯爽と刃物を持った相手に飛び込んでいくんだもんな」
「まあ、俺の夢はヒーローなんで。あれぐらいはできないと」
「……ヒーローが夢なのか?」
「変ですか?」
「いや、やっぱり焔は面白いなと思って」
「そりゃどうも」
「どういたしまして(なるほどな。なぜこいつの瞳がこうも遠くを見据えているのか謎だったが……そういうことか。だったら、この気持ちは一旦胸の奥にしまっておこう。こいつがヒーローになるその時まで)」
会長が1つの大きな決断をした時、焔が不意に話しかける。
「会長……今日はありがとうございました。良い気晴らしになりました」
窓の外を眺めながら言う焔に少し胸が締め付けられる会長だったが……
「どういたしまして!!」
満面の笑みで答える会長に対し、窓越しに少し微笑む焔だった。
その後、会長からのお誘いはなくなった。だが、副会長によると生徒会室で会長は携帯の画面を見ながらたまにニヤニヤしているそうだ。
そこには不愛想な少年とかわいらしい少女のツーショットが映っていたらしい。