夜勤の夜
「役立たずっ」
怒鳴り声に智子ははっと顔を上げた。
机にもたれて少しうとうとしていたらしい。
「どうしたの?」
それに気づいて先輩のかおるがカルテをチェックしながら聞いて来た。
石田かおるは夜勤の時の智子のパートナーだ。
「す、すみません」
「いいよ、いいよ。疲れてんだからさ。
ただしナースコールにはちゃんと出てね。
ところでなんか嫌な夢でも見たの? うなされてたよ」
かおるがカルテを棚に戻し隣に座った。
「覚えてないけどどんな夢か大体わかってます。
以前勤めてた病院の師長に怒鳴られる夢――」
「なんかドジ踏んだか?」
かおるの軽口に智子はしゅんと頭を下げた。
「いえ、その――わたし、いまだになぜかわからないんですけど、ずっといじめられてて」
「ええっ? 師長に?」
「それとみんなから――」
「別にどんくさいわけでもなく、ちゃんと仕事もこなせるのにね。あなた大人しいからうっぷん晴らしにされてたのかも。だから辞めたの?」
智子はうなずいた。
「そういうやつどこにでもいるよねー。きっとあなたの後には別の誰かをターゲットにしてるわよ。辞めて正解っ。で、ここに勤めたのも正解っ。ここにはわたしみたいに優しい先輩がいるし」
智子はぷっと吹き出した。
「そこっ、笑うとこじゃない」
この新たな職場は片田舎の――以前いた街中からなるべく離れたかった――山のふもとにある美しい森に囲まれた病院で、一階は外来診察室、検査室など診療、治療設備が整い、二階には病室が大部屋を含め21室、ベッド数は約50床あった。
智子は二階の入院施設に配属され、夜勤の際は石田かおると雇われ医師の松橋祐介と組んでいた。
かおるも松橋も優しく、叱る際でも人としての尊厳を踏みにじるような言葉など吐かない。
そんな仲間とのどかなこの場所に智子の傷ついた心は徐々に癒されていった。
*
地の底から聞こえてくるような咆哮が聞こえ、智子ははっと顔を上げた。
かおるには聞こえなかったのか、隣の席で何事もないようにカルテの記入をしている。
今夜もまた居眠りして夢でも見たのだろうか。
「智ちゃん、巡回の時間よ、お願いね」
「あ、はい」
顔を上げずカルテに向き合ったままのかおるに返事をして、智子は席を立った。
ナースステーションを出て懐中電灯を照らしながら常夜灯だけの暗い廊下を進む。
重篤な患者は街の大病院に転院させるので、入院しているのは比較的病状の軽い患者か、通院困難な骨折等の怪我をしている患者のみだった。
大半が老人だったが、外科的な患者には若者もいる。その中で一人だけ小学生の男の子がいた。
院長の息子、由紀生は生まれた時から身体が弱くずっと病院暮らしだという。
その由紀生がぼうっと患者専用エレベーターの横にある階段の前に立っていた。
ナースステーションを振り返ったが、まだ机に向かっているのか、かおるの姿は見えない。
智子はそっと由紀生の肩に手を置いた。
「どうしたの? もうとっくに消灯時間過ぎてるよ」
びくっと体を震わせ、怯えた目を智子に向ける。
「変な声が聞こえたんだ」
その言葉に智子はさっき聞いた咆哮を思い出した。
「き、気のせいよ」
笑みを浮かべてみたものの、上ずった声はごまかせなかった。
「お姉ちゃんも聞いたの?」
「き、聞いてないよ」
「ウソだぁ。だって怖がってるもん」
「ホントにホント。ぜんっぜん聞いてないっ。
ほら、石田さんに見つかるとヤバいよ。だから早くベッドに戻って」
212号の自室に戻そうと由紀生の背中を優しく押す。
だが、由紀生は脚を踏ん張って話し続けた。
「たまに聞こえるんだよ。地下から」
確か地階には霊安室とボイラー室がある。
「あ、わかった。きっとボイラーの機械音がそう聞こえるんだわ」
だから地の底から聞こえてくるような声に聞こえたのよ。
智子もそう納得し、『霊安室から』という怖いことはあえて考えないようにして由紀生を部屋の前まで押していった。
「でも霊安し――」
「だーっそれはないそれはない」
そっち方向に結び付けようとする由紀生を制しスライドドアを開ける。
しぶしぶベッドに上がった由紀生にケットを掛け「おやすみ」と言って部屋を出た。
廊下でほっと息をついていると、今度は薄明りにぼんやり浮かぶ松葉杖の人影に気付いて智子は飛び上がった。
「智ちゃん。きょう当直?」
このにやけた声は――
下腿部の骨折で大部屋に入院している山尾だとわかりため息をつく。
「こんな夜中に何うろうろしてるんですか?」
どいつもこいつもと言いたいのを我慢して詰め寄る。
「下のロビーにコーヒー買いに行ってた――智ちゃんの分も買ってきたらよかったな。一緒に飲みた――」
「さっさと部屋に戻ってくださいね。くれぐれも他の方を起こさないように」
「もう冷たいな、智ちゃんは」
山尾の声を背で聞きながら智子は廊下を進んだ。
一通り巡回してナースステーションの近くまで戻ってくるとリネン室横の空き部屋から松橋が出てきた。今まで仮眠をとっていたらしい。
「異常なし?」
そう訊きながらあくびをかみ殺す。
「はい、ないです――
あのぉ、先生――」
「ん?」
智子は地階から聞こえてくる声のような音の原因が何なのか訊いてみようとしたが、言い淀んでしまった。
松橋の眼鏡の奥にある無邪気そうな目を見ていると、そういうことにまったく気づいていなさそうな気がしたからだ。
「えっと――夜勤の日は奥様たち寂しい思いされてるだろうなって」
智子は以前にまだ幼い女の子と清楚な奥さんが楽しそうに笑っている家族写真を見せてもらったことがあった。
「うーん、どうだろ。結構羽伸ばしてるんじゃないの? うちの女どもは」
そう言うと松橋ががははと笑う。
つられて笑っているとナースステーションからかおるが顔を出した。
*
新規入院した患者のカルテをチェックしているとまた咆哮のような長い叫び声が聞こえてきて、智子は顔を上げた。
あの夜から何度目だろう。
検温に行くと由紀生は必ずこの声に対する考察を話そうとする。もちろんボイラーの音ではなく霊安室からというものだ。
智子がここに来てから霊安室は使用されたことがなく、過去にもほとんどないとかおるに聞いたことがある。死に直面するような重篤な患者はいないのだから当然と言えば当然だ。
だから、霊安室からという説はないときっぱり由紀生にも言ったが、まだ納得していない。というより、智子を怖がらせて楽しんでいるようにも思え、どう反撃してやろうかと、自分もちょっとだけ楽しくなっていた。
だが、声のようなものは確かに聞こえてくる。
ボイラーの音だと思うものの、正体はいったい何なのかはっきりさせたくもあった。
なぜなら、今は巡回中でここにいないが、あの声がするたびにかおるの顔を窺っても聞こえている様子がないからだ。
自分にしか聞こえていないなら、あれはボイラーの音ではないのではないか。
毎回その考えに行きつくと智子はぶるっと身を震わせた。
「見て見て。山尾君におごらせてやった」
戻って来たかおるが汗の浮いた缶コーヒーを二本、机の上に置いた。
「患者さんに? いいんですか?」
「いいの、いいの。
一階から戻って来たところ捕まえて、一本おごれっていったらなんて言ったと思う?
智ちゃんにならおごるけど、だよ。
で、わたしの分と二本おごらせてやったのさ」
そう言って笑って、かこっとプルトップを開けるとおいしそうに飲み始める。
「あ、いいな」
松橋が眠そうな顔で入ってきた。
「あ、よければどうぞ。先輩いいですか?」
「別にいいけど。山尾君泣くよぉ」
「わたしコーヒーだめなんで。山尾さんにはちゃんとお礼言っときます」
コーヒーを差し出すと松橋は喜んで飲み始めた。
突然、地の底から響くようなあの咆哮がはっきりと聞こえた。
松橋の上下に動いていた喉の動きが止まり、かおるの笑顔が強張る。それはほんの一瞬ですぐに動きは再開したが智子は見逃さなかった。
かおるもあの声が聞こえているのだ。知っていて知らんふりをしている。
それは松橋にも同じことが言えた。
なぜ二人はあの声について何も触れないのか、それはきっと触れてはいけない何かがあるからだ。
これでボイラーの発する音でないことが、智子にははっきりとわかった。
*
「で、結局ダメになったんだよね。
ね、ちょっと。聞いてる?」
またあの咆哮が聞こえ、気を取られていた智子の手をかおるがつねる。
「いたっ」
申し送り事項を記入している最中、隣でかおるが恋話を語っていたのだ。
智子は「聞いてましたよぉ」と情けない声で手のひらを擦ったが、結婚する相手がいたというところまで聞いて、なぜ破談になったのかまでは聞いていない。
「つらかったけど、しょうがないよね」
「そう――ですね」
智子はばれないように神妙な面持ちでうなずいた。
「で、きょう大部屋に入院した田中さん。彼みたいなのよね。ドキドキしちゃった」
「え、かなりのおじいさんですよ」
「もうっ智ちゃん、優しさ足りない。どこか雰囲気があればそれでいいのっ」
「先輩――前を向きましょう。まだまだ若いんですから。年下だけど、山尾さんどうですか?」
「山尾? ダメダメ、あいつ智ちゃんのこと好きだから。あんたこそ付き合ってあげなよ。好きな人いないんでしょ?
ま、まさか松橋先生のこと――」
「いやいやいやいや」
智子は手と首を思い切り横に振る。
「そこまで否定しなくてもいいじゃない」
へこんだ顔をして松橋がナースステーションに入ってきた。
きょうは十分な睡眠がとれたのか、すっきりと目覚めた顔をしている。
「す、すみません。
あの先輩――先生にも聞きたいんですが――地下から聞こえてくる声のこと知ってますよね――
でもなぜ知らんふりするんですか?」
智子は思いきって訊いてみた。
二人の動きがこの前と同じく一瞬だけぴたりと止まったが、
「わたし巡回に行ってきます」
すぐにかおるが懐中電灯を持って立ち上がる。
「先輩っ」
もうもやもやしているのが嫌で、智子はかおるの腕をつかんで逃げるのを制した。
こちらを見守る松橋にちらっと視線を送り、かおるが智子を見下ろす。
「知らなくていいし、気にしなくてもいいよ。あなたには関係のないことだから」
今までにない冷たい声に智子はたじろいで思わず手を離した。
「でも――」
「気になるのはわかるけど、僕たちも気にしないことにしてるんだ。ボイラーの音だと思って、君も早く慣れて」
かおるをフォローするように松橋が優しく諭す。
まだ納得のいかない表情の智子に「とにかくあれについて、もう何も言わないで」そう言い捨てると、かおるは暗い廊下に消えていった。
*
今夜もまた地階から響いてくる咆哮に智子は隣で新しく入院した患者のカルテをチェックするかおるの横顔をちらっと見た。
「気にしないことぉ」
こちらに目もくれず独り言のようにつぶやく声を聞きながら智子は懐中電灯を持った。
「巡回に行ってきます」
「ねえ、智ちゃん。地下に確かめに行こうなんて考えないでね」
「か、考えてませんよ。ただでさえ怖いのに」
「だよね。ごめんごめん」
かおるはカルテに視線を戻すと後は何も言わなかった。
だが智子は病室の巡回をせず、かおるの目を盗んで階段を使って一階に下りた。
考えていないと言うのはうそで、一度確かめに行かねばとずっと考えていた。
地下へと続く暗闇に懐中電灯を向ける。青白い光の輪が照らす常夜灯のついていない折り返し階段には恐怖しか感じなかったが、深呼吸してゆっくり踊り場まで下りた。
振り返ると薄暗くともまだ廊下の明かりが自分を照らしている。
だが、ここから先は真の闇が待っている。進めばもう二度と戻れないような気がした。
結局、下りることができず二階までいっきに駆け戻り、乱れた息を整えながら巡回を開始した。
智子が勤務し始めた頃より入院患者が増え、巡回する部屋も増えた。だが、ただそれだけのことで特に忙しくなったわけではない。
各病室を覗いていくとみなすやすや安らかに眠っていた。
いつもと変わらない平穏に、松橋の言った言葉を思い出す。
ボイラーの音だと慣れてしまえば、気にしなければいいのだ。得体のしれない場所に自ら足を踏み入れる必要はない。
212号をそっと開けると明かりが漏れた。
「もう寝なさいよ」
ベッド灯の明かりの下で絵本を読む由紀生にそう声をかけると彼はにっと笑った。
またあの声のことでわたしを怖がらせるつもりだ。
由紀生が口を開く前にドアを閉め、他の病室に移動した。
最後に六床ある大部屋を覗く。
他の五人は静かに眠っていたが、山尾だけ開いた窓に両手を突き出しておいでおいでをしていた。
「何してるんですか」
他の患者を起こさないよう智子は山尾の背に光を当てて小声で話しかけた。
山尾は動きを止め、じっと動かない。
まさか友達か彼女を中に引き入れようとしてるんじゃないでしょうね?
「山尾さんっ」
智子は少しだけ声を荒げた。
腕をゆっくり降ろして山尾が振り返る。だが様子がおかしい。
瞳が死人のように白濁し、光にも反応しない。
「や、山尾さん?」
呼びかけながらそっと肩に手を触れる。
「うわっ智ちゃん、ま、眩しいっ」
急な山尾の反応に、
「しぃっ」
唇に人差し指を立て、智子は光の輪を床に落とした。
「ひどいな、もうっ」
目を瞬かせる山尾の瞳を観察したが何もない。
見間違いだったのか?
「なに? 人の顔まじまじ見て。さては俺に惚れたか?」
「そんなわけないでしょ。そっちこそこんな時間に誰か呼び込むつもりじゃないでしょうね」
「もしかして智ちゃん妬いてる?」
にやにやする山尾を無視し、智子は窓の下に光を当てチェックした。
豊かな樹木に囲まれたこの病院には塀がない。夜間でも敷地内は自由に出入りができる。
さすがに表玄関は施錠されているが、外付けの非常階段にある出入り口は中から開錠できた。
院内は完全禁煙で、喫煙者はよくここに出て煙草を燻らせている。山尾はその常連だ。
智子はくまなくチェックしたが上手く隠れたのか、すでに逃げたのか、樹木の陰にも植え込みの陰にも誰かのいる気配はなかった。
「彼女なんていないから安心して」
「そんなんじゃないわよ。とにかく、きちんと面会時間は守って下さいね。
ほらほら早く寝る」
ぴしゃりと窓を閉め、山尾をベッドに促す。
「一緒に寝る?」
ケットを持ち上げて誘う仕草に、智子も負けじと懐中電灯を振り上げる真似をした。
「マジで殴るよ」
「白衣の天使はそんなことやっちゃだめだよ」
横になった山尾へ少々乱暴にケットを掛けて智子は大部屋を後にした。
幸い他の四人は二人のやり取りに起きてくることはなかった。
智子は安堵のため息をつきながら、さっきの異様な山尾の瞳を思い起こそうとしたが、きっと見間違いだったのだとそれ以上考えることを止めた。
*
それからも山尾が窓から手招きしているのを何度か見かけた。
だがそれは時間外に誰かを呼び寄せているわけではなかった。
なぜなら、黙認していても誰かが忍び込んで来ることはなかったからだ。
奇妙だと思ったが智子はあえて深入りしなかった。
何も気にしない。あの声はボイラーの音で、山尾の瞳は光の加減の錯覚、手招きは――いや、あれは手招きではなく部屋で喫煙して煙を外に出しているのだ。
そう思い込もうとした。
だが、今夜は何かがおかしい。
山尾だけでなく他の病室の患者までもが死人のような白濁した目で窓に立ち手招きしている。
いったい何を招いているの?
智子はぞっとした。そしてこれはあの地下の声に関係しているに違いないと確信した。
やはり調べてみなければ。
この異変をかおるに報告するべきか迷ったが、智子は一人で階段を下りていった。
懐中電灯の光を吸い込む闇に躊躇しながら、辛うじて照らし出せる部分を頼りに地階の廊下を一歩踏み出す。
光の輪に映る床は一、二階のリノリウムとは違い、湿気を含んだようなコンクリートで壁も同様だ。
数メートル進むと小さな唸りが壁の奥から聞こえた。
ライトを向けると赤い扉と『ボイラー室』と書かれた錆びの浮いたプレートが浮かんだ。
ノブを回しても鍵がかかって開かない。しばらく扉に耳を近づけていたが、ずっと同じ調子の低音が聞こえるばかりで、咆哮のような大きな音は聞こえてこない。
やっぱりボイラーの音じゃなかったんだ。
手の汗を白衣でぬぐって懐中電灯を握り直し、智子は先に進んだ。
光はどこまでもコンクリートの壁と床を照らしていたが、廊下の突き当りで『霊安室』というプレートと観音開きの扉を映し出した。
もしかして、ここから声が?
智子は思わず唾を呑み込んだ。
開くかどうかはわからない、押すか引くかもわからないが、とりあえずノブに手を掛けたその時、ひときわ大きな咆哮が聞こえた。明らかに霊安室からではない。
突き当りとばかり思っていたが、闇に隠れた左側には廊下が続いていて、声はその方向から聞こえてきた。
ボイラー室と霊安室以外に何かあるのか。
智子は恐る恐る左へと進んだ。
十数歩進むと左の壁に血の滴り跡がついた扉があった。
驚いて一瞬身を引いたが、実際の血ではなく錆がそう見えているだけだった。
『隔離室』
その奥から唸り声が聞こえ、その後すぐ咆哮が扉を震わせる。
声はここからだったんだ。獣? 何のだろう?
智子はもっとよく聞こえるように耳を近づけ、はっと顔を上げる。
「やめてくれぇ」
微かだが苦しそうな呻き声に混じってそう聞こえた。
獣ではなく男の人?
もう一度耳を近づけると痛みに耐えかねたような大きな絶叫がして、それが長く尾を引いた。
聞こえていたのは咆哮ではなくこの絶叫だったのだ。
思わず手の力が緩み、懐中電灯が音を立てて床に落ちた。
呻き声が止んでしんとなる。
拾おうと慌ててしゃがみ込んだら扉に体当たりする激しい音が鳴り始めた。どんっどんっと衝撃で揺れるたびに扉の錆が剥がれ落ちた。
「助けてくれっ」
呆然としていた智子は懇願する泣き声を聞きつけ扉を開けようとした。
だが、本来あるはずの場所にノブがなく、開けることができない。
「助けてくれっ、たのむっ」
そう言った後、また凄まじい絶叫が聞こえ、連れ去られていくようにその長く尾を引く声は遠ざかっていった。
「なに? この中で何が行われているの?」
智子は半泣きで暗い廊下を引き返し、倒けつ転びつしながら二階まで駆け戻ってナースステーションへと急いだ。
結局、山尾たちのおかしな行動とあの声との関連性はわからなかったが、今聞いたものをかおると松橋に報告しなければと思った。
ガラス張りの受付の奥に二人の姿が見える。
「先生っ、先輩っ、やっぱりこの病院おかしいです。地下の隔離室っていったい何なんで――」
息を切らしてナースステーションに飛び込む。
だが、かおるも松橋も智子のほうを振り返りもせず、窓の外に向かっておいでおいでをしていた。
「せ、先輩?――」
かおるが腕を前方に上げたまま手の動きを止め、首だけをゆっくりと智子に向ける。山尾たちと同じ何も映さない濁った瞳をしていた。
松橋も手を止め、ゆっくりと智子に振り返ろうとしている。
ここにいちゃいけない。
智子は二人の様子を窺いながらナースステーションの出入り口まで後退った。
右足が廊下に出たところで向きを変えて逃げるつもりだった。だが、勢いよく振り返った後ろには山尾と由紀生が死人の目をして立ちはだかっていた。
「いやあっ」
一瞬身を引いた背中に何かがぶつかる。
かおると松橋が白い瞳で智子をじっと見つめていた。
*
「何も異常はないですか?」
巡回から戻るとカルテをチェックしていた松橋ドクターが顔を上げ、石田かおるを見た。
「ありません。みんなすやすやお休みになってます。
って、由紀生君は相変わらず絵本読んでましたし、山尾さんはベッドにいませんでしたけど」
「ベッドにいない?」
懐中電灯を元の位置に置いてかおるはため息をつく。
「きっと非常階段に出て煙草を吸ってるんですよ。入院の機会に禁煙したらって、煙草は体に良くないですよって、あれほど言ってるのに」
「ハハハ、しょうがないなぁ」
松橋は視線をカルテに戻しながら笑った。
「あ、そうだ、先生のお子さんもうすぐ誕生日でしたっけ?」
「うん」
「ちゃんと準備してますかぁ? 先生そういうとこちょっと気が利かないって奥様言ってましたよぉ」
「や、やってるけど、何? 君ら繋がってんの?」
「知らなかったんですか? わたし結婚のこと奥さまに相談してるんですよ。仲人を頼もうかと思って」
「ええ? 全然聞いてないんですけど? 何? もう決まってるの? 僕そういうのすごく苦手なんだけど」
「もう奥様からオッケーのお返事いただいてますよ。ちゃんと先生にも了承を得てるって――ああっほらぁ、また奥様の話聞いてなかったでしょ。言いつけてやろうっと」
「それは勘弁し――」
「あ、ちょっと待ってください先生――」
廊下で足音が聞こえたような気がして、かおるは松橋を止めて入口から顔を出した。
ナースステーションから漏れ出る光を受けて廊下の薄闇に誰か立っている。
はっきりと顔は見えなかったが、仄かに匂う煙草の煙臭と松葉杖で山尾だとわかった。
「山尾さん、だめでしょっ、早くベッドに戻ってください」
全然いうこと聞かないんだもの。優しい天使なんてやってられないわと、かおるは少し強めに注意した。
「石田さん――」
山尾が押し出されるように二、三歩前に進んでくる。
不安な表情の山尾の顔に重なり、背後に誰か立っていることにかおるは気付いた。
「あっ、だめですよ。時間外に面会人を連れ込んじゃ。
すみませんが、明日お越しください」
かおるは後ろの人物にも声をかけた。
「どうしたの?」
松橋が隣に顔を出す。
「山尾さんが時間外にお友だちを連れ込んだみたいで――」
二人が顔を見合わせている間に山尾がつんのめりながら入口まで近づいてきた。
「た、助けて――」
泣きそうな顔の山尾の背にナイフを突きつける男の手がナースステーションの照明に浮かび上がった。
「な、何だ君はっ」
松橋がかおるをかばうように前に出る。
「ここにいい薬あんだろ? それ出せよ。でないとこいつ殺すぞ」
山尾の背中にぐっとナイフを押し付ける。
「助けて――」
がたがた震える山尾の頬についに涙が溢れた。
「いい薬? そんなものここにはないよ。見逃してあげるから、早く出て行きなさい」
「うるせぇ、さっさと出せっ」
「痛っ――た、助けて――」
山尾のパジャマにジワリと血がにじみ出し、「山尾さんっ」と前に出ようとするかおるを松橋が制する。
「なあ先生早く出してくれよ。あちこち身体が痛むんだよ。頼むよ――なあ」
男の手が動くたび山尾が呻く。
「わかった。わかったからその人を放しなさい」
松橋はポケットから鍵束を出すとナースステーション奥に設置された薬金庫に向かった。
男が山尾を押しながら一緒に中に入ってくる。
青黒い顔色のそれよりもさらに目の隈が黒い男の顔が光の下にさらされた。
凶暴さを湛えた瞳にかおるの脚は震えたが、それでも二人から目を離さず電話を置いた机までそっと後退る。
アンプルの入った箱を持って戻ってきた松橋に目を細める男の隙をつき、素早く受話器を取って警備員室のボタンを押す。
「強盗です。早く来てください」
かおるは緊急事態を小声で伝えたが、相手の応答を聞く間もなく男に気付かれてしまった。
「てめぇなにしてるんだぁ」
男は山尾の背におもいきりナイフを突き立てるとかおるに向かって突進してくる。
かおるは受話器を落とし、悲鳴を上げて逃げようとしたが足が竦んで動けなかった。髪を鷲掴みにされ、男に引きずり倒される。ヘアピンがはずれナースキャップがころころと床に転がった。
「いやああっ助けてっ」
ぶら下がって揺れる受話器から「もしもし? もしもし?」と声が聞こえていたが危機を伝えることもできない。
男が悠々と受話器を元に戻し、かおるの身体を思い切り蹴りつけた。
「さっさと注射の準備しろっ」
突っ立ったままで動けない松橋にそう命令し、松葉杖とともに倒れ力なく呻いている山尾の背中に刺さったナイフを思い切り押す。
ぐぽっ。
最後の息を吐き山尾は動かなくなった。
「山尾さん――ごめんなさい」
痛みに動けず泣きながらかおるはつぶやく。
「石田さん、どうしたの?」
ナースステーションの入口で眠そうに目を擦りながら由紀生が立っていた。
「ゆ、由紀生君っ来ちゃだめ。早く逃げて」
かおるは立ち上がろうとしたが、それよりも早く男に背を踏みつけられ、逃げる間も、悲鳴を上げる間もなく由紀生は捕まってしまった。
「子供は大っ嫌ぇなんだよなぁ」
男は口を押さえ込んだ由紀生の柔らかい喉を掻き切り「全部お前とお前のせいだからな」とかおると松橋を順に見遣ってにたっと笑った。
松橋は動くことができなかった。涙が溢れ嗚咽が込み上げてくるからでもあったが、男の要求をいまだ呑むことができないからでもあった。
「さっさとやれよぉ、でないとミンチにしちゃうよ」
男が由紀生の身体にナイフを刺し込んでいく。
「わ、わかったから、その子にそんなことしないで」
松橋は注射器を用意し、アンプルのフタを外した。
床に伏せたままのかおるは泣き崩れて動かない。
何とか彼女だけでもこの場から逃がすことはできないだろうか。
松橋は急いでいるふうを装い薬液をゆっくりと吸い上げ時間を稼いだ。
男が唾を呑み込みながらこっちをじっと見ている。
この間に立って早く逃げてくれ。
松橋は横目でかおるの様子を窺った。
かおるもこちらを見計らっている気がして、男が自分から目を離さないよう注射器に入れた薬液を大袈裟に見せつけた。
男が椅子を転がしてきて松橋の前で座ると袖をまくり腕を出す。
いまだ。
松橋が目配せしたのに気付き、かおるは痛みに耐えながらなんとか身体を起こした。
男は松橋から薬液を注入されている真っ最中で、逃げるなら今しかない。
だが、ナースステーションから出ようとしたその時、エレベーターの到着音が暗い廊下に響いた。
「大丈夫ですか?」
降りてきた警備員がかおるに声をかける。
なんでこんな時に――
かおるは恐る恐る男を振り返った。と同時に白衣を赤く染めた松橋のくずおれる姿が目に入る。
「あ――」
間の抜けた警備員の声がした。
男が腕に刺さったままの注射器を引き抜いて投げ捨て、ナイフを振りかざしながらかおるに飛びかかって来た。
背中に受けた激痛に閃光が明滅する。
逃げ出す警備員の後姿が見えた後、薄れゆく視界に婚約者の優しい笑顔が浮かび上がって消えた。
*
「その後すぐ、男は駆け付けた警察官に撃たれたらしい。
わたしから連絡を受けた時に異変を感じた警備員がすでに通報していたんでしょうね。
あーあ、あいつが死んでいく姿わたしも見たかった」
かおるが広げっ放しにしていたカルテを閉じて棚に戻しながらため息をつく。
「その時まだ僕には意識があってね、薬で興奮した男が警官に襲いかかって撃たれたんだ。医者がこういうのも何だけど、ざまぁって思ったよ」
隣で机に尻をもたれさせた松橋が力なく笑う。
「それがもうちょっと早かったらよかったのに――って、言っても仕方ないことだけど」
かおるが半信半疑で聞いている智子の前に戻って来た。
「じ、じゃ先輩たちはこの世の者ではないと――」
「そういうことになるわね。
ちなみにあなたが聞いた地下の声はあいつよ」
「ここは呪われた病院ってことですか――」
「やだなぁ智ちゃん。呪われてるのはあいつだけよ。あいつはあそこでずっと地獄を見てるの。
わたしたちは結構楽しく夜勤しているわ。
でもね、わたしたちだけじゃ寂しいでしょ。だから彷徨える霊を呼び込んで患者として迎えてるってわけ。
だいぶ増えて賑やかになって来たでしょ?」
瞳の動かないかおるの笑顔に、ここから逃げなければと智子は思った。
でもどうやって。
「うわぁ、まさしく心霊スポットだな」
開いた窓の下から若い男たちの騒ぎ声がした。
「こんな森の奥に廃病院があるなんて知らなかったよ」
「昔はまだこんな森じゃなかったっていうぜ」
「へえ、そんだけ放置されて長いってことか」
「早く中に入ろうぜ」
智子は急いで窓に駆け寄り覗き込んだ。
懐中電灯を持った三人の若者が丈高く多い茂った雑草をかき分け建物に近づいて来る。
「あら、今夜は久しぶりに生きた人が来たわ」
隣に立ったかおるが楽し気な声を上げた。
逃げるなら今しかない。
「助けてくださいっ」
智子は窓から身を乗り出し下に向かって手を振った。
若者たちの足がぴたりと止まり、懐中電灯をあちこち動かして辺りを見回している。
「ここですっ早く助けてください」
智子は力の限り大声を出し、手を大きく振った。
懐中電灯の一つが二階の窓に届き、眩しい光が智子の目を射る。
「うわあっ、で出たぁぁぁ」
若者の一人が悲鳴を上げると雑草に足を取られながらも逃げ出した。残りの若者たちも悲鳴を上げて逃げていく。
「待って、置いてかないで。
違うっ、わたしは違うのっ、助けてよぉ」
若者たちの姿はすぐ森の闇にまぎれて見えなくなった。
智子は窓にもたれて泣いた。
これからわたしはどうなってしまうんだろう。
「ちょっと智ちゃん。逃がしちゃってどうすんのよ」
「え――」
「あなた、わたしたちの話聞いて、こんな状況になって、まだ気づかないの?
鈍感にもほどがあるわ。気づくまでそっとしとこうってみんなで言ってたけど、もういい加減気づいてよ」
かおるが呆れた顔で笑う。
松橋も「智ちゃんらしいね」と楽しそうに笑った。
どういう意味?――
二人は黙ってただにこにこと智子の顔を眺めている。
そう言えば、ここに来て日勤した覚えがまったくないことに気付く。
ああ、そうだ。
わたし、この森に自殺しに来たんだ。
木の枝にロープをかけて――
そこまでしか記憶はなかったが、ここに呼び込まれたということは成功したということなのだろう。
外で悲鳴がした。
「元に戻って来ちまった。どうすりゃいいんだぁ」
「森の出口どこだよ」
「わかんねーよ」
窓を覗くと若者たちがまた草をかき分け森の中へと入っていく。
「ふふふ。ここからはもう出れないのよねぇ――
さっ、智ちゃん。今夜の勤務は忙しくなるわよ。がんばってね」
かおるが智子の肩をぽんと叩いた。