バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

最終話

 明鏡止水のごとき鉄板の上で屠殺された亡者の亡骸は、容赦なく潰されて丸い板状になった。無慈悲なる業火で焼かれた無念の残骸が、肉汁を弾かせながら人間への恨みを叫んでいた。

「お前たちに罪はない。我の願いを叶えるための犠牲となるのだ」

 悪魔召喚師は愉悦に浸った。肉の焦げる音が、悪魔を呼ぶ笛の音となるのだ。

 命を焦がした香りが、夕闇に支配された小部屋の中にある祭壇の周辺に漂い、死の芳香で満たした。

 二人は人気のない一室を誰にも知られることなく借り切っていた。とあるところから鍵を拝借して忍び込んだのだ。

「調合に集中できないから少し黙っててくれる?」

 魔法使いのようなとんがり帽子を被った錬金術師が、少し離れたところで抱え込めるほど小さい釜を特製の棒でかき回していた。

「お前こそ黙っていろ。我はこれより悪魔を召喚するのだ」
「そんな粗末な生け贄でなにを召喚するの? あ、わかった。師匠のご機嫌取りね」

 悪魔召喚師にとってこの上なく神経を逆撫でする侮辱であった。

「俺がゴマをすると思っているのか、バカめ!」

 怒りにまかせて献上品をひっくり返した。生の部分が熱せられた鉄に叩きつけられて悲鳴を上げた。

「じゃあ、なんのために悪魔を召喚するのよ?」
「無論、奴の聖誕祭を楽しく過ごすためだ。悪魔の力でな」

 悪魔召喚師は凶悪な笑みを浮かべた。
 二人の暮らす国に年の瀬が迫っていたのだ。

「わざわざ他人の誕生日に便乗する辺り、ちっちゃいわねー」
「隣国の無慈悲な王もこの手のやり方をすると聞く。悪魔を統べるものとして間違ってはいないだろう」

 悪魔召喚師は、焦げ付かぬうちに肉の塊を鉄板から銀のヘラで取り上げ、丸いパンの上に乗せた。続いて、鯨偶蹄目の乳から作った乾酪を焼きたての肉の上に乗せた。熱を放つ火傷痕の上で乳白色の板が蕩けていった。そして、血の海のごとく脂の広がっている鉄板に堅香子の粉とカビの生えたマメから作った赤褐色のエキス、琥珀色の酒、インドの塩を次々に放り込んで煮詰め始めた。

「貴様の方こそ、音痴のくせに錬金術を諦めないのか?」

 先ほどからちょいちょい煽ってくる錬金術師に報復した。
 錬金術師は、調合の際に分量をよく間違えるくせに完成したものを失敗したと認めないところがあった。それを茶化して練金音痴と呼んでいた。

「わ、私は音痴ではない!」
「ならば火を貸してやろう」

 悪魔召喚師は別の祭壇へと歩き、悪魔の頭蓋骨を彷彿とさせるレリーフを捻って祭壇に火を灯した。

「火は万物の素だ。お前ごときが偉そうに貸し出したりするものではない。調子に乗るな」
「そうだな。だが、以前の調合品で師匠の歯を溶かしたことを忘れたわけではあるまい」
「あ、あれはたまたま師匠の歯が弱かっただけだ!」
「失敗を人のせいにするとは、とても錬金術師とは、いや人間とは思えんな」

 失敗は過信から生まれた。よって、悪魔は人間に騙されるのだ。悪魔の召喚は、尊大な悪魔の要求に対していかに賢く切り返すかが問われた。人間が過信しては悪魔に食われてしまうのだ。だから、人間には過信を抑制するための学舎があり、知恵を磨くのだった。

「そこまで言うか」

 錬金術師がしょんぼりとした。

「己の行いを反省すれば良いだけの話だろう」

 青い炎を揺らす祭壇に、たまたま持ち合わせていた軽銀製の練金板を乗せた。

「ありがとう」
「礼などいらん」

 悪魔召喚師は、自分の使っている祭壇へ戻ると火を消した。石油色の液体がしっかりと煮詰められていた。魔法陣を描くためのインクが完成したのだ。

 円盤形の白い祭器の中心にパンと焼いた肉と溶けた乾酪が置いた。

 悪魔召喚師は興奮のあまり口角を釣り上げたが、かろうじて残った理性で息を止めた。黒いローブが翻らぬように慎重な手つきで、祭器をぐるりと漆黒のインクで縁取ると間髪入れず正確に五芒星を描いた。中央の生け贄にも十分にインクを注ぎ、春先の芋虫の色をした新鮮な萵苣と厚めに切り出した内蔵のように赤い唐柿を重ね、パンで蓋をした。仕上げに、鬼を殺すほどの長さを持った木の杭を生け贄の真ん中へ串刺しにした。インクが滲み出し、貫かれた生け贄が魂の湯気を立ち上らせた。

「くっくっく、完成だ!」

 完成と同時に不穏な空気が二人のいる部屋に流れ込んだ。

「ふっ、もう嗅ぎつけたか」

 悪魔召喚師は、悪魔の到来をヒシヒシと感じていた。

 立て付けの悪い扉が、ガタガタと揺れた。人間の声とは思えない飢えた獣の声が近づいてきていた。

「悪魔よ! お前にふさわしい生け贄を用意した!」
「いただきまーす!」

 夕刻の闇から這いだした化け物は、部屋の扉を開けて猛スピードで生け贄に突進した。嵐となった獣《けだもの》が、悪魔召喚師の用意した生け贄を鷲掴むと、鋭い犬歯をむき出しにしてかぶりついた。

 漆黒の鮮血が、生け贄を噛み千切る口の端から飛散した。骨格である萵苣はシャキリと小気味良い音を立てて砕け散り、内臓たる唐柿は無惨にも引きちぎられて贓物をダラリとはみ出した。

 生け贄は、味わわれるまもなく食い尽くされた。

「おい」
「うん、おいしい」

 脂の詰まった巨体からメデューサのような黒髪を生やした女が、両手を合わせた。

「ごちそうさまでした。じゃね」

 石化の呪いが込められたウィンクを飛ばして、食欲の大罪を背負った女が、冬服のスカートを揺らしてのっしのっしと床を踏みならしながら部屋から出て行った。

「生け贄、師匠に食べられちゃったね」

 錬金術師は、何事もなく用意された祭壇と練金板に調合済みの合成液を流し込んだ。しゅーという音を立てて白煙をくゆらせながらゆっくりと固まっていった。

「くそっ、作り直しだ」

 悪魔召喚師が苛立たしげに鉄板へ挽肉の塊をぼとりと落とした。

「おいしかったってよ」
「あれでは意味がない。俺は悪魔を呼び出したいんだ」

 肉の焦げる音が錬金術の音へ加わった。

 合成液は、沸騰したらしくぽこぽこと泡だっていた。

「おっと、いけないいけない」

 悪魔召喚師に気を取られて焼き加減を見逃すところだった。

 慌てずに耐熱性のゴムヘラで円形を崩さないように合成液をひっくり返す。まだ焼けていない部分が少しはみ出したが、おおむね形を保っていた。

「悪魔を呼べば、お前は幸せになるのか?」

 錬金術師は、かねてから疑問だったことを訊いた。

「幸せにはならないだろう。ただ、俺の召喚術がより良くなる可能性があるだけだ」
「今でも十分だと思うけど」

 錬金術師は、悪魔召喚師の技術を評価していた。

「貴様が俺の何を知っている?」

 真剣な怒りの眼差しが錬金術師に向けられた。
 解決したい何かがあるのだと錬金術師は悟った。

「お前の事情なんて少ししか知らない。確か、姉がいるんだよな。とびきり美人で、とんでもなくダメな姉が」

 悪魔召喚師の姉は、町ではちょっとした有名人であった。下着姿で深夜徘徊するという噂が流れていた。

「貴様が俺の姉のどんな噂を聞いているか知らないが、ほぼ事実だ。隠す気もない」
「それと悪魔にどんな関係があるんだ?」

 錬金術師は、円盤型に焼き上がった合成板の出来に満足した。これをあと二つ用意しなければならないのだ。悪魔召喚師と会話をしながら二つ目を作成した。

「姉の面倒を見るのが嫌なんだ。家族が恥をかくのも嫌なんだ」

 肉を焼きながら漏れ出た声には、底知れぬ憎悪が秘められていた。

「悪魔を呼べば、姉は変わるのか?」
「ああ、変わるはずだ。俺にはもうその道しか残されていない」
「色々試したんだな」
「試したら悪いのか?」
「いや、悪くない。とても人間らしいと思う」
「ふん、人間らしいなどと偉そうに……」
「はっはっはっ、練金音痴の私が偉そうに見えるのか!」

 錬金術師は少し愉快だった。

「おい、早くひっくり返せ。焦げるぞ」
「なに!」

 慌てて練金板を見ると合成液から泡がいくつも浮き出していた。動揺を抑えながらゆっくりとひっくり返した。

「ふぅー。助かった。ありがとう」
「お喋りに夢中だったようだな」
「ああ、君の話を聞けてよかった」

 ランプ代わりの祭壇の火が二つあるだけの薄暗い部屋で、悪魔召喚師が頬を強ばらせて感情を押し殺しているのが手に取るように分かった。そこをつつけば日頃の鬱憤も晴らせるのだが、錬金術師は気付かぬフリをして三枚目の合成板作りを開始した。

「貴様はなぜ錬金術を求める?」
「それはもちろん大金持ちになるためよ」
「俗物な」
「ロマンじゃ生きていけないからね」

 三枚の合成板が完成し、錬金術師は祭壇の火を消すと銀のトレーに合成板を並べた。陶製の白い基盤を用意して、合成板を中央に置いた。板の上に溶けない雪を重ね、その上へミュールに擬態した黒い実を敷き詰めた。再び雪を重ねてから二枚目の合成板を乗せた。雪を再び掛け、今度は乾燥した覆盆子を敷き詰めてから先ほどと同様にし、三枚目の合成板で蓋をした。冷気と木の実の生命力を封印するために、堅牢なる樹木の樹液を煮詰めた蝋をまんべんなく掛けた。合成板の上に雪で要塞を作り、その上にウサギの目で儀式用の円を作った。さらに、その円陣の中へこれでもかと国産の赤い宝石を崩れないように積み上げて天守閣を構築した。

「仕上げの時が一番楽しそうだな」
「そうかな?」

 基盤を回して完成した作品のバランスを眺めた。どの方角から見ても崩れたところのない白亜の城塞が完成した。

「で、それは一体なんなんだ?」
「宝物庫」
「名前と素材が全く噛み合っていないではないか。果物を封入したものがどうして宝物庫になるのだ?」
「ふむ、説明するのは面倒だ。試してみる?」

 錬金術師が、完成したばかりの宝物庫へ腰に差していた魔剣を突きつけた。

「斬るのか。なら、俺の妖刀を貸してやろうか?」
「あんなごついのを使ったら、斬る前にぺちゃんこになってしまうよ」

 錬金術師が笑った。軽口に付き合っての愛想笑いだった。それでも悪魔召喚師は、彼女の笑い声を聞くのが好きだった。どんなに辛らつな言葉をぶつけた後でも彼女は笑ってくれるのだ。

 悪魔を呼び出したい男は、彼女の舌を必要としていた。目的のためには切り落として生け贄にしなければならなかった。ただ、舌を切り落としたら、彼女は心地よい笑い声を発しなくなるのだ。どちらも捨てがたく、錬金術師といるときはいつも葛藤していた。

 錬金術師は、悪魔召喚師の葛藤をよそに宝物庫を容易く四等分に切り裂いた。宝物庫を冷やす雪の緩衝材が刃に張り付かぬ剣捌きであった。小さな三叉の矛を添えて、小さな宝物庫を悪魔召喚師に差し出した。

「歯は溶けないだろうな?」
「も、もちろんだとも!」

 悪魔召喚師は、錬金術師の言葉を信じなかった。歯の二、三本が溶けてなくなることを覚悟して、宝物庫の一部を雪と宝石ごと矛で刺して口に運んだ。

 雪は十分に撹拌され滑らかな甘さを持っていた。軽銀の練金板で焼いた合成板もしっかりと焼けていた。宝石は、職人の努力に頭が下がった。丹念に磨き上げた宝石表面の光沢は、錬金術師の努力ではなかった。それでもその宝石を選んだ目利きだけは褒めるべきだった。

「なにが起きた?」

 歯は溶けていなかった。それどころか、失敗するはずだと思っていた調合が成功していたのだ。

「調合の過程は見ていた。いつもと変わりない。なぜ失敗しない?」
「ひどいな。私が調合に成功したらおかしいのか?」
「なにか俺の知らない素材を使ったな?」

 錬金術師が真顔で硬直した。それからゆっくりと口を開いた。

「そうだな。そうかもしれない」

 愛想ではない、柔らかな微笑みを浮かべた。

「なんだ? なにを使った?」
「乙女の心臓を絞って取り出した黄金の滴だ」
「バカな。そんなものでここまで調合が上達するものか!」
「困ったな。それくらいしか変わったところはないんだけど」

 錬金術師が苦笑した。まっすぐに悪魔召喚師を見つめたまま。

「そんなはずは、だとしたら俺は」

 黄金の滴の存在は、悪魔召喚師にとって誤算だった。錬金術師がそれを持っているとしたら、彼女の舌を手に入れることができないことを意味していた。それは避けねばならなかった。悪魔を呼び出し、彼女の舌を手に入れるのは今しかなかった。

「そうだな。俺も礼をしなければならない」

 あり合わせの鉄剣を操り、完成していた二体目の生け贄を四等分に切り分けた。刃物の扱いは、錬金術師とは比べものにならないほどお粗末だった。

「食え」

 突きだした陶製の祭器が震えた。悪魔召喚師は、彼女の笑い声が好きだ。だが、彼女の舌を抜かねばならないのだ。誰かのものになる前に。

「へぇー、初めてだな。君が私に生け贄を捧げるなんて」

 錬金術師は、生け贄を捧げる理由を理解しているようだった。臆することなく生け贄をつまんで口に放り込んだ。ほどよい肉付きの唇を閉ざしたまま、真剣な表情で咀嚼していた。

「うん、君の姉がダメな理由を理解したぞ」

 悪魔召喚師、牛田勝彌は、牛田家の食事係だった。勝彌が料理を作るようになってから、勝彌の姉は家事はおろか生活すらもだらしなくなってしまったのだ。

「教えてくれ。賀藤翔子。いや、神の舌を持つ者よ!」

 錬金術師、賀藤翔子は、世にも珍しい絶対味覚を持つ人間だった。その鋭敏な味蕾を持つために、料理を作っても自分で味見をできないという困ったパティシエ志望であり、悪魔のような料理批評家でもあった。

「君の味付けは、年頃の女性にある種の中毒性を引き起こす。もちろん禁断症状も。塩分と糖分を少し控えた方が良い」
「そ、そうだったのか」
「それにしても」

 翔子が、輪郭のはっきりした艶のある唇を血色の良い舌でぺろりと舐めて不敵な笑みを浮かべた。

「君、恋をしているな?」
「なに?」
「君も黄金の滴を使っただろう?」

 勝彌は、翔子に料理を食べてもらうのがずっと怖かった。それは料理しか取り柄のない自分を寸分の狂いもなく批評されることだったからだ。

「わかるのか?」
「わかるさ。きっと同じ味だから」
「同じ味なのか?」
「ああ、同じ味なんだよ」

 勝彌は、翔子と並んで後片付けをしたときに、いつもと並ぶ距離が違うことに気付くまで同じ味の意味を理解できなかった。

 翔子は、三角巾代わりのとんがり帽子を脱いでピンクのエプロンを外すと生け贄と宝物庫を紙皿に乗せてラップで包んだ。

 とある町の公立中学校の家庭科部、中学二年生の二人が家庭科室で作った照り焼きソースのチーズトマトレタスバーガーとミックスベリーのパンケーキは、交換されるとそれぞれが家に持ち帰った。それらは、クリスマスパーティを余計に待ち遠しく感じさせる一足早いプレゼントだったのだ。

しおり