四話
何よりも、まず先に異変を感じ取ったのは嗅覚だった。
嗅ぎ慣れない匂いが鼻腔をくすぐり、その違和感が意識の覚醒を促進させる。はじめに視界に入ったのは、木目調の天井だった。
あたり一帯には自然独特の、ほのかな香りが漂い満ちている。
不思議と、この匂いは嫌いでは無かった。
けれど、そんな事よりも
「ここ、は———」
———どこだったっけ?
まるで抜き取られたかのように、ポッカリと直前の記憶だけが抜け落ちていて。でも、緩慢に欠けていた記憶が蘇り始める。
斬り落とされた右の腕。
死にかけだった己自身の身体。
刺し貫かれ、穴を開けられていた土手っ腹。
そして、俺を助けんと凍らせていた一人の———『エルフ』
「そう、だ、……あうれー、るッ?!」
慌てて上体を起こそうとし、ギシリと木製のベッドが軋み上がると同時、身体に鈍い痛みが走った。
それはまるで、筋肉痛時に無理矢理身体を動かそうと試みた時に走る痛みに似ている。生傷から来る刺すような、ジンワリとした痛みとは別種のものであった。
「目覚めて早々、騒がしい。病み上がりなんだ、静かにしておけ」
なぁ?
———ナハト。
声の発声場所はすぐ近く。
というより、俺が寝かされていたベッドのすぐ真横。
ベッドを背凭れにして腕組みをしながら座る『エルフ』によるものだった。
「……アウレール」
「ん?」
名前を呼ぶと、#彼女__・・__#は肩越しに振り返ってくれた。
見慣れた男の顔では無かったけれど、どこか面影が残っている。なにより、口調がまんまアウレールだ。
「他の、みんなは」
「目覚めてすぐの言葉がそれ、か。まあ、ナハトらしいか」
あの獣人兄妹は兎も角、他にも俺が囲っていた奴隷は数人居たはずだ。察するに、ここはツェネグィアの屋敷ではないし、きっとそこからは遠く離れている。だから、気掛かりだった。
「他の奴らは、各々どっかに行った」
「そっ、か」
奴隷契約が切れたのだ。
屋敷に残っておく理由もなければ、元奴隷である彼らにとって貴族の側というのは居心地が決して良いものではないだろう。
「でも、伝言を一つ預かってる」
「ん?」
今度は、俺が首をかしげる番だった。
「悪くは無かった、とさ」
それは、聞き慣れた言葉。
「人らしい生活をさせてくれてありがとう。いつか、礼は返すと、そう言っていた」
「……そっか」
これで、心配事がひとつ減った。
自分自身を守ってくれそうなのはアウレール一人だけになってしまったのが、少し心細くはあるが、彼女には聞かなければならない事がまだまだいっぱいだ。
「ところで、アウレール。ここはいったい——」
「その事なんだが、先に私が言おう」
「……?」
ツェネグィア伯爵領なのかどうなのかを尋ねようとするも、アウレールにそれを遮られる。そして、これ以上なく真剣な眼差しで俺を見据え、言葉を口にする。
「あのな、ナハト。今から私が言う事は間違っても冗談の類いではない。だから、落ち着いて聞いてくれ」
意味深な前置きをまずはじめに。
その時点で、俺はどうしてかアウレールが言わんとする事が何と無くだが分かってしまった。
だから、柔和に破顔させて言葉の続きを待つ。
「お前の状態は、とても酷いものだった。魔法に長けた『エルフ』の一族の者を当たっても、大半のものが諦めろと言うほどに。凍らせる事で時間進行を止めているとはいえ、もう手遅れだと言う者も少なくは無かった。だから、少しばかりお前を助ける為に時間を要してしまった」
「……というと?」
「あの日から、一年が経っている」
少しだけ、驚いた。
でも、何となくそんな気がしてた。
「それと、ここはツェネグィア伯爵領から遠く離れた地。森によって囲まれた、『エルフ』の里だ。だから、襲われる心配は要らない」
アウレールは、嘘がつけないひとだ。
意固地で、頑固で、それでいて誠実で。
恐らく、彼女の言葉は真なのだろう。
「一年、かあ……」
感慨深げに言葉をもらした。
同時、僅かにアウレールの表情に影がさす。
「一年の失踪。って事はさ、俺はもう死亡扱いにでもされてるかな?」
にぃ、と不敵に笑うとアウレールは「そうかもしれないな」と笑って返してくれた。俺にとっては、死んだ扱いの方が都合が良いのだ。一年捨てる事で、ツェネグィアから解放されるなら安いものだろう。だから——
「助けてくれてありがとう、アウレール。それと、」
———ただいま。
そういうと、アウレールは仕方がないと言わんばかりに笑ってくれた。元々、貴族の地位なんて捨てたくて仕方がなかった俺だ。
生きているというだけで、将来的に不都合が生まれるかもしれないからと親族連中に狙われたりする日々。
それから解放されたと思うと、不思議とのしかかっていた肩の荷が下りたような。そんな感覚に見舞われた。気分は、悪くない。
「って事で、重そうな話はここまで!」
一年眠りっぱなしならそりゃ、身体動かし難いわなと納得しつつ今度は気をつけながら上体を#二本__・・__#の腕を使って完全に起こす。
「というかさ、これ作ってくれたのってアウレールだよね?」
本来ならば、肩から先は存在していない筈の右の腕をこれ見よがしに伸ばした。
人の肌の色をしていないソレは、透き通った薄青色に染まる氷で造形された腕。
アウレールは氷魔法だけは得意としており、こんな器用な真似も出来るんだなあと一人感心していると、何やら気まずそうな視線を向けられた。
「……ああ。言い忘れてたんだが、」
その腕は、な……。と口にしようとした刹那。
大きな衝撃音が周囲一帯に響き渡り、続けざまに余波によるものだろうか。地面が少しばかり揺れ動く。
『ジャヴァリーだッ!!!!!』
警戒を高めさせるような大声。
逼迫の感情の色を孕んだその声に、アウレールの表情が厳しいものへと移り変わる。
腰を下ろしていた彼女は無言で立ち上がり、一言。
「……話は、また後にしよう。悪いが、用事が出来た」
そう言って、アウレールは扉の方へと向かって行こうとするも、俺はそれを阻むべく声を上げた。
「アウレール」
身体をぎこちなく動かし、ベッドから足を出そうともがくも、一年間動かす事なく固まったままであった身体は上手く動いてはくれない。けれど、彼女は俺のそんな行動で何が言いたいのか察したのか、
「……ダメだ。ナハトはここで寝ていろ」
拒絶の意を表しかぶりを横に二度ほど振った。
「アウレール」
懲りもせず、もう一度名を呼ぶ。
ベッドから飛び出した足は漸く床につきそうと思えるほどに距離が縮まっていた。ぷるぷると、足先が震える様を見せつけながらとどめの一言。
「懸念材料は近くに置いておいた方が良い。そうは思わない?」
暗にそれは、アウレールが居なくなれば俺は一人勝手にこの部屋を出て行くぞという意思表示であった。
「……下手な真似をしない事。私の言葉には従う事。それが、条件だ」
「オーケー。流石アウレール、物分かりが良くて助かるよ」
俺の性格を嫌という程知っていたからだろう。
本当にやり兼ねないと理解していたからこそ、彼女は早々に折れてくれた。離れていた筈のアウレールは再度、俺に歩み寄り、少しだけ屈んでくれる。
どうにも、肩を貸してくれる事ならしい。
「悪いね」
「悪いと思うなら部屋でじっとしておいてくれ」
疲れ切った面持ちでアウレールが口にするも、俺は言葉に対して「それは無理」と即答する。
お前はそういうヤツだよなと、遅れて深い深いため息が聞こえてきたのは、きっと気の所為ではないのだろう。
ほんのちょっぴりだけ申し訳なく感じてしまった。
肩を貸して貰って尚、覚束ない足取り。
けれど、ここが何処なのか。
アウレールは果たして何をしに向かおうとしていたのか。
聞こえてきた言葉———ジャヴァリーとは、何者なのか。
それらに対する掻き立てられた好奇心を、俺が抑えつける事など不可能であった。