午前三時のサンセットビーチ
結婚なんて、面倒なだけだと思ってた。だって、母も従姉の姉ちゃん達も口を開けば旦那の悪口や愚痴ばかり。
しかも、わたしの気のせいじゃなければ嬉しそうに笑いながら話してる。なんだかゾッとしない。
そういうわけで、わたしに結婚願望なんてまるでなかった。若かったのもあったけど、結婚イコール苦労、というイメージがすっかり植え付けられてしまったのだ。まわりの女性達によって。
だというのに、彼に「そろそろ俺と結婚してみない?」という、のんびりしたプロポーズに何の迷いもなくOKしてしまった。
だって、プロポーズされた瞬間、思ってしまったのだ。
この人と、苦労をしたい。
って。
馬鹿みたいな考えだとは思う。この人と幸せになりたい、じゃなくて、苦労をしたい、だなんて。
だけど思ってしまったからには仕方ない。わたしはこれから、彼と一緒に幸せも苦労も共にするのだから。
彼の年を追い越した、その夜の事だった。今の今まで、一度だって現れなかった彼が、何故か姿を現したのだ。
眠ったのは午前三時なのに、夢の中は夕暮れ時で、柔らかな夕焼け色に染まっていた。
何処だろう、見たことのない浜辺だ。寄せては返す波の音が耳に心地いい。
「気に入った?」
ふいに、真横で声が聞こえる。聞きたくて聞きたくて、焦がれ続けてどうにかなりそうな気分だった。
「…千暁さん?」
震える声で名前を呼ぶ。会いたくて会いたくて、どうしようもなかった人の姿が、見上げたそこにあった。
「ほんもの?」
みっともなく震える声でたずねたわたしに、彼は笑い声をあげ、
「何、こんなにいい男、他にいる?」
いつものように唇の端で笑ってみせた。
「千暁さん、千暁さん千暁さん!」
たまらずにその首に抱きつく。体温を、匂いを、全てを、焼きつけておきたかった。もうこれ以上、彼との細かな思い出を忘れてしまいたくなかった。
「何で、なん、で、」
何で今まで会いに来てくれなかったの。そう詰りたかったけれど、喉がつまって嗚咽しか漏れやしない。
「ごめんな、」
静かな、優しい声で彼はわたしをぎゅうっと抱きしめた。こんなにしっかりくっついてるのに、彼から体温が全く感じられないのが、ひどく哀しい。
暫くそうやって、彼の存在を確かめるように抱きついていたけれど、自然と体が離れ、その代わりに指が絡み合う。
そのままわたし達は、夕焼け色の浜辺を何も言わずにそぞろ歩いた。わたしは何度も彼を見上げ、彼はその度に立ち止まって優しいキスをしてくれる。
この瞬間が、ずっと続けばいい。
心の底からの願いだったが、現実はわたしに厳しい。
いつの間にか、浜辺のうたが流れる、海に浸かった浅瀬の横断歩道の前まで来ていた。
横断歩道の向こう側には、遠いせいかハッキリとは見えないが、何人か人がいるようだ。
彼は躊躇いもなくわたしから手を離し、ゆったり流れるメロディに小さく体を揺らしながら歩道を渡り始めた。
わたしも後に続こうと一歩足を踏み出した瞬間、
「来るな!」
彼が怒鳴った。彼に怒鳴られるなんて、どのくらいぶりだろう。
「来たら、許さない」
今にも泣き出しそうな、そんな声と顔で言われてしまっては、わたしはもうそこから一歩も動けなくなってしまう。
「…いつかさ、」
ぽつりと小さく彼が呟く。
「いつか、迎えに行くから。それまでこれ、預かっとく」
彼はそう言うと、何の事かと聞き返す間もなくわたしの唇を優しくふさいだ。そのまま歩道を渡っていく彼を、わたしは何も出来ずにぼんやりと見ていた。
夢からは、泣きながら目覚めた。耳の穴に涙が入る感触で、ゆっくりと体を起こす。
「あっ、」
流れる涙に構わず、わたしは急いでベッドから飛び起きると、ドレッサーの引き出しを片っ端から開けていった。
「ない…」
彼からもらった指輪が、ない。
「うそ、うそうそうそうそうそ!」
わたしは半狂乱になって、ドレッサーに置いていたすべてのものを床にぶちまけた。血眼になって探したのに、ちっとも見つけられない。
「ほんとに持っていっちゃんだ…」
呆然と呟き、床にへたりこむ。
夢の中で、彼はわたしの指に嵌めてくれた指輪を持っていた。見間違うはずもない。ダイヤモンドが四つならんだ、まるでクローバーのような指輪。
「…なんで?」
口から勝手に言葉がこぼれ落ちた。
「なんで、今更?」
そうだ。何故、今になって。だって指輪を持っていく機会なら今までたくさんあったはずだ。一回忌や三回忌、七回忌まですんだのに、なんで、今更。
「いやだ」
まるで、自分の事をもう忘れろとでも言っているみたいだ。忘れられるわけがないのに。
「いやだ、千暁さん、」
涙が次から次へと流れて、止まらなかった。そのうち鼻水まで垂れてきたけど、そんな事はどうでもよかった。
ひどいひどいひどい。何でよ、何で今更。指輪返してよ。もう一回、夢でいいから出てきて。
子供のようにわんわんと声を上げて泣きじゃくるわたしを、愛猫が心配して膝の上に乗ってくる。
しょっぱいだろうに、小さな舌で涙と鼻水を舐めてくれる。わたしは愛猫をぎゅっと抱きしめた。暖かい、生きてるものの体温が伝わってくる。
普段なら、こんなにじっと抱かせてくれないのに。優しい子だ、と思いながら愛猫を解放する。あれだけ止まらなかった涙が、ぴたりと止まった。
わたしは鼻水をティッシュで思い切りかみ、涙を手で拭った。はあ、と大きな息をついて、泥棒にでも入られたのかと思うような、散らかりまくった自分の部屋を見回す。
これを片付けるのかと思うと、別の涙が出てきそうだった。
わたしは、どうして彼の事を忘れられないのか、本当は自分でも分かっていた。今の今まで、考えるのをやめていただけだ。
彼と、ちゃんとさよならをしていないからだ。そして、それをしてしまえば、彼の死を、認めなければならないからだ。
それは、彼を忘れる事を了承するのとわたしの中では同義だった。だから、考えなかったのだ。
だけどもう、わたしは彼の享年を越えてしまったし、指輪まで取られた。多分きっと、優しい彼の、最後通告なのだろう。
「千暁さん」
彼の名前を呼ぶと、再び涙が頬をぽろんと一粒流れた。
彼の思い出を抱いたまま生きていくのは、容易な事ではない。わたしは彼を忘れずに、だけど一歩づつ、前に進まなければならないのだから。
どんなに辛くても、彼の事は忘れない。ごめんね千暁さん。ちゃんと前を見るから、それくらいは許してよ。さよならはまだ言えないけど、いつか、きっと。
千暁さん。あなたはわたしの世界ではなかった。
だけどたしかに、わたしの永遠だった。