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Chapter 9 - 10

Chapter 9

 夜が明けてくる。
 黒のベールが少しずつ引き上げられ、東の山際の空が、黒から紺、紺から青へと移行する。西側には海があるはずだ。けれども広葉樹の林に遮られて道路からは見えない。空には濃いグレーの雲がいくつも浮かぶ。その色は時間の経過とともに白に近づいていく。
 ガドはリモの速度を落とし、本線を離れて広い駐車場に乗り入れる。
 終夜営業のレストハウス。テイクアウトも可能な全国チェーン店だ。どの町の郊外にも、国道沿いに派手な黄色のネオンボードを掲げている。この時間、だだっ広い駐車場には数台のリモしか停まっていない。煌々と明かりのついた店内に、黄色のキャップをかぶった二名の店員。カウンター席に三名程度の客の姿。あとはすべて空席だ。
「コーヒーを買ってくる」
 ガドはリモのモーターをアイドルのままでキープする。
「誰か人が来ても絶対反応するな。姿勢を低くして寝たふりをしとけ」
「たぶん誰も来ない」
「念のためだ」
 ガドが行ってしまうと、オリリアは言われたとおりシートに深くもたれ、眠った人間のふりをする。わずかに目だけ開けて、ウィンドウの外の景色を見ている。
 駐車場の各所には、まだ夜間照明がともり、あたたかな光が舗装タイルを黄色く染めている。駐車場の裏側は林だ。その向こうに、おそらく海があるはずだ。
 左腕の破損部位の液漏れは、この時刻までにほぼ止まった。
 ガドが守衛用の防水ジャケットを帯状に割き、きつく巻きつけたのだ。
「どうせもう仕事には戻らねーし。このジャケットも用無しってわけだ」
 それを巻きつけている時の、ひどく必死な彼の顔。
 そのシーンを思考ニュートの上でリピート再生。
 オリリアはひとり、こっそりと微笑む。
 そのとき、一台の大型カーゴが入ってくる。
 カーゴは、こちらのリモから90ヘクスの位置につけて止まった。
 運転台から降りてきたのは体格のいい中年男。いかにも貨物ドライバーといった外見だ。ちらりともこちらを見ないまま、まっすぐ店の方に歩いていく。
 どうやら特に問題はなさそうだ。オリリアはジョイント各部のテンションをゆるめ、先ほどと同様、深くシートに沈んだ。
 ガドはなかなか戻らない。
 少し退屈してきた。
 このまま本気のスリープに移行しようかと考え始めたとき、
――あれは?
 聴覚センサが、ひとつのノイズをとらえた。
 ブン、という低周波。
 それに重ねて、キーンという超高周波が同在している。
 どちらも人間の可聴領域のわずかに外。
「フォルセティ」
 オリリアは最小ボリュームで発声する。
 フォルセティ。
 偵察任務に使われる二人乗りの小型機。
 機動力にすぐれ、急激な上昇や下降、相当無理な旋回にも耐えられる。
――どこだ? 
 まだ目視では捉えられない。
しかし確実に近づいてくる。
それも一機ではない。
二機だ。
 ちょうどそのタイミングでガドが戻ってきた。
「来た」
「ああ?」
「フォルセティ。警察、あるいは本社の追跡班」
「どこだ?」
「まだ見えない。でも確かに来てる」
「位置を補足されたのか?」
「おそらく」
「どこでバレた?」
「不明だね。でもひとつ可能性が」
「どんな?」
「たぶん捜査班がドームSに急行したんだね」
「なぜそれで位置がわれる?」
「ドーム管理者に緊急ヒアリングを行う。失踪したロボとコンタクトのあった人物をリストアップ。リスト中、一名の守衛の所在がわからない。守衛の所有するリモの登録ナンバーを交通局に照会。基幹国道上の高感度カメラが該当ナンバーのリモを捕捉。位置を確定」
「早いな、頭の回転」
「ま、いちおうロボだしね」
「よし。なら、さっさと行こう。ちょっとこれ持っててくれ」
 コーヒーのサーモスをオリリアに渡し、
 ガドはモーターの回転を上げてリモを浮動させる。
 リモは国道へのアプローチを滑り、そのまま本線に合流。
 速度はぐんぐん上がる。道路の両側の木々が後ろに飛びすぎていく。
「ついて来てるか?」
「来てる。もうかなり近い。ほら、あそこだ。後方左」
「見えるか?」
「見えた。やはり二機だ。高度を下げてる。降りるつもりだ」
「ちっ、飛行艇と正面からレースをしても勝ち目は――」
 
 ブン!
 
 衝撃と音が同時に降ってきた。
 一機のフォルセティが、リモの真上を飛びすぎていく。
「え、もう一機いた?」
「くそっ、三機か。こいつはやっかいだな」
「ごめん、あたし三機目は把握できてなかった」
「今さら同じだ、二機でも三機でも」
「まずい。前方の国道に降りるつもりだ」
「バカな。幅的に無理だろ?」
「いけるよ、フォルセティなら。30ヘクス幅あれば楽々」
「くそっ」
 ガドはステアリングを右に大きく倒し、車線を急変更、
 さらに進路を180度変更、
 逆レーンに入る。
 今きた道を、逆方向に向かって直進。
 
 ブンッッッ…… 
 
 視界に飛び込んできた白の機体。
 短時間に出力を落としたブースタが、ウゥゥゥン、という荒いノイズを響かせる。夜明の住宅密集地であれをやったら、確実に苦情がくるだろう。
 そのまま降下。1600ヘクス前方の国道路面に急着陸した。
「前を塞がれたな」
 ガドはリモの速度を一番下まで落とした。
 オリリアはミラーを確認する。後方の路面にも二機のフォルセティが接地。機体が完全静止する前に、白の制服を着た警備官がハッチから次々と路上に降りて来る。
「おい、出るぞ」
「え?」
「海側に走る」
「走ってどうする?」
「どうもしない。逃げれるとこまで逃げる。それだけだ」
「無理だ」
「いいから来い!」
 ドアを押し開けると、ガドはオリリアの腕をつかんで車外に出る。国道を一気に横断、道沿いに広がる林の中に駆け込む。後方で誰かが叫んでいる。「止まれ」とか「追え」とか、何かその手の言葉だ。
 ザッ、ザッ、ザッ、
 足元で広葉樹の葉が音をたてる。
 林の地面はよく乾いていて、走るのに支障はない。
 外から見た印象よりも木々はまばらだ。その間を走り抜けるのはそれほど難しくない。しかし逆に言えば、追跡側からも追いやすいということ――
 
 ジュッ……
 
 白光が閃き、近くの地面をえぐった。
 瞬時に炭化した木の葉の粉末が舞い上がる。焦げた臭いが鼻をつく。
「おいおい、撃ってきたぞ。容赦ねえな」
「警告射撃。わざと外してる」
「おいこっちだ。左に行く」
「え? だけどそれだと崖に出ちゃうぞ?」
「右は斜面がキツすぎて無理。行くぞ、ほら」
 二人が左へ進路を変えたその瞬間、
 ジュッ…… ジュッ……
 二撃目、三撃目のEショットが森の地面を叩く。
「参ったな……こんがりバーベキューになっちまうぜ」
「冗談言ってる余裕ある?」
「まだ何とかな」
「投降すべきじゃない?」
「こらおまえ、あきらめが早すぎるぞ」
「ガドはあきらめが悪すぎる」


 ガドが急停止した。
 その背にぶつかってオリリアも急停止。

 ザン、ザン……
 ザン、ザン……
 
 そこで陸は終わり。
 二人は断崖のふちに立っている。
 足のずっと下で白い波頭がしぶきを上げている。海面までの距離、30コルメ以上。ほとんど垂直に海に落ちこむ岩の壁。
「やれやれ。鬼ごっこは終わりか」
 ガドが自虐的に笑った。この場面になっても、意外に冷静だ。遮光グラスに指をかけ、クールに崖下の海を見ている。
――へえ、意外に勇気がある。
 オリリアはガドを再評価。自己抑制力と状況判断能力は民間人男性の平均を大きく上回る。思いがけない一面だ。もっともっと臆病でダメな男かと思っていたけど。
「投降しよう」
 はるか下の海面を見ながら、オリリアが提案する。
「あたしを引き渡せ。いま投降すれば、そんなに悪いことにはならない」
「? 何だと?」
「あたしは予定通り廃棄になる。ガドは拘束されるだろう。だけど今の刑法じゃ、最長でも禁固八年。命までは取られない」
「おい。何を言ってる?」
「前科なしのケースでは、かなりの確率で減刑措置が期待できる。今回のケースでは、おそらく12から36カ月の拘束矯正期間。それが解ければ、そのあとまた自由。監視つきの自由ではあるけど、でもまあ、自由だ。ガド、まさか前科とかないよね?」
「おいこら。意味わかんねーことばかりぐだぐだ言ってんじゃねー」
「現実的オプションを提案してるんだ、あたしは」
「自分が死ぬ前提のオプションを軽々しく提案すんな。それはオプションですらない。お前が廃棄になった時点で俺の負けだ」
「勝ち負けは関係ない。ガドさえ死ななければ、あたしは別に――」
「……本気で殴るぜ?」
「あたしも本気で言ってるんだぞ?」
 木々の向こうに、白い追跡者が見えた。
 三人、四人……
 まっすぐこちらに向かってくる。
そのうち二人はショルダーハングのEライフルを構えている。
いつ撃ってきても不思議はない。
「高さは?」
「え?」
「高さだ。どれくらいある?」
「……ここから海面まで36か7」
「深さは?」
「ふかさ?」
「水深」
「たぶん8から16の間だと思うけど……」
「飛ぶぞ」
「え?」
「四つ数える。ゼロカウントで飛ぶ。遅れるなよ」
「え? え?」
 オリリアは一瞬パニックに陥る。思考ニュートが規定以上の熱を出し、カロリーフォームが過熱気味に全身をかけめぐる。
「でもだけどそれ、想定外の行動オプションだぞ。おいガドってば、」
「三、」
「でもだって、97パーセントの確率でムリだ。高すぎる」
「おい、手を出せ」
「え? 手? どうするの?」
「しっかり握れ。二人で飛ぶ。……ゼロだ」
 ガドはすでに地面を蹴っていた。
 重力がふたりをとらえる。
 ふたりの体は重なりあうひとつの物体となり、白く煌めく海面へ、ほとんど一直線に吸いこまれていく。


     ☆ ☆


「……信じがたい行動だ」
 追跡班のチーフが、崖上から海面を凝視する。
「潜ったか?」
「わかりません」
「おい、なにぼんやりしてる? 周辺地形は読んだのか?」
「あ、はい。ここから21500ほど北に移動した地点で、断崖面の傾斜角は50を割ります。その地点であれば、なんとか我々も降りられるかと」
「20000? 遠すぎる。しかも斜角50か」
「今すぐ船を呼ぶべきだな」
「しかし、それはそれで時間がかかりますよ」
「とは言ったって、我々が崖を降りてどうする? その時点で射程外なら? 泳いで追うのか? できるかお前?」
「いえ、それは……」
「奴らにしたって、そんな距離を稼げるはずがない。水温も低い。遠泳は不可能だ。いいから船を手配。ひとりはここから海面監視を継続しろ。フォルセティで待機中のBチームには離陸して海上を哨戒するように言え」
「はっ」
「二名は左右に分かれて2000ヘクス程度移動、それぞれビューポイントを確保して海面を監視しろ。ライフル射程は最大値に設定。自分は後続隊とともに海上から……おい、あれは何だ?」
「は?」
「あ、ええっ?」
 警備官たちが、いっせいに視線を空にシフトする。

 ウゥン、ウゥン、ウゥン……

 数百以上のブースタ音が、ひとつの低い音波となって警備官の位置まで届く。
そこに立つ全員が、まだ事態を把握できていない。
 機影。
 最初に確認できただけでも40。
 さらに後ろから、続々と来ている。
「……あのシェイプ、我が国のじゃないな?」
「ビョーネⅣ…… いや、Ⅴか?」
「どうやって海上のアラームポイントをくぐった? 海軍は何してる?」
「信じられません……」
「追跡チームからショウズ支社へ緊急通報。そちら、モニターできてますか?」
「あ、はい、そうです。敵編隊、ショウズ市方向に向けて東進中。目視にて、新式のビョーネと機種推定。百機以上は来ている! あるいは百五十超――」
「おい、本部指令から指示が来た!」「なんて言ってる?」
「『所属機に搭乗。待機せよ』」
「なんだそれは? 搭乗?」「ことによったら、迎撃に出ろと言われるのかもしれんな」
「フォルセティで? しかし、あの装備ではビョーネ相手じゃ無理ですよ!」
「おい、もういいから走れ。戻るんだ!」
「え、しかし、監視は? さきほどの指示は?」「それはいったんキャンセルだ」「しかしそれでは――」「いいから指示に従え。優先順位の問題だ」「急げ。撤収! ひとまずフォルセティへ! そこで本部の指示を待つ」



Chapter 10

「腕は大丈夫か?」
 ガドが、波間から首だけ出して声を出す。
 潜水で2分以上も沖に進んで、ようやく浮上したところだ。
 落下時の衝撃は予想よりも小さかった。水深は予想より深く、海底に打ち付けられてダメージを受けることもなかった。
 相当な幸運。
そう言っても良いだろう。少なくとも、ここまでのところは。
「あたしは大丈夫。カロリー残量もまだまだ。ガドこそ大丈夫?」
「水が冷たくて……くはっ、いかんな」
「63。人間には向かない水温だ」
「あと二十分かそこら、ぶはっ、もうしばらく距離を……かせいでから、上陸しよう。ぶはっ……ぶっ……しかし、あれだな、ずいぶんと、ぶはっ……騒がしい朝だ」
 さきほどから爆音をたてて上空を飛行していく機影。
 その多くはビョーネⅤ。そこに新鋭機ウルドが少数混じっている。
 総計161機。
越境し、ここまで到達してきたという事実にオリリアは驚いた。
 しかし驚きは他にもある。
目視で確認した限り、ほぼすべての機体が対地戦用タイプ。
 つまり彼らは、地上の目標を叩きにきたのだ。
――クレ空爆への報復ってわけか。
 大打撃を蒙ったあの夜の復讐戦として、今度はこちらの国内拠点を叩きにきたのか。しかも夜明けをついての昼間爆撃。150を越える新鋭機の編成。そのすべてが高精度誘導弾を投げ落としていくならば、諸島国の都市や工場群は相当なダメージを受けるだろう。
 攻撃目標はショウズ市?
 あるいは、ここからさらに海を渡った首都圏?
 先を泳ぐガドの頭からフォーカスを外さずに、オリリアは高速思考を続ける。
 しかしまさか。
 まさかここまで本格的な戦闘の応酬に発展するとは。
 今から十日前の時点では、今朝のこの事態は誰も想像していなかった。
 戦争はいつも、はるか西域の公海上で行われていた。
 戦争はあくまでビジネス。戦争はルーチン。
 それは単純な日常業務だった。それは仕事だった。
 その中で壊れるのは、ロボットが操る戦闘兵器のみ。
 そうだったはずだ。
 いっぽう人間は常に快適な都市に住み、
 はるか海上で煌めく戦火をときおり遠目に見ながら、
 「昨夜の戦闘は綺麗だったね」などと笑って囁きあう……
 それが戦争のはずだった。
 そう、それこそがこの時代の戦争のはずで――
 
 けれども今、そのような神話は、
 今まさに、
 それはもう、急速に過去の話になりつつある。
 戦争は今、ふたたび人間を捉えた。
 敵の攻撃機はやすやすと越境して国の中枢を脅かし、
 間もなく人間の町が焼かれるだろう。
「ショウズ市南郊。工業団地」
「あ?」
「ターゲット。一部はすでにアタックモードに入ってる」
「そうか、お前も、……」
 高波にあおられて、一瞬ガドの頭が水の下に消えた。
「ぶはっ。あれだ、おまえもパイロットの……端くれってわけだ……」
「『端くれ』じゃない。まさにパイロット。ビョーネとは何度も…… 何度も戦って……だけどこうして間近で見ると、なんだか――」
 水の上に頭を出し、オリリアは次々と上空を滑っていく銀色の飛行体を眩しそうに見上げた。
「……続きは?」
「え?」
「間近で見ると、何だ?」
「なんだか――なつかしい旧友にでも再会した気分」
「ふははっ。とんでもなく危険な旧友だな、そいつは」
 ガドが波間で笑い声をたてた。
「しかしあれだな」
「え?」
「……も危ないかも、だな」
「え? 何?」
「ドームも、ぷはっ、あぶないかもって……言ったんだ」
 ガドは少しつらそうに両腕で水を掻きわける。
 さっきより、泳ぐ速度が落ちてきている。
 この水温でこの波。無理もない、とオリリアは分析する。
 このあと十五分から二十分程度なら問題ないが、それより長くこの状況が続くなら、人間の運動機能は極端に低下し、精神的にも厳しい状態に入る。ほとんどの人間が運動機能を喪失。そこから溺死に至るまでの距離は非常に短い。
 
 ズワッ! 
 
 そのとき、いきなり「それ」がやってきた。
 一波、二波、三波……
「ガド!」
 高さと衝撃をあわせもつ短周波。典型的な高圧スクリュー波だ。
 いまさっきまで波間に見えていたガドの頭が、見えない。
「ガド!」
 六秒。
 十二秒。
 まだ見えない。
 十八秒。二十四。二十八、二十九…
「どこだ? ガド?」
 オリリアは周囲360度すべてにフォーカスを散らせた。
 視界に飛び込んできたのは、大型の、高速……
「戦闘…艇?」
 しかもそれは一隻ではない。
 三、四、五、 
 全部で六隻だ。
 距離はまだ遠い。かなりの沖合。
 まず最初、二人の捕捉にやってきた追跡船艇と推定。
 しかし直後に、オリリアの思考ニュートはその可能性を否定した。
 どう見ても戦争用の船だ、あれは。
 第二級デストロイヤ。
 海上捜索用の軽量船艇とはスケールが違う。
 主力の船上装備は、鋭角に空に向いた「バードキラー」。
 シム・エレクトロ社の提供する最新の対空ユニット。
――あれで敵編隊を叩くつもり?
 おそらくは、ラマルデ海軍基地から出撃してきたのだろう。船はどれもフルスピード。複数の高機動スクリューが巻き上げる高圧波が四方の海に拡散していく。
「ガド!」
 逆巻く水流の中、オリリアは探す。
 探す。
 探す。
 でも見えない。
 見えない。
 さらに二分が経過。
 まだ見えない。
 三分。
「ガド!」
 一本の腕が、見えた。
 距離、2660ヘクス。
 短時間にかなりの距離を流されたらしい。
 オリリアは手足のモーションを最大出力、
 できる限り直線的に、その一点を目指して泳動する。
 波の壁に阻まれ、何度も目標を見失いかける。
 機能停止した左腕ではバランスがうまくとれない。
 不本意に反転、
 そのたびに姿勢を再修正。
 でもまた今、視界に捉えた。
 腕。ガドの腕。
 そこからフォーカスを外さない。
 外してはいけない。
 今ここで見失えば、
 もう、
 もう二度と見えないかもしれない。
――しかし妙だ。なにあれ、あの動き? 
 とても不自然だ。
 腕は波に揺られ、あおられ、左右に乱雑に動いて。
――意識がない? そうなのか?
 オリリアは出力最大を強固に維持する。
 ボディの前方を遮る水の層と戦う。
 ひたすらそれを掻き分ける。掻き切る。
 大量の気泡が視界を遮る。
 水流はオリリアに逆らって破壊的にうずまく。
 姿勢と方向を維持して進むことが困難だ。
 何度も反転してしまう。
 しかしまた復帰する。
 反転。復帰。反転。復帰。
 しかしまた反転……
 際限ないリピート。
 とても困難で、
 困難、で、
 で、
 それでもようやく、
 80ヘクス。
 あと42。
 もう少しだ。
 19―― 
「ガド?」
 呼んでみる。しかし反応はない。
「しっかりしろ、ガド!」
 オリリアは自分の右腕でガドの顎の下をかかえあげ、
彼の頭部を、かろうじて水面上に浮上させた。
「おい、しっかりしろ。ガド。死んじゃダメだ。こんな簡単に死んだりなんて、ダメ……  ダメだってばガド! おい!……ガ……」


     ☆ ☆


「やれやれ、とんでもないことになっちまったな」
 
 トポリ氏はドームの前庭に立ち、空を仰ぐ。
 一機また一機、ショウズ市街に向けて滑っていく銀色の機影。
 逆方向からは最初の爆撃行を終えた編隊が回帰、ふたたびドームの上空に到達、旋回行動を繰り返している。
「やれやれ。二度目の爆撃行か。なるほど。弾倉バルクをすべて吐き出すまで、ここから帰るつもりはないと。そういうわけか――」
 丘の麓のショウズ市は、炎と煙に包まれている。最も激しく燃えているのは、南東郊外、アルディア工業団地のあたり。黒煙の中に、時おり真っ赤な炎の舌が見える。
 ズン…… ズン……、
 大気を震わす炸裂音が――

「とぽりさん。おりりあ、いません、てす」

「ああ?」
 振り返ると、そこにテスミンが立っている。
「おりりあ、いませんてす」
「ああ。それはもう知っとる」
「おりりあ、とこてすか?」
「さあな。どっかに行っちまった。ガドも一緒だろう」
「どっか、いっちまった……」
「それより見てみろ、テスミン」
「てすみん、なに、みます?」
「町だ。どこも燃えてるだろう?」
「もえて、いる?」
「戦争だ」
「せんそう?」
「そうだ。戦争だ。見ろ。壊すのは本当に簡単だな。吹き飛ばし、焼き払い、そこにある町をゼロクリアする。本当に簡単だ」
「もえて、いる……」
「ま、焼くのは簡単だがな。またあれをゼロから建築するってなれば、それはまたとんでもない時間と手間と、費用と――」
「とぽりさん、あすし、なおすひと、てす?」
「あ? 何? おまえさん、いま何て――」
 トポリ氏が言いかけたとき、急にあたりが暗くなる。
 敵機の影が太陽を遮り、二人のすぐ上を通過した。
「見えたかテスミン。あれがビョーネVだ。Ⅳに比べると機体がスマートで主翼も短い。わしも実物を見るのはこれが初めてだがな。前から一度見たいとは思っていた。だがまさかまさか、ここまで直接見せにきてくれるとは思わんかったよ。まったくもって驚きの航空ショーだな」
 空を見たまま、トポリ氏はクックッと喉を鳴らしてひとりで笑った。
「知っとるか? あれを飛ばしとるのも、お前さんと同じロボットだ」
「ろぼっと……」
「おまえさんみたいに無害なものもいるかと思えば、こうやって町を焼いちまう輩もいる。ま、人生色々、ロボットも色々だ」
「……なぜまちを、こわします?」
「なぜ壊す、か。いい質問だ。なぜだろうな?」
 トポリ氏は灰色の顎髭に片手を当てる。
「……おそらくあいつらにとっちゃ、今のあれが仕事なわけだ。特に何かこの町に恨みがあって焼いとるわけじゃない。飛べ、焼け、壊せ。人間にそう言われ、それを真面目に実行しとる。純粋なんだな、あざとい人間よりもはるかにはるかに。だが時には、その透き通るほどの純粋さが、こうやって町を壊す。人間が直接やるより、はるかに精緻に精密に爆撃行を完遂してしまう。ま、皮肉と言えば皮肉な話だ。や、すまんな。こういうのは、おまえさんにとってはたいして面白くもない話だったかな?」
 トポリ氏は軽く左手をのばし、少女の頭を揺すった。
「いいかテスミン。ともかくおまえさんは、ここからよーく見とけ」
「はい。てすみん、よく、みます」
「そうだ。見ろ。そして記憶しろ。メモリに焼き付けろ。今ここにある、リアルな音と光を。で、いつかどこかで機会があれば、それをきっちり伝えろ」
「つたえる、だれに?」
「誰でもかまわん。いつかそこにいる誰かに、な。だからしっかり見ておけ。ひとつの確かな事実として。いまここにある全部を」
 ウゥン、ウゥン……、
 新たに海向こうからやってきたビョーネ編隊が、ドームの上空でゆるやかに軌道を右方向に変えた。数にして十二機から十三機。銀色に輝く機影。それはまるで秋の空に散らばった宝石のようだ。場違いに美しい。その美しい空の宝石が、火と煙で塞がれた混乱の町に、いままた、あらたな絶望を振り撒きに滑り降りてゆく。
「せん、そう……」


 




 ザン…… 
 ザン……
 
 単調な波の響きが聴覚センサを刺激する。
 太陽は岬の上から海を白く照らす。
 空にはもはや機影はない。明度の髙い青空が視界を埋める。
 自動修復モードから復帰したばかりで、思考ニュートの動き出しが鈍い。
 姿勢を変えようと意図し、
 なぜか、失敗。
 首・肩・腰のジョイントの動きがひどく悪い。
 もう一度、システム状態を読みに行く。
 いくつもの異常値が出ている。
 最も深刻なのは、カロリーフォーム残量。
 身体を少し動かすだけなら十分な数値だが、激しい運動の長期継続は困難なレベル。さっき海につかっている間に、左腕の破損個所から大量のカロリーフォームが漏れ出たようだ。当初の想定より、はるかに多く。
「ガド、」
 オリリアは視野のフォーカスを左に移動させる。
 そこに彼の姿を認める。
 浪打ち際。小石に覆われた緩斜面。
「ガド、」
 ゆっくりとそこまで這い進む。
 かろうじて自由のきく右腕で、
 ガドの頬、
 ようやく触れた。
――体温? 
 低いが、かろうじて正常の範囲。
――心拍? 
 微弱ながらも確認できる。
――呼吸?
 ……………
 確認できない!
 今現在、彼の肺は機能していない。
「……死ぬのか? ガド?」 
 ガドの耳のそばでささやいた。
 メモリの奥のメディカル・アーカイブに接続する。
 そこにある応急医療マニュアルをまとめて拾い出す。
 内容をスピード検索、
 いちばんオーソドックスなマウス・トゥ・マウス心配蘇生法を選択。
 心音が確認できる今回のケースでは、胸部圧迫の動作は省いてもよいはずだ。
 地面に両膝をつく。
 スタート。
 すみやかに措置を開始する。
 三十秒。
 一分。
 経口の強制吸気アクションのみ、黙々と反復する。
 唇を経由して強制的に彼の肺に押し込まれた空気は、肺のもつ弾力によって少しずつ押し戻され、ふたたび口から排出される。しかしまだ、自発的な再吸入は起こらない。
 二分が経過。
 まだ反応なし。
 まもなく二分三十秒。
 オリリアの思考ニュートは、徐々に暗い展望に覆われていく。
――だめなのか?
  ほんとに死ぬのか? 
  ほんとにこんなので死ぬ?
 
 三分。
 そして三分三十秒――  
 
 がふっ!
 
 大きな呼吸音とともに口から大量の海水が吐き出され、
 ガドの体が引きつけを起こしたように緊張する。
 まもなくそれは緩む。
 とても荒い、けれどもそれなりに安定した自発呼吸を確認。
 彼のトレードマークだった射光グラスはとっくに波にさらわれ、
 そのままの素顔のガドが、
 固く目を閉じ、陸と海の狭間で静かに眠り続ける。
――よし。
 オリリアの口元に、はじめて安堵の笑みが浮かんだ。
 ひとまず呼吸と心拍は問題なさそうだ。悪くない。
 さて、それでは次の問題。
 体温。
 この数分だけでも、ガドの体温は顕著な低下傾向を見せている
 低い水温の中を無理に泳いできたのだ。吹きっさらしの外気の下、濡れた衣服のままで横たわる彼の身体。この状態が続けば、深刻な低体温症が進行する。もうすでにそれは始まっている。このまま放置すればかなり高い死亡リスクが予想されるはずで――
「まだ死ぬなよ、ガド。死ぬな」
 そう言いながらオリリアは、ガドの隣に自分のボディを横たえた。
 まだかろうじて機能する右の腕を、彼の胸にからめる。
 その腕を使って、できるかぎり緊密に、彼の体によりそう。
 自分の頬を、彼の頬にぴたりと押しつける。
 その姿勢のまま、ボディ背面にあるカロリーチェンバの出力ノズル設定を、一気に上まで押し上げる。
 最大値へ。
 フォームヒーターの設定温度も取りうる限りの最大値に設定。
 オリリアの体内で急速に温度を上げるカロリーフォーム。
 たちまち発動するヒートアラーム。
 アラームを受けたフィードバック機構が、出力ノズルの閉鎖を指示した。
 オリリアはしかし、
 しかし、
 即座に閉鎖信号をカットアウト。ノズルの再解放コマンドを発信する。
 そのコマンドと並行して、次回以降、ノズルの閉鎖信号そのものがノズルの再解放トリガーとして働くよう、システムプログラムを意図的に例外適応。もっと簡単に言えば、プログラム自体を改竄、上書きした。
 加熱されすぎたフォームがオリリアの全身を駆けめぐる。ボディの各所からやかましいくらいのヒートアラームが同時に上がってくる。
 オリリアはそのアラームすべてに、「非感知」の設定変更を加えた。
 そうやって各セクションから異常放出されてくる内部熱を、
 体表のスキンを通し、密着したガドの体に伝導する。
 伝導。
 伝導する。
 伝導するのだ。
 熱を伝えるのだ、彼に。
「死ぬな」
 オリリアはガドの耳に直接囁く。
「起きろガド。目を覚ませ。死ぬな。そんなのあたしが許可しないぞ。起きろ。起きろ。ほら起きろってば! あたしがもってる熱を、全部あんたにやる。全部やるから。だから死ぬな。だから絶対――」
 カロリーフォームの発熱が、いま、思考ニュート内での許容上限を超えた。
 …………!!
 一瞬、オリリアのボディが痙攣した。
 ニュートに組み込まれた自律保守機構が、ボティ全体に強制シャットダウン信号を発令しようと試みたのだ。
 オリリアの自我は、その動きを即座に察知する。
 彼女の意志とは関わりなく発信されてくるシャットダウン信号、
 すぐにそれをキャンセル。
 キャンセル。キャンセル。
 キャンセルだ、そんなもの!
 今ここでスリープに移行してどうする!
 そんなバカな話、あるものか!
「目を覚ませガド。死ぬな!」

・・・・システムエラー。
・・・・不正な命令信号が感知されました。これより再起動を
「フォーム温度は気にするな。規定の範囲だ。再起動はキャンセルする」
・・・・システムエラー。
・・・・十四か所の体内センサで異常値を検出。
・・・・不正な命令信号が感知されました。これより再起動を行います
「体内温度は適正だ。再起動は必要ない」
・・・・システムエラー。
・・・・いますぐ再起動を開始し、エラーコマンドの発生原因を隔離修復します
「システム正常。再起動はしない。このまま放熱を継続」
・・・・システムエラー。すぐに再起動を
「システムは正常だと言っているっ。わからないのか? これはあたしの命令だっ」
・・・・システムエラー
「放熱を継続。カロリーが尽きるところまで、現在のコマンドを継続」
・・・・システム――
「うるさい! もう言わなくていい。あたしの言うことだけ黙ってきいてなっ。ん、まずいな。ちょっと温度を上げ過ぎたか。これだと人間の皮膚が熱傷を起こす。すみやかにリスク値域以下に最適温度を再定義せよ」
・・・・適温の・・・値域・・・定義完・・・了
「いいね。このままの温度を維持。継続時間は無制限」
・・・・継続時・・・間、無制限に・・・設定・・・・
「悪くないぞ悪くないぞっ」
「現在のコマンドを継続せよ。継続時間は無制限」
「オリリアの名において命令する。これより先、この命令系統を経由しないコマンドは、すべて無効と定義。これがあたしの命令だ。これがあたしだ。オリリア・ヌ・ウルルーラ。その全存在をかけて、これが唯一の命令。これが唯一の意志となる」
「放熱を継続」
「それを阻もうとするコマンドは、すべてイレギュラーとして遮断せよ。すべて……」
「すべて……」
「継続………………」
「すべて…………」




☆ Epilogue ☆
 

 ン……
 ザン……
 
 ザン……
 ザ、ザン……

 ザン……
 ザン……
 
 遠い波の響きにのせて、俺はひとつの夢を見ていた。
 いつもの夢だ。
 あまり何度も見過ぎるから、もういい加減、細部まで全部覚えてしまった。
 そう。いつものあの夢だ。
 
 そこにあるのは姉の姿だ。
 もうとっくに結婚して別の町で暮らす姉貴。
 夢の中で俺はまだ十三のガキで、姉貴は二十を超えたばかりだ。
 季節は冬だ。
 大雪が降った次の朝。
 俺は学校をさぼり、近所の悪友と固い雪玉をぶつけあって戦争ゲームに興じている。
 そのゲームの途中、
 速度を落とさず飛び出してきた不注意なリモと、
 速度を落とさず飛び出していった不注意な俺と。
 正面からまともに接触。
 世界は暗転。そのあと明転。
 黒と白が飛び交って、そのあとすべてが消えた。
 
 気がつくと俺はベッドで寝ている。
 寝ている俺を外から見ている、第三者目線の俺。
 室内は不自然なほど白い。
 白の床、白の壁、白の天井。
 ベッドの周囲にはよくわからない計器類
 ごちゃごちゃ伸びた配線のいくつかが、俺のアタマや腕、胸や足なんぞに、
ベタベタ貼ったり刺したりしてある。
 どうやらそこは救急医療センターのようだ。
 ああ、なるほど。
 どうやら俺は、半分死にかけてここにいるらしい。

 白いドアが外に開いた。
 
 誰かが部屋に入ってくる。
 目に痛いような赤のコートを着ている。それに長い赤のマフラー。
 ひどい趣味だ。ひどい髪形。けばけばしいウィンターコート。
 どこのバカかと思ったら、それは姉貴だ。
 両親のいない俺の家で、保護者と言えば姉貴のことだった。
 その唯一の保護者は、
 まっすぐ俺のベッドまで歩いてくると、
 そこでしばらく、立っていた。
 冬の光を思わせる、白々した人工照明の下。
 姉貴はしばらくそこに立っていた。
 荒れた肌。濃すぎる化粧。長い爪。場違いに赤いマニュキュア。
 姉貴はすさんだ眼をしてる。
 それはそう、
 いつもの投げやりな姉貴の目だ。
 あるいは追い詰められ、すべてを諦めたケモノのような。
 どこにも行き場のない、ひどく平板なふたつの目。
 その目がじっと俺を見ていた。
 それから何を思ったのか、
 姉貴がいきなりコートを脱いだ。
 脱いで、その、赤一色の本気で悪趣味なそいつを、
 なんのつもりだそれは。
 よせ。やめろ。何するんだ、おいよせよ!

 ふわりと、
 俺の上にかけた。

 眠り続ける俺の体の上。
 病院が用意した量産品の白い保温クロスの上に、
 必要以上に重たい派手な安物のコートを、
 ふわりと、俺にかぶせた。
 
 ったく、なんのつもりだ姉貴。
 それはそう、あとから入ってきた医師が指摘した通り、
 それはまったく無駄な行為だ。
 不合理で、不必要で。何の助けにもならない。
 それで俺が目覚めるわけでも、
 昏睡状態の俺の体に、何か変化を与えるわけでもない。
 不合理。不要。不必要。まったくの無駄そのもの。
 そう、それはそう。それはまったくその通り。
 
 しかし、

 しかし俺はようやく、なんとなくだが、
 俺は夢を見ながら理解しはじめる。
 そうか。
 なるほどな。
 つまりそれ以外には、なかったんだ。
 もうそこでその時点では、
 どこかの誰かに祈る以外で、
 技術ある医者でもなんでもない、
 単なる二十のバカ女でしかない無力な姉貴が俺にできること。
 そんなものは、他に何一つ、
 何一つ、そこになかったのだ。
 だから。
 自分の服を、おれにかぶせる。死にかけの俺にかけてやる。
 そう。そうだけのことだ。
 それはだから、俺という大バカ者のサイテーな弟、
 世界で一番のバカ姉貴の、
 そのたったひとりの身内に捧げる、
 それは姉貴からの、唯一の、そのとき精一杯の何かで――

 ザン……
 ザン……
 
 時刻はどれくらいだ?
 わからない。
 光の色からすると、夕方が近いのかもしれない。
 体を起こそうとする。
 が、
 できない。
 手も足も、まるで石のようだ。
 かろうじて首だけを傾ける。
 やっとのことで、俺は俺の右側を見た。
 ………?
「オリリア?」
 そこにはオリリアが、
 片方の腕を俺の胸に巻きつけ、
「オリリア?」
 反応がない。 
「オリリア?」
 もう一度呼ぶ。しかしやはり無反応。
 全身の痛みに逆らって、
 くそっ、う、キツいなこれ。
 しかしなんとか、
 なんとか無理やり、上体をひねり起こす。
 ぱたり、と軽い音をたて、
 俺の胸にかかっていた細い腕が、濡れた石の上に落ちた。
 俺はオリリアの顔を上からのぞきこむ。
 オリリアは目を閉じている。
 なんだ、眠っているのか。
 いや、あるいは――
「おい、まさか……」
 俺はオリリアの右の肩を軽く持ち上げ、首の後ろにある起動ランプを注視する。 
 それはごくごく小さな円形のランプで、
 起きていれば緑、寝ていれば黄色。
 完全に機能停止していれば無色。
 透明な午後の日差しの下、そこにあるはずの小さな光点は、
 もちろん言うまでもなく緑ではなく、
 そしてそれは、どうやらそのほかの色でもなく、
 そこには、もう、いかなる色も、どのような色も、
 もうどのような――

「…起き…てる……よ………せつ…でん……モード……」

「おいこら、驚かせるんじゃねえ」
 俺は大きく息を吐いた。やれやれ。まったくまったく――
「なんだ、その弱い反応は? カロリーが残ってないのか?」
「そ……う…… チャージ……が……ひつ…よう……」
「そうか。まあそうだろうな。朝から、とんでもなくカロリーを食うことばかりしてきた。そりゃまあそうだろう」
 俺はひとり納得して呟いた。
 それからひとつ、今度は息を吸った。
 それからまた吐いた。吸った。吐いた。
 それで少しは気分が落ち着いた。
 俺はまだ生きてる。そしてこいつも、どうやらまだ生きてる。
 俺はそこで目を転じ、背後の海を一望した。
 空には薄い雲がかかっている。しかし空の青さを完全に損なうほどの厚みはない。
 その雲を通して太陽はよわよわしく海面を照らし、
 そこでは光が、弱いなりにも、ちらちら綺麗に踊っている。
 だが、
 はるか遠方。
 かすんで見える対岸の陸影の上。
 そこだけは、まるで夜が訪れたように暗い。
 あそこはたぶん、ショウズ市のあたりだが……
――そうか。煙……
 なるほど、そういうことか。
 あそこは攻撃をまともに受けたのだ。
 昼間爆撃。
 そんなもの、もうこの世界では何十年もなかったことだが。
 もはやあり得ない、あり得ないと言われてきた、過ぎし時代の野蛮な戦争。
 まったく笑わせる。なにがあり得ないだ。
 実際それが起こってみると、何ということはない。
 そんなものは、ごく普通にありうる現実の可能性だ。
 いま、あらためてよくわかる。
 俺たちは何に誤魔化されていたのだ。
 何に幻を見ていたのだ。
 これが現実だ。いつどこにでも起こりうる単純な現実だ。
 俺たちは何を夢見ていたのだ。
 しかしもちろん、
 当然の帰結として、いつかは夢は醒める。
 そのいつかが、今だ。
 今あそこに、海をへだてたひとつの町に。
 あそこに現実の破壊がある。
 破壊。戦争。
 そう、ただそれだけのことだ。
 そこには何らの不思議も、ひと粒の驚きもない。
 日が昇ってまた沈むのと同じレベルの、単純な事実がそこにあるだけで――
 
 もう空爆は終了したのだろうか?
 敵編隊は公海上に離脱したのか?
 あそこで何人死んだ? 
 ドームは無事か? テスミンやトポリのおっさんは?
 瞬時に色々な疑問が交錯する。
 ぐらり。
 一瞬だけ俺は、眩暈に似た感覚に襲われる。
 だがそれもほんの一瞬のことだ。
 俺はすぐにいつもの自分を取り戻す。
 まあいい。考えても仕方がない。
 どのみち、後でわかることだ。
 今それを考える必要はない。
 だいいち考えても知りようがない。
 そんなのは全部あとだ、あと。

 問題は今だ。

 今。
 今の俺たちにまず必要なもの。
 考えろ。
 それは何だ?
 答えは瞬時に落ちてくる。 

「待ってろ、ここで」

 俺はその場で立ち上がる。
 軽い眩暈を覚えた。が、それもすぐに、遠い波のように引いていく。
――カロリー。
 そうだ。それに尽きる。
 弱り切った自分には、とびきり熱くて苦いコーヒーを一杯。
 隣で眠る女には、とびきり新鮮なカロリーリキッドを一缶。
 調達する必要がある。それも大至急。

 ギュッ。
 
 足もとで、濡れた小石がかすかに音をたてた。
 冷たく固くリアルなその感触。
 そこで俺は初めて自覚する。
 なんだ。自分は靴を履いていないのか。
 ああそうか。泳ぐ途中で、自分から脱いだのだ。
 こうやってあらためて見れば、ズボンもシャツも、まだ少し湿っている。
 やれやれ。こいつらもどこかで乾かさなきゃな。
 まずもって寒い。体にまとわりついて気持ち悪いったら―― 

 ………? 

 違和感。
 「まだ少し」湿っている、だと?
 なぜ「少し」なんだ?
 なぜ?
 さっきのあれほどの遠泳のあとで? 
 この今の、申し訳程度の太陽の下で?
 
「……あたためてくれてた、のか?」
 
 俺は足もとで眠る女をまっすぐに見た。
 女は両目を閉じたままだ。反応らしい反応はない。
 が、
 俺はそれを見た。
 端正な女の口元が、かすかな笑みをつくったのを。
 
 俺はその場に膝をつく。
 あらためて近くから女の顔を眺める。
 あれだけの修羅場を抜けたあとでも、女の端正な顔だちは少しも崩れていない。
 いつものこいつだ。
 俺の好きな真っ直ぐな眉。
 形のいい大きな目。今それは閉じられているが。
 小さく尖った鼻。美人顔とは言えないが、それでもそれは悪くない。
 そいつの口元は、今もまだかすかに、微笑の跡を残し――
「オリリア」
「…………」
「オリリア」
「……な…に…?」
「おまえ、」
「……あた…し…?」
「…………」
「……ねえ……そ…の…… その続き……は?」
 俺は黙っている。
 俺は黙ったまま、女の上に身をかがめ、
 端正な女の顔、
 そこにある凍えた小さな唇に、
 自分の唇を、静かに重ねた。
 重ねた。
 それから俺は女の肩を抱きよせ、
 もう一度、
 今度はさっきより強く抱き、
 しっかりと抱き、
 しっかりと、
 それが俺の、その女の問いに対する答えで、

――俺、俺は――

 俺は護る。
 護りぬく。
 護りぬくだろう。
 絶対だ。絶対に護る。
 そう、
 今日俺は生まれて初めて、
 何かを護るということ、
 何かを護りたいという言葉の意味。
 俺は今、いまこの瞬間、
 俺はそれを、初めて理解したのかもしれない。



【 オリリア  おわりです。さいごまでありがとうございました!】

しおり