16-1「私に3分で結構です。お話しするお時間を頂けないでしょうか?」
宇宙歴3502年1月17日0638時。
クロウは忙しそうに部屋を先に出たシドと別れ、食堂で朝食を取っていた。
あの2日前の食堂での『一件』以来、クロウは、艦内を取り巻く空気が『変化』した事に気が付いていた。自分が自意識過剰な訳ではない。クロウはあの一件を契機と例えたが、時を同じくして『何か』が変わった。
それが具体的に、何がという説明は、情報を開示されていないクロウには伺い知る事が出来ない。だが、感じるのだ。乗組員全体に広がりつつある『緊張感』のようなものを、だ。
クロウに分かる範囲で言えば、まず、パラサの母であるルート・リッツ中将が指揮する『つくば型2番艦こうべ』が昨日出港した。
本来『つくば』と『けいはんな』に積載される予定の補給物資を優先的に搭載して足早に、である。
その出港を知ったクロウはその軌跡を追ったが、どうやら『こうべ』は火星に向かう訳では無いようだ。むしろ太陽系の外側に向かって舵を取っているように見えた。それを意味する所はまだ分からない。
だが、その事実からも察せるように、事態は刻一刻と着実に動いている。一士官であるクロウのあずかり知らない外側で、確実にだ。
それは、クロウの周りにも確実に影響を及ぼしている。
まず、食堂の食事を取っているクロウの隣にはミツキが居る。それは別に構わない。朝食の時間は自然と一緒になるケースが多々あるので、この広い食堂でも顔見知りと遭遇することはままある事である。
だが、優雅に朝食を取るミツキの隣に、パラサの妹であるエリサが同じく上品に朝食を口にしているのはいったいどういった経緯なのであろうか?
クロウは、性格上二人は衝突するものだと考えていた。
それも、遭遇すれば確実に、エリサはミツキの『餌食』になった筈である。
このエリサという少女が、幼い頃より実家の道場で、その技術を練り上げた次期師範代である、ミツキに敵う道理が無いからである。さらに、ミツキは相手の心を抉りに来る言動を多用する。この幼い少女がそれに抗えたとは到底思えない。
しかも、エリサは更に悪い事に、ミツキと完全に対立する筈の『クロウを巡る恋敵』の筈である。
で、あれば、ミツキはエリサに遭遇し次第、叩き潰した筈なのだ、確実に。
それはもう、火を見るより明らかで、クロウには確実とさえ言いきれた。そうであれば、エリサは今ミツキの隣でのんびりとでも言えるほどに寛げている道理が無いのである。
その確信と事実の食い違いにクロウは一人戸惑っていた。どうすればこの状況が成立するのであろうか、と。
「ミツキ『お姉さま』、食後の御飲み物は紅茶でよろしいでしょうか?」
「ええ、温かい紅茶でお願い。レモンも付けてくれると助かるわ」
しかもこの不自然な程、自然な会話である。クロウはかつて、自身の近くにミツキが居る時に、こんなに和やかにミツキと話す女子など目撃したことが無い。
「クロウ様はコーヒーでよろしいでしょうか? ブラックのホットで」
「ああ、すまない。ついでに貰えるかな?」
さらに、エリサはクロウの好みまで把握しているのである。これは流石に偶然ではあるまい。エリサは恐らくクロウの好みを聞く程にミツキと親密なのだ
「あの子に『何をした』ミツキ。場合によっては僕も許さないぞ」
クロウは意を決して、隣に居る幼馴染に低い声を出す。許さないぞと言った辺りで微かに声が震えたのは許して欲しい。クロウはとてもこの幼馴染が怖い。
「ああ、昨日まで一緒にルウ中尉に
しかも、『あの』ミツキがその変化を褒めろ、と催促さえする気遣いを見せるのである。これは尋常ではない。
クロウは背筋が凍るのを感じた。この艦内漂う緊張感とはもちろん違う類の緊張感である。だが、クロウは感じていた。
――――この女、外堀から確実に埋めて来ている。
と、残る壁はアザレア、トニア、ユキである。
トリックスターのユキが復活した場合、戦局は混乱する事が予想される。
トニアは恐らくクロウ側に付いてくれるはずである。恐らくアザレアも、だがその2名を以てして、ユキとこのミツキを抑えられる気がクロウにはしない。
これはクロウに取って、日常を賭けた戦争である。
何としても生き残らなければ明日をも知れぬ戦争である。
この際、あと数日で戦闘になるかも知れない宙域に旅立つ事など、コレに比べれば些事である。実際、これを乗り越えなければ戦場にさえ立てない。
「お待たせしました、クロウ様、ミツキお姉さま」
言いながら、エリサは音もなくそれぞれの前にコーヒーと紅茶を差し出した。自分の席にもミツキと同じ紅茶を置いて、である。
「ああ、エリサ、さん。昇進したんだって? 頑張ったんだな。おめでとう!」
自身の席に着いたエリサは、クロウのそのセリフを聞いて、キョトンとした顔をクロウに向けて見せた。そのツインテールに縛った金糸の髪を揺らして。
「ふふ、『お姉さま』ですね。ありがとうございますクロウ様、身に余る光栄ですわ。後、今後
「結構よ、クロウ。私とこの子に対する敬意は忘れない事ね」
ミツキは、何事も無かったかのように優雅に紅茶を口に含む。
クロウはコーヒーの入ったそのマグカップを、震える手に取りながら、努めて冷静にそれを口に含む。
何だ、何が起こっている。
クロウの頭の中は今、疑問符で埋め尽くされていた。誰かこの状況を的確に説明してくれる人は居ないだろうか。と。
当然辺りを見回しても、そのような人物はいないのである。
その異様な緊張感に、クロウとミツキとエリサの周りの席だけ、混雑する食堂内でぽっかりと空席が開いていさえした。
「ふ、アナタは本当に鈍いのね。エリサは私と『義姉妹』の契りを交わしたわ」
ますます分からなくなるので、その優美すぎる笑みで見つめるのは止めてほしいとミツキにクロウは言いたい。
ミツキはクロウに取って宇宙人に等しい。長年一緒に居るクロウに取ってさえそれである。それが普通の女子に取ってどの様な存在に映るのか、クロウは生前から知っているつもりだった。
『邪神』か、『魔人』か、『絶対的女王』か、のどれかである。
それが、ミツキのその義姉妹の告白に、照れ臭そうに顔を朱に染めるエリサである。つまり彼女に取ってミツキは姉であるパラサに等しい存在であり、ミツキに取ってエリサは保護対象なのだ。
クロウに取って今の状況よりも、その事実の方が脅威である。この不思議生命体幼馴染であるミツキと、心を通わせる魔法があるのだとしたら是非にエリサに教えて欲しいとも思う。
「さっきからとても失礼な事を考えているようだけれど、今日の私はとても機嫌がいいから許してあげるわクロウ」
くつくつと、目を細めながらミツキが笑う。クロウは顔を青くするしかない。誰か、誰でもいい。この状況から自分を救ってくれないだろうか。
その時である。クロウのリスコンが強制受信モードで着信した。
『クロウ少尉、聞こえますか』
ルウ・アクウ中尉その人である。クロウは図らずも、この状況を作り出した元凶と話す機会を得た。
「聞こえます、ルウ中尉。命令の前に質問を宜しいでしょうか?」
『はい、構いません。急ぎではありませんので』
「ミツキと、エリサに何があったか、聞いて宜しいでしょうか?」
それを聞いたルウはしばし沈黙する。クロウは自身のリスコンを掴み、そのスピーカー越しの声に聞き入った。
『ふう、二人は近くに居るのでしょう? 会って気付きませんか? 彼女らは
それ以上の事態が起こっているのだが、クロウにはそれを説明できる語彙力が無い。隣に居るミツキの機嫌を損なわないでそれを聞ける自信がない。
『質問が以上であれば、要件を達します。クロウ少尉は、ミツキ少尉と共にパイロットスーツを着用して格納庫に出頭する事。以上です』
「う、承りました……」
それを聞いたミツキは、隣でニヤリと笑うのである。救いなどない。
だが、食堂で食器を片しても、食堂を出ても、ついでに航空隊のブリーフィングルームに入ってもエリサはミツキに付いてきていた。正確にはクロウの左腕を、強制的に右腕で組んだミツキの空いた左手と、手を繋いで付いてきた。
曰く、エリサは今日が休日だそうで、自由に出歩けるとの事だ。
それなら若者らしく外出でも楽しんできたら、とクロウは言いかけるが、先日の外出時の大騒ぎを思い出し憚られた。
「エリサ。貴女は着替える必要が無いわ。見送りはここまでで結構よ。せっかくの休みなのだから体を休めなさい」
ブリーフィングルームの女子更衣室の前での、ミツキの労いの言葉である。
「はい。ありがとうございますミツキお姉さま。本当なら近くまでご一緒したかったのですが」
「それはよした方がいいわね。貴女は昨日まで相当に無理をしていたわ。事実、今日は呼ばれていない。そんな貴女を連れまわすのは上官として憚られるわ。わかって頂戴」
そう言いながら、ミツキはエリサの頬をそっと撫ぜた。なんとミツキは慈愛さえ込めてそうして見せるのである。クロウにもあの優しさの百分の一でもいいから分けてほしい。
エリサはようやく頷いて、ミツキに納得して見せた。それを微笑んで確認したミツキが更衣室に消える。
「さて、着替えますか……」
何とはなしにそう言いながら、クロウは男子更衣室のドアに向かいかけて、その腕をエリサに掴まれた。
「お待ちくださいクロウ様。
言われて、クロウはこの目の前の少女と、初めて二人きりで話している事実に気が付いた。
この、家(オーデルリッツの命令)の事情でクロウを追い回していると思われる少女の事を、その実クロウは何も知らないのだ。
これではあまりにも……
「そうか、すまない。不誠実な事をしていた」
クロウはそう思うのだ。
クロウは考える。本来であれば彼女がその髪の毛を結い、常備服を纏った時点で、自分は彼女にその真意を問いただすべきだったのだ。
「いいえ、
14歳の少女とは思えない発言である。クロウは彼女と本気で向かい合うと決めた。
「教えてくれ。君の事を、エリサ」
「はい。クロウ様」
クロウは彼女の手を取って、ブリーフィングルームの椅子へ彼女を座らせ、自分も隣に座った。
「
「ああ、確かパラサ大尉から少し聞いたな。それとインストールされた知識にもある。君のお父さんは『英雄』だったんだろう?」
「ええ、ですが、その父が死んだ後、
言われてクロウは顎に手を当てて、しばし考える。
勿論遥か過去のクロウの時代にリッツ家などというものはない。いや、あったかもしれないが、少なくてもクロウの知るところではない。
だが、インストールされた知識から、目の前のこの少女がとんでもない大金持ちのご令嬢であるという事は分かる。
それはいつもクロウを叱るパラサもそうなのだが、パラサはクロウの中で、既に上司とか、生徒会長とかという括りでインデックスされているため、実感としては薄い。
では、この本来であれば、姉と自らに相続される資産を叔父によって全て奪われてしまった少女がクロウに何を望むのだろうか、と。
「復讐か?」
「いいえ、それは穿ち過ぎですクロウ様。わが父ジグルドは、確かにテロリズムによって死亡しましたが、その相手に恨みの念こそあれど、復讐は望みません。ましてや叔父はアレでも肉親です。財産を奪われこそしましたが、それもまた『リッツ家』です。問題はございません」
ふむ、とクロウは再び考える。では、彼女のこの信念とも言うべき強い意志は何処から湧き出るのであろうかと。
「大丈夫です。当てて下さる必要はありません。そもそも
言いながらエリサはクロウの手を一つ取り、その手を両手で包み込むように握る。
「クロウ様、3つも年下の小娘が、この様な事を申し上げても信じて頂けないかもしれません。ですが、
「君は、家の為に自分の気持ちを偽っている。という訳では無いのだね?」
そのクロウの言葉に、しっかりとエリサは頷く。
「ええ。私自身の『
そこから、彼女は初めてクロウの顔を見た艦長室で、自身の祖父に向かって銃を向けた時からのクロウの印象を語って見せた。
オーデルがパラサによって紹介されたシドに切り掛かった時、自分は動けも声すらも上げられなかった事。
そんな時、自身の姉であるパラサを守りながらオーデルを止めて見せたシドと、オーデルと階級の差がありながら、躊躇なく仲間の為に銃を抜いて見せたクロウに対して強烈な憧れを抱いたという事。
戦闘配備が発令されてからは、自室で震えるしかなかった事。母であるルートにリッツ家の女は強いのだと言われてその恐怖を押し殺した事。
『つくば』がその月面に着陸した時、クロウがまだ交戦中だと聞いて気が気ではなかったという事。
人づてにデックスの1機が大破させられ、パイロットの一人が生死不明であると聞いた時、心臓が張り裂ける程に心配だった事。
その格納庫からの放送で、クロウの声を聴いた時、思わず安心で腰が抜けてしまった事。
その後、入隊する決意を固め、自ら志願して第四世代人類への施術を受けた事。
艦長室でクロウの戦いを映像として見て、クロウ自身が恐怖を押し殺しながら必死で抗い、仲間の為にその身を顧みずに戦っていた事に本当に尊敬したという事。
ミツキと一緒にルウの訓練を受け、くじけそうになる度にミツキに励まされ、その訓練の中で彼女を義理の姉と呼ぶことを誓った事。
事あるごとに、ミツキからクロウの事を語って聞かされ、ますます好きになったのだという事。
歌うように朗々と、彼女は語るのだ。
「わかった。君が僕を好きでいてくれている事は疑わない。そもそもあのミツキが傍に置いているんだ。そんな君を疑いようがない」
「
「君は、人が人を好きになるのに、許可なんかいると思うのか? 僕は君みたいな真っすぐな子は好きだ。恋愛感情はまだ分からないけれど、素直に好感を持つ」
エリサはそれを聞いて「ありがとうございます!」と感謝を述べながらクロウへと抱き着いた。クロウはその華奢な体を片手で抱きしめる。
「僕には本気で向かい合わないといけない人が多すぎる。とても幸せな事だね」
クロウはそう言って彼女の頭をそっと撫ぜると、「じゃあ、また話を聞かせてくれ」と言いながら更衣室に消えた。エリサはそれをクロウの姿が更衣室のドアに完全に消えるまで見送った。