8話 キョウさんの回想シーンです。
「授業、分かりました?」
授業が終わった直後、僕は隣に座る女子生徒に話しかけられた。
彼女は細長い机の上で頬杖を突きながら微笑んでいた。
柔らかな笑顔。肩まで伸びた滑らかなロングヘア。
僕は一瞬にして、彼女に目を奪われた。
「ええ、まあ何とか。えっと、お名前は?」
「吉野サクラです。あなたは?」
「僕は高崎キョウです」
「キョウさん、身長高いんですね。いくつくらいですか?」
サクラは目線を上げて僕を見上げた。
座っていても僕らの身長差は一目瞭然だった。
「185センチですよ」
「何か部活をやってらしたんですか?」
「高校の頃は陸上部でしたよ。サクラさんは?」
「高校はアンサンブル部でしたね。ピアノを弾いてました」
「ピアノですか。イメージ通りですね。サクラさんって音楽が好きそうな感じがしますよ」
「はい。音楽は好きですよ」
「どんな音楽を聴かれるんですか?」
「特にクラシックが好きですね」
「クラシックなら僕もたまに聴きますよ。誰が好きなんですか?」
「ショパンは特に好きですね」
「ショパンの曲で何か弾けるのってあります?」
「ありますよ。ノクターンの二番とか、あと、別れの曲とか」
サクラは天井を見上げながら指折り数えていた。
「いいですね。サクラさんのピアノ、聴いてみたいですよ。今度、聴かせてくださいよ」
「はい。私の演奏なんかで良ければ」
これがサクラとの出会い。
初めて言葉を交わした瞬間だった。
ピアノを聴かせて欲しいという約束は数日後、昼休みの音楽室で実現した。
サクラはグランドピアノの前の椅子に腰掛けて、小首を傾げながら鍵盤を眺めていた。
「何を弾こうかな?」
「何でもいいですよ。好きな曲を弾いてくださいよ」
「じゃあ、これにしようかな」
サクラは前屈みになって鍵盤に両手を置いた。
細い指が鍵盤の上を滑り、静かに旋律を奏でた。
サクラが演奏したのはショパンの別れの曲だった。
美しい冒頭部分から激しい中間部へ。
そして、冒頭と同じ旋律が静かに繰り返された。
サクラは演奏を終えると、体を起こして膝の上で両手を重ねた。
僕は笑顔で惜しみない拍手を捧げた。
「上手ですね」
「この曲は思い出の曲なんですよ」
「どんな思い出ですか?」
「中学の頃にピアノコンクールで賞をもらったんですよ。その時に演奏したのがこの曲だったんです。みんな、おめでとうって言ってくれて。賞をもらったことよりも、そっちの方が嬉しくて。お父さんなんか、自分のことみたいに大喜びしてて。ケーキを買ってきて大騒ぎしてたんですよ。本当に昔から親馬鹿だったんですよ」
「そういえば、サクラさんの家って何人家族ですか?」
「三人ですよ。私と両親と三人です」
サクラは人差し指と中指と薬指を立てた。
「ご兄弟はいないんですね」
「一人娘だからですかね。お父さんが甘いのは。誕生日も毎年、大袈裟に祝ってくれるんですよ」
「サクラさんって、もしかして春生まれですか?」
「そうですよ。春生まれだからサクラって単純ですよね」
「そんなことないですよ。いい名前ですよ。どなたが名付けられたのですか?」
「お父さんですよ。絶対、サクラにしようって」
「春生まれということは誕生日は3月か4月ですか?」
「誕生日は4月6日ですね」
4月6日か。
また一つ、サクラさんのことを知ることができた。
そんな些細なことが無性に嬉しくて、僕は頬を緩めながらサクラの横顔を見つめていた。
意気投合した僕らはその後も順調に交際を重ねていった。
大学の食堂で一緒に昼御飯を食べたり、買い物に行ったり、映画を見たり。
色々な場所へ行って色々な話をして。僕らはそうやって愛を育んでいった。
サクラへの想いは日に日に強くなっていた。
最初は一目惚れだったけど、言葉を交わす度に彼女の人柄にも惹かれていった。
そして、僕は決意した。
この想いをサクラに伝えることを。
ある日、レストランで食事をしている時のことだった。
談笑しながらフォークを動かしていると、サクラが浮かない顔でお腹を摩っていた。
「どうしたの? お腹、痛いの?」
「ううん。最近、ちょっと太っちゃったから」
サクラは首を横に振ってから、お腹から右手を離した。
「そう? そんなに変わらないと思うけど」
「やっぱり、夜に甘い物食べてるのがいけないのかな?」
サクラのお腹を覗き込んでみたけど、別に出てはいなかった。
だけど、サクラは悩ましげに首を傾げていた。
「サクラ、甘い物が好きなんだ。ケーキとか、よく食べるの?」
「そうそう。ケーキは特に好きだよ」
「いちごのショートケーキとか?」
「そうだね。チョコも好きだけど、やっぱり、いちごが一番好きかな。キョウは?」
「まあ、たまには食べるよ」
「無性に食べたくなる時があってさ。夜、コンビニに買いに行っちゃうんだ。キョウはそういうのない?」
「分かるよ。これを食べないと気が収まらないみたいな感じだよね?」
「そうそう。そういう感じ」
食事を終えた後、僕はサクラを家まで送っていった。
サクラが門の前で手を振っていた。
「じゃあ、またね」
「うん」
僕は手を振り返した。
サクラが背中を向けた、その時。
「サクラ」
僕は歩き出したサクラを呼び止めた。
ゆっくりとサクラが振り返った。
月明かりの下、僕らは暗闇の中で向かい合っていた。
僕は大きく息を吸い込んだ。
「僕、サクラのことが好きだよ。僕と付き合ってくれないか?」
サクラは僕の告白を受けて、腰の後ろで両手を組みながら顔を伏せた。
長い髪が顔を覆い隠していた。
サクラが顔を上げた。
髪の隙間から現れた顔には微笑が浮かんでいた。
「うん。いいよ」
サクラは小さく頷いて僕の想いを受け止めてくれた。
晴れて恋人同士となってから3ヶ月後、サクラは僕を両親に紹介する為に家へ招待してくれた。
僕はソファーに腰掛けて、お義父さんと初めて顔を合わせていた。
「初めまして。高崎キョウです」
僕は緊張の面持ちで御辞儀をした。
「君がキョウ君か。サクラから、いつも話は聞かせてもらってるよ。まあ、ゆっくりしていってください」
お義父さんは歓迎の笑顔で御辞儀を返してくれた。
リビングでの対面を終えた後、僕はサクラの部屋にいた。
部屋を見回していると、本棚に目が留まった。
僕は棚の一番上を指差しながら聞いた。
「これ、アルバムだよね? 見せてよ」
「うん。いいよ」
サクラは本棚からアルバムを抜き取った。
アルバムを受け取って本棚を背にしながら座った。
サクラは寄り添うようにして、僕の隣に座った。
「子供の頃も可愛いね」
「そんなに見ないでよ。恥ずかしいよ」
サクラは写真を隠そうとアルバムに両手を伸ばした。
僕の左腕にサクラの髪が触れた。
「そんなに恥ずかしがらなくてもいいじゃないか」
アルバムを捲ると写真が四枚ずつ左右のページに貼ってあった。
僕は横目で問い掛けた。
「これは?」
「それ、お父さんが毎年誕生日に撮ってるの。私が生まれた時からずっと。大人になった今でもだよ。本当に親馬鹿でしょ?」
サクラは右手を口に当てながら笑った。
僕はその手を眺めながら思った。
「サクラ、指も細いね」
「そう?」
サクラは顔の前で十本の指を広げて手の甲を見つめていた。
「指のサイズっていくつ?」
「4号だよ。何? 指輪でもくれるの?」
「指輪か」
僕は天井を見上げながら呟いていた。
頭に浮かんだのは永遠の愛を誓い合う二人が交換する指輪だった。
「そうだね。いつかあげるよ」
サクラに笑いかけた後、僕は心の中でこんな台詞を言った。
いつかあげるよ。結婚指輪をね。
付き合い始めてから、7年の歳月が流れていた。
僕らは大学を卒業して社会人になり、マンションを借りて一緒に住んでいた。
3月の下旬頃、僕は考えていた。
サクラにプロポーズをすることを。
そして、僕は決意した。
4月6日。
サクラの誕生日であるこの日にプロポーズすることを。
僕は密かな決意を胸に秘めて、4月6日というこの日を迎えた。
キッチンのテーブルには、いちごのバースデーケーキ。
ケーキの周囲に立てられた25本のロウソク。
僕は手拍子をしながらハッピーバースデーの歌を歌った。
僕が歌い終わるとサクラがケーキに顔を近づけた。
大きく息を吸い込んで一気に火を吹き消した。
「サクラ、誕生日おめでとう」
「ありがとう」
サクラは穏やかに微笑んでいた。
「25歳か。またサクラの方が一つ年上になったね」
「そうだ。キョウ、写真撮ってよ」
「ああ、あれね」
僕は初めて吉野家を訪問した時のことを思い出していた。
お義父さんが毎年、サクラの誕生日に写真を撮っていることを。
サクラの部屋でアルバムを見ながら、その話を聞いたことを。
「いいよ。カメラは?」
「待ってね。持ってくるから」
サクラはキッチンを出ていき、カメラを持って戻ってきた。
僕に向かって両手でカメラを差し出した。
「はい」
「うん」
僕がカメラを受け取ると、サクラは再び椅子に腰掛けた。
スカートの上で両手を重ね合わせてポーズを取った。
「撮るよ」
僕はサクラの前に立ってカメラを構えた。
シャッターを押すとフラッシュが光った。
「ありがとう、キョウ」
「写真、持っていくの?」
「うん。今度、行った時、お父さんに見せてあげないと」
「じゃあ、今度一緒に行こうか?」
「うん。そうだね」
サクラが頷いた時、僕はテーブルにカメラを置いた。
高鳴る鼓動を感じながら、深く息を吸い込んで口を開いた。
「あのさ、サクラ。実は誕生日プレゼントがあるんだ」
「何、何?」
「取りに行ってくるから待ってて」
僕はキッチンを出て寝室へ入った。
タンスの引き出しを開けてプレゼントを出した。
この日の為に大切に仕舞っておいた物を。
「お待たせ」
僕は両手を腰の後ろに回して、プレゼントを隠しながら歩いていった。
「何、隠してるの?」
サクラは椅子の上で身を乗り出して覗き込んでいた。
「はい」
僕はサクラの前で足を止めて、プレゼントを体の前に持ってきた。
「これって……」
差し出された青いジュエリーケースを目にして、サクラの瞳は大きく見開かれた。
「開けてみてよ」
サクラはそっと両手を伸ばして受け取った。
膝の上でジュエリーケースの蓋を開けた。
銀色の指輪が光っていた。
「その指輪はね、ただの指輪じゃないんだよ」
「それって……」
サクラが顔を上げて僕を見上げた。
「うん。その指輪、結婚指輪なんだ」
サクラは膝の上でジュエリーケースを抱えたまま静止していた。
「サクラは僕にとって、世界で一番大切な人だよ。だから、結婚してくれないか?」
僕はこの日の為に考えたプロポーズの言葉を口にした。
「うん。いいよ」
サクラは小さく頷いた。
愛の告白を受けたあの時と、同じ言葉を口にしながら。
「ねえ、キョウ。指輪、付けてよ」
サクラはジュエリーケースを差し出してお願いしてきた。
「うん」
僕は右手を伸ばして指輪を摘み取った。
サクラがジュエリーケースをテーブルに置いた。
僕は左手でサクラの手首を支えて、薬指に指輪を付けた。
サクラが掌を返して銀色に輝く指輪を見つめた。
「結婚式まで大事に取っておかないとね」
「そうだね。御両親に挨拶もしないと」
「お父さん、驚くだろうな。いつにする?」
「そうだな。今度の日曜日でどう?」
「日曜日ね。じゃあ、電話するね」
リビングに移動した僕らはソファーに腰掛けて肩を並べていた。
サクラが携帯片手に実家へ電話を掛けた。
「もしもし、お父さん?」
「おおっ、どうした?」
「さっきね、キョウにプロポーズされちゃった」
「プロポーズ……?」
「うん。結婚しよう、って」
突然の知らせに、お義父さんも言葉を失っていたらしい。
しばらく沈黙が続いていた。
その後で噛み締めるような声が聞こえてきた。
「そうか。お前がお嫁さんになるのか……」
「びっくりした?」
「そりゃあ驚いたよ。でも、あれだな。嬉しいけど、正直に言うと少し寂しい気持ちもあるな」
「もう、いい加減に子離れしてよね」
サクラはお義父さんの親馬鹿ぶりを呆れるように笑っていた。
「子離れか。うん、そうだよな」
「それでね、今度の日曜日そっちに行きたいんだけどさ。大丈夫だよね?」
「ああ、大丈夫だよ」
「じゃあ、キョウと一緒に行くからね。あっ、お母さんは?」
「今、出掛けてるんだよ」
「そっか。せっかく、お母さんにも教えてあげようと思ったのに」
「帰ったら伝えておくよ」
「うん。じゃあ、日曜日にまたね」
「ああ、待ってるよ」
サクラは通話を終えると膝の上で携帯を畳んだ。
四角くなった携帯をソファーに置いて僕に笑顔を向けた。
「やっぱり、すごく驚いてたよ」
「日曜日か。今から心の準備をしておかないとな」
僕は右手で心臓を押さえて深く息を吐いた。
「大丈夫だよ。君に娘はやらん、なんて言わないと思うよ?」
「君にお父さんと呼ばれる筋合いはない、とか?」
僕らは頑固親父のような太い声を作って二人で笑い合っていた。
「サクラ」
僕は真顔に戻って彼女の名前を呼んだ。
「何?」
サクラは小首を傾げて僕を見上げた。
「幸せになろうね」
「幸せ、か」
サクラは言葉の響きを噛み締めるように反芻していた。
スカートの上で両手を重ねながら蛍光灯を見上げた。
宙を見つめていた視線が僕に注がれた。
「今でも十分、幸せだよ」
サクラは穏やかに微笑みながら、そう言ってくれた。
「とうとう、この日がやって来たか」
向かいのソファーに座る僕らを見比べて、お義父さんは腕組みをしながら頷いた。
「もちろん反対なんかしないよ。むしろ大賛成だよ」
僕はその言葉を聞いて胸を撫で下ろした。
サクラと顔を見合わせて、安堵の笑みを交わした。
「なあ、カズミ?」
お義父さんが同意を求めて、隣に座るお義母さんに顔を向けた。
「ええ、キョウさんなら大丈夫ですよ」
「ありがとうございます」
お義母さんに太鼓判を押してもらって、僕は御辞儀を返した。
「キョウ君、サクラを頼んだよ」
「はい」
お義父さんに改まった声で切願されて、僕は神妙な面持ちで頷いた。
「そうだ」
弾んだ声に振り返ると、サクラが膝の上でハンドバッグを漁っていた。
誕生日に撮った写真を出してテーブルに置いた。
「はい。これ」
「まだ撮ってくれてたのか」
お義父さんは膝を乗り出して写真を覗き込んだ。
「この間、キョウが撮ってくれたんだよ。私が頼んで撮ってもらったんだ」
「そうだったのか。キョウ君、ありがとう」
お義父さんは顔を上げると、僕に笑いかけた。
「いえ、そんな」
僕は頭を掻きながら笑い返した。
「ところで、サクラ。式はいつ挙げるんだ?」
「6月にしようと思ってるんだ。ジュンブライドだし」
「6月か。結婚式までにスピーチを考えておかないとな」
お義父さんは再び腕組みをしながら考え込んでいた。
「お父さん、泣かないでよ」
「大丈夫だよ。泣かないよ」
「本当かな?」
お義父さんとサクラは笑い合っていた。
僕はそんな二人を目を細めながら見守っていた。
もうすぐ妻と義理の父になる二人を。
数ヶ月後、結婚式と披露宴が執り行われた。
僕らの両親と友人が集まり、教会は暖かい雰囲気に包まれていた。
「健やかなる時も病める時も、共に二人で歩んでいくことを誓いますか?」
牧師が光る十字架を背にしながら、お決まりの台詞を口にした。
「誓います」
「誓います」
僕とサクラは祭壇の前で永遠の愛を誓い合った。
「それでは、指輪の交換を」
互いに手を取り、左手の薬指に銀色のリングを嵌めた。
「では、誓いの口づけを」
僕らは二人で向かい合い、真っ直ぐに見つめ合っていた。
僕はサクラの頭に両手を伸ばして、白いベールを後ろに払った。
サクラの肩に両手を乗せて、目を閉じながら顔を近付けた。
サクラが顎を上げて目を瞑った。
二人の唇が触れ合い、重なり合った。
僕は両手を離して目を開けた。
サクラも目を開けて僕を見上げた。
鳴り止まない拍手の中、僕らは照れ笑いを浮かべながら見つめ合っていた。
「新郎新婦の入場です」
メンデルスゾーンの結婚行進曲が鳴り響く中、結婚式場の扉が開いた。
白のタキシード姿の僕。
純白のウェディングドレス姿のサクラ。
二人で手を取り合って、バージンロードを歩いていった。
半分程まで歩いた時、僕は吉野夫妻の座るテーブルを視界に捉えた。
お義父さんもお義母さんも笑顔で拍手を送っていた。
「続いて新婦のお父様、吉野タカヒロさんのスピーチをお聴きください」
司会の女性に呼ばれて、お義父さんは席を立って壇上へ向かった。
マイクの前に立って、お腹の前で両手を組んだ。
「只今、ご紹介に預かりました吉野タカヒロです。本日は皆様、お忙しい中、お集まりいただき誠にありがとうございます。こんなに大勢の方々に祝福していただいて、私としても大変喜ばしい限りです」
出席者の人達への謝辞を述べて、僕ら新郎新婦の席へ視線を送った。
「サクラ、キョウ君。結婚おめでとう」
僕とサクラは白い花が飾られたテーブルの前で御辞儀を返した。
「サクラ。お前からキョウ君とお付き合いすることになった、という話を聞いた時。あの時からいつかはこの日が来るだろうと思ってたよ。とうとう、今日その日がやって来たな。お父さん、胸が一杯だよ。
親馬鹿だと思われるかもしれませんが、サクラは本当に優しくていい子です。私の自慢の娘です。娘の花嫁姿を見るというのは父親になってからの私の夢でした。サクラ、お父さんの夢を叶えてくれてありがとう」
お義父さんが花嫁衣装に身を包んだサクラに笑いかけた。
サクラが笑顔を返した。
「新郎のキョウ君は礼儀正しい好青年です。彼と初めて会ったのはサクラが我が家に彼を連れてきた時でした。もし、サクラがこの人と結婚しても安心して任せられる。私はそう思いました。
結婚というのはよく言われるように生活だから、恋人だった頃とはまた違った困難に直面することもあると思います。時には喧嘩をすることもあるかもしれない。長く一緒にいれば、色々なことがあると思います。でも、何があっても二人なら愛の力で乗り越えていってくれる。そう信じています。サクラ、キョウ君。改めて、結婚おめでとう。いつまでも、幸せでいてください」
サクラは白いレースの手袋を嵌めた両手で拍手を送っていた。
優しく微笑むサクラの横顔を見つめながら、僕は一緒に手を叩いていた。
「次は新婦サクラさんから御両親に宛てた手紙の朗読です」
サクラが立ち上がり手紙を広げた。
「お父さん、お母さん。今日この日まで私を育ててくれてありがとう。
お父さん、中学の時に私がピアノコンクールで賞をもらったことがあったよね? あの時、まるで自分のことのように喜んでくれたよね。恥ずかしかったけど嬉しかったよ。もう歳なんだから無理しないでね。体に気を付けて、お仕事頑張ってね。私もお嫁さんとして頑張ります。
お母さん、お母さんには色んなお料理を教えてもらったよね。初めて教えてもらったのは肉じゃがだったね。今でもよく作るんだ。家に帰った時はまた一緒に作ろうね」
手紙から頭を上げて二人に笑顔を向けた。
「お父さん、お母さん。もう一度、言います。本当に、本当にありがとう」
お義父さんは目を潤ませてサクラを見つめていた。
お義母さんは目頭にハンカチを押し当てながら顔を伏せていた。
幸福感に包まれたこの日から数週間後。
僕らの幸せを打ち砕いた、あの事件が起きた。
「キョウ、ちょっと出掛けてくるね」
リビングでテレビを見ていると、サクラの声が背後から聞こえた。
僕はソファーの上で体を捻って振り返った。
サクラは白いワンピースに身を包んでいた。
薄いピンクのハンドバッグを右肩に下げて立っていた。
壁掛け時計を見上げると、8時10分を指していた。
「こんな時間にどこ行くの?」
「なんか、急にケーキ食べたくなっちゃってさ」
「またか。あそこのコンビニ?」
「そう。すぐ帰ってくるから」
数時間後、僕はソファーの上で胸騒ぎを覚えながら壁掛け時計を見上げていた。
10時20分。
サクラが出ていってから、2時間以上が経過していた。
おかしい。いくら何でも遅い。何かあったのか?
とにかく探しに行こう。どこかで会えるかもしれないから。
僕はハンドルを固く握り締めながら、ゆっくりと車を走らせていた。
サクラの姿を探し求めて、フロントガラスの向こうに広がる闇夜を見つめていた。
電信柱の前を通り過ぎた時、道端に大きな物体が落ちているのを発見した。
ヘッドライトがその物体を照らし出していた。
闇の中から浮かび上がってきたのは赤い自転車だった。
僕は車を駐めて飛び出し、倒れている自転車に駆け寄った。
道路に横たわっていたのは思った通り、サクラの自転車だった。
ビニール袋が籠の中に入っていた。
袋の中を覗くと、いちごのショートケーキが入っていた。
何でこんな所にサクラの自転車があるんだ?
やっぱり交通事故か?
車に轢かれて救急車で運ばれたのか?
もし交通事故なら病院にいるかもしれない。
すぐに帰って電話しようと、僕は急いで車へ戻っていった。
点滅せず緑色に光る留守電のボタンは、メッセージが入ってないことを物語っていた。
念のために履歴も見たけど、最初に表示されたのは数日前のものだった。
かかりつけの病院や近くの医療機関にも片っ端から電話を掛けた。
だけど、サクラが運び込まれたという答えは返ってこなかった。
受話器を置いた後、僕は肝心なことを思い出した。
再び受話器を取ると吉野家へ電話を掛けた。
「はい。サクラか?」
電話口から響いてきたのは、お義父さんの声だった。
「お義父さん、サクラが帰ってこないんですよ……」
「サクラが? 帰ってこない?」
「ええ、ケーキを買いに行くと言ったきり帰ってこないんですよ」
「何時頃、出ていったんだい?」
「8時10分頃です」
「もう2時間半以上、経ってるわけか」
「気になったから様子を見に行ったんですよ。そうしたら、道端にサクラの自転車が倒れてて。籠の中にケーキの入った袋があったんですよ」
「まさか、帰り道に交通事故に……?」
「僕もそう思って色んな病院に電話したんです。でも、どこにも運び込まれてないみたいで。警察に連絡した方がいいですかね?」
「ああ、そうしてくれるかい? 何か動きがあったら、また電話をしてくれるかい?」
「はい。すぐに電話します」
それから3日後。
入口の扉を開けると、青い制服姿の男が立っていた。
「どうも警察の者です。重要なお話があるので、お邪魔させていただけますか?」
重要なお話。
その言葉を聞いて、嫌な予感はしていた。
「ええ、構いませんけど……」
僕は不安を覚えながら、ぎこちなく頷いていた。
重苦しい空気の中、僕らはリビングのソファーで向き合っていた。
警官は伏し目がちに喋り出した。
「非常に申し上げにくいのですがね……」
「何ですか?」
僕は前のめりになって話の先を促した。
意を決したように、警官は顔を上げた。
「実はサクラさんらしき女性の遺体が発見されたんですよ」
僕は言葉を失ったまま、呆然と警官の顔を眺めていた。
言葉の意味は理解できたけど、心がそれを受け入れることを拒否していた。
「どこでですか?」
「川に遺棄されてました。殺害されたものと見て間違いないです。身元確認をお願いしたいので一緒に来ていただけますか?」
遺棄、殺害、身元確認。
耳を塞ぎたくなる言葉が次々と警官の口から出てきた。
長い沈黙の末、僕はやっとのことで声を振り絞って答えた。
「はい。分かりました」
警察の遺体安置所へ向かうまでの間、僕はパトカーの中で願っていた。
頼むから別人であってくれと。サクラじゃない、他の誰かであってくれと。
だけど、その願いは叶わなかった。
台の上で仰向けに寝ていたのは紛れもなくサクラだった。
色白の顔は無数の痣で青くなっていた。
「間違いないですか?」
「はい……」
「そういえば、お返ししなければいけない物があるんですよ」
警官は懐に手を入れて透明な袋を取り出した。
中に入っていたのは銀色の指輪だった。
「これは……」
僕は袋を受け取り、両手で包み込むように持って凝視していた。
「そうです。サクラさんが身につけていた指輪です」
僕は袋の口を開けて指輪を摘み取って袋を投げ捨てた。
自分の指輪を外してポケットに仕舞い、代わりにサクラの指輪を嵌めた。
顔の前で祈りを捧げるように両手を組んだ。
悲しみに体を震わせながら、そっと指輪を撫でた。
溢れ出た涙は頬を伝い、いつまでも流れ続けていた。
披露宴ではスーツやドレスで着飾っていた人々が今度は喪服姿で顔を揃えていた。
祭壇の前に整列した誰もがサクラの死を悼み、大粒の涙を流していた。
お義父さんとお義母さんはもちろんの事、学生時代の友人達や会社の同僚だった人達も。
肩を落として項垂れる黒い輪の中、僕は虚ろな眼差しで遺影を眺めていた。
25歳の誕生日に僕が撮った写真。
あの写真が遺影になるなんて夢にも思わなかった。
「サクラ、まさかサクラの方が先に逝くなんてな。病気や事故ならまだしも、こんな形で。
ついこの間、結婚式でスピーチをしたばかりなのにな。まさか、それからすぐに悼辞を読むことになるなんて……。
お前の花嫁姿、綺麗だったよ。サクラの晴れ姿を見られて、お父さん本当に嬉しかったよ。
スピーチをしてる時、お父さん何度も泣きそうになったんだ。何とか堪えたんだけどね。それでも、お前が手紙を読んでる姿を見てたらもう限界だったよ。泣くまいと思ってたんだけど駄目だったよ。約束、守れなかったな。
サクラ。お前、本当にもうこの世にいないんだよな? お父さん、まだ信じられないよ。まだ生きてるような気がするんだよ。
どうして、お前がこんな酷い目に遇わなければいけないんだろうな? お前は何も悪いことなんかしてないのに。お前は本当に優しくて良い子なのに。
悔しいよ。お父さん、悔しいよ。本当に悔しいよ。恐かっただろ? 痛かっただろ? 辛かっただろ?
お前に酷いことをしたやつらはまだ捕まってないんだ。犯人が逮捕されたら、すぐに墓参りに行って報告してやるからな。
サクラ、二十五年間ありがとう。お父さん、サクラの父親で本当に良かったよ。本当に、本当にありがとう……」
悲痛な表情で何度も声を詰まらせながら、お義父さんは悼辞を読み終えた。
ショパンの別れの曲が流れる中、棺を乗せた車は大勢の弔問客に見送られて走り去っていった。
道路に呆然と立ち尽くしたまま、僕は追憶に浸っていた。
大学一年生の頃、音楽室でサクラのピアノを聴いたこと。
その時、彼女が演奏したのが別れの曲だったことを思い出していた。
まさか、こんな形で別れの曲を聴くことになるなんて。
まさか、結婚式を挙げた数ヶ月後に葬儀を挙げることになるなんて。
まさか、夜ケーキを買いに行くという習慣がこんな悲劇に繋がるなんて。
まさか、25歳の誕生日に撮ったあの写真が遺影になるなんて。
まさか、こんな形でサクラを失うなんて。
まさか、まさか、まさか、まさか、まさか。全てが、まさかだった。
もし一緒についていけば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
もし別の道を通っていたら、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
もし家を出る時間が少しでもずれていれば、こんなことにはならなかったかもしれないのに。
もっと一緒にいたかったのに。
もっと色々な話をしたかったのに。
もっとピアノも聴きたかったのに。
もっと二人で色々な場所へ行きたかったのに。
誰だ? 誰がサクラの命を奪ったんだ?
早く逮捕してくれ。早く逮捕して死刑にしてくれ。
後悔と自責の念。犯人に対する怒りと憤り。
僕は様々な思いを胸に抱えながら、左手の薬指に嵌めた指輪を見つめていた。
あの日、警察の遺体安置所で返してもらった指輪を。
あれから、ずっと身につけているサクラの結婚指輪を。
逮捕の知らせは葬儀から数週間後、リビングでテレビを見ている時に舞い込んできた。
「警察は高崎サクラさん殺害の容疑で5人の容疑者を逮捕しました。逮捕されたのは森嶋マサト容疑者、永田リョウタ容疑者、舟木ケンジ容疑者、横山タクヤ容疑者、小野テツヤ容疑者の5人です。調べに対し、5人は揃って容疑を否認しているとのことです」
僕は怒りに体を震わせながら、画面に並ぶ顔写真を睨んでいた。
あいつらがサクラの命を奪ったのか。
容疑を否認している? どうせ嘘に決まっている。
犯人はあいつらだ。許せない。許さない。絶対に許さない。
怒りに駆られる僕を我に返らせたのは携帯の着信音だった。
急いで手を伸ばしてテーブルの上の携帯を取った。
電話の向こうから聞こえてきたのは感極まったお義父さんの声だった。
「キョウ君、遂に捕まったね……」
「はい……」
僕の声は涙声になっていた。
携帯を持つ左手が震え出した。
「サクラに報告しに行かないとね。どうだい? 三人で一緒に墓参りに行かないか?」
「そうですね。いつにします?」
「今週の日曜でどうだい?」
「日曜日ですか。時間は何時頃にします?」
「そうだね。二時でいいかい?」
「大丈夫ですよ」
「それじゃあ、二時にはそっちへ行くよ」
「分かりました」
澄み切った青空の下、僕らは墓前に屈み込んで目を閉じて手を合わせていた。
「サクラ、お前に酷いことをしたやつら捕まったぞ。5人もいたんだな。恐かっただろ? 全員死刑になるといいけどな」
墓石に語りかけるお義父さんの声を聞きながら、僕は同じ思いを胸に抱いていた。
絶対に5人全員を死刑にして欲しいと願っていた。
「キョウ君、最近どうだい?」
「まだ信じられないです」
僕は頭を振って墓前に添えられた白い花に視線を落とした。
「帰ってきたら家にいるんじゃないかとか。突然、帰ってくるんじゃないかとか。チャイムが鳴った時、帰ってきたんじゃないかとか。電話が鳴った時、もしかしてサクラからじゃないかとか。これは全部、夢なんじゃないかとか。そんなことばかり考えてしまうんですよ」
「私もまだ信じられないよ。信じたくないだけかもしれないけどね。アルバムを引っ張り出して、一日中馬鹿みたいに眺めたり。そんなことばかりしてたよ」
僕はその話を聞いて目を見張った。
僕も同じようなことをしていたから。
二人で撮った写真や携帯に残っているメールを眺めてばかりいたから。
耐えきれない喪失感と虚無感を埋めるために。
「今でも何度も思うんですよ。あの日、僕が一緒についていけばよかったとか。出掛けるのを止めればよかったとか」
「キョウ君が責任を感じることはないよ」
お義父さんは怒気を含んだ声でたしなめた。
僕は目を見開いて振り返った。
「悪いのはあいつらなんだから。キョウ君が悪い訳じゃない。だから、あまり自分を責めないでくれよ」
「そうですよ。キョウさんは何も悪くないんですから」
お義母さんがお義父さんの肩越しに微笑を向けながらかばってくれた。
二人の言葉は僕の胸を強く打った。
お義父さんとお義母さんだって辛いに決まっているのに。
それなのに、こんな言葉を掛けてくれるなんて。
「はい……」
込み上げてくる思いを胸に秘めながら、僕は涙声で深く頷いた。
「無罪です! 無罪判決です!」
レポーターがマイクを握りながら叫んだ瞬間、僕は言葉を失った。
嘘だろ? 何で無罪なんだ?
体が激しく震え出す。膝の上で両手の拳を強く握り締める。
これで無罪が確定した。
もうあいつらが法で裁かれることはない。
犯人はあいつら以外には考えられないのに。
「許せない……」
怒りと憤りが膨らんでいき、呼吸が苦しくなる。
肩で息をしながら掌を見つめる。
僕は電話のベルで我に返った。
お義父さんからだろうか。ソファーから立って受話器を取った。
「はい。お義父さんですか?」
「キョウ君……」
受話器から聞こえてきたのは予想通り、お義父さんの声だった。
震える涙声が僕の胸を締め付ける。
「キョウ君、私は悔しいよ……」
「はい。僕も悔しいです……」
僕は唇を噛み締めていた。今にも涙が零れそうだった。
「何で無罪なんだろうね。犯人はあいつらに決まっているのに」
「お義父さん、殺してやりたいとおっしゃってましたよね?」
「ああ、殺してやりたいよ。5人とも殺してやりたいよ……」
お義父さんは吐き捨てるように言い放った。
その声が耳に残っていつまでも離れなかった。
回想を終えた後、キョウさんは深く息を吐いた。
話を聞いている最中、僕は何度も目頭が熱くなり涙が出そうになった。
キョウさんとタカヒロさんがサクラさんを愛していたこと。
それが強く深く伝わってきて、胸に迫るものがあった。
サクラさんは二人にとって本当に大切な人だったんだ。
そういえば、赤い自転車は庭に置いてあった。
あれは事件当時に乗っていた物だったんだ。
二十五歳の写真は第二の事件の時、吉野家で見せてもらった。
あれは遺影に使われた写真だったんだ。
サクラさんがピアノを弾けて、初めて聞かせてもらったのが別れの曲だったという話。
それも第二の事件の時にキョウさんが語っていた。あの曲が葬儀で使われたんだ。
ケーキが好きで夜に買いに行くことがあったという話も同じくあの時に話していた。
それが事件に繋がってしまったんだ。
赤い自転車と二十五歳の写真と別れの曲とケーキ。
この四つにそんな悲しい逸話が隠されていたなんて。
「そういえば、その結婚指輪ってサクラさんのだったんですね。この前、タカヒロさんから聞いたんですよ」
「あっ、ユリさんご存知だったんですね」
キョウさんは左手を顔の前に持ってきて、虚ろな眼差しで手の甲を見つめる。
「こうやって付けているとサクラが傍にいるような気がするんですよ」
「やっぱり、あの赤い自転車ってサクラさんだったんですね」
「見る度に思い出してしまうんですけどね。だけど、サクラが使っていた物だから捨てられなくて」
左手を膝の上に置いて俯く。端正な顔に影が差す。
「そういえば、サクラさんの写真を見せていただいたんですよ。タカヒロさんがアルバムを出してくれて。あの写真、遺影の写真に使われたんですね」
「まさか、あの写真が遺影に使われるなんて思わなかったですけどね」
「私、キョウさんがテレビでおっしゃっていた言葉がすごく印象に残ってるんですよ。裁判のインタビューでおっしゃっていた大切な人を返して欲しいって。あの言葉がすごく印象に残ってるんです」
「ユリさん、やっぱりあのニュースご覧になっていたんですね」
「ちょうど警部さんがいらっしゃってて4人で見てたんですよ」
「大切な人。そうですね。サクラと出会えて僕は世界一の幸せ者でしたよ」
顔を上げて懐かしそうな眼差しを天井に向ける。
「そこまで想ってもらえるなんて、サクラさんも幸せだったと思いますよ」
「だといいんですけどね」
キョウさんはユリに視線を戻すと照れ臭そうに笑った。
「タカヒロさん、どこにいるんですかね?」
「どうですかね。だけど、お義父さんは無関係ですよ」
首を傾げてから横に振る。
この様子からすると、タカヒロさんの失踪に関しては本当に何も知らないのだろう。
「タカヒロさんのこと、信じてらっしゃるんですね」
「もちろんですよ。お義父さんがあんな残虐なことをするはずありませんから」
「キョウさんは誰が犯人だと思います?」
「きっと、あいつらに怨みを持っている誰かですよ。あいつら、かなり素行が悪かったらしいですからね」
「私もその可能性はあると思っているんですよ」
「そうですよね? あの警部さんは何か言ってませんでしたか?」
「今の所、怪しい人物はいないとおっしゃってました」
「そうですか」
「キョウさんは復讐ということについて、どう思われます?」
「復讐ですか。気持ちは分かりますけどね。だけど……」
言葉を選ぶように顔を伏せる。
「だけど?」
ユリは体を前に倒して言葉の先を促す。
「殺してしまったら自分も殺人者になってしまいますからね。やっぱり、どんな理由があっても許されない行為ですよ。ユリさんはどうですか?」
「そうですよね。私も同じです」
「お義父さんだってサクラを失って死ぬ程、辛かったと思いますよ。僕だって死のうと思った事もありますから」
「死のうと思ったことがあったんですか?」
「会社で窓の外を眺めている時とか、ふと誘惑が襲ってくるんですよね。ここから飛び降りれば、サクラの元に行けるって。今でも、時々そんな気持ちになってしまうんですけど」
「駄目ですよ」
キョウさんを真っ直ぐに見つめながらユリは柔らかな声で窘めた。
「生きてください。サクラさんの為にも生きてください」
俯いていたキョウさんの顔がゆっくりと上がる。
ユリの言葉に胸を打たれたのか、キョウさんの瞳は揺らいでいた。
驚いたような顔が次第に笑顔へ変わっていく。
「そう、ですね」
キョウさんは再び顔を伏せて硬く唇を噛み締めていた。
まるで、今にも零れ落ちそうな涙を堪えるように。