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べんさんの航海物語

べんさんのヨットは、サクラ号という。
べんさんは、このヨットを、横須賀でとても安く買った。何年も漁港に放置されていた中古のオンボロヨットだったが、十三メートル半はあり、四十五フィートで、新品なら数千万円はする。しかし、これはやはり安いだけのことはあり、普通のヨットマンならだれもが買わないだろうと思われる古い代物だった。
 若い頃から、べんさんはサーフィンをやり、湘南で、下町のサーファーと呼ばれた。海が好きだったのだ。だから、その昔、ヨットの学校にも通ったことがある。べんさんの夢で、いつかは海に出たいと思っていた。
 最初は、ヨットマンに対する憧れがあり、遠くの旅に出ることがなくてもいいから、ヨットを住居にしよう……家から出たときの隠れ家という軽い気持ちだったとべんさんは言う。こんな古いヨットは、かなり直さなければ大海には出れなかったのだ。
 ヨットは狭いながら、コンロやシンクもそろっているキッチンに、寝るところも二箇所はあり、トイレと小さな洗面台もある。そこに簡易シャワーもあった。しかし、その後に出た海では、べんさんはシャワーを使ったことはない。いつも雨に濡れていた。
 ヨットを住居にしようと家を出たべんさんは、九州へ行く。その方が停泊代も、ヨットに時間をかけて直していくのもずっとお金がかからなかったからだ。
 こうして本格的に家出してしまった後は、べんさんは、大分に二年半ほどのヨット生活をしてしまう。近所のホームセンターでバイトをして暮らしたが、この時、経済的にもよくなんとかなったものだとベンさんは後に思った。ヨットを少しづつ直していたからだ。
 そこで、べんさんはチャンスをつかむ。大体運命というものは、予期せぬときに向こうからやってくる。
 べんさんの古い友人から、オーストラリアに新しくできる日本料理店で働いてほしいという打診が入り、ビザを申請するからという話になる。常時スタッフを何人も欲しがっていたその店は、べんさんにいつから勤めてもらってもいいという気楽なものだった。実家の和菓子屋に戻りにくくなっていた気持ちのべんさんは、なにがしかの仕事をしなければと思っていたので、二つ返事で引き受ける。
 一年だけなら、家も親戚も許してくれるだろう。と言っても、もうべんさんのおやじは他界していた。今思えば、ひとりになったおふくろに、べんさんは随分と心配をかけたと思う。悪いことをしたと思う。しかし、この時は、べんさんは家業をほっぽり、夢を追いかけた。
 航海の終わったその後は、しばらく勤めた日本料理店も辞めて、家に帰り病に倒れた母親を看取った。それからまたここへ戻って来たべんさんは、ケランダ山の土地に和菓子屋――はやぶさを開くことになる。
 もちろん、この時はまだ、和菓子屋を再開するというそんな気持ちなどなかっただろう。
「ヨットで航海できるいいチャンスじゃないか! このまま修理をしたら行ってしまおうじゃないか」と、べんさんは新天地に希望を持った。ヨットを修理することに全力をかけた。それを、大分から出た沖縄で決意する。
 今から二十年以上前の五月、蒸し暑くなりはじめた沖縄で、空を泳ぐこいのぼりを背にして、べんさんは旅立った。台風シーズンになる前に出航しなければならない。
 ところが、梅雨前線の真っ只中、すぐにシケに見舞われる。それはこの航海中、ずっと続いたのだ。とにかく進まない。それで、最終目的地近くまで通常は数週間のところを、二ヶ月もかかってしま
った。
 風は常に東から西へ……向かい風にあい、潮流も悪くて、航海は非常に困難をきわめた。べんさんは、粉骨砕身する毎日となる。
 最後に見た島は南大東島だった。出航して二日後、衛星電話が壊れてしまう。ひとりでは、これが機能しなければ、ナビゲートがもういないということになる。「これが使えなくてはだめだろう!」と、べんさんは、衛星電話を直すことを考える。致し方なく、一度沖縄方向の島に戻ったため、時間はロスしたが、これを完全に直すことができた。
 ここで、天候が回復するのを待つ間が、一番不安を覚え海に対する恐怖感もあったと、べんさんは言っていた。この先、この旅は、こんな壊れそうなヨットでもずっとだいじょうぶだ……という保障はない。べんさんは、怖気づいているわけにはいかないと、勇気を奮い立たせた。
 もちろん、前進という強い気持ちで、あきらめきれずに再び出発したべんさんに、シケは続いた。そして、案の定次の故障が起こる。今度はオートパイロットだった。
 べんさんは、何時間もとにかく舵から離れることができなくなった。ただでさえ、シケであり、あちらから雲が見えたというときには、慌ててももう遅い。厚いカーテンのような空に覆われる。シャワーなどというものではなく、激しく降る雨で全身くまなくびしょぬれだ。 
 そして、眠れない。寝てしまったら、どこへヨットが行ってしまうかわからないからだ。不安はつのる。
「こんな悪天候の中で、もう戻るのも嫌だし無理だし、外国で仕事をすると言ってしまった意地もある。なんとかなるさ」
 べんさんは元来、楽天家である。「なんとかなる……」とは、結論からいえばなったのだが、後から思えば、この航海は、生と死が――紙一重の毎日だったのだ。
 オートパイロットは、直すにもかなり難しかった。というより、こんなポンコツ船では、直らないのだ。
 数日間、まだゆっくりとしか進まないヨットに、完全に疲れきっていたべんさんは、気がついたら舵輪を持ってそのまま眠っていた。「これではいけない!」と、目が覚めた。舵を離れて濃いコーヒーを作ることもできない。でも、ヨットが少し後退してもかまわないと思い、急いでキッチンに行こうと決意する。しかし、疲れた足がもつれてもどかしい。お湯をわかす気にもなれない。そして、万が一の場合にとカフェインの錠剤を用意していたので、べんさんは、今が非常時なんだからと自分に言い聞かせて、手っ取り早くそれを飲んだ。二日間はそれでもなんとか体も神経ももった。
 三日目、舵を取るべんさんの船のマストの横に、だれかがいる。それは、なぜか子供……童だ。七、八歳? そして男の子なのか女の子なのか、なんとなく中性的である。髪はマッシュルームヘアで、オーバーオールのジーンズを着ている。こちらではなく、じっと遠く海面を見つめている。べんさんは、何度も目をこすった。
 次の幻覚は、デッキの前方に、たくさんの人達がいる。多くは黒髪のオリエンタルだが、座った人がこちらを見ている。その中のひとりの中国人らしき男が、「おまえはここでおりるのか?」と訊く。
「なんで、おれの船でおれがおりるんだよ」
 その答えにはなんの返答もなく、またそいつがこう訊く。
「あんたは、ここでおりるんだろう?」
 その先には、なんと陸と船着き場が見える。まだべんさんに、おかしいな……と思う気持ちがあったから、助かった。そのままおりていたらと思うと、ぞっとする。これは、なにかにべんさんが海へと誘われたのだろう。手を引っ張られた。
「おれは、運転が超うまいんだよ。見てろ!」と、べんさんは、そこでエンジンをかけて荒々しく運転をしてみせた。
「どうだ! おまえら、そんなに大勢でいるんなら、この先はなんとかしろよ。運転やってみなよ!」
 べんさんは、人がいるんだからひとりくらいは運転ができるだろうと、下のキャビンに向かってしまった。
「おれは、もう寝るよ」
 それから、ぐっすりと眠ってしまったべんさんは、どれくらいの時間が経過したのか覚えていない。とにかく疲れ果てていたのだ。
 なにかがぶつかる様な不気味な音が、ドーン、ドーンとする。それでべんさんは目が覚めた。ぶつかるときに、船全体で振動がする。「これは、やばい! 船が壊れてしまう」と、べんさんは、裸で寝ていた体に、シケで湿りいつもビシャビシャのカッパをはおりとっさに外へ出た。
 べんさんの体は、なまりの様に重い。やっと起きたので、幻覚から覚めたような感覚で、現実の過酷な世界に頭が戻るのに辛かった。見渡せば、辺りは真っ暗だ。船は、なにに当たっていたのだろう。慌ててセールをおろす。ブームを固定して舵を握った。そのときの夜明けまでの長いことといったら、今でも思い出すと恐ろしくて、悲しくなる。と、後にべんさんはわたしに語った。
「でもね、なにかに守られていたと思うんだよ」
 現在のべんさんが、山伏の格好をしているのには、不自然さがない。似合っている。わたしはその航海の話を聞く度に感じることがある。この人は、やおよろずの神が守っている。特定の宗教などないし、それに詳しくもないべんさんだが、自然や人、海にと、祈ることにおいては忘れることがない毎日なのだ。
 その行いは、べんさんの場合はとても自然である。この航海に出航前、沖縄のひめゆりの塔にひなあられと花を手向けている。南端にある摩文仁の丘の沖に差しかかると、ひなあられと酒を、同じく捧げ、太平洋上では米を炊きおにぎりにして、酒とともに海にまいて慰霊した。
 もちろん、サクラ号が港から出るときはいつも、海にも、ヨットにもおちょこ一杯の酒をかけて祈った。「それは、海の神様、そして船の神様にね……」と、べんさんは言っていた。それは、最初は沖縄で仕入れた泡盛だったり、次は麦焼酎だったり、日本酒やウイスキーだったりする。要するに、自分が今飲むだろうお酒なのだ。
 べんさんは酒が好きだ。ビールはたくさん買わなくてはならないから、少量でも酔える酒を積んできたのだ。また、べんさんは酒がめっぽう強い。日々の楽しみのひとつだ。
 しかし、シケばかり続く航海である。べんさんに船酔いはあまりないので、それは救われた。しかし、毎日の疲労感は強く、精神的にもまいっていた。
それからは、疲れたら、帆をおろし舵を縛り、なんとか固定して仮眠をすることにした。カフェインのタブレットはやめた。仮眠を繰り返しながら、ヨットの進みは遅いが、それからは、とりあえずなんとかなった。
 カセットコンロを用意してあるが、料理をするのもなかなか難しい。シケばかりで揺れるし、舵から離れられず時間もない。それでもべんさんは、負けずに米だけはよく炊いた。水は充分に積んでいた。米は、缶詰やらレトルト食品で食べることが多かった。たまねぎとじゃがいもは持ってきていたが、気分的にもなかなか調理できなかった。
 そんな中で、新しい酒を開けるときは楽しみで、必ずそれは、おちょこ一杯を海の神様と船の神様それぞれに捧げ、一緒に飲むべんさんはそれらの神々と対座していた。毎晩夕方に一杯やることが日課になり、べんさんのそれらの祈りも毎日となった。
 夜なら、べんさんは頭にヘッドライトをつけている。振り向いて、それが振りかざす先に広がる無限の不気味な暗黒の世界――波はときには牙をむく。そんな夜は、果てしない孤独感と襲う恐怖と戦っていた。
 また、海は顔を変えて穏やかなさざ波のときもある。静かなそんな夜は、べんさんは、暗黒の世界に群青色の空彼方に光り輝く星を見て感動し、月明かりのあまりの美しさに息を呑んだ。
 なかでも、べんさんは、海面に漂う夜光虫に心を奪われた。輝く緑色の光の中に吸い込まれそうなほどそれは、たとえようもなく美しい。船がたてた波に反応してそれらは光る。船の前方は一面の闇だが、進む船がかき分けた波はまるで天の川のようだ。船の後方も、引き波がずっと光る。星とコラボして、無限で幻想的だ。
 この船を、なにかに誘われて飛びおりてしまえば、おれはもう永遠の暗黒世界に入ってしまうだろう……べんさんは、不思議と死というものがとても怖いものと思わなかった。それは今だけ、海の上――ヨットの中だけのことで、陸に上がってからのべんさんは、死というものがやはり人並みに恐怖となるのだが。
 次に起きた問題は、エンジンだった。トラブルの連続で、ヨットを修理するためにグアムに寄ることにして、べんさんは、日本に衛星電話をする。その電話のやり取りの中で、なんとかエンジニアと交信しながら、エンジンを自分でどうにか直した。応急処置で、グアムへ向かう。
 ところが、今度は、船体にひびが入っていた。出航前に、重いイカリは外して、船内の一番後ろのキャビンの中へ閉まっておいた。
 しかし、六十メートルはあるアンカーチェーンは、船首のアンカ
ーロッカーに入れておくしかなかった。百キロはあるチェーンが、荒れた海でその中で踊り、しまいにはそのアンカーロッカーにひびが入ってしまった。船首が波をかぶる度に、水が船内に入ってくる。
 キャビンに少しずつ水が入ってきていた。いつのまにか、水は二十センチは溜まり床板が浮いてきた。ハプニングはまたハプニングを呼ぶ。それをくみ出すポンプも故障で、手動ポンプも使えなくてカップでバケツへ、それからキッチンのシンクへという面倒な動作を、べんさんは一晩中しなくてはならなくなった。それを毎晩繰り返した。
 これらを直すために、どこかの陸地へ、立ち寄らなくてはならなかった。グアム島が近かった。そのときのエピソードだ。船からつたない英語でアメリカのポートに電話をしたつもりのべんさんだが、「どれくらい、着くのにかかる?」と、相手に質問されて、「五日間!」と答えたのが問題になる。
「どこで遭難したのか? そんなに飛ぶのにかかるのか?」
「フライ? フライとは?」
「宇宙かい?」
「アメリカンジョークだな! 船だよ。宇宙船、飛行機じゃない」
 べんさんは間違えて、航空の方の港へ、遭難しそうだと電話をしてしまったのだ。それでもジョークに応じられるとは、べんさんらしい。
 そして、無事ポートに連絡することができて、寄港の許可がおりた。しかし、大きな港の岸壁に横づけである。べんさんは、疲れた体で、その岸壁をサイならぬ、ウミガメのようにゆっくりと登った。それから、入国審査を受け、ヨットハーバーへ――最初からここに着けさせてくれればよかったのに……。ヨットハーバーは、岸壁の反対側で、平坦だったのだ。
「アメリカはさすがだ。寛大だよ。金は取らず、非常時だからと一月のビザをくれた。でもさ、九日間で出たのよ。所持金が四万円しかないんだもの」と、べんさんはわははーと笑って、わたしに話してくれた。この人は、いい意味で悪びれない。逞しい。 
 その少ない所持金で、ヨットハーバー代を払い、残ったもので買えるのは、ビニールシートぐらいだった。それをヨットの問題箇所に貼り付けてみっともない格好だが、そんな補修でまた海に出ることになる。お金はないので、いくら心配してもしょうがないが、せめてと、子供の水鉄砲のようなちゃっちい手動ポンプも買った。
 それからの旅は、またシケの連続だ。べんさんは、雲が遠くに現れたらとにかく、カッパを着る。雲の向こうも下も、雨のカーテンだ。風が強くなれば、波はうねる。バッテリーの充電のため、一日に二時間だけエンジンを回す。ひどいシケになり悪天候ならば、とにかくぎりぎりまで舵にしがみついて、投げ出されないように耐えるだけ……。
 べんさんは、「ごめんなさい。ごめんなさい。もう悪いことはしません」などと、叫んだりした。
 ヨットは、落ちたら終わりだ。海からその側面をよじ登るなど至難の業……。その側面はツルツルとしていて、意外に高い。命綱だろうが、救命胴衣をつけていても、サメに食われるか、波に漂いそのままか、いずれにしても助からないとべんさんはわたしに言った。
 この世の陸地社会で、生きていくのも、表の路線から落ちたら這い上がるのは難しい。だが、そんなことは生命に支障はない。海に落ちる……そんな真剣勝負を意識して、皆、毎日の一瞬の刹那を大切に生きているだろうか? とわたしは、そんなことを思った。
 昔の人の残した教えに、「人は食うために生きるにあらず、生きるために食うなり」という言葉がある。べんさんは、この時、まさに生きるために――ということしか考えられなかった。この航海で苦労した末にたどり着く揺るぎない信念こそが、人生最後に向かうための財産なのである。
 毎日海原ばかり――どこまでが果てかわからない同じ青い空を仰ぎ、吸い込まれていくような夜空に燦然と輝く星達、不気味なほどに明るい月明かりを、べんさんは飽きるほど眺めた。日々を、精一杯生きることだけ……しかないと、べんさんは思うだけだった。
 夜は、キャビンの水をかき出し、それは長いときは昼夜続く。凪のときもある。べんさんは、セイルを下ろして仮眠する。少しでも休むのだ。風と波の行くまま、されるがまま……アゲインストには逆らえない。
 船がひっくり返らないように、ただ耐えている。波の白さが目に沁みる。べんさんに恐怖感はない。ここをなんとかして抜けなければ、前進しないとという気持ちしかない。
 追い風もまた危険だ。そううまく波に乗れることはない。そして、ここでは、今までと違いアゲインストばかりだった。
 しかしまた、逆境はチャンスでもある。少なくとも、人生はそういうときもある。現実は海のど真ん中、ひとりぼっちで人生を考えるなど、なんてロマンチスト! などというところではない 
 べんさんの現実は、厳しい。スコールの中、変化が激しい環境に帆を動かさなくてはならない。風と潮を読まなければ、流されてしまう。
 嵐が来れば、波は舟を高く持ち上げ、落ちるときはまるで遊園地のアトラクションのように真っ逆さまで落ち、揺れる。シケで、目的地に正しく前進しているのかどうかの不安が、べんさんの頭をよぎる。。海の怖さは計り知れない。
 そんな毎日に、ふっと現れたかじきまぐろ――マーリンには、べんさんは心を救われた。マーリンは、船の側に寄り添うようにやってきた。黒光りしているその体と蒼い背びれが美しく躍動している。マーリンはしばらく同じ方向に泳いで、船の横で背びれを立てて、ザーッ! ザーッと大きな音をたてる。 
 べんさんは、不思議と船がひっくり返ると思わなかった。危険と思い格闘するよりも、ただ見つめていた。マーリンは当たらないようにとしている。そう感じて厳粛な儀式を見る気持ちになっていた。
 この魚は、釣ったとき死ぬ瞬間に、体が一瞬青く輝くので、こちらではブルーマーリンと言う。マーリンが海の神からの使者のように感じて、べんさんは感動した。マーリンは、まもなく船の後ろの方へと消えていったが、この出来事は、べんさんにとって、なんとなく生涯忘れられない思い出となる。
 突然現れたあのときのマーリン――海の使者は、なんだったのだろう? あれは幻ではなく、あのザーッ! ザーッという音は、今も鮮明にべんさんの脳裏に焼きついている。
 べんさんは、たまに海面に現れる大きな魚を目の当たりにして、人も魚も数あれど、必ずこの世界では皆死に、また生まれ変わると、この世界はその繰り返しなのだとつくづく感じる。生と死は紙一重、いや生きることは死ぬこととセット……ならば、生きている証の夢をもとう――強くなにごとにも負けない精神で。
 現在のべんさんの姿、そのなんちゃって山伏姿! それはおふざけではない。山の中をひたすら歩く――という命がけの修験者の道。山伏は死と向き合うことで生まれ変わる。どんなに苦しくても目を背けず、山に立ち向かっていく。進んで行く。
 ヨットの冒険者も皆同じで、あきらめずにどんな困難にも耐え、目標に向かって勝つために自分を励まし鍛える。目的を達成させる。
 それは皆同じなのだが、べんさんの場合は、なんちゃって……の遊び心ではないが、そこになんだかホワン! としたゆとりがある。そんな風に見えてしまう。もちろん、ゆとりなど、悪天候やアクシデントに見舞われたときには真剣勝負であるから、あるわけなどない。しかし、ここが彼のすごいところだ。その余裕の無さを感じさせないなにかがある。後で聞けば、べんさんの語る話は、ユーモアたっぷりでとてもおもしろい。
 ヨットの航海の中で、太平洋横断やもっとほかのルートが過酷であるとしても、一歩海に出れば、なにが起こるかわからないという時点で、死と向かい合う恐怖の気持ちは、冒険家は皆、同じなのである。ひとりぼっちの恐怖――大海にだ。
 航海の苦労話を、どこかおもしろく話してしまうべんさんに、聞く方は、死への恐怖の悲壮感は消えてしまう、「死ぬことなんかありゃしないんだ……まずね」と、思うかもしれない。大したルートでもないと軽く思う。しかし、GPSなどまだ普及していない時代だ。
 べんさんの話し方は、怖いアクシデントであるはずの、方向がわからなくなり漂流するだの、落ちるかもしれない高い岸壁を登るとか、幻覚の悪夢だの、怪我だのが大したことでなく、すごい体験に思えてきたりする。わたしは、不老不死にも匹敵する強さをべんさんに感じる。
 それが、ケランダ山の和菓子屋「はやぶさ」にあるなんちゃっておやしろの柱に、客が貼っていく願い事の根源にもあるような気がする。べんさんに願えば、自分の気持ちが落ち着く――だいじょうぶだ!。そういう意味では、彼の懐の深さは海の広大さだ。べんさんのまわりからそういう雰囲気がかもし出されてくるのだろう。
 人の力と風の向くままに、透き通った海原を漂う。自分が自然の大きな海と共存しているような安心感を、べんさんは不思議に感じていたらしい。
 しかし、わたしは思った。蒼く神聖な色でありながら、ともすると残酷な海に、自分が溶け込んでしまったとしても、べんさんは後悔しないかもしれない。自分でここを選んだのだから……。受け入れるだろう。それを身につけるために、べんさんは太平洋を縦断したのだろう。間違いなく、ケランダ山の山伏べんさんに成るために……だ。
 べんさんらしい行いといったら、こんなこともある。グアムを出て数日経ったある日、悪戦苦闘の上、どうやら赤道を越えるというところまで来た。そして、唯一持ってきていた赤ワインで祝杯をひとりであげた。それはいつものように、船の神様に、そして海の神様にとおすそ分けする。赤道は、よく無風地帯などと言うが、そんなこともなく、船は静かに前進していた。
 その日、舵を取るべんさんの前の船首に、一匹のアホウドリがとまっていた。アホウドリは、逃げずにじっと動かない。おとなしくただこちらを見ていた。それから居心地がいいのかずっと夕暮れから座り続け、暗くなっても全く飛ぶ様子もない。アホウドリは、時折少し場所は動く。しかし、鳴きもしない。べんさんは、アホウドリを好きにさせることに決めた。船に危害は与えないようだから、多少の糞などは気にしない。アホウドリは、一晩泊まっていく。そんな珍客を喜んでいたべんさんだった。
 翌日朝日があがり、アホウドリは、キャビンから出たべんさんの動きにまるで初めて驚かされたように、我に返ったように飛び上が
った。それから、慌てて海に落ちるように逃げていった。
「あれは、死んだおやじだったかもなぁ……」と思い、やはり酒を海にまいた。
 そんな穏やかな日も束の間で、べんさんの船はまたシケに見舞われる。この先の航海が、水が少しずつキャビンに入り込むような船じゃ無理だろうともべんさんはさすがに思う。大雨の中、ただ波とともにその行くままに走る。ひっくり返さないようにと、成すすべもなくしがみついて願うだけ……べんさんは、この時、そのままどこかの島でもどこでもいいから、遭難して流れ着いた方がどんなにか楽だろうと思った。
 少し前、ラバウルに着岸の許可をもらっていた。だが、ラバウルにはヨットがつけられる港がない。そのときのべんさんは、どっぷりと疲れきっていた。しかし、着岸は思いとどまった。
 ソロモン海――ブーゲンビル島に沿って南下する。沖にヨットを錨泊して、ゴムボートで上陸は避けたかった。
 その悪天候で、日本に衛星電話をしたところ、シケがひどい状態であるため、そんな船では進むのは無理だから、どこかの島につけて何日か休んで様子を見ろと言う。アドバイザーは、コーラルシーには出るなと言う。
 その悪天候の中、べんさんは、パプアニューギニアのラエに向かう。そこにはマリーナがある。ここに行くとそう決めたから、エンジンをフルに使い急いだ。ところが、やはり、この旅は最初から一筋縄ではいかなかったから、べんさんは、またアクシデントにあう。
 突然次の日、空が暗黒になり、雷が鳴り出したのだ。積乱雲は、まるで空からの竜神が落ちてきたように暴れまくる。
「空の神様に、酒をやっていなかったー」と、べんさんが叫んだかどうかだが、その雷は光るとともに海に落ちた。ものすごい音がして、船のマストに落ちたら必ず死ぬだろうと、べんさんは思った。身も縮むような爆音のする中を、運を天に任しひたすら進んだ。
 べんさんの頭に、体験したことがない戦争の焼夷弾が浮かんだ。
「こんな風に、どこに落ちるかわからない爆弾の中を、戦地にも行
ったおやじは、ひたすら逃げたことがあるのだろうか?」と、べんさんは経験したこともない、和菓子屋のあった下町の東京大空襲を思い浮かべた。雷が落ちたら死ぬ。仕方が無いじゃすまないぞ! とにかく前進あるのみ……どうにかしなくてはという思いだけしかない。早く逃げるのだ。おやじもそうだったのか……。
 そんな父親の最後の死に対する向き合い方は、立派だったとべんさんは思う。そう、担当の医者も誉めていた。そのおやじのことが、脳裏によみがえってくる。
「おれは、もう死ぬだろうから勉を呼び寄せてくれ」と、ある日おやじはべんさんの母親に言った。母親がすぐにべんさんに電話をしてきた。
 そのとき、すでにヨット生活をしていたべんさんは、とりあえず家に戻る。おやじは肝臓がんだったから、いつかはこういう日が来ることはべんさんも覚悟していた。しかしながら、おやじは比較的いつも元気だったので、知らないうちに少しずつかなり進行していたとは、べんさんも不覚で気づかなかった。
 ところが、いざ帰ってみると、おやじは酸素吸入をしていることもあったが、思ったよりも元気で、毎日自宅で起き上がっていた。
「おまえ、よく帰ってきたなぁ。まぁ、ホリデーなんだから酒でも飲もう!」とか言って、べんさんとべんさんのおやじは、毎日酒を酌み交わす。
「なんだ、おやじは元気じゃないか。おれは、なんだか騙されちゃ
ったなぁ」と、べんさんは思ったくらいだ。
 そんなことが三日間続いた後、突然に歩けなくなった。それでも、べんさんとおやじは、日本酒を飲んでいた。昼から乾杯していた。
 次の日、おやじはとうとう入院して、翌々日にはICUに入ったまま死んだ。だれにも迷惑をかけずに、ひとりで静かに死んだ。残されていた手紙には、自分の葬儀の段取りが、通夜の仕出しの寿司のメニューに至るまで書かれていたというから驚きである。
「こんな人はいない。立派だった」と、医者も感心した。それから、べんさんの人間の死というものの考え方が全く変わった。人はいつか死ぬものだ……と。おやじは精一杯の虚勢を張った……と。
 ラエに近づくにつれ、海の色が変わっていく。色々な漂流物が流れてきて海が汚い。天国に近いと言われる青い透き通るような太平洋ど真ん中の海と、色が明らかに違う。人間社会に近いここの海は、世の中の汚いものが全部見えてくる感じがする。
 べんさんは思い直して、早く陸に上がりたいと思う。衛星電話で交信して、ラバウルの許可はあるのだが、パプアニューギニアのラエに入国は許してもらえるのかを問う。
 許可がおりて島に上がったとき、なんとべんさんは歩けなかった。体中の筋力が落ちてしまっていたのだ。そのとき、今までで最高にガリガリに痩せていた。痩せているサイのべんさんなど、わたしは今では想像もつかない。べんさんは、マリーナの事務所に向かうゆるい階段でさえ、体力がなくて歩くのが辛かった。倒れる寸前だった。
「やっと航海は終った」と、正直言ってべんさんは、大きく安堵した。そして、緊張が解けた。
 ここへ着く直前のべんさんは、内心、ここでわざと船を沈めてしまえと思ったくらいだった。そうすれば、遭難救助されて楽になると考えた。そこは思いとどまったわけだが、べんさんが後に人に聞いたところ、この島には海上保安庁なるものも、海難救助隊もないと言う。
「だれも助けにこないよ。沈んだら死ぬだけだ。または、海賊に襲われたら終わりだよ」と、ここで知り合ったヨットマンが言っていた。事実、この国は物騒だった。
 囲いの中にあるラエのマリーナから外に出ることは危険である。一歩出れば、原住民に襲われることも度々で、ナタやナイフのような原始的な武器ではあるが、ここの人間は女も子供も、皆そんな武器を持ち歩いていた。それは、草や木々を刈るものでもあるが、部族同士の争いごとのためでもあった。なにしろ、八百を超えるくらいの部族がいる。部族間の揉め事は日常茶飯事で、喧嘩が絶えない。それが当たり前だから、強盗も多い。外国人からは物を盗む。
 そんなところで、べんさんはヨット生活で五ヶ月もいることになる。それは、ヨットを売ることにしたからだ。ここからは、目的地には近いからほかの手段で行くことにした。船はボロボロだったし、修理する金もなくて途方にくれていた。
 その後、ヨットを買ってくれるという警備会社の社長が現れたが、なかなかお金を払ってくれなかった。それでラエに数か月も居たのだ。ヨットは、買ったときより安く売ったが、もう未練はなかった。この時、べんさんにとって、やっとここまでたどり着いた航海体験は、それほど苦しかったのだ。
 ここに滞在するのには、マリーナに停泊料を払わなければならない。だが、お金はない。
 しかし、ここがべんさんの処世術のすごいところである。なにしろ、自然と人に好かれるというキャラなので、すぐ友達ができる。友達の紹介で、マリーナにあるレストランで寿司などの日本食を作るという仕事をすることで、停泊料金を大幅に安くしてもらった。また、ここで知り合ったオーストラリア人に助けてもらいながら、船を修理して、船で暮らしていた。 
 そのレストランで働いていたとき、キッチンで知り合ったシェフは、ある日、米を買いに行きそのまま帰らなかった。ある部族の男に米を盗られて殺された。
 またあるとき、あるシェフは、「おれ、今日包丁がないので、べん、貸してくれよ」と言う。どうしたのかとべんさんが訊くと、昨日帰り道で襲われて身包みはがされたらしい。彼は、護身も考えて牛刀をいつも持ち帰っていた。「相手がね、なんと銃口を向けてきたんだ」と、彼はべんさんに悲しい顔で言った。着ていた物まで全部盗られ、文字通りに身包みはがされて、すっぽんで帰宅したのだ
った。部族間で、見せしめのために殺した相手の死体を、頭、胴体、手足とバラバラにしたものを道端に置いたりもするらしい。
 マリーナを出たら、なにが起こるかわからない。べんさんは、ただ一度だけ、マリーナを出た。その警備会社を経営している人の家で夕食に招かれたので、皆で行ったことがあるのだ。歩いて二十分くらいの場所だった。それでも十人以上のいかつい男達で並んで行く。帰り道も危ないからまた十人以上で送るのだ。送る人間も怖いので大勢で歩く。
 まだ微かに明るい夜空に、見上げる樹木の間から星がゆらゆらと瞬きだす。聖なる森の間から光る星に比べて、人はなんて醜いのだろう。
 ともかく、べんさんの航海は終わり、無事に海から陸に上がった。この世界で、なにが正しくて、なにが悪なのかわからないけれども、海や森や空――自然の尊さには人は勝てない。しかし、森羅万象を理解し、自然を敬い共生することは生命の尊厳に等しい。
 この世で自分に正直に素直に生きること……。おぼろげに、べんさんの父親が残したもの――メッセージを、航海のずっと後にべんさんは気づいて、悟った。
 それから、オーストラリアの北部、熱帯雨林の大自然のケランダ山に、なんの迷いもなく、べんさんは、家業であった和菓子屋を再現するように「はやぶさ」を作ったのだ。
 その縁はとても不思議

なもので、知人に連れられてケランダ村のその店の場所を見たとき、べんさんはすぐに決めた。すべてがうまくいくと、運命は海からの風とともに動いていた。

しおり