カンガルー
「カンガルー」
指で触れた時、意外と硬いんだなと思った。
でも、実際目で見ると、どうしても柔らかい印象しか残らないのだ。
遠くに行きたいと思った時、僕はまず頭に車をイメージする。
僕は車の運転が好きだし、何より列車よりも自由に好きなところへ行ける。
次に飛行機だ。
飛行機は車ではなかなかたどり着けないもっと遠くへ簡単に運んでくれる。
そういう訳で、僕は長い休暇を取り、まず飛行機に乗り、それからレンタカーを借りた。
走っても、走っても道は限りなく続き、地球の裏側まで行ってしまうんじゃないかと思えるほどだ。
左右には草原が広がっている。もう何時間も同じ景色だ。じつは車は1ミリも進んでいないんじゃないかと思えるほどだ。
トランクにはガソリンの入ったポリタンクを幾つか積んでいる。
こんなところでガソリンが切れたら大変なことになるからだ。
そもそも僕はどこへ向かおうとしているのか。
行き先は謎だ。
でも、目的はある。
僕は野生のカンガルーを探しているのだ。
そのために僕は土煙を立てながら、もう何日も車を運転している。
カンガルーといえばオーストラリアだ。
僕はオーストラリアの地図を広げた。
野生のカンガルーが生息していると思われる場所は国内にいくつも分布している。
確かにオーストラリアという国はとても広いのだ。
しかし、野生のカンガルーがいそうなところは限られている。
僕はその当たりを害ガイドブックで調べ、専門書を見て調べた。もちろん、地元のオージーたちにも聞いた。
それなのに、1週間経っても野生のカンガルーに出会わなかった。
「野生のカンガルーって実は希少な存在なの?」
僕が聞くと、オージーはでかい腹を揺らして笑った。
「そんなバカな。野生のカンガルーなんて牛の糞の数ほどいるんだから。現にほら、、」
僕はオージーが指差す方向を振り返る。しかし、そこにはすでにカンガルーはいないのだ。
観光用のカンガルーは見た。
カンガルーの肉も食った。
そんなものを食べさせてくれるレストランはいくらでもある。
それに大量のマッシュポテト。
キャッシャーの女の子に僕は必ず聞く。
「この辺りで野生のカンガルーに会えるところはないかな?」
オージーは明るく親切だ。時には店のオーナーが出てきて、地図にマジックペンでマークをつけてくれる。店の外まで出てきて、道案内してくれることもある。
「Good Luck!」オージーの立てた親指に僕は笑顔で答える。
ところが、野生のカンガルーは見つからない。
僕は車を走らせ続ける。左右は草原。同じ景色が広がっている。
僕はやがて眠気に襲われる。
木陰を見つけ、僕は車を路肩に乗り上げ車を停める。
僕はそのまま睡魔に飲み込まれる。
はっきり言って疲れている。当たり前だ。1週間も運転したきりなのだ。
冷房のがんがん効いたオフィスを懐かしく思う。
僕はいったい何のために長い休暇を取ったのだろう。
僕は意地を張っているのだ。
カンガルー探しなんてやめて、さっさと観光に切り替えてしまえば、僕の休暇は報われる。わかっている。そもそもカンガルーに会ったところで何の用事もないのだ。
ふと、気持ちのいい揺れを感じて目を覚ますと、僕は宙に浮いていた。
慌てて車の外を見ると、アボリジニのような人たちが大勢で僕の車を持ち上げて運んでいた。
僕は慌てて車の窓を内側から叩くと、車を下ろすようにジェスチャーで示した。
車はゆっくりと地面の上に戻った。
たくさんのアボリジニのような人たちが窓から僕を覗き込んでいた。
僕は車のドアにそっとロックをかけた。
この後の展開がまったく読めなかった。
僕はとりあえず、逃げようと思った。
汗ばんだ手でゆっくりと車のキーを回し、同時にアクセルを踏んだ。
しかし、エンジンはかからなかった。
体中から冷や汗が噴射した。
もう一度、試してみなくてもわかる。キーを回したところで、まったく手応えがなかったのだ。
その時、僕は目撃した。
前方に子ヤギを抱えるように、僕のエンジンを抱えて運んでいる人たちを。
それを見て僕は諦めがついた。
すでに僕は何かに巻き込まれてしまっているのだ。
僕は意を決して、震える足で車外に出た。
「私はカンガルーを探しているだけです」
僕は拙い英語でそう伝え、地図を指し示した。
彼らは頭をくっつけ合って地図を覗き込むと、マーキングがされた部分を指差して口々に言った。
「カンガルー!」
「カンガルー!」
「カンガルー!」
僕はマシンガンのように頷いた。
しかしその一連が収まってみると、彼らは再び僕に刺すような視線を向けた。
僕はまた体中から大量の冷や汗を分泌した。
歓迎されているのか、僕を殺そうとしているのか、まったく表情が読めなかった。
彼らは寄り集まって、こそこそと相談を始めた。
「だから言ったのに」彼女がやってきて僕に言った。
「何が」僕は不機嫌に言葉を返した。
「あなたっていつもそう。何でもないところでどうしようもない目に合うのよ」
彼女は残念そうに目を伏せた。
以前は僕のそういうところを面白がって笑っていた。
しかし、何となく結婚を意識し出した辺りから、彼女は僕を批判的な目で見るようになった。
笑われるより、そんな態度を取られる方が僕は傷ついた。
「野生のカンガルーに会ってくる」僕は彼女に言った。
これはある意味、僕の決意の表明だった。しかし、彼女は空港に見送りに来なかった。
そもそも何故、野生のカンガルーかといえば、それは彼女にプロポーズをしたことから始まっている。
「新婚旅行はヨーロッパ周遊か地中海の島がいいわぁ。でも、まだあなたと結婚するかわからないけど」彼女は言った。
「それって、どういう意味?」
「そういう意味よ。結婚って人生の大きな選択でしょう?この選択でいいのか、はっきり言って悩んでるの」
「気持ちはわかるけど、でも他にあてはあるの?」
「探ってるわ」
「何を?」
「人生の可能性を」
「今から?」
「そう。だって人生は一度きりだから」
僕は少々呆れたが、彼女に言った。
「ねえ、確かに僕は頼りないかもしれない。でも、結婚相手としては悪くないと思うんだ」
「どうして?」
「真面目、浮気はしない、協力的」
「面白みがない、社交性に欠ける、リーダー性に欠ける、ついでに精力が貧弱」
「ねえ、君は誰と結婚しようとしているの?僕だろ?今更、僕にないものを望んだって仕方ないじゃないか。もっと、人のいいところを見ないと。お互いを尊重し合って、補い合って、うまくやっていく、それが結婚ってもんだろ?」
「安心できるけど、発展性がない」
「ねえ!」
それからしばらく彼女から連絡はなかった。
その間、僕が考えたことといえば、結婚相手は本当に彼女でいいのかということだった。
彼女同様、僕にだって人生の可能性は無限にあるのだ。
彼女から久しぶりに連絡が来たのは、3週間後のことだった。
「ねえ、私たち、しばらく時間を空けて考えて見るべきだと思うの」
僕はその意見に特に依存はなかった。彼女のいない時間が意外と快適だったということもある。
「そうだね。お互い、一人になって考えてみよう」僕は言った。
「あら、それでいいの?」
「僕だって、それなりにやりたいことがあるからね。君がいない間だって、結構充実していたよ」
「それは何より。私も楽しくやってたわ」
「何より」
「それじゃあ」電話は切れた。
ところが、翌日にはまた電話が鳴った。
「でも、この気楽さに甘んじている間に、私たち大切な何かを失おうとしているじゃないから」
「と、いうと?」
「家庭よ」
「あなた、子供は欲しくないの?」
「いやぁ、欲しくないわけじゃない。というか、真剣に考えたことがなかった」
「あなたって、そういう未来予測に疎いところがダメなのよね。じゃあいいわ。私が手伝ってあげるから考えてみて」
「うん」
「かわいい子供とかわいい奥さんに囲まれた未来。家はいつも笑顔で溢れている」
「うん」
「対して、一人で年をとって、細々と年金暮らしをしている未来。食事はいつもコンビニ弁当。友だちもいない。趣味もない。持病持ち。ハゲている。口も臭い」
僕は両方のパターンについてイメージしてみた。
コンビニのビニールを手に提げたしょぼくれたじいさんが、悲しげな目で僕を見つめていた。
「どう?想像してみた?」
「してみた」
「それで?」
「やっぱり僕は君と結婚したいと思った」
「私の大切さがわかった?」
「わかった」
「でも、私にも選ぶ権利はあるの」
そこで僕は彼女が駆け引きをしようとしていることがわかった。
「君は何を望んでいるんだ?」
「べつに」
「結婚する男の条件は?」
「マッチョで頼り甲斐があって、独創的な人」
「何一つ、僕は条件に合ってないじゃないか」
「でも、結婚となると女はそれを望むものなの」
僕は条件に合う芸能人や格闘家、スポーツ選手はたくさん思い浮かんだ。
でも到底、僕が目指せるレベルではないのだ。
そして、僕の至った結果がカンガルーだった。
カンガルー程度なら目指せるかなと。
カンガルーは意外と筋肉質でマッチョなのだ。
そして、あの独創性。
どてちんと親父のように寝転がった姿はある意味、頼り甲斐があると見えなくもない。
「カンガルーに会いに行くよ」僕は言った。
「カンガルー?」
「野生のな」
僕はアボリジニのような人たちと草原の中を歩いていた。
前方には僕の乗ってきた車が神輿のように担ぎ上げられていた。
そのまた前方には子ヤギのように抱え込まれた車のエンジンがあった。
もしも、彼らが車を返してくれたとしても、元の走れる状態に戻すのは僕には無理だろうなと僕は思った。
僕は特に拘束されていたというわけではなかった。
ただ、大勢の人たちに囲まれているのだ。
草原から森に入り、しばらく行くと開けた場所に出た。
おそらくここが彼らの住む村なのだ。
彼らは円陣になって座ると、僕もまたその輪の中に加えた。
やがて洗面器ほどの大きな器が回ってきて、僕は彼らにならってその液体を一気に煽った。
酔っ払ったようにいい気分になった。
そして、次に気づいた時には場面が切り替わっていた。
僕は円の中に立たされていた。
頭の中はもやがかかったようにぼんやりとしていたが、視界はやけにはっきりとしていた。
正面には見知らぬ動物がいて、こちらをじっと見ていた。
ホイップクリームのような長くて白い毛をしたかわいいやつだ。
「カンガルー!」
「カンガルー!」
「カンガルー!」
「カンガルー!」
突然沸き起こった喚声に辺りを見回すと、僕の立つ円はアボリジのような人たちに取り囲まれていた。
それもすごい数だ。
彼らはみんな酒に酔ったような座った目で、「カンガルー!」「カンガルー!」と口々に叫び、すっかり興奮していた。
僕は改めて、正面に佇む動物に目をやった。
どうやらこいつがカンガルーらしいのだ。
でも、それは僕の知っているカンガルーではなかった。
確かに言われてみれば、強靭に発達した後ろ足の二足直立、短い前足、長くて太い尻尾を持ち、カンガルーの条件を満たしている。
にも関わらず、やっぱり僕の知っているカンガルーとは別物だった。
僕はその動物に近づいていき、頭の毛に手を伸ばした。
思わず触りたくなるような、ホイップクリームみたいなかわいい毛並みなのだ。
でも、指で触れて見ると、その毛は意外と硬かった。
「なんだ、意外と硬いじゃん」
そう思った瞬間、僕の股間に衝撃的な痛みが駆け抜けた。
僕はその場に崩れ落ち、のたうち回った。
見上げると、ホイップ状の動物がギリギリと歯ぎしりをしながら僕を見下ろしていた。
こいつが僕を蹴ったのだ。
周囲は割れんばかりの歓声に包まれていた。
僕は何とかよろよろと立ち上がった。
するとまたギャラリーが湧いた。
ホイップ野郎は黒目がちの愛らしい瞳でじっと僕のことを見つめていたが、わずかな白目が稲妻のように血走っているのを僕は見逃さなかった。
こいつは僕をヤル気なのだ。
「コイツが真の野生のカンガルーだ」スピリットが僕に囁いた。
僕はホイップ野郎に向かってファイティングポーズをしてみせた。
やつは猛烈な鼻息を吐き出し、後ろ足でロケット級のジャンプを繰り返した。
間違いない。コイツが真の野生のカンガルーなのだ。
「カンガルー!」
「カンガルー!」
「カンガルー!」
ギャラリーは湧きに湧いていた。
一人の男が円の中に分け入ってくると、僕の手にグローブをはめ、マウスピースを咥えさせ、下まぶたを親指で押し下げ、「ファイッ!」と言った。
ふと見ると、僕の運転してきた車が台座に飾られていた。
それで僕はすべてを理解した。
僕は賭けボクシングに祭り上げられた見世物なのだ。
僕には選ぶ道はなさそうだった。
僕は覚悟を決めた。
不思議と恐怖はなかった。
むしろ、メラメラと闘志が湧いてきた。
僕は今、オーストラリアという土地で、よくわからない人たちに囲まれて、よくわからないことに巻き込まれ、カンガルーという名のよくわからない動物を相手に、死闘を繰り広げようとしている。
もしも、生きて日本に帰ることができたら、僕は改めて彼女にプロポーズをしようと思う。