襟
「襟」
襟には象の刺繍があった。
少年の母親が目印に縫い付けてくれたものだ。
象はとても小さくて、近づいてよく見ないと灰色の点にしか見えない。
でも、よく見ると、長い鼻と大きな耳があるのだ。
少年はその刺繍が気に入っていた。
誰も象の刺繍と気づかないところが良かった。
少年が象の刺繍を指先でこすると、象は「パオーン」と彼にしか聞こえないような小さな声で鳴いた。
それは少年のただの思い込みかもしれない。
でも、少年は象が鳴くところも気に入っていた。
象は象で少年のことが気に入っていた。
象は相手が自分に好意を持っていることを感知できる繊細な動物なのだ。
象はアフリカに住む子象だった。
母親と仲間たちと草原に住んでいた。
決して自分のことを、少年のシャツの襟に刺繍された平面的な存在であるとは思っていなかった。
象にとって少年は彼らを取り巻く空気のような存在だった。
その空気が全面的な好意を持って子象のことを包み込んでいた。
空気は子象を撫でるように時々やさしい風を起こした。
子象はじっと目を閉じ、じっとその風を感じる。
そして時々、「パオーン」とよろこびの声をあげた。
だから、少年に聞こえる象の鳴き声はあながち彼の気のせいじゃないのかもしれない。
象が刺繍されたシャツは、少年の通う学校の制服だった。
けれど、少年は学校から家に戻っても着替えずそのまま遊びに出かけるのだ。
何故なら、そのシャツが気に入っているからだ。
少年の母は少年がシャツを洗濯させてくれないことに困っていた。
母は少年のシャツの襟に刺繍をしたことを少し悔やんでいた。
でもそれは、少年を喜ばせたことに比べれば、取るに足らないささやかな悩みだ。
子象の母親にも悩みがあった。
こちらは少々深刻な悩みなのだ。
子象は小食だった。
そのため、体がとても小さかった。
しかし、体が小さいから小食なのだということも言えた。
子象はまわりの子供たちと比べても半分の大きさもないのだ。
少し離れたところから見ると、子象はウサギのように見えた。
そんな我が子をいつも心配そうに母親象は見守っていた。
彼女は、敵から襲われた時に子象が逃げ遅れて食べられてしまうのではないかと、いつも怯えていた。
「ねえ、母さん」夕食の席で少年は母親に聞いた。「僕がご飯をたくさん食べたらうれしい?」
「そうね。うれしいわ」
「どうして?」
「たくさん食べて、丈夫に育ってほしいもの」
少年は頷いた。目を上に向け、母親の言葉について何か考えているようだった。
「ねえ、母さん」少年は再び口を開いた。
「僕がたくさん食べても、ゾウは大きくならないよね?」
母親はじっと少年の顔を見た。少年が何を言おうとしているのか計りかねたのだ。
「ゾウ?」
「そうだよ。アフリカにいる鼻の長いゾウだよ」
「そうね。象が自分で食べないと、象は大きくならないと思うわ」母親は言った。
「やっぱり、そうか」少年は頷いた。
「そんなことより、早くご飯を食べてしまって。食事中に考え事をするのは健康によくないわ」
「母さん、それは本当のこと?」
「何が?」
「健康に良くないってさ」
「確かよ」
「ふうん」
少年はなおも考えていた。
少年はテレビで見た子象のことを考えていたのだ。
「母さん、そのゾウはね、すごく小さいんだ。小さすぎて、すぐに群れから置いていかれちゃうんだよ」
「かわいそうね」母親は言った。
「ぜんぜんかわいそうじゃないよ」
少年がそう言うと、母親はまたちらりと少年の顔を見た。
「群れのゾウたちがみんなで子ゾウのことを迎えに行くんだ。敵を蹴散らして子ゾウを守るのさ。それから鼻で子ゾウを抱えて、交代で安全な場所まで運ぶんだ」
「象ってかしこいのね」
「そうさ」少年は興奮して鼻を鳴らした。
「でも、あなたは子象に大きくなってもらいたいのね?」
「さあ、それはわからないな。だって、みんなに運ばれている時の子ゾウはうれしいそうなんだから。本当に笑っているみたいな顔をしてるんだぜ」
母親は立ち上がって冷蔵庫の扉を開け、デザートのブドウがのった皿をテーブルの上に置いた。
「じゃあ、あなたは何を心配しているの?」母親は話の続きを促した。
「心配なんてしてないさ。たださ、」
「ただ?」
「お母さんが心配なんじゃないかと思って」
「お母さん?」
「ゾウのお母さんだよ。だって、子供が大きくならなかったら、親としては心配なんだろ?」
母親はじっと少年の顔を見た。
「そうね。心配だわ。ねえ、あなたって優しいのね」
「べつに、そんなんじゃないけどさ」
少年は恥ずかしそうに笑った。 母親は少年の成長がうれしかった。
「ねえ、優しいあなたに、私からも一つお願いがあるんだけどな」
「何だい?」
「そのシャツを洗濯させてくれないかしら。今から洗えば、朝には乾くと思うけど」
少年は黙り込んで、じっとテーブルの上の一点を見つめた。それから襟にそっと触れた。
象に相談してみたのだ。
少年は立ち上がると、その場でシャツを脱いで母親に渡した。
何だか寂しい気分だった。
少年は母親にキスをすると、寝室へ向かった。
ドアノブに手をかけたところで、少年は母親を振り返った。
「ねえ、母さん、僕がもうこれ以上、大きくなりたくないって言ったら悲しむよね?」
「そうね。悲しくなると思うわ」
「だろうね」
少年は力なく部屋を出た。
ベッドの中で、少年は子象と水浴びをする夢を見た。
少年の母は流しで少年のシャツに石鹸をつけて洗った。
そして庭に出て、ハンガーに吊るしたシャツを干した。
穏やかな風が吹いて、シャツを揺らした。
母親は手の平に挟んで、シャツのしわを伸ばし、襟元の象の刺繍に触れた。それからそこにキスをした。
母親もまた寂しい気分になっていた。
シャツはもう少年には小さすぎた。
そのことに、ずいぶん前から彼女は気づいていたのだ。