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宿題

「宿題」

 僕が宿題を忘れるわけは話せば長い。
 でも聞いてくれるなら、時間をかけて話していこうと思う。
 僕の言い訳は蟻の行列のようにくねくねと蛇行しつつも一列に並んでいる。
 途切れることのない一つの物語なのだ。

 放課後、もしくは昼休み、僕は先生に呼ばれる。
 何の話かはもうわかっている。
 先生は困った顔をして僕の顔を覗き込む。
 僕も困って先生の顔を見上げる。
 「何の話かはわかっているね?」
 僕は頷く。
 「どうして宿題をやってこないんだい?」先生は言う。
 「先生、違うんです。毎日、宿題はやろうと思ってるんです」僕は言う。
 「何か理由があるなら先生に話してごらん」
 そこで僕はきゅっと唇を結んで黙り込む。顔が熱くなってみるみるうちに赤くなっていくのがわかる。
 理由を言いたくないわけじゃない。でも、どこから話せばいいかわからないのだ。
 僕はそこでいつも涙ぐんでしまう。
 「明日は必ず宿題をやってくるように」
 先生は諦めて、僕に約束をさせる。
 僕は大きく首を縦にふる。
 僕は本で読んで知っている。
 海を渡ったどこかの国では、イエスの時には首を横に振り、ノーの時には首を縦に振るのだ。
 僕はその国の王様になったつもりで先生に返事をする。
 僕は決して先生との約束を破りたいわけではない。
 でも、僕は宿題をするのを忘れてしまう。
 ただ、それだけのことなのだ。
 「いいかい?今日は家に帰ったらすぐに宿題をやるんだよ。他のことはぜんぶ後だ」
 先生は僕の背中に呼びかける。
 僕は振り返って大きく首を縦に振る。
 先生はいい人だ。
 だから僕は嘘をつきたくない。

 家に帰ると父親が待っている。
 彼はいつも悲しそうな顔をしている。
 母親が家を出てしまってから気弱になっているのだ。
 母が家を出たのは、父が仕事をしないせいだということを父はわかっていない。
 それよりも母が違う男の人のところへ行ってしまったことに傷ついている。
 父は悲しそうな顔で僕に抱きついてくる。
 そして、僕の髪の中に鼻を埋めて涙ぐむ。
 しばらくは僕を離してくれない。
 彼は自分の人生を悔やんでいるのだ。
 僕は背中をぽんぽんと叩いて父を励ましてあげる。
 僕は父が気を取り直すのを辛抱強く待っている。
 彼は自分の耳のふちにカタツムリが這っていたとしても気づかない。
 そのくらい父の悲しみは深いのだ。

 やがて父は目に涙がいっぱい溜まった顔を上げると微笑んで言う。
 「さあ、父さんのために買い物にいってきておくれ」
 「でも父さん、僕は宿題をしなくちゃいけないんだ」
 僕は心の中でそう言ってみる。
 でも、実際の僕は買い物に行かなくてはいけない。
 父はアルコールがないと生きていけない。
 ことに僕が学校に行っている間は。
 気弱な父がどんな思いで僕の帰りを待っているかと思うと、僕の胸は潰れそうになる。
 僕は学校のカバンをキッチンの椅子の上において、買い物のメモをとる。この際なので僕は父に頼み事をしてみる。
 「ねえ、パパ。鉛筆を買ってもいい?」
 「どうしてそんなものがいるんだい?」父は言う。
 「宿題をするためさ」僕は言う。
 「お前が使っている鉛筆を見せてごらん」
 僕はカバンから筆入れを出して、いちばんチビた鉛筆を父の前に差し出してみせる。
 父はその鉛筆を見て涙ぐむ。
 「こんなに勉強して。お前もいつか父さんを置いてどこかに行ってしまうんだね」
 僕は鉛筆を筆入れにしまい、父を抱きしめる。
 父は僕の髪に鼻を埋める。
 時間はどんどん経っていく。
 暗くなる前に買い物に行かないといけない。
 僕は何とか父を説得し、家を出る。
 庭の小さな畑の小さなトマトをもいで食べる。
 母が世話していた畑を今は僕が世話をしている。
 道に出ると友達に会う。
 肩をぶつけ合いながら50メートル一緒に歩く。
 曲がり角で僕らは別れる。
 僕は角にある空き家の生垣に飛び込み、庭を抜ける。
 店に行くための近道なのだ。
 庭には台風が通り過ぎた後のように様々なものが散らばっている。
 空き家の中から誰かが窓ガラスを叩いて僕を呼ぶ。
 でも、それは気のせいなのだ。
 僕が窓ガラスに手をくっつけると、誰かが僕の手に手を合わせる。
 でも、それも気のせいなのだ。
 僕が空を見上げると、あっちの世界がくるくると回り出す。
 でも、それも気のせい。
 僕は庭の片隅を掘り返してお菓子の缶を取り出す。
 僕はそこに貯金をしている。
 父がお金を持っているより、僕が持っていた方がいいような気がするからだ。
 僕は大きなコインを缶に入れ、缶の中からお釣りを取り出しポケットに入れる。
 僕は宿題をしないからと言って、頭が悪いわけではない。
 僕はまだ宿題のことを覚えている。
 しかし、僕はあじさいの葉っぱの上に大きなイモ虫を見つけてしまう。
 僕はそのイモ虫を葉っぱから剥がし取らずにはいられない。
 僕はイモ虫を手の平にのせてみる。
 イモ虫は最初緊張して固く丸まっている。
 けれど、次第に心を許して、吸盤のついたたくさんの足で僕の手の平を歩き回る。僕はそのイボイボの感触がたまらなく好きなのだ。
 「背中をなでてごらんよ」芋虫が僕に話しかける。
 僕は人差し指を伸ばして、そっとイモ虫の背中を撫でてみる。
 僕の背中は猫じゃらしで撫でられたようにゾクゾクする。
 僕はイモ虫の背中を触るのが大好きなのだ。
 僕はイモ虫の背中を指で押してみる。それから指で挟んで弾力を確かめてみる。
 僕はイモ虫に頬づりをしてみる。それから口の中で転がしてみる。
 世界は僕とイモ虫だけのものになる。
 僕らは友達になってじゃれ合っている。
 イモ虫は僕の宿題をむしゃむしゃと食べようとする。
 「ダメだよ。これは大事なものなんだ」
 僕はイモ虫から宿題を取り戻そうとする。僕らは引っ張りっこをする。
 「本当は僕だって宿題なんてやりたくないんだ」僕はイモ虫に打ち明ける。「本当はこうして君とずっとひっぱりっこをしてる方がずっと楽しいんだよ」
 そこへカエルがやってくる。
 カエルはイモ虫を手伝ってグイグイ宿題を引っ張る。
 僕はカエルが嫌いだ。
 「離せよ」僕は言う。
 「嫌だね」カエルは宿題のテキストを破いてしまおうとする。
 「もう!ダメなんだったら!」
 僕は強引に宿題を取り返す。

 気づくとイモ虫はぐったりとしている。
 僕は近くに落ちていた枝の先で突っついてみる。
 イモ虫は動かない。
 イモ虫の体からみどり色の液が染み出ている。
 僕はイモ虫を枝で押さえつけて不思議な液が地面に広がっていく様子をじっと見ている。
 その様子を少し離れたとことからカエルが見ている。
 カエルは僕のことを誰かに言いつけるかもしれないと僕は思う。
 だから僕はカエルが嫌いなのだ。
 そうしていると、ニワトリが走ってやってくる。
 ニワトリは傍から顔を出してくちばしで僕のイモ虫を摘み上げると、上を向いてグイグイと喉の奥に押し込んでしまう。
 僕が石を投げるとニワトリは逃げていく。
 僕はニワトリを追いかける。
 気づくと僕はひとりぼっちになっている。僕の心は急に悲しみでいっぱいになる。
 「ママはどうして僕を連れていってくれなかったんだろう」
 母は僕を置いて行ってしまったのだ。
 あんなろくでなしの父を置いて。
 母はいない。
 イモ虫もいない。
 僕は頭にきて大声を出して泣き出す。
 泣きながら店に飛び込むと、店の奥さんがいつも家まで送ってくれる。
 僕は夜道でぎゅっと奥さんの手につかまっている。
 もう片方の僕の手にカエルが冷たい手でつかまってくる。
 「これでもう宿題はしなくて済むな。だって君は泣いているんだから」
 カエルは僕に耳打ちをする。
 手を振り払おうとしてもカエルは離してくれない。

 家では心配性の父が待っている。
 父は何十年も会っていなかったみたいに僕に抱きついてきて、僕の髪に鼻水を擦り付ける。
 店の奥さんは呆れて帰っていく。
 僕はしばらく夕食にありつけない。
 ありついたところで夕飯は缶詰と決まっている。
 しばらくすると家中はしーんと静かになる。
 父が家中の電気を消して回るのだ。
 寝るときはみんな一緒。
 例外は許されない。 
 僕は諦めてベッドに潜り込む。
 しばらく水道の蛇口から落ちる水音を聞いている。
 でも、いくら考えたところで、暗闇の中では宿題はできない。
 明日、朝日が出たら宿題をやろうと僕は決心する。
 そして目覚ましをセットする。

 夢の中で僕はパンチボールをする。
 パンチボールは相手を叩くためにできている。
 風せんのような形をしていて、相手を叩くと色のついたけむりが出る。
 それはピンクだったり、黄色だったり、みどりだったり、青だったりする。
 僕は怪獣たちとパンチボールをする。
 夢中になって叩きあっているうちに、みんな色だらけ、けむりだらけになる。
 僕はパンチボールが大好き。
 怪獣のことも大好き。
 そのうち僕はヘトヘトになって、夢の中でも寝てしまう。

 目覚ましが鳴ったとき、僕はどうしてそれが鳴っているのかわからない。
 とにかく僕はパンチボールでヘトヘトに疲れているので、また眠ろうとする。
 すると、頭の中に先生の悲しい顔が浮かんでくる。
 僕は宿題のことを思い出してあわてて飛び起きる。
 僕はベッドから出るなり、筆入れと宿題のテキストを抱えて廊下を進む。
 家の中はどこもまだ薄暗い。
 父はソファで寝ている。
 僕は父を起こさないように外に出ることに決める。
 もちろん、宿題をするためだ。
 僕は玄関の扉を開ける。
 でも、そこにはイモ虫とカエルが待っているのだ。

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