兄
「兄」
まず思ったのは、相変わらずきれいな顔をしているんだなということだった。
兄の死体を見つけたとき、僕はそれ以外特に何も思わなかった。
それには兄が死んでいることを、僕が知っていたからということがある。
僕が殺したわけではない。
ただ、もう兄は生きていないだろうということがわかっていただけなのだ。
兄は放り出されたように、肢体を広げ地面に横たわっていた。
死後数日経っているのかもしれないし、まだ死んだばかりなのかもしれなかった。
傷みはほとんどなかった。
唇の端に殴られたような小さなあざがある他は外傷も見当たらない。
目は見開かれ、空を見つめていた。
でも、苦しんだ表情はそこに浮かんでいない。
僕は兄の傍にしゃがみ、兄の手の指先をつまみ持ち上げてみた。
兄の腕は硬直して重かった。
首に触れると恐ろしく冷たかった。
僕は死体の周りを一周してみたが、これといっていい考えは浮かばなかった。
翌々日、僕は再び兄の元へ向かった。
僕が枯葉を踏み鳴らし近づいていくと、いくつかの生き物たちが飛びのいたり、かさこそと音を立てたりして、その場から去っていった。
兄の目玉はすでになくなっていた。
それで最初に僕が見つけた死体は、まだ死後間もなかったのだということが推測できた。
兄の唇は膨れ上がり、その回りにはウジのような白い虫がはびこっていた。
鼻の穴にも、耳の穴にも見たことのない虫が列をなしていた。
僕が兄の死体の近くの切り株に座ってじっとしていると、再び鳥やリスなどの小動物が集まってきた。
僕は自分が何故、兄の死を警察に届けないのかということについて考えてみた。
そして、僕は兄のことがあまり好きではないのだと、いう結論に至った。
死体を放置していることについて、罪の意識はなかった。
むしろ、僕は死体である兄と過ごす時間に安らぎすら感じていた。
僕は生まれてからこの町を出たことがなかった。
僕は学校を卒業すると、兄と同じ自動車メーカーで製造の仕事についた。
町にはその仕事しかないのだ。
この町を出ない限り、学校を卒業すると誰もが、油まみれになって自動車を作り一生をすり減らして死んでいくのだ。
でも兄は違っていた。
就職から数年後に彼は、同じ自動車メーカーでも営業部門へ移っていった。
それは兄の不屈の精神と努力によるものだった。
運も良かったのかもしれない。
兄はスーツで身を整え、短く刈った髪に櫛を入れ、セダンの車を運転して、様々な町へ出て行くようになった。
週末になると、よく夫人を連れて僕のうちに遊びにきた。
ビールを飲み、食事をともにした。
妻同士も仲良くやっているようにみえた。
「お前も営業に来い。俺が面倒をみるから」
そう言って兄は何度も僕を自分の職場に誘った。
けれど僕は兄のようにスーツが似合うとは思えなかった。
僕は生まれつき右足が短く、そのため歩き方に変な癖があった。
背も兄のようには伸びなかった。
妻は僕が営業の仕事に移ることを望んでいたが、僕が頑なであることを知っていたから、そのことをあまり口に出すようなことはなかった。
兄は順調に仕事の成績を伸ばし、僕との収入の差も開いていった。
人のいい彼は僕ら夫婦にもその恩恵を分け与えてくれたが、それは僕に妻との浮気を疑わせた。
妻は物欲しそうな目を兄に向けた。
僕はそんな妻に癇癪を起こした。
そのうち兄夫婦の足は我が家から遠のいていった。
兄の離婚を知ったのは、それからしばらく経ってからだった。
ある日、兄は一人で僕の家を訪ねてきた。
久しぶりにあった兄はずいぶんと痩せていた。
離婚の原因は妻の浮気だった。
「大丈夫かい。兄さん」僕は声をかけた。
「ああ」兄は微笑んだ。
「義姉さんのことは僕もショックだよ。でも、兄さんだったら、義姉さんの過ちを許して家庭を立て直すことはできただろうに」
「僕だってそれを望んださ。でも、離婚は妻が望んだんだ」
僕の妻は僕から離れていこうはしなかった。
僕が家に戻ると、いつも暗い顔で僕を迎えた。
そんな風だからきっと兄にも見限られたに違いないと僕は思った。
もしくは妻は、兄と浮気なんてしていなかったのかもしれない。
僕は妻にも兄の死のことは告げなかった。
僕は兄の死体に触れた手でパンをちぎり、いつものように食事をとった。
兄の死体を見つけたのは僕が育った家の裏手にある森の中だった。
子供の頃、僕らはよくその森に潜り込み長い時間を過ごした。
その森の入り口は近所でお化け屋敷と気味悪がられている空き家の庭と繋がっていた。
そのせいか森で誰かにすれ違うことは一度もなかった。
そもそもその森が本当に存在しているのかも疑わしいのだが。
兄の死体はしだいに朽ちていった。
それはたくさんの生き物たちの共同作業によるものだ。
僕が枝の先で兄の靴のかかとを叩くと、兄の体を覆っていたその生き物たちは、その振動で波が引くように退いていった。
そうしてしばらくすると、また兄の体に戻ってくるのだ。
僕は立ち上がると兄の茶色い革靴を脱がせた。
靴の中にも、靴下の中にも、指の間の皮膚にも生物ははびこっていた。
僕はボタンを外し、兄の衣服を脱がしていった。
こうした方が生き物たちも兄の体を分解しやすいと思ったからだ。
作業がペニスまで至った時、僕は抑えきれないほどの憤りを感じ、近くに落ちていた棒切れを拾うと、ゴルフのスイングのように兄のペニスを打った。
驚いたことにペニスはゴルフボールさながら弧を描いて草むらに落ちた。
少し離れたところでかさりと音がした。
兄の体のペニスがあった箇所には、イチジクのような具合に穴が空いていた。
腐敗は進んでいるのだ。
辺りには異様な匂いが立ち込めていたが、それを嫌う者は誰もいなかった。
それどころか生き物たちは兄の体にひしめき合い、勤勉に営みを続けているのだ。
兄が二番目の妻を連れてきた時、兄はすでに勤めていた会社を辞めていた。
兄はしばらく違う土地に住んだ後、その女を連れてきた。
兄は二番目の妻のことをビジネスパートナーなのだと僕に紹介した。
そして、二人は自動車保険の代理店の会社を始めた。
この時も兄は自分の会社に僕を誘った。
でも僕はビジネスパートナーである彼の妻と3人で働く気にはなれなかった。
このときも兄は、営業で培った実績と人脈を生かし、事業をあっという間に軌道に乗せた。
兄はもともと努力家な上に、責任感が強く人望も厚いのだ。
それに美しい顔つきをしていた。
しかしよくない噂が広まると、兄は信用を失い事業は立ち行かなくなった。
沈みかけた船から飛び降りるように、ビジネスパートナーである二番目の妻は早々に彼の元を去っていった。
少し金を貸して欲しいと兄から申し出があった時、僕は金を貸す代わりに兄を励ました。
「兄さんならきっと何とか立て直すことができるさ」
しかし間もなく、兄は汚名を返上できないまま会社は倒産した。
小さな頃、僕と兄さんはとても仲が良かった。
僕は兄さんの行くところならどこにだってついていった。
兄さんはいつも僕の手を引いてくれた。
あるとき、兄は僕を置いて大きな木の陰に隠れたことがある。
それはちょっとした悪戯のつもりだったのだろう。
しかし兄が再び姿を現した時、僕は殺意に近い怒りを覚え、近くに落ちていた石を拾って兄に飛びかかった。
おかげで兄は右のまぶたは深い傷が残った。
両親は僕を激しく責めたが、兄は僕を許した。
僕は許された。
僕はいつも大きな不安を抱えていた。
それは今でも変わらないのだ。
兄が三番目の妻を連れてきた時、僕の中には絶望と軽蔑しかなかった。
僕はそれまで兄が連れてくる女性とは、強引にでも関係を持つことに決めていたが、連れてきた女は目を背けたくなるような代物だった。
彼の三番目の妻は、僕に色目を使って誘いをかけてきた。
「あんたの奥さんはあんたに多額の保険をかけてるよ」
僕は兄に教えたやった。
「勝手にすればいいさ。僕の死んだあとのことなんて、僕には関係ない」
兄はまったく取り合わなかった。
「じゃあ、その保険の掛け金を僕が支払っていると言ったら?」僕は兄の表情を伺った。
「お前は金に困っているのか?」
「いや。少なくともあんたよりは困っていない」
「確かに」
兄は悲しそうに笑った。
兄は疲れたジャケットを着て、髪も髭も伸び放題で、以前の美しい兄は見る影もなかった。
彼はジャケットのポケットからウイスキーの小瓶を取り出すと一口飲んだ。
「あんたが客の妻と寝まくっているって噂を流したのは僕だよ」
兄は真意を伺っているような目でじっと僕を見つめ、「そうか」と言った。
「僕は義姉を無理やり犯したんだ」
今度は僕を一瞥しただけで何も言わなかった。
兄は僕に背中を向けると、ジャケットのポケットに両手を突っ込みおぼつかない足取りで歩き出した。
「兄さんはチーターよりも早く走ると思っていた」
僕はいつの間にか泣き崩れていた。
兄はゆっくりと振り返った。そして幼い頃を見るように目を細めて僕を見た。
「僕だってそう思っていたさ。お前のためならね」
再び、兄が僕に背中を向けた時、僕は近くに落ちていた石を拾って兄に飛びかかっていた。
兄の死体に残った唇の端のあざはその時のものだ。
「大丈夫だよ」兄は言った。
子供の頃、兄は僕を背負って森の道を駆け抜けた。
木々が、花々が、小川が、蝶が、僕の目の端を素早く流れ、兄はチーターよりも早く走れるのだと僕は信じていた。
僕と兄はいつも愛という絆で繋がっていた。
森の中で僕らは親密な時間を過ごした。
兄は死んだ。
死因はどうあれ、僕が殺したことに変わりはないのだ。
僕はもうこの森から出ることはないだろう。
兄の死体は様々な生き物たちのおかげで生まれ変わっていた。
植物が生い茂り、花を咲かせ、再び新しい生き物たちを呼び寄せた。
昆虫が茎を這い、花々にミツバチや蝶が集う。鳥たちが頭上を巡り、やさしい香りが僕を包んでいた。
風に揺れるその様子は、まるで僕を慰めているかのようだった。