65話 懐かしき来訪者
もうどうでもいい、なにもやる気が起きない。
俺は大きな溜息を吐くと手を止める。
「どうしたロイム! もうスタミナ切れか? この根性なしがっ!」
ミットを構えたバンディーニが俺に罵声を浴びせるのだが、今の俺には何も響かない。
適当に拳を突き出すと、ぽすっと音がなる。
「なんだその気のないパンチはあっ!」
「これは、ハートブレイクショットって言うパンチだよ……」
俺の言葉にバンディーニは力なく天を仰ぎ、少し休憩だと言って井戸の方へと行ってしまった。
俺はその場に座り込み、ぼーっと空を見上げると昨日のことを思い出す。クイナに襲い掛かってしまったことだ。
よくよく考えると、あれって強姦未遂だよな。俺はなんということをしてしまったのだろうか。てっきり両想いだと思っていたのに、まさかこんなことになるなんて思いもしなかった。
もう、おしまいだ。あんなことをしてしまって、俺はもうクイナに合わせる顔がない。て言うか、死にたい。死んで詫びたい。
「あぁ、いっそのこと、空に浮かぶあの雲のように、どこか遠くへ飛んで行ってしまいたい……」
そんな放心状態の俺のことを、遠くで見つめている二人組。
バンディーニとロゼッタだ。
「なに、あれ?」
「いやぁ、どうも失恋しちゃったみたいで、ずっとあんな調子なんだ」
「はあっ? 失恋! だ、誰によっ!」
ロゼッタはなんだか酷く慌てた様子でバンディーニに食って掛かっている。
そんなロゼッタのことをニヤニヤと見ながら、バンディーニは説明する。
「お嬢様も知っているでしょう。クイナですよ」
「ク、ククク、クイナっ? ああ、そうね、クイナね。で、クイナが失恋したの?」
「違いますよ。ロイムが失恋したんですよ。いい感じだと思ってたのになぁ、まさか、向こうは単なる同級生程度にしか思ってなかったなんて」
ロゼッタは開いた口が塞がらない様子なのだが、急に我に返ると顔を真っ赤にしながら俺の方へとズンズンと近づいてきた。
「全部聞こえてたぞ、人の恋路を笑いに来たのか?」
「あんた馬鹿じゃないの! そんなことよりも今は試合に集中しなさいっ!」
「試合ぃ? もうそんなもんどうでもいいよ」
「な、なんですってぇぇぇぇええ!」
ロゼッタは俺の胸倉を掴みあげると、唾を飛ばしながら怒声を上げる。
「あんた! ふざけんじゃないわよ! 女に振られたくらいで女々しい奴ね!」
「うるせえっ! おまえに俺の気持ちがわかるかあ! ちきしょう、自分は婚約相手が見つかったからって浮かれやがって、人の気持ちも考えやがれえっ!」
「だ、誰が浮かれて」
ロゼッタは、右手を振り上げるといつものように俺に張り手を喰らわそうとした。
俺は目を瞑って衝撃に備えるのだが、いつまで経っても顔面を張られない。
恐る恐る目を開けると、ロゼッタはしょんぼりした様子で、少し目が潤んでいるようにも見えた。
「もう……いいわよ……ばか」
そう言うとロゼッタは、トボトボと練習場から去って行った。
「怒ったりしょぼくれたり、一体なんなんだよあいつは」
「ロイム、君は本当に女心がわかっていないね。そこまでいくと最早病気だよ」
いつの間にか俺の隣に来ていたバンディーニが、呆れた様子でそう言うのであった。
しばらくして休憩を終えると、バンディーニが口を開く。
「そろそろかな」
「なにがだよ?」
また何か変な事を思いついたのかと思い俺が眉を顰めると、バンディーニは相変わらずふざけたニヤケ面をする。
こういう顔をしている時のこいつは、明らかになにかしらのサプライズ的なものを用意しているのだが、はっきり言ってバレバレなのだ。
すると、練習場に何人かの男達がやってきた。
その姿に俺は、驚きの余り声も出せずに立ち尽くす。
男達は俺に気が付くと駆け寄ってきた。
「ロイム、久しぶりだね! うわあ、本当にロイムだ!」
「ト、トール? おまえトールだよな?」
目に涙を浮かべながら俺の両手を取ってぶんぶんと振っているのは、候補生時代に一緒に練習をしたトールだ。当時からデカかったが、更に身長が伸びてやがる。
そしてもう一人はディック。会うのは久しぶりだが、こちらも元気そうでなによりだ。
「いやあ、それにしてもロイムは相変わらず小さいね」
「アホか、おまえがデカすぎるんだよ。てーか、シタールの奴は元気にしているのか?」
「う、うん……シタールなら、元気だよ」
なんだか歯切れの悪い返事に俺は怪訝に思うのだが、突っ込んだ話はまた後で聞くとして。
どうしてこの二人がここにやってきたのか、その説明をバンディーニが始めた。
「もう気が付いているだろうが、この二人は長身でリーチも長い」
「まさか、こいつらを仮想エドガーとしてトレーニングするつもりじゃないだろうな」
「そのまさかだ。現状、まともなボクシングを出来て、尚且つロングリーチの相手と言ったらこの二人しかいないからね」
「アホか、この二人にフリッカージャブから教えるのかよ」
俺が呆れて言うと、バンディーニは小さく首を振って意味深に答える。
「普通のジャブでいいのさ、それで君の欠点が見えてくる」
続く。