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スラム街のドブネズミ

「お兄さん、あたしを買ってくれない?」

 スラムの東端、王都とスラムを隔てる城壁から最も離れたその場所は、王都と東方の地方都市を結ぶ街道にほど近い。国王の許可を得た正式な商売人たちの影で闇商人たちが暗躍するのに、これほどぴったりな場所はなかった。新月の夜、ひっそりと灯されたランタンの灯りを頼りに闇市は開かれる。スラムにはほとんど出回ることのない果物ばかりを売る闇商人の元に現れた女は、歌うような声で誘いかけた。

 女の纏うボロ切れを見て、商人は追っ払おうと手を上げようとして……そのボロ布の合間から見え隠れする胸元に思わず釘付けになった。ろくな食べ物を口にしていない安い娼婦にしてはあり得ないくらい大きい胸に魅了されて女の顔を見れば、扇情的な体型にそぐわぬ幼さを残した愛らしい顔つきで男を見上げていた。

「へえ……いいぜ、あんたを買ってやっても」

 下卑た笑みを浮かべて闇商人は少女に近づく。意味深な手つきで少女の腰に手を回そうとしたその瞬間、背後に殺気を感じて男はとっさに振り向いた。そこには金色の瞳をギラギラと輝かせた金髪の少年が立っていて、闇商人はその男から発されている凄まじいほどの怒気にたじろぐ。

「俺の女に触るな」

 意味不明なその言葉に抗議しようと口を開いた次の瞬間、闇商人は腹に強烈な拳を受けて失神した。ひっそりと息を潜めて行われている闇市の中で、それはあまりにも目立ちすぎる出来事だった。

「おい、怪しいやつらがいるぞ!」

 周りの出店の闇商人たちが叫び、雇われた護衛役の傭兵たちが駆けつける。少女がおろおろと周りを見回す隣で、金髪の少年は瞳をギラギラと輝かせたままで不敵に笑った。

「いくらでもかかって来いよ、俺が全員ぶっ潰して……むごご」
「この馬鹿!」

 高らかに告げようとした少年の声は、途中で誰かに口を塞がれて遮られる。胸元まで伸びた長い黒髪を風になびかせながら現れた紫色の瞳の少年は金髪の少年を罵倒すると、少年と少女の手を取って一目散に走り出した。

「絶対に逃がすな!」

 商人たちの怒号を背中に受けながら、三人は走る。スラムの路地の狭い抜け道から抜け道を通り抜けて路地裏の袋小路に逃げ込めば、あっという間に追手の傭兵たちは彼らの姿を見失った。

「あいつら、どこ行きやがった!?」
「探せ、探せ!」

 彼らを探し回る傭兵たちの声が徐々に遠ざかっていくのを聞いて、三人は安堵のため息をつく。落ち着いたところで、黒髪の少年が宙に手をかざして小さな火の球を作り出した。小さな灯りに照らされながら、この事態を引き起こした原因である金髪の少年に怒りの視線を向ける。

「ソル、お前は何度言ったら分かるんだ? キティが商人の気を引いてくれている間、作戦通りにりんごをくすねることができていればキティに手を出される前に逃げられた。それなのにあの男が彼女に触れようとしただけで殴りつけるなんて……! おかげでりんごは一つも手に入らなかった」

 ソルと呼ばれた少年はそれを聞いて申し訳なさそうに頭をかいた。その金色の瞳はもうギラギラとした光を宿してはいない。

「ごめん、ベル。あんな薄汚い男が俺のキティに指一本でも触れてしまうと思ったら耐えられなかった」
「ベル、ソルのこと怒らないで。あたしがちゃんと誘惑できなかったのがいけないんだ」

 ベルと呼ばれた黒髪の少年の怒りを感じて、少女も目に涙を浮かべて謝罪する。落ち込んだ様子の二人を見て、ベルはため息をついた。やれやれと首を振ると、俯くソルとキティの頭をぽんぽんと撫でる。

「もう怒らないから、二人とも顔を上げてくれ。二人が無事ならそれでいいんだ。りんごの調達は別の手段を考えよう」

 顔を上げればベルは優しく微笑んでいて、二人は安心して頷いた。

「とりあえず今日のところは諦めて隠れ家に帰ろうか」

 ベルがそう提案して、三人揃って帰路への一歩を踏み出そうとしたその時だった。

「残念でしたねえ」

 突然聞き覚えのない声がして、三人は一斉に振り返る。 行き止まりのはずの路地の奥からランタンの灯りと共に現れた見知らぬ男の姿に、全員の顔が強張った。

「誰だ」

 ベルが警戒心を露わにしながら問いかける。ソルとキティをかばうかのように、彼は二人の前に出た。その様子を見て、左手にランタン、右手に分厚い本を手にした男は品定めをするかのように目を細めてベルを眺める。その仕草は男を若者のようにも老人のようにも思わせて、三人を戸惑わせた。

「なるほどねえ……。貴方なら、出来そうだ」
「何の話だ」

 意味深に呟く男に、ベルは眉をひそめた。十年間スラムで生き延びてきたベルの勘が、この男に関わるべきではないと告げていた。背中に隠れるようにして、左手でソルとキティに下がるよう指示する。それを見て、二人はゆっくりと後ずさろうとした。次に男が告げた言葉を聞くまでは。

「私はあの闇市に店を出している者でしてね。まあ、闇商人というやつの一人です。ダン、とお呼びくださいな。この度は、貴方がたと商談がしたくお声がけ致しました。貴方がたが欲しがっていたりんご、私が差し上げましょう」
「「え?」」

 ソルとキティが同時に声を上げる。ベルはそんな二人にため息をついて、不信感に満ちた瞳を男に向けた。

「何が望みだ。私たちには差出せる対価などないが」
「ええ、そうでしょうねえ」

 ダンと名乗った男は胡散臭い笑みを浮かべてベルの言葉に頷く。

「私が欲しいのは物ではないのです。貴方がたのようなドブネズミごときが手に入れられるような品を私が手に入れられないはずはない。私が欲しいのは質問の答えです。答えられたらりんごは差し上げましょう」
「……質問とはなんだ」

 そう問いかけられて、ダンはフッと無表情になった。無機質な、人間味を感じない声色で彼は告げる。

「《《貴方はどんな願いを抱いて》》、《《この場所で生き続けているのですか》》」

 一瞬、世界が時を止めたかのような静寂が生まれた。ベルは目を見開いてダンを見つめていた。ソルとキティは何も言えないまま、手を繋いで揃って泣きそうな顔でベルを見守る。

「それは……」
「希望など一欠片もありはしないこのスラムで、《《生き続けることに意味はありますか》》」

 ベルはうつむき、拳を固く握り締めた。その問いは、彼の中にずっと存在するものだった。この地獄のような場所に追いやられたその日から、その答えを考え続けて十年が経つ。

「……分からない」

 長い逡巡の後、ベルはうつむいたまま小さな声で呟いた。それから、スッと顔を上げて、真っ直ぐにダンを見つめる。その紫の瞳には、彼の内に宿る強い意志を感じさせた。

「分からないから、まだ死ねない。《《自分に生きる価値がないと確信するその時までは》》、生き抜くと決めたから」

 その答えに、ダンはしばし考え込む。無表情だったその顔がゆっくりと笑みを浮かべた。

「そうですか。では、答えが出るまで待ちましょう。りんごは好きなだけ差し上げますよ。出世払いというやつです。貴方が辿り着く先が、私の期待以上であることを願っていますよ」

 彼がそう告げた瞬間、ベルの足元にコロン、と何かが当たる。ベルがりんごだと認識したときには、ごろごろと数えきれないほどのりんごが辺りに転がっていた。

「うわあ……!」
「すごーい!」

 喜んで拾おうとするソルとキティだったが、ベルはそれを制する。

「ダメだ」
「「えー?」」

 二人が揃って不服の声を上げるが、ベルはゆっくり首を振った。彼は足元のりんごを五つだけ拾い上げる。

「おや、五つだけで良いのですか?」

 不思議そうに尋ねるダンに、ベルはきっぱりと告げた。

「お前の目的が分からないのに、釣り合わない報酬を受け取る気にはならない。本来なら五つ分の答えでさえなかったが……どうしても、五つ必要な理由がある。りんご五つに見合う答えを必ず用意するから、今は許してくれ」

 そして彼はダンの反応を待つことなく身を翻して歩き出す。ソルとキティは名残惜しそうに辺りに転がるりんごを見つめていたが、ベルに立ち止まる気がないことを理解すると残念そうに後を追いかけていった。ダンはしばらくその様子を意外そうな顔で見つめていたが、やがて声を上げて笑い出した。その場にはもう誰もいないはずなのに、語りかけるような調子で一人告げる。

「貴方が今ここで受け取らなかったとしても、《《そのりんごがたどり着く先は同じ》》なんですけどねえ。本当に面白い人です。君が目をかけている理由がよくわかりました」

 彼の目線は足元に向いていた。そこには、スラムの路地裏にいくらでもいそうな一匹のドブネズミ。ただ、そのネズミの瞳は真っ赤に光っていた。

「君の願い通りに育ってくれればいいですね。その前に潰れちゃいそうですけど……面白そうなので、手を貸してやってもいいですよ」

 ダンの言葉に答えるかのように、ネズミは彼の高そうな革靴をガリガリと引っ掻く。それさえも彼には愉快らしく、しゃがみこんでネズミの頭を指でぐりぐり撫で回した。

「これから楽しくなりそうですねえ、ニック」

 ネズミはダンの指からなんとか逃れると、路地裏の奥の闇へと走り去る。後には、一人笑い続ける怪しげな闇商人だけが残されたのだった。

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