どんな心の傷でも取り除いてみせよう。
「痛み」とは存在証明だ。
真宮(まみや)瑠璃(るり)は暗い自分の部屋の隅に下着姿で座り込み、右手にはカッターを握りしめていた。やがて、彼女はカッターの刃をカチカチと押し出すと、ゆっくりと左手首へと近づけてゆく。
滴る血だけが、私と世界の境界面を教えてくれる。
既にいくつもの傷が刻まれた左手首から、血がポタポタと滴り落ちて絨毯を汚す。
ああ、よかった――。今日も私は、ちゃんと「生きていた」んだね――――。
「なぁー、今日帰りゲーセン行かね?」
「いいねー」
クラスメイト達が騒がしい放課後の教室の中、真宮瑠璃は帰り支度もせずに、机に突っ伏していた。彼女は別に眠いわけではなかったが、これから家に帰らねばならないという現実に向き合いたくなかったのである。
「真宮さん、なんかまた手首の傷が増えてない? 制服もなんだか汚れてきてるし……」
「なんでも最近、真宮家の会社が倒産したらしいよ」
「うわー何ソレ、一家没落ってヤツ? 前は裕福そうだったのに……」
「マジかよヤバくね? なんてカワイソーに……」
やがて、クラスメイトのヒソヒソ話に耐えきれなくなってきた真宮瑠璃は顔を上げて通学鞄を掴み、さっさと教室を出てしまう。
とはいえ、一体どこに行けば……
行く先を失くした真宮瑠璃は、とりあえず公園に向かうことにした。ベンチに座りこんで、ぼんやりと秋の夕焼けの空を眺める。すっかり日没が早くなって、草むらからは虫が鳴き出していた。
「お嬢さん、一人かい?」
ようやく真宮瑠璃が落ち着きを取り戻してきた時、一人の青年が彼女に近付いてきて声をかける。
その青年はどこか儚げな出で立ちをした男だった。長身の痩せ型で、肩には丈が長めの藍色コートを羽織って、袖口を風になびかせている。髪は左目が隠れる程度に伸ばしており、後ろ髪はザンギリ風に束ねていた。
「こんな時間に、女の子が一人でいるなんて危ないよ。早くお家に帰りなさい」
「……ご忠告どうもありがとう。でも私、今はたそがれていたい気分なの」
「そうかい、なら僕もご一緒していいかい?」
「えっ……!? ええ、いいわよ……」
そう言うと青年は遠慮もなしに彼女の隣の席へと座りこんでくる。
「……………………」
気まずい沈黙が流れた。青年は一言も発せず、ただ沈みつつある夕日を眺めているだけである。
この男は私を誘っているのだろうか?
次第に真宮瑠璃は彼が自分を狙っているのではないかと思い始めていた。
「…………シたいんなら、三万でいいわよ」
以前の彼女ならば、怖くなって逃げ帰っただろうが、今の半ば自暴自棄になっている彼女は大胆な発言に出てしまう。お金があれば、家にいる父親もきっと喜んでくれるだろうと思っての行動だった。
「……そうかい、では頂こうかな」
そんな彼女の言葉に、青年はさして驚きもせずに答える。
「はい」
「へ?」
しかし、彼女は彼の次の行動に戸惑う。青年は何を思ったのか、何も持たぬ右手の平を差し出してきたのである。
「…………何よ? この手は?」
「え? 何? 三万払ってくれるんじゃないの?」
「どーして、私が払わなきゃいけないのよっ! てか、お金無いし!」
青年の予想外な天然ボケに思わずツッコミをかましてしまう真宮瑠璃。それは、さっきまでの彼女の深刻モードまでうっかり忘れてしまいそうな勢いだった。
「これはこれは失敬、職業柄、つい仕事の話かと勘違いしまして……、実は僕、こういう者でしてね……」
そう言って青年は懐から名刺を取り出して、彼女に渡す。その飾り気の無い、シンプルなデザインの名刺には〈心理カウンセラー 鈴茅蒼麻(すずがやそうま)〉という名前が書いてあるのを彼女は確認する。
「心理カウンセラー?」
「そう、心理カウンセラーの鈴茅蒼麻(すずがやそうま)という者だ。依頼をくれれば、どんな心の傷でも取り除いてみせよう」
「……何よソレ、うさんくさー……。何? 自己啓発セミナーでも聴かせてくれるワケ? 私そういう精神論って嫌いなのよねー。そんなんで現実問題が解決するなら、何も苦労は無いわ」
単なる精神の問題で、彼女に取り巻く今の現状が解決する訳がないと思った彼女は、彼への興味を失って、早々にその場を立ち去ろうとする。この鈴茅蒼麻という男は彼女へ営業に来ただけだったのだ。
「……まぁ、確かにそうかもな……。どうやら治療が必要なのは、君だけではなく、君の親御さんもそうみたいだね」
「え……!? どうしてそれを……?」
家庭事情を鈴茅蒼麻にピタリと言い当てられた彼女は立ち止まって振り返る。
「その頬や身体のあちこちの腫れや、左手首の自傷行為跡を見れば判るさ。君は虐待を受けてるんだろう?」
心理カウンセラーを名乗る彼に次々と推理された彼女は激しく動揺する。
「な、何を言ってるのかさっぱり分からないわ……。この傷はそう……、ちょっと転んでしまっただけで……」
彼女は苦し紛れに、少々無理な嘘をついて誤魔化しだす。
「悪いけど私、もう帰るわね……。早くパパに晩ごはんを作ってあげなきゃ……」
そうして話を切り上げた彼女は、焦ったようにさっさと走り去ってしまう。そんな夜の帳に消えてゆく小さな背中を、鈴茅蒼麻は何も言わずに見つめ続けていた。