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美術室の床は冷たいぞ?

 それからというものの毎日、何かにつけて教えてと田辺は美術室にやって来た。半分以上はくだらない雑談だったが、そのうち私は不思議と悪い気分はしなくなっていった。

「ねぇ、久遠くんはそんなに絵が上手いのに、皆には漫画を描いてることを内緒にしてるの? きっと皆に言ったらたちまち人気者になれると思うけどなぁ……」

「さぁな……、私は自分に自信が無いからかもな……。そりゃあ描き上げた時は最高の気分さ。でも、しばらく置くと全然ダメダメだってとこが自分でもわかるんだ。だから、こんなの見せる価値が無いと思ってしまう。」

「じゃあ、今描いてる作品は完成したらその瞬間にあたしに見せに来てね。それなら最高の瞬間のままでいられるでしょう? 絶対に約束だよ」

 田辺が私の右手の小指を握って指切りげんまんをしてくる。

 不思議だった。今まで私はこんな本音など誰にも言ったことが無かったのに、彼女の前だと自然に引き出されてしまう。彼女は絵の才能はからっきしだったが、まるで誘導尋問みたいに本心を引き出す才能はあるように感じた。



 そんな日々が二週間近く続いたある日、田辺がぱったり来なくなる日があった。最初は偶然急用でも入ったんだろうと思っていたが、次の日もその次の日もやって来なかった。

 課題はもう完遂したのか? それとも、もう飽きてしまったのか? と私は悶々と想像を巡らせてみるが、真相は直接聞いてみないとわからない。

 ちょうど、アイツがいない間に、4・5時間目もサボって、原稿も完成させた事だし、すぐに見せるという約束をしてしまった以上、今度は私の方から田辺に会いに行くことにした。今ならまだ教室にいるかもしれない。

 陽は早くもすでに傾きはじめ、廊下一面に西口の玄関から眩しい夕日が差し込んでいるのが見える。そういや、いつも私は授業終了のチャイムが鳴る度に速攻で美術室に向かうので、教室で田辺とあまり話したことは無かったのであった。それに加えて手には出来立ての原稿も持っているせいか、自分の教室に向かうのにも妙に緊張している。

「……いた! アイツ……」

 しかし、私は教室のドアを開けようとするが、そこで立ち止まってしまう。

 何故なら、視線の先には田辺がクラスメイトのグループと楽しそうに談笑している姿があったからだ。普段の私が見ない光景、その眩しさを前にして、私は立ち尽くす。

 やはり彼女はそちら側の人間だ。私はそちら側には行けない。近付いちゃいけなかったんだ。

 そう感じた私はゆっくりと踵を返して、美術室へと向かう廊下を歩きはじめた。

「そう……だよな……、初めから届くはずなどなかったんだ」そう言って私は美術室にたどり着くと原稿を机の上に投げだして、床に敷いてあるビニールシートの上に倒れ込んだ。

 このまま寝てしまいたい、そう思ったからだ。少々床が硬いし冷たいが、今の自分にはそれくらいがお似合いだと思った。



 それからどのくらい私は眠っていただろうか? 3時間くらいな気もするし、30分くらいな気もする。起き上がるのもしんどいので、寝っ転がったままゆっくりと目を開けて美術室を見渡してみると、辺りはもうすっかり真っ暗になっていて、外のわずかな街灯の光が窓から射し込んでいるだけだった。

「おはよ、よく眠れた? 久遠くん」

「うっひゃああああああああああ!?」

 暗がりの中で突然、頭上で声がしたので慌ててビビりながら飛び起きて、尻もちをつく。

「まったくもうっ! しばらくあたしがクラス委員の仕事で行かなかった間にまさか、床で眠るようになっていたとは驚きだわ。風邪でも引いたらどうするのよ!」

 その声は田辺だった。小刻みに身体を震わせてぷんすかと怒っている。どうやらわざわざ私が起きるまで電気も点けずに、待っていてくれたようだ。いつのまにか私の身体に膝掛け用の毛布が掛かっているのもそのためだろう。

「ど…………どうして…………、なんで君はこんな日陰者の私のとこになんて来てくれるんだ? 今日みたく、クラスの他の皆とつるんでいる方がよっぽど楽しいだろう? 私と違って、君の方がたくさん友達もいるんだから、そっちの方に課題を教えてもらえばいいじゃないか……。私は……私は……誰からも見向きもされないつまらない人間なんだよッ…………!」

 不意打ちの暖かさに思わず涙が滲んで、嗚咽が漏れる。これまで怖くて聞けなかった疑問が喉をついて出てきてしまった。

「久遠くん……」そんな私の表情を見た田辺は一瞬驚くが、すぐに私の目を見つめ直して優しく語りかける。

「そんな事ないわ、久遠くんがすごい人だってことは私がよく知ってる。久遠くんがいつも一人で頑張っていたのも、居残りしてみんなの為に文化祭劇用の背景を描いていてくれてたのも全部、あたしはずっと見ていたもの……。でも、絵の才能が無かったあたしは、あなたを手伝おうとしてあげられなかった。黙って見ているだけだった。それが本当に申し訳なくて、くやしかったの。だからあたしは、今度こそちゃんと久遠くんに話しかけてみようと思ったの」

「田辺…………」意外だった。まさか私をそんな風に見ていてくれた人がいたなんて。その言葉に胸打たれた私の頬には涙が伝うのが分かった。

「久遠くんの作品、もう読ませてもらったわ。とっても面白かった。やっぱりあなたには力があるわ。夢があって、人を楽しませる力が」

 田辺の手前の机には私の原稿とLEDライトの点いたスマホが置かれてあった。どうやら私が寝ている間、それで照らしながら読んでいたらしい。

 その原稿の内容は美術部を舞台にした〈fine arts〉という題の物語だった。腐敗したダメダメ美術部を天才転校生がズバズバと改革していくという、よくある部活王道モノだ。今になって思い返すと、自分では叶わない願望を丸出しにしたこっ恥ずかしい内容だが、それでも田辺に伝わったことで、私は今までにない喜びを感じた。

「あたしも……あたしもそんな夢を見ていいかな? あたしもここの美術部に入ってもいい? 才能は無くても、絵の勉強がしたいの。次は少しでもあなたの力になれるように…………」

 田辺は少し照れながら祈りように手を合わせて、いつものお願いのポーズをとる。

 

 その刹那、私は光を見た。

 それも色とりどりの光をだ。それらは彼女の瞳の奥で宝石のようにきらきらと輝いていた。

 私はゆっくりと頷くと、涙を拭いて立ち上がる。

「そうだな、今度は『色塗り』でも始めようか――」

 失くしてしまったはずの〈色〉は、みんなそこにあった。

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