第1章 - 名誉
中村健次は通学用カバンにナイフを入れた。その刃はハンカチで丁寧に巻かれてあった。ただ、上級生である本田から身を護るだけのために ――
16歳になり、学校には友達もほとんどいなかった。健次がこれからすることは、もしかすると今の高校生としての日常がもう取り返しのつかないことになるかもしれないことは、彼自身わかっていた。
(暴力は何の解決にもならんぞ。)
彼がクラスメイトからのいじめや酷い仕打ちを受けたとき、何度も何度も頭の中で父親の最後の言葉が、まるで警告音のように鳴り響いた。
この助言がまったく役に立たないことを、健次は言ってやりたかった。
健次は今朝早く起床したため今日はバスに乗らず、学校までの一時間弱を歩くことにした。この長い歩行時間は、彼の決意を再思考するのには充分だっただろう。ここからは、もう引き返せないのだから。
そうした事を考え始める前に、健次の横を同じ制服を着た子供たちが大勢すれ違って行った。健次は思った。おそらく彼らの悩みと言えば、ただ学校の宿題のことや、あるいはこれからの人生目標ぐらいのことなのだろう…。
学校では皆が授業の準備をし、どの生徒も教師も同じようにしている。規則が集団を統括し、規則が全員に責任を負わせる。
だがそんな規則も、本田勝也には通用しなかった。彼はいつも学校の裏庭にいて、そこで子分たちに囲まれタバコを吸っていた。この佐村高校、上級生生活指導担当の上田先生でさえ、裏庭を意図的に避けるほどだった。
健次は8時きっかりに学校に着いた。だが彼は教室には行かず、その代わりに裏庭へと向かった。
そして、そこにたむろっている本田を見つけた。スマホでアダルト映画を音量を上げたまま見ながら煙草を吹かし、まるで世界のことなどお構いなしのようだった。健次にとって、まさにライオンの檻に入る心境だった。だが反してライオンの方は健次のことなど、その存在すら気付いていないようだ。
今朝カバンの中に忍ばせたナイフが、今まるで、健次にとってこの世で最もかけがえのないもののように感じられた。
髪を赤く染めた、本田のクラスメイトのパンクじみたの一人が健次に怪訝な目を向けると、不機嫌な声をかけてきた。
「てめえ、なんか用か?」
「本田勝也に会いたい。」
健次は答えた。その声は震えてはいなかった。
だが、そのセリフも、2メートル近くある不良にとっては何の意味も持たなかった。本田にはまるで、健次が見えてさえいないかのようだった。
健次はもう一度言った。「俺の妹を殴っただろう。今こうしている間も、妹は入院先で治療中なんだ。誰も皆、証言したがらないのはわかってるよ。君を恐れているから。」
ようやく本田が、その斜め顔を健次に向けた。健次を一瞥(いちべつ)し、それから見下した声で言った。
「あの礼儀を知らない女を殴って何が悪いってんだ? 俺とデートするのを断ったんだぞ?」
その、まるでカミソリの刃のように鋭く冷ややかな言葉に、健次は一瞬凍りついた。本田にとって、健次の妹はもはや人間ですらなく、あたかも彼の持ち物か、言うことを聞かなかったペットなのであった。
本田は立ち上がり、ポケットに手を入れたまま、ゆっくりと健次へ近づいた。
「俺が寛いでいるところを邪魔しに来るとは、正気じゃねえな。いいか、よく聞け。あの女がまた学校に戻って来たら、また殴ってやるよ。でも今度は女も気に入るぜ。ああ、お前の可愛い妹さ。そいつが、女に目覚めて俺のところにまた殴ってもらいに来るんだ、毎日な。」
本田はそう言うと、それから健次の顔を手の平でなめるように軽打ちしながら、こう言った。
「俺の機嫌がこれ以上悪くなる前に、さっさと失せな。」
健次の固く握りしめた拳(こぶし)が震え、噛みしめた歯は今にも砕けそうになった。冷たい汗が全身に吹いていた。彼は怒りの頂点に達することを恐れていた。これまでケンカなどしたことがなく、ましてや、こんな大男に勝てる可能性など皆無だった。
「こら!」
背後から声がした。その主は学校生活指導員の上田先生だった。
「離れなさい。学校でケンカは禁止だぞ。」
その言葉に、健次はほっとしていた。これで背を向ける言い訳ができた。本田の恐ろしい拳から逃れる言い訳が。
「(暴力は何も解決しない、暴力は何も解決しない、暴力は何も解決しない、暴力は何も解決しない、暴力は何も解決しない、暴力は――…)」
彼の頭の中で例の言葉が、今は彼の最も好きな言葉であるかのように繰り返された。逃げよう、勝てるわけがない。無茶をする者は早死にして、勇気のない者は長生きする。これが世界のありようなのだ。
だが、そのことに健次が気付くより早く、健次の拳がまるで矢のように、本田の鼻づら目がけて放たれていた。それはとても虚弱なパンチで、おそらくハエをたたくほどにも満たなかったろう。
本田は直ちにその報復として、鉄拳の雨を降らせた。そしてケンカ経験値のあまりにも低い少年は、可哀そうにそれらをすべて浴びるという結果になった。健次は激痛に、もう少しで涙を流しそうになりながらも、ともかく地面に踏ん張り立ち続けていた。それが今の健次にとっての最優先課題であった。
そして健次は叫び声を挙げ、なんとか応戦とした。それはあたかも、プロボクサーに殴られたサンドバッグが応酬するかのように。
「やめろ!本田、そいつを殺す気か、今すぐやめなさい!」
だが、それ聞く前に健次の目の前はモノクロの世界へと変化し、バックサウンドで上田先生の声がエコーがかって、ただ響いていた。少なくともこの一方的な殴り合いに、わずかの中断を試みたのだ。
口の中で鉄の味がし、息をするのもやっとだった。本田はと言えば、彼は決して無駄撃ちをせず、一撃ごとに確実に殺意が込められていた。だが、この大男は撲殺を完遂することはなく、健次の命が裏庭で尽きるのを、周囲の者によって止どめさせることで終わった。
そして健次は、妹の名誉を守るためのナイフを結果的には使わなかったことを、心の中で喜んでいた。