1話 どうせまた生え変わるし
響く歓声。
鳴り止まない拍手の雨。
眩いライトに照らされて拳を突き上げる瞬間。
それはこのリング上でただ一人、勝者だけに許される最高の時である。
ここが、この場所こそが俺の居場所であった。
小学生の時に読んだ漫画が切っ掛けだった。
いじめられっ子が、本当の強さを知る為にボクシングを始める話。
昔の漫画にありがちなスポ根ものである。
天才ではないけれど、持ち前の根性と、そして唯一の武器である勇気を拳に乗せて、不良に苛められて毎日泣いていた少年がボクシングの世界に飛び込んで行く、そんな漫画の主人公に憧れた。
そして不登校で引き籠りだった俺が意を決し、近所のボクシングジムの門を叩いてから早10年が経った。
そのジムはチャンピオンは愚か、数名いたプロも既に引退している弱小ジムだった。
しかし、俺は努力に努力を重ねてようやく日本タイトル戦を控えるまでになった。
最初はやる気のなかった会長やトレーナー達も、俺が結果を出していく内に目の色が変わっていった。
本来やる気さえだせば、立派な指導者達だったんだ。
ジムに通う生徒達もどんどん増えて行って、活気に満ち溢れてくるジムに通うことが楽しかった。
俺が日本チャンピオンになって、そして世界チャンピオンになって、会長たちに恩返しをするんだと言うと。何を馬鹿なと、むしろおまえを世界チャンピオンにしてやることが、おまえへの恩返しだと言ってくれた。
そうだ、ボクシングと出会えたことで、俺はこんなにも素晴らしい指導者達に出逢えて、最高の仲間達に出逢えた。
そして、ずっと心配をかけつづけてきた両親にも、ようやく恩返しできると思ったのに。
あれ? なんで、キャンバスが近づいてくるんだ? 俺、打たれたっけ?
いや、そんなはずはない。
今日の俺の仕上がりは完璧だったはずだ。
ウエイトだって、オーバーギリギリで通過できるように調整したから身体への負担は最小限で済んだ。
昨夜は落ち着いていてしっかり睡眠も取れたし。
なにより自分自身でわかっていたんだ、今日はすこぶる調子が良いってことに。
なのに、なんだこれ?
俺は倒れているのか?
どんどん視界が暗くなっていく。
おいレフェリー、これダウンじゃねえよな? カウント取るなよ。
え? なんで両手上げてんだよ、やめろよ、俺は……まだ……戦え……る。
「戦えるぞおおおっ!」
俺は怒鳴りながら立ち上がりファイティングポーズを取る。
震える膝を抑えこむように内股になりながら目の前のチャンピオンのことを……チャン……ピオン?
目の前にいたのは、上半身裸で腰にはなんだか薄汚れた布を褌の様に巻いている男だった。
いや、男と言うか、子供だった。
目の前にいる浅黒い肌をした黒髪の少年は、仰天した様子で俺のことを見て固まっている。
何を驚いているのだろうか? いや、それよりこいつは誰だ? なんでこんな子供がリングに上がって来ているんだ?
「な……なにやってるんだ?」
問い掛けると、俺は自分の口の中になにか違和感を覚えた。
なんだか口の中が異様にネバネバして鉄臭い。
ああなるほど、これは血の味だ。どうやら唇が深く切れているらしく大量に出血している。
あと、ゴロゴロとした感触があるので口の中に溜まった血糊ごと地面に吐き出すと、白い小さな塊が見えた。
俺はすぐにそれが歯だと気が付いた。どうやら上の前歯が二本折れてしまったらしい。
そして指で口の中を確認している時に気が付く。
俺はなぜかグローブを外していた。いや、グローブどころかバンテージすら巻いていない。いつの間にか素手になっていた。
どういうことだ、ダウンして気を失っている間に外されたのだろうか? にしても、前歯を圧し折られるほどのパンチを顔面に喰らったのか? 全然記憶にないぞ?
わけがわからずにいると、目の前の少年が恐る恐る口を開いた。
「お、おい、ロイム。おまえ、だ、大丈夫なのか?」
ロイム? なんだ? 俺の名前は本田史郎だ。それともこいつの名前がロイムって名前なんだろうか? そう言われると、こいつ見た目、日本人じゃないな。
すると、後方から別の奴が声を掛けてきた。
「気にすんなよトール、吹っ掛けてきたのはロイムの方なんだぜ」
「で、でも、あんなに血が出てるし、歯……折っちまった」
気にすんなと言った少年は俺の肩に手を回すとニヤニヤしながら話しかけてきた。
「まったく、おまえは弱っちいのに威勢だけはいいよな。これでわかっただろ? 次の検定試験、おまえは絶対に無理だよ」
あぁ? 誰が弱いだって? この糞ガキが、誰に向かって……。
あれ? ガキだよなこいつ? いくつくらいだ? 小学生くらいに見えるけど、随分とデカいガキだな。トールとか呼ばれた奴なんか、167㎝の俺よりも10センチくらいデカいから、180㎝近くあるんじゃないか?
今日日のガキは本当にデカ……って、待て待て待て! 一体なんだこれは?
「なんなんだこれはああああああああっ!」
わけがわからず口から血を撒き散らしながら叫ぶと、向こうの方から知らないおっさん達が駆け寄ってくるのが見えるのであった。