記録9 満たしているのか、満たされているのか
今度の休みにでもルシア用の携帯を買いに行こうと心中で溜め息をつきながら、俺は帰路についていた。本日は一件遅めの時間にアポが入っていたので、出掛けに「少し遅くなる」と伝えてはいたものの、思っていたよりも仕事の終わりが遅くなってしまったのだ。しかしながら、我が家には固定電話を置いていない。だからきっと、ルシアは〈いつ俺が帰宅するのか〉ということについて不安に思いながら、腹をすかせて待ちぼうけしていることだろう。
ようやく家に着き、慌てて鍵を開けて家のドアを開けると、中は真っ暗だった。俺は思わず「ただいま」の「た」以降を飲み込んだ。とりあえず玄関の明かりを点けて静かに部屋へとあがってみると、リビングに布団の塊が出来上がっていた。机の上には豆の入った皿が二つと箸が置かれていて、パソコンを触った形跡もない。
団子状の掛け布団に包まり顔だけをちょこんと出していたルシアを、俺は布団の上から揺さぶった。すると、お布団芋虫はもぞもぞと身じろぎながら寝ぼけ声でぼんやりと言った。
「んー……もう帰ってきたの……?」
「お前、もしかして俺が出ていったあと、延々と〈豆つかみ〉してたのか?」
芋虫はへにゃりと笑うと、もぞりと動いて小さく頷いた。凄まじく可愛らしいその様に、俺は胸が痛いほどキュウとなるのを感じた。そしてそれは〈お子様に対して沸き起こる父性〉と〈異性に対する恋心〉のどちらなのかと半ば不安に思いながら、部屋着へと着替えたのだった。
この前、夕飯にポークステーキを食べているとき、ルシアは俺に向かって「どうしてタクローはフォークとナイフではないの?」と不思議そうに尋ねてきた。俺が〈この国では箸のほうが馴染みがある〉ということを教えてやると、彼女も箸を使いたがった。なので、翌日には彼女の手のサイズに合った箸を用意してやった。乾燥大豆も買ってきて、皿の上に百粒出した。そして〈百粒全部を空いている皿に箸で移すことができたら、おやつをひとつ食べる……という感じで訓練してみたら?〉というような提案をした。――それがつい昨日の話で、ルシアは「早速明日から、その訓練を始めてみるわ!」とやる気を滾《たぎ》らせていたのだが……。
「私、ひとつのことに集中すると、やり遂げるか疲れ果てるかするまでずっと〈それだけ〉になってしまうクセがあるのよ」
苦笑いを浮かべながら、ルシアは淹れたての紅茶にフウフウと息を吹きかけ、そしてちびちびと飲み始めた。――うん、人参の件もあるし、猪突猛進なところあるんだろうなとは思っていたよ!
俺は口に運んでいたカップを机に置きながら、顔をしかめて言った。
「まさか、昼飯食ってないってことはないだろうな?」
「それは大丈夫。ちゃんと食べたわよ。ただ、午後もずっと、集中して〈豆つかみ〉をしていたものだから、すごく眠たくなってしまって。とりあえず掛け布団だけ引っ張り出して包まって、それで気がついたら目の前にタクローが……」
「どんだけだよ。さすがに寝すぎだろ。そんなんじゃあ、夜、眠れないんじゃあないか?」
「そ、そしたら羊を数えるからいいわよ」
苦い顔を浮かべて負け惜しみを言う彼女が愛らしく、俺はまた胸をわし掴まれたような気になった。
突然女の子と同棲を始めることになってから数日経ったわけだが、面倒臭いと思うことと楽しいと思うことが一気に増えた。そして時折、胸が苦しくなるようになった。――これは父性なのか。それともきちんと彼女を〈異世界ハーレムのための最初の攻略相手〉として認識していて、それで恋心的なものを感じるようになってきているのか。ちゃんと彼女を〈大人の女性〉として認識していてドキドキしているわけであって、ロリコンというわけではないよな? ……そんなことを、俺はこの数日、ふとした瞬間にグルグルと考え続けていた。
しかし、そんなすぐさま答えが出るはずもない。そもそも、まだ彼女の人となりを把握しきっているわけでもないし。単に生活環境が変わって対応しきれていないだけということもあるし。だから俺は、紅茶を煽るように飲んでフンと鼻を鳴らすと、考えることと胸のドキドキを放棄することにした。そして立ち上がると、空いたカップを片手にニヤリと笑ってルシアを見下ろした。
「では、見せてもらおうか。〈豆つかみ〉訓練の成果とやらを」
キッチン部分にやって来ると、俺は早速夕飯の準備に取り掛かった。本日は帰宅が遅くなると分かっていたので、あまりしっかりと炊事をする気はなかった。そのため、昨日の寝る前にいろいろと用意をしておいてあった。
まず、コンロの上に放置してあった鍋から鶏肉を取り出した。そして肉はまな板の上に、茹で汁は出汁として使いたい分だけを別鍋に移した。
こいつはムネ肉とニンニク、生姜を真水にインして弱火でじっくり茹でたものだ。作り方は簡単で、白濁した茹で汁が澄んできたらアクを取り、強火にして少しばかりグラグラと沸かすだけだ。火を止めたあとは塩を投入して放置するのだが、粗熱がとれるまで待つのが面倒だったので、容器に移し替えること無くそのまま放置していた。
茹で汁を温めている間に、肉を薄切りの刑に処す。切り終わった頃には、汁も温まっていた。汁そのものだけでは味が薄いので白だしを少し足し、そこにナンプラーを垂らす。――はい、これでスープは完成です。
次に、これまたやはり昨日のうちに水を吸わせて戻しておいていたフォーをタッパーからザルへとあける。そこにザッと湯をかける。湯切りしたら、器に麺を盛り付け、薄切り肉を載せる。
ここで、俺はルシアに手伝いを依頼すべく声をかけた。
「縁側開けてすぐのところにプランターがあるから、そこからパクチー摘んできて。古い葉から食べたいし、下のほうから摘んでな」
「パクチー?」
「えっと、何だっけ……。コリアンダーって言やあ分かる?」
「コリアンダーね! それなら分かるわ!」
ルシアは得意気に目を光らせると、いそいそと縁側に出ていった。少しして、頬を上気させた彼女がパクチーを手にキッチンへとやって来た。
「ねえ、コリアンダーが植わっているところの隣に、芽が出ていたわよ! あれは何を植えているの?」
「ああ、あれもコリアンダーだよ。もう芽が出たのか。――ついこの前な、このフォーの麺とスパイスを買いに行ったときに、店員さんに『これ、植えたら生えてくるんですかね』って聞いたら『ハエテクルヨ。ワタシノジモト、ミンナ、ソウヤッテフヤシテルヨ』って言うから――」
「何よ、その変なしゃべり方」
「いや、店員さんのモノマネしただけだけど」
呆れ気味にじっとりと見つめてくる彼女から、とりあえずパクチーを受け取った。代わりに箸を授けてリビングに帰還させると、パクチーをさっと水洗いして器に盛った。そこにスープをかけ、リビングへと運んでいくと、ルシアは目を丸くして素っ頓狂な声を上げた。
「麺が平たいわ!」
「フォーだからな。ちなみに、この麺、元は米なんだよ」
「これが!? あのホカホカでツヤツヤの白いアレと一緒なの!?」
いただきますの挨拶もそこそこに、ルシアは箸を手に取ると、鶏肉の下に箸を差し入れた。そしてフォークリフトのように肉を脇へとどかした。――おい、豆つかみ訓練の成果はどこにいったんだよ。
なんとか麺を箸で持ち上げると、彼女はハフハフ言いながら麺を口に運んだ。うどんのときもそうだったのだが、どうやら彼女は麺を上手くすすれないようで、まるで小動物のようにもぎゅもぎゅと麺に食らいついていた。それがまた微笑ましくて、俺の頬は思わず緩んだ。
「おいひい! 鶏肉の皮もプルプルだし、お肉も柔らかいし! ただ茹でただけのはずなのに、すごくいい味ね! コリアンダーの香りもいいわ! さすが摘みたてなだけあるわね!」
「レモン汁入れてみ」
「……わあああ! すごく爽やかな味に変化したわ! いいわね、あとから味を変えて楽しむって! ――やだ、ズルズル音なんか立てて。お行儀が悪いわよ、タクロー」
「この国には、椀に入った麺類は音を立ててすするという習慣があるんだよ。そうしたほうが、蕎麦の香りを楽しみながら食べられるとか何とか。たしか、そんな由来」
「へえ。――ねえ、今度、その〈ソバ〉というの、食べてみたいわ」
「じゃあ、今度の休みに食べに行くか。携帯を買いに行きがてらさ」
楽しみ、と笑いながら、ルシアは緑の光をきらきらと纏った。纏っただけで元の姿には戻らなかったが、それでも十分に〈満たされた〉というような笑顔を浮かべていた。
今までプライベートの予定なんか真っ白だったスケジュール帳が、ルシアとの予定で少しずつ満たされていく。それと同じくらい、楽しいことが増えていく。そのたびに、俺は自分が〈もっと彼女を〈満たしたい〉と心の底から思うようになってきている〉ということに気がついた。そして何となく、俺の心も満たされていっているような気が、ほんの少しだけどしたのだった。
〈◯月◯日 追記〉
例のスパイス屋に連れて行ったら「あなたのあのモノマネって、とても似ていたのね。やっぱり、あなた、お仕事は演者なんでしょう!?」と目を輝かせていた。ただのしがない営業職だと伝えると、「だから観察眼があるのね」と。多分、褒められた?
何ていうか、女性に何かしらを褒められたことってほとんどないから、とてつもなくこそばゆい。ルシアは本当に、いいヤツだなあ……。