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リシールの継承者

「キノさん、こんばんは。わざわざここまで来てくれて、ありがとう。涼醒も」

 そばまで来た二人に、湶樹が言った。

「ううん、私こそ。湶樹ちゃんに…聞きたいことがあって」

「入って。中で話しましょう」

 涼醒が開けた扉をくぐると、キノは目を見開いた。室内はその外観からは想像もつかないほど明るく、西欧風のインテリアが暖かい雰囲気を作っている。

「中は普通の家と同じだから、安心して。外から見たらお化け屋敷みたいで、不気味だったでしょう。こんな森の中だし」

 キノの驚いた様子を見て、湶樹は微笑んで言った。

「あながち間違ってもないだろ。別世界への入り口だからな」

 涼醒が笑いながら扉を閉める。

「希音、帰りも送って行くから、話が終わったら声かけろよ」

「うん…ありがとう」

 キノは微笑んでうなずいた。湶樹とともに、館の奥に続く廊下へと向かう。
 階段の下で、涼醒が二人を振り返った。

「湶樹、予感は当たりだ。来たのはラシャの者じゃない。今も希音のところにいる。よく聞いてみろよ。奴が何者か、わかるに越したことはないからな」

 足を止めたキノが、驚きと当惑に満ちた表情で湶樹を見た。見返すその顔にも、(かす)かな困惑の色が浮かんでいる。

「コウがラシャの者じゃないって…どういうこと?」

 キノが涼醒へと視線を移す。

「湶樹に説明してもらえ。その方がいい」

 涼醒はそう言うと、階上へと姿を消した。その場に立ち尽くしているキノを、湶樹が促す。

「キノさん、こっちの部屋へ」

 二人は、突き当たりにある応接室らしい部屋のソファーに腰を下ろした。用意されていたカップに、湶樹が紅茶を注ぐ。

「今うちにいると何なの? 何でラシャの者じゃないってわかるの?」

 湶樹が手を落ち着かせるのを待って、キノが口を開く。

「ラシャの者は、地上に長くはいられない。降りた次の日の夜明けに、必ず戻るわ。ラシャの使いは2日の午前0時にここに降りて、そのまま、キノさんのところへ行った。ラシャの者は自分の力だけで帰れるから、使いはもうすでにラシャに帰ったものと思っていたの。私はそれを感知出来るけど、彼が自分の気配を消していたら気づかないこともありえるから」

 キノは口を挟まずに、湶樹の話に耳を(かたむ)ける。

「彼がここイエルに来てから、もう4日経つわ。今もいるのなら、ラシャの者じゃないのは確かよ。私は中空の間でその道を開いたけど、彼の姿を見てはいないの。もし会っていたら、ラシャの者かどうかすぐにわかったんだけど…彼の容貌(ようぼう)は?」

「コウは…(あお)っぽいマントみたいなのを着てて…あとは、普通の人間の男と変わらない」

「ラシャの使いは、コウというのね?」

「名前はないって言うから、そう呼ぶことにしたの。浩司にそっくりだから」

「浩司というのは?」

 落ち着いた湶樹と向かい合ううちに、キノの動揺も徐々に収まって来る。深呼吸をし、キノが話し始める。
 ずっと見てきた夢の謎。希由香と自分を繋ぐ記憶。そして、彼女の愛する浩司。

 一通り話し終えると、キノは息をついた。

「コウを初めて見た時、浩司が来たと思ったの。でも、()が違った。話し方も」

 黙って話を聞いていた湶樹が、眉間に指をあて目を閉じる。その額には、深い思案による(しわ)が浅く刻まれている。

「コウは何者なの?」

 キノがつぶやいた。目を開けた湶樹は、キノの()をしっかりと見つめ、静かに話し出す。

「彼は、ラシャの使いよ。でも、キノさんの言うように、彼が浩司というヴァイの人間にそっくりなら…本人だわ」

 キノを取り巻く空気が固まる。

「ラシャの使いは、浩司本人よ」

 湶樹が繰り返す。キノは頭を振った。

「どうして? ラシャの者が浩司の姿になってるんじゃないの? 人間じゃないなら、それくらい簡単に出来るんでしょう?」

「さっきも言ったように、ラシャの者なら、4日間も地上には(とど)まれない。それに、彼ら
に姿を変えるような力はないわ。その必要もない。たとえ地上に降りた時でも、リシール以外と接することはまずないの」

「でも…消えたよ。私の部屋から、姿を消して戻って来た」

 しばらく考え込んでから、湶樹が言った。

「彼は…指輪を持ってなかった? 透明で薄い赤色の。指にはめずに、首から()げてたかもしれないけど…」

「指輪…してたよ。左手の中指に。それが何なの?」

「ラシャの指輪よ。繋がる空間を移動出来るわ。通常、移動出来る空間はラシャにしかないけど、今一時的に、ここの中空の間とキノさんの部屋を、特殊な空間で繋いであるの。彼はそこを通ったのよ」

「そんな…じゃあ、本当に? 浩司がコウを演じてるの? 信じられないよ」

 キノの目が宙を彷徨う。

()が違うって言ったわね。ラシャに暗示をかけられているのかもしれない。ラシャの思い通りに行動するように」

 キノの視線が湶樹へと戻り、静止する。 

「ただ、それには浩司本人の同意が必要だけど、彼が護りの石を見つけるのに協力してるのなら問題ないわ。ラシャに関する知識から、キノさんに必要なことを伝えさせる。そして、彼の持つ情報から、話してはならないことを制限する。多分、そうして作られたのが、コウという使いだと思う」

「…何のためにそんなことするの? 浩司は普通の人間だよ。いくら希由香が護りを発動したからって、それまで浩司はラシャなんか知らないはずなのに…」

 呆然とするキノに、湶樹は更なる事実を告げる。

「キノさん。浩司は…普通の人間じゃないわ」

「え? 今…何て?」

「ラシャの指輪は、制御する力がなければ扱えないの。しかも、記憶の同調のためにキノさんを催眠状態にして誘導する…それを、彼自身がしてるんでしょう?」

「そうだけど、湶樹ちゃんが今言ったラシャの暗示で、いろんなことが出来るようになってるんじゃないの?」

「その人間が、本来持つ能力以上の力は使えない。その暗示も、かけられる側の能力も必要とする、高度なものだわ」

「コウは、ラシャの者じゃない、浩司は、普通の人間でもない…じゃあ、いったい何者なの?」

 湶樹を見つめたまま、キノは確かめるようにゆっくりと言った。

「キノさんは、彼の足を見た?」

「足? ラシャの者には足がないの?」

「そうじゃなくて…彼の左足の人差し指に(こぶ)のようなものがあるか知りたいの」

 コウの足の指…? 

「見てないよ。(すそ)が床まであったし…指の(こぶ)って何なの? もし、それがあったとしたら?」

 湶樹が深く息を吸い、答える。

「リシールよ。浩司の足には、その印があるはずだわ。それに、たぶん…リシールの中でも力を持った…。彼の言うように、希由香の記憶を思い出すことが出来るのはキノさん自身の力よ。でも、誘導する方にも相応の力がなければ、とても無理なの。彼には…それが出来る」

 混乱を極めたキノの脳裏に、涼醒の言葉が浮かぶ。

 『リシールの継承者(けいしょうしゃ)

「湶樹ちゃんと同じ…? 浩司も、継承者だってこと?」

 湶樹の表情が、少しだけ強張る。

「涼醒に聞いたの?」

「うん…湶樹ちゃんの力は、特別なものだって。浩司も…そうなの?」

「はっきりとは言えないけど…」

 言葉を(にご)した湶樹が、何かを思いついたように立ち上がり、着ていたカーディガンを脱いだ。びっくりしているキノの前に、細く白い腕を伸ばす。

「見える? ここに小さな(あざ)があるの」

 キノは、湶樹が示す場所を(のぞ)き込む。二の腕の内側に、まるで(むらさき)のインクで描いたようにはっきりとした細い線がいくつかある。小指の爪ほどの大きさの『V』のような文字に、『I』が三つ並んでいるように見える。

「何て描いてあるの?」

「ローマ数字で8。継承者の身体には、必ずこの(あざ)があるわ。その場所は人によって違うし、数字も1から9まで。順番に現れるわけでもなく、同じ時に何人存在するかも決まっていない。だけど、9人揃うことは…滅多にないわ。キノさんは希由香の記憶の中で、浩司を知ってるでしょう? 彼の身体のどこかに、これと同じような(あざ)はなかった?」

 夢で見た浩司…紫色の(あざ)…?

 キノの知る限り、浩司の皮膚に刻まれた数字はない。

「ないと思うけど、わからない。隅々(すみずみ)まで知ってるわけじゃないし。足の指も、(こぶ)なんかあったかどうか…。湶樹ちゃんにも?」

「生まれた時からあるわ。子供がリシールかどうか、それで判断出来るの」

 服を整えた湶樹が、テーブルの上に素足を乗せた。左の人差し指。付け根のところが、他より一回り太い。

「肌色の指輪をしてるみたい。それか、皮膚の内側…指の骨に、直接指輪を付けてるような…」

 キノがそう言った瞬間、湶樹が突然後ろを振り返った。

「何? どうしたの?」

 キノがその視線の先を追う。ドアの左側の壁を見つめる湶樹の(ひとみ)が、険しく光る。何が起きたのかわからずうろたえるキノの耳に、ドアをノックする音が聞こえた。キノが目をやると、すでにそこには、硬い表情をした涼醒が立っている。

「湶樹、今…」

「ええ」

 二人の目がキノに向けられる。

「いったい…何が…?」

「奴が、来たらしい」

 答えたのは涼醒だった。

「奴って…コウ?」

 キノの視線が、涼醒から湶樹へと移る。

「私がここにいること、わかって来たの?」

「たとえリシールでも、それは無理よ。あなたを探しに来たとはかぎらないけど、隣にいればもう…」

 湶樹の言葉を涼醒がさえぎる。

「奴はリシールなのか?」

「そう、ヴァイの。間違いないと思うわ。多分、その力からすると…継承者よ。ラシャの指輪を使えるの」

「…希音がここにいるのは、もう知ってるってことか」

 涼醒がドアを見やる。キノの()を真直ぐに見て、湶樹が言った。

「隣に中空(ちゅうくう)()があるの。そこに…彼がいるわ。行ってみましょう」


 部屋の外に出て左に少し行くと、クリーム色の壁紙には不似合いな(すす)けた灰色のドアがあった。湶樹がその取手に手を掛けると、重そうな石の扉が、まるで薄いパネルで出来ているかのように音もなく開いた。

 鼓動がその速度を最大にするキノの前に、洞窟(どうくつ)のような部屋が現れた。そして、中央にある2メートル四方の岩の囲いの前には、一人の男が立っている。その鋭い目が、三人を真正面から見つめている。

「コウ!」

 キノが近づいて行く。男の一歩手前で足を止め、目を見開いた。

「その()…コウじゃ…ない」

 男は、無言でキノの腕をつかんだ。その頭上にもう一方の手を(かざ)す。

「おい! 何を…」

 涼醒が叫ぶのと、男の指がキノの額に触れるのは同時だった。

「こう…」

 つぶやきは途切れ、キノの全身から力が抜けて行く。崩れそうになるその身体(からだ)を抱きとめ、男が湶樹たちの方を向いた。

「あなたが、ラシャからの使いね。そして、ヴァイのリシール…。キノさんを、どうするつもりなの?」

「…連れて帰る。よけいなことを聞かせる前に、眠らせただけだ」

「あなたが浩司本人ということは、もう知ってるわ。ラシャの暗示は()けたのね。私と話さなくても、キノさんならきっとすぐに気づいたはずよ」

「だろうな。そんなことはいい」

 浩司が(にら)むように湶樹を見る。

「ここの継承者か」

「そう、(たちばな)湶樹(せんじゅ)。あなたも、でしょう?」

 湶樹は目を逸らさずに言った。

「最近になって知ったことだがな」

「何?」

 涼醒の声に、浩司が目を向ける。

「おまえもリシールか」

「涼醒だ。湶樹の弟さ。それより、どういうことだよ。生まれた時から、継承者だろ?」

「そうらしいな。ただ、俺が知らなかっただけだ」

 浩司は冷めた目で薄く笑い、湶樹へと視線を戻す。涼醒が開きかけた口を閉じる。

「ラシャが何を命じたか知らないが、これ以上、キノには近づくな。護りは必ず見つけると伝えろ」

 湶樹が(かす)かに首を振る。

「ラシャは私たちに、キノさんにかかわるなと言ったわ。あなたがここに降りる道を開くこと以外、何も命じられていない。キノさんを、子供の頃から知ってるの。彼女の力になりたいと思ってる。だから話したのよ。ラシャに言われたからじゃないわ」

「そうか…」

 浩司の(ひとみ)から敵意が消える。

「それなら…頼みがある。力の護りが見つかっても、それで全てが終わりじゃない。ラシャはまだ、海路(かいじ)希音(きのん)を必要とする。俺がヴァイに戻った後は、おまえたちがキノを守ってやれ」

 流れる沈黙の中、浩司は部屋の奥に向かってゆっくりと歩き出した。涼醒がその肩をつかむ。

「ちょっと待て。ちゃんと説明しろよ。ラシャが何だって? これ以上、希音に何させる気なんだよ」

「涼醒、やめて」

 湶樹が弟を引き止める。浩司は暗い()で振り返り、湶樹をじっと見つめた。

「俺はラシャもリシールも信用していない。出来るなら俺が助けてやりたいが…もし間に合わないようなら…」

「わかったわ」

 静かな声で言う湶樹に、浩司がうなずく。涼醒は、二人のやり取りに眉を寄せる。

「ヴァイのリシール…しかも継承者が、信用してもいないラシャのために、使いとしてここに降りてる? 希音を助けたいって、何であんたが…?」

 悲しみと切なさを(かす)かに(のぞ)かせた浩司の(ひとみ)が、涼醒を見据える。 

「涼醒、だったな。理由なんかわからなくても…大切なら守れ」

 そう言い残すと、浩司の身体は岩壁に吸い込まれるように消えて行った。その腕に抱えた、キノとともに。

しおり