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 昭和55年(1980年12月)

 その日、雪崩に吹き飛ばされ、私は自由を失った。

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『今日 南東の風 後 やや強く くもり 昼過ぎ から 雨 ところにより 夜遅く――』

 ラジオから流れる天気予報と経験から浅はかな判断を下し、私は雪山へ登った。
 目的は捜索である。雨衣と防寒着、そして非常食《かんパン》。用意を怠ることは無かった。
 出発前に小屋内を見渡す。
 机の上には、出発時間と捜索場所が書かれたメモを置いた。対流式石油ストーブの芯や配線用遮断器《ブレーカー》も確認しておいた。消し忘れ、戻ってきた時に燃え尽きていた、では笑い話にもならない。

 屋外に出ると、風が山頂へ向け吹いていた。山小屋から山頂までは3時間ほどの距離だ……早く見つかれば良いが、と雪原を歩きながら思った。
 雪雲が全天を覆っていた。雨は降らないでくれよ、と願いながら歩を進めていった。
 道のりは順調だった。雪原から谷を渡り、
 森に入ったあたりで、風は気にならなくなった。口元を覆う毛布を直し、斜面を登っていった。
 そろそろ休憩を、と近い木に寄り、荷を下ろした時。


 甲高い泣き声が聞こえた。呼吸を整えながら周囲を確認する。
 ……いた。木の上から、こちらを伺っている。欠伸しやがって、良い御身分だな。
 薄い茶褐色の体毛は、雪の中では目立つ。過度に接近するな、と同僚にも苦言を呈されたキツネ。ネコ目のイヌ、と評した友人もいた。


 背嚢《リュックサック》から取り出した一眼レフカメラを用意していると、体毛と似た色の目が私から逸れた。逃してしまうだろうか、と急ぎ望遠レンズを装着した。
 レンズを覗く私はシャッター音で警戒させないよう、じわじわと接近する。
 
 木の上のキツネの視線の先には、キツネの子が2匹いた。親だったのか。
 今年、生まれたのだろう。親よりも白い毛玉だと思った。
 親キツネは木から降り、子に寄った所を私は撮った。距離は200メートル以上あった。
 だが、気づかれた。

 子を守るように立ち、こちらを向く親キツネを記録した。目的は達成したのだ。過度の接近はせずに戻ろう。カメラを背嚢にしまっている間に、キツネたちは去ったようだ。
 私も小屋へ戻ることにする。森の中にまで風や雪が舞い始めていた。

 冬山では遭難原因として吹雪、雪崩そして滑落が挙げられる。
 吹雪は視界を奪い方向感覚を狂わせるだけでなく、体力や気力も奪う。
 雪崩は簡単に人を飲み込み、押し流す。また固く凍った雪山の斜面は、死の滑り台になりうる。

 帰りを急ぐあまり、足がもつれた。立ち止まり辺りを見回すと、薄暗い森が広がっていた。
 不意に、友人の助言が脳裏をよぎる。

『単独で夜の森を歩くな、雪崩の前兆に気を配れ……死ぬぞ』

 私は夜の静寂《しじま》に生唾を飲み込み、脂汗を拭う。
 私は……戻れるだろうか、という一抹《いちまつ》の不安が過《よぎ》る。山小屋まで1時間半ほどのはず。程なくして雨音が聞こえ始めた。

《《暗くなる》》。

 要らぬ事を考えたせいか、背筋が凍った。すぐさま背嚢からマッチと蝋燭を取り出した。明かりを灯し、妙な安心感を覚えた記憶がある。ハリケーンランプにも明かりを点け、調子を確かめる。蝋燭は雪に挿《さ》しておいた。
 ランプの火を消さないよう歩くため、速度は遅くなる。近くの木に矢印を刻みつけ、方位磁石《コンパス》を見て方角を確認した。
 この時、私は山小屋の方向から逸れて移動することになる。

 しばらく歩いたところで森に甲高い音が木霊《こだま》した。
 私は足を止め、音の響く方向に耳を澄《す》ませた。山頂方向から、か。
 日が落ちた。見える範囲に異常は無い。

 嫌な予感がした。《《無風》》なのだ。近くの太い木に隠れ、背嚢《リュックサック》を抱えるように持った。
 木に手を当てると、振動していた。手の震えでは無い。ロープで木と胴を固定する。
 そして、揺れは大きくなっていった。

 小規模の雪崩。
 嫌な風とともに雪が、私の横を通り過ぎていく。左肩に何度も雪が当たった。
 とりあえず溜め息をつき、荷物と辺りの様子を確認する。

 よし、何も流されていない。そう思ったのも束《つか》の間《ま》、再度|甲《かん》高い音が響いた。
 私は耳を疑った。小規模な雪崩の後、大規模な雪崩が起こる場合《《も》》ある。

 そして私は今、雪崩の《《通り道》》にいる。

 一斗缶にハリケーンランプを入れておく。火を消さなかったのは、単純に暗闇で雪崩を耐える気にならなかったから。
 荷物を抱え直したところで、先ほどよりも強い揺れが襲ってきた。

 まず胴を括り付けた木ごと、揺さぶる衝撃に肝が冷えた。
 そして雪崩が目に映る物を飲み込んでいった。
 30秒とも1分とも思える時間。生きた心地がしなかった。背嚢に顏を押し付け、目を瞑り、歯を食いしばり耐えた。



 雪崩が終わり、目を開けるも暗闇だった。完全に埋もれたらしい。
 動かせる範囲で隙間を作り、可動範囲を広げていく。この時の私は、《《上》》が分からなくなっていた。息が苦しい、暗い、助けて、狭い、と雰囲気に引きずられていった。
 混乱し始める私を戒《いまし》めたのは、またしても甲高い音だった。
 
 光を、空気を、空間を求め、手を動かした。
 左足が動かないが、構ってはいられなかった。数秒毎の音を頼りに手を伸ばし、何度目かで貫通した。高さ1メートル70センチほどの縦穴。少し呼吸が楽になった。

 近くで甲高い音が聞こえる。ありがとう。通じないだろうが、感謝する。



 それから丸1日は穴の中で過ごすことになる。乾パンを食べながら、時折聞こえてくる声に励まされた。定期的に一斗缶を叩きながら。
 私が救出された時、なぜか嬉しそうな顏をしていたらしい。

 下山する前に山頂の方向を見た時、そこにキツネの姿は無かった。


 師走の3日間の貴重な体験だった。
 私の書斎には、こちらを見据えるキツネの写真が飾られている。

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