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夢の中の男 -1

       ☆☆☆

「それをこちらに渡しなさい」

 低く静かな、けれども、少し緊張した声がそう言った。

「これは私たちの手にあるよりも、今ここに存在しないほうがいいでしょう」

 別の声が答える。息を切らしながらも落ち着いた、なぜか心に響く声。

「この決定に()(とな)えはしても、互いに納得したのではなかったか。いったいどうしようというのだ。それを破壊することはできない。行き場があると思うか? ラシャから降りる道は、0時にならなければ(ひら)けない」

 冷たいコンクリートの床を石で打つような音がゆっくりと近づく。
 そして、沈黙。
 張りつめた空気の中、音のない溜息(ためいき)が聞こえた気がした。

「充分にわかっております」

 その言葉に息を飲む小さな音。重なる衣擦(きぬず)れの音。

「まさか、おまえ…」

「…どうかお許しを!」

「よせ! カイラ…!」

 二つの叫びが木霊(こだま)し、次の瞬間、何かが水面に直撃したような衝撃音が鳴り響き、キノは飛び起きた。

      ☆☆☆



      ★★★

 夢? 今のは何? まだドキドキしてる。何か恐いものを見たみたい…あれ? 私、何か見たっけ? 音は聞こえたけど…息を吐いたら破れそうな空気に、二人の男が話してて…それから、叫び声と、あれは…何かが水にぶつかる音…?

 キノは現実に戻りきらない頭で考える。起き上がった拍子に開いたまぶたが再び視界を遮ろうとし、パッと開かれる。

 何か…変。

 目覚める前にキノが眠りについたのは、遮光カーテンのおかげで昼間でも薄暗い自分の部屋のいつものベッド。けれども、スモールライトの灯りでオレンジがかった薄闇(うすやみ)に見えるはずの見慣れた光景が、そこにはなかった。
 キノの目に映っていたのは、淡いブルーのカーテンをくぐり抜けて届く太陽の光で薄明るい室内。見たことのないテーブルにソファーに壁時計。フローリングの床ではなく、馴染みのない(たたみ)(ふすま)まで見える。
 すっかり焦点の定まった視線を落とすと、キノが今再びもぐり込もうとしていたあたたかい布団さえも見慣れないもの。そして、そこには見知らぬ男が、心地良さそうな寝息をたてていた。
 キノが酔って記憶をなくすことはない。数時間前の過去を思い出すのに苦労したりもしない。けれども、ここが今までに来たことのない部屋で、彼が会ったことのない男なのは確かだった。

 キノは初めて目にする男の寝顔を、静かに見つめる。頭の中は混乱しているが、その表情にも動作にも、全く動揺は見えない。

 何が…どうなってるの? ここはどこ? この男は誰? これも…夢? だってこんなことありえない…ああ、もう! 何が何だかわからない。でも…。

 キノはそっと男の頬に指をあてた。あごから首筋へと優しくなぞる。無意識の、かつて何度も繰り返されたことがあるかのように、自然な動作だった。
 だからなのか、男の胸にゆっくりと頭をあずけて行く自分に、キノは驚きもとまどいもしなかった。
 眠りから戻らぬままの男の腕がキノの重みを感じ取り、その肩を抱く。キノは規則正しく鼓動を刻む胸に顔を(うず)め、目を閉じ深く息を吸った。

 ああ…ここが好き。この腕の中だけが安心出来るところ…どうして? 何でそう感じるの? 私、この男がひどく愛しい。恋しくてたまらない。私のどこか、頭じゃなくて心よりもっと奥の方が…そう思ってる。ここにいるのは私なの? 何か…おかしな感じ…五感は確かに感じるのに、身体は私の意志とは別の何かが動かしてるみたいな…本当に夢なの? だって私、この感触を知ってる。この体温を知ってる。もう…どっちでもいい。ずっとこうしていられるなら…。

 キノがそう思い始めるのを待っていたかのように、男の腕が力を取り戻した。
 薄く開けたキノの目に、ふとあるものが留まる。男の手がキノの髪を撫でている。あたたかくて優しいその指が絡め取った、明るい栗色の髪。
 キノが顔を上げるのと同時に男が言った。

希由(きゆ)…?」

      ★★★



 キノの目の前には男がいるはずだった。寝顔しか知らない男の()があるはずだった。あの刹那(せつな)、わからないことをわからないままでかまわぬほど愛しく思った男が。
 その代わりにキノが見たものは、見慣れた背表紙が並ぶ本棚。いつもの四角い独りの空間。

 しばらくの間、キノはまばたきひとつすることが出来なかった。夢から現実に戻る時間が、普段より多く必要だった。固く目をつぶって深呼吸し、ゆっくりとまぶたを開く。
 間違いなく自分の部屋。キノは頬に手をあてる。そこに残る男のぬくもりを探すかのように。

 夢…か、やっぱり。でも、ものすごくリアルな…あの安心感と、愛しい気持ち…今まで、誰にも感じたことないかも…。

 キノは身体(からだ)を起こすと、本棚の上段に手を伸ばす。まだ鳴っていない目覚まし時計を枕もとに移動し、再び横になる。

 朝目覚めてからのこの空白の時間が、キノは好きだった。起きなくてはならない時刻よりも少し早めにかけるアラームの音で目覚めた後、眠りの余韻(よいん)に浸る無為(むい)な数分間。意識を保ったまま無意識の眠りを楽しむような、心を無に漂わせるような感覚。実際に眠ってしまって遅刻しないためのアラームをかけてまでも、キノは一度のベルで(いさぎよ)く起き出すことが出来ない。

 30分も早く目が覚めるなんて、あの夢のせい? もっと見てたかったな…何かすごく気になる。あれはいったい誰?って…ただの夢なのに。あの男も、あの私も…。

 キノは閉じた目の奥に、鮮明に残る夢の情景を浮かべる。

 夢から()めたらあの部屋にいて、それも夢だったわけだけど…不思議。いつもは夢なんてすぐ忘れちゃうのに、今朝のはまだはっきりと憶えてる。最初の夢の叫び声が、耳に残ってる。それに…あの男、あのぬくもり…すごく愛しかった。あれは私の気持ち? 夢の中の私が、夢の中の男をあんなに愛してるの? あの腕の中、ずっといたかったな…。

 胸の奥が熱くなるのと同時に、額の奥にしびれに似た痛みを感じ、キノは手の平を押しあて頭を(こす)った。ショートボブの髪をぼんやりと指で梳きながら、夢の中で最後に目にした光景を思い出す。

 男の長く繊細な指先に絡む彼女の髪。そして、彼女を呼ぶ彼の声。

 髪が長かった。確か『キユ』って…。

 キノは心地良いまどろみの中、記憶を反芻(はんすう)し続ける。現実と幻との境を彷徨う。
 なぜこんなにも気になるのか。それを知る手がかりを見つけられぬまま、キノの思考は夢から離れることが出来なかった。所詮(しょせん)夢だと頭ではわかっていても、その夢の何かが、キノの心をとらえて放さない。

 動き始めた運命の(はし)、いつもの部屋でいつもの時間、いつもの音でアラームが鳴り響き、止んだ。



 職場の近くにある人気のイタリアンレストランで、キノは遅めの昼食をとっていた。正午には満席だった店内も、午後3時を過ぎた今では空席の方が目立つ。

「で、いい男だったの?」

 キノの夢の話を聞いていた美紅(みく)が言う。美紅はキノと同じデパートの中に入っている店舗の店員で、3年前に二人が入社して以来の友人だった。
 冷たいグラスに付いた小さな水滴を、キノの指が優しく繋いで行く。

「私にとってはね。美紅の好きなワイルド系じゃなかった。何か繊細な顔立ちで」

「それは残念。でもキノの好みってわかんないからな。統一性がないっていうか」

「好みの顔ってないの。その時好きな人が好みでしょ? それに…夢の人は、寝顔しか見てないし」

「起きたって、顔は同じよ」

()で変わるもん。あともうちょっとだったのにな」

 キノが悔し気にそう言って煙草に火をつけると、美紅は声を上げて笑った。キノが険しい視線を美紅に向ける。

「大丈夫、わかってるよ。夢は夢。現実にはいない男に本気になったりしないから。あぶない友達にはならない」

 その()が笑い、そして、急に真剣なものへと変わる。

「でもね、普通の夢と何か違うの。うまく言えないけど…また会える気がする」

「…夢の中で?」

 キノは答えずに、煙草の先から立ちのぼる細い煙が目の前で分解していくのを、ただぼんやりと見続けていた。



 その夜、浴槽(よくそう)に浅く揺れる湯の中で、キノは物思いにふけっていた。
 シャワーで済ますこともたまにあるが、湯舟にゆっくりつかって汗を流す方がキノは好きだった。久しぶりに灯したアロマキャンドルの甘い香りと静寂に包まれ、白い水面に反射するロウソクの灯りを眺めていると、なんとなく儀式めいた気分になってくる。
 キノは目を閉じた。見つめていた小さな炎の残像が(まぶた)の裏に見える。

 夢はどこが見るんだろう。脳? 心? それとも…別のところ?

 キノは鼓動が速まっていくのを感じる。湯に熱せられたせいだけでなく、夢を思い(たかぶ)った感情が胸を熱くする。

 あの夢、眠ったら忘れちゃうかな。でも、また見れるような気がする…。

 ドキドキする心と身体を落ち着かせるように、殊更(ことさら)ゆっくりと頭から爪先まで洗い、顔を洗う。ほてった肌に冷水が心地良い。

 キノは風呂からあがると、手帳を開きペンを走らせた。

『あの人に、また会いたい』

 ベッドに入ってから眠りに落ちるまで、いつもより時間がかかった気がする。キノの心が夢への期待で興奮気味だったのか。あるいは別のどこかが、運命の手を感じ、(おび)え、そこへ行くのをためらっていたからかもしれない。

 意識を手放すその瞬間、キノの心が無意識に震えた。

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